プロローグ

 アメリカ合衆国自治領プエルトリコ。
 南国特有の開放的な雰囲気、そしてねっとりと濃厚な湿度を含んだ風が夜の街を通り過ぎていく。
 カリブ海に浮かぶこの小さな島は、しかし、米国領でありながら極めて貧しい生活を送っていた。かつて、チリの詩人パブロ・ネルーダによって"プエルト・ボーブレ(貧者の港)"とまで言われたほどである。これといった産業の無いこの島では、15%とも言われる高い失業率と、安い労働力に加えて各種の奨励策と税制上の特典を目当てにした企業による支配構造により、慢性的な貧困に悩まされていた。
 プエルトリコにもまた、"基地問題"が存在する。
 本島の東南に接しているビエケス島という小さな島は、その大部分を海軍により接収され、基地と射撃演習場として用いられていた。
 ここで1995年3月11日、家畜の山羊が8頭殺される、という奇怪な事件が起きたのである。その家畜の身体には数個の小さな穴が開いており、そして全身の血液が完全に失われていたのである。
 そして、1995年8月、カノヴァナス郊外に住むM・トレンティーノ夫人は自宅の窓際に立っているとき、不意に響いた物音に気付き、窓の外をみたところ、通りの電柱の影から身長120cmくらいの奇妙な生物が出てくるのを目撃したのだ。その奇怪な生物は口が大きく裂け耳は尖っており、腕は細長く3本の指を持っていた。トレンティーノ夫人は、母親と夫と共にその生物を捕らえようとしたのだが、その奇怪な生物はカンガルーのように飛び跳ねながら逃げてしまったという。
 また、この女性は翌年1月にもこの奇怪な生物を目撃し、それを契機に多数の目撃情報が寄せられるようになったのである。
 1997年には地元のTVにより奇怪な謎の生物の死骸が発表され、一気にその奇怪な生物の名が知られるようになった。
 チュパカブラ-スペイン語で"山羊の血を吸うもの"という意味である。
 もちろん、懐疑主義者はその存在を疑っていたのだが、2001年9月、決定的な出来事が起こったのだ。
 プエルトリコ東部の都市ファヤルドの郊外。
 リカルドはいつもの様にバーで一杯引っ掛けてから自宅に戻る途中だった。プエルトリコでは当たり前のことなのだが、失業率が高く、彼も日雇いの仕事を見つけては小銭を稼ぐのが精一杯、という生活をしていた。合衆国本土に移住した彼の弟と妹が送ってくれる仕送りで彼の一家は生活が出来ていると言っても良かったのだ。
 もっとも、弟は頭の良い少年だったため、ニューヨークのプエルトリコ人達が集まる協会の助けもあって大学も卒業し、弁護士として働いている。その為か、リカルドの家には他の家庭よりも多くの仕送りが送られていた。妹のリサも病院で看護婦として働いている。
 リカルド自身も一度はニューヨークに出て働こうと考えたものの、体の弱い母親の事を考え、自分よりも出来の良い弟と妹に未来を掴ませてやりたかった。そして、まだ青年であるリカルドはきつい日雇いの仕事を続けながら、細々と日々を過ごしていたのだ。
 遠く離れた地で一生懸命働いている弟妹の事を考えていたリカルドは、通り掛かった牧場の雰囲気が普段と違う事に気が付いた。
 何か、妙に騒々しい。家畜たちが動き回っているような気配だった。
(何だ?)
 普通、この時間帯は家畜たちは眠っているはずだ。それなのに、何故、騒いでいるのだろうか?
(まさか、チュパカブラが出たってんじゃないだろうな?)
 大陸に居る科学者は如何でもいい御託を並べて否定したがるが、プエルトリコに住んでいる奴でチュパカブラの存在を信じていない奴は居ない。そうリカルドは思い、全身を振るわせた。
 すぐに逃げだそうとし、この牧場が親しくしているマリオ爺さんの牧場だったことに気が付いた。
(爺さん!)
 とっさに助手席に手を伸ばし、そこにいつも持ち歩いている拳銃がある事を確認した。ひんやりとした鋼の感触がリカルドに冷静さを取り戻させる。拳銃さえあればチュパカブラだって殺れる筈だ。
 以前にチュパカブラを撃ち殺した奴のニュースを新聞で読んだ事を思い出す。
 銃で殺せるなら、幾ら血を吸う化け物でもなんとかなる。
 そう考えて、リカルドはマリオ爺さんの住む家に向かって中古のピックアップ・トラックを走らせた。
 ガタガタ・・・、とでこぼこの道を走らせて、リカルドは闇の中を睨みつける。
(流石に日本車はいいぜ。なんたって、壊れねえしよ・・・。やっぱ、TOYOTAだな)
 どうでも良い事を考えながら、リカルドは大金をはたいて手に入れた自慢のトラックのステアリングを握り締める。こいつのおかげで仕事仲間を何処の作業 現場にでも連れて行ってやれる。当然だが多少のガソリン代を貰っているが、バスを使うよりも遥に安上がりだから、大勢の仲間に重宝されていた。
 ざわざわと騒がしい空気を感じながら、リカルドはマリオ爺さんの住む小さな家の脇に車を止める。
 夜の闇に浮かびあがる家は、どこかひんやりとして言いようの無い気配を放っているようだった。息が詰まるような圧迫感を感じながら、リカルドは何者か が闇の中から自分をじっと見つめているような気がした。心が凍りつきそうな不安を覚えながら、青年は思いっきり深呼吸をして、恐怖を吐き出そうとする。
 そのまま銃を腰に結わえ付け、リカルドは思い切って車から降りた。
 ねっとりとした空気の中に、気のせいか、血の臭いが混じっているような気がする。
 恐怖と戦いながら、リカルドはマリオの住む小屋へと近づいていく。
 やはり何かがおかしかった。
 いつもならこの時間には老人は食事の支度をするために暖炉に火をつけているし、そもそも彼が外出をするようなことなど滅多にない。
 家畜の面倒を見なければならない上に、盗賊を警戒して誰かが常にこの牧場にいるはずなのだ。
「爺さん・・・いるのか?」
 躊躇いがちに声をかけながら、リカルドは小屋の扉に手をかける。
 予想に反して、その扉はあっけなく開かれていた。
 やはりマリオはこの小屋にいるのだ。ドアに錠を掛けずに外出するなどあり得ない。
 リカルドはそのドアを開けた瞬間に本能的に嫌な感覚を覚えていた。
 むっと生臭い匂いが小屋の中から彼の鼻腔に広がってくる。その嫌な匂いには確かに血の匂いだった。
「爺さん!」
 青年が老人の部屋に飛び込んだとき、確かに彼はそのものの姿を見ていた。
 一メートルを若干超えるほどの大きさの怪物だった。
 それは全身を剛毛で覆われ、大きなアーモンドを横にしたような形の目が赤く爛々と輝いている。大きく裂けた口からは数本の長い牙が伸びており、その口元は赤い液体で染まっていた。
 三本の細長い指をもつ手は破れた布を掴んで、じっとリカルドを見つめ返している。
 リカルドはその怪物の異様な姿に驚愕し、そして次の瞬間、その怪物が何を組み敷いているのかを知って悲鳴を上げていた。
「じ、爺さん! わああーーーっ!」
 その怪物が圧し掛かっていたのはマリオ爺さんの身体だった。
 年老いた老人の喉下には小さな穴が二つ、ぽっかりと開いていて、そこから流れ出した血がマリオの胸元とソファをべっとりと染めている。ただ、完全に事切れているにも関わらず、驚くほどその出血量が少なかったのは、恐らくその体部分は目の前の醜悪な怪物の腹に収まってしまったからだろう。
 リカルドの悲鳴に驚いたのか、怪物は驚くほどの跳躍を見せてあっという間に窓の外に飛び出していった。
 残されたのは哀れな老人の死体と悲鳴を上げ続ける青年だけだった。
 
 
 

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