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 蒸し暑い夏がようやく終わろうとしていた。
 理恵はこの夏の間に起こった様々な出来事を思い出し、その余りの変化の大きさに戸惑いながらも逆に、日常生活自体にはそう大して大きな変化が起こっていないことに肩透かしをくらったような感情を覚えていた。
 日常生活で変わったことといえば、多くの人たちが銀色のブレスレットを身に着けていることと、街中でも迷彩服を着た自衛隊や武装警察隊が警備をするようになったくらいだ。
 最初はその見慣れない服装の自衛隊員や武装警察隊が銃を持ったまま待機していることに驚いたのだが、一週間もしないうちにそれは日常の一コマへと変わっていった。もちろん、自称市民団体や社民党、共産党などは抗議の声を上げていたのだが、時々街中にも空を飛ぶ小さな妖魔などが現れるようになっていたため、あまり熱狂的な風には非難のボルテージは高まっていなかったのである。
 理恵自身は僅か一月ほど前に起こった夜魔との戦いには参加していなかったのだが、仲良くなった涼子や水蓮からその凄まじいまでの戦いのことを聞かされていたため、自衛隊が魔法による武装をして警備をしてくれることに安心感を覚えていたのだ。
 今朝もニュースで山梨県の田舎にある村の畑が子鬼の集団に襲われ、サツマイモをごっそりと収奪された挙句の果てに村の老人が一人、大怪我を負わされる、という話が流れていた。そして既に幾つかのニュースでは自衛隊か武装警察が早く出動してこれらの妖魔を駆逐するべきだ、との論調まであがっているほどだった。
 また中国は突如、巨大な昆虫に都市が襲われて北京を始めとする幾つもの大都市が壊滅している。
 そのため、全力で自分達を防衛しなければならない、という不安を感じていたのも大きかった。
 一時は全国各地で不安を感じた一般人がそれぞれの市役所や県庁などに押しかけて自衛隊による警備を願い出るほどだったのだ。
 全国に販売を開始した魔法の護符などのアイテムなどである程度の防衛策が得られる事がわかり、ようやく一般市民も落ち着きを取り戻し始めていた。
 ただ、それでも安全が完全に元通りになったわけではなく、また、亡霊などの物理的に防御できない魔物などが徘徊する場所は立ち入り禁止などにして危険を回避するしかなかったのである。
 また、驚いたことに河童や天狗など日本古来の妖怪なども各地で姿を現し始めていたのだ。
 そうした中、自然の中に帰ろうという動きも盛んになり始め、多くの人間が都会を離れた生活を行っていた。その代表的なグループが奥多摩の森に生活の場を定めた自然生活者たちだろう。
 彼らは驚いたことに精霊を操る魔法を身につけ、十分に自分達だけでも妖魔や怪物とも戦えるだけの力を持っていた。もっとも、魔法は彼らだけの専売特許ではなく、全国各地にも独特の魔法を操る能力を持った者たちがいる。それは具現魔術という魔法技術体系で、魔力を使い魔や式神などの形で転写し、それを使役することで魔法の力を行使するという能力である。
 これは眞の説明によればフォーセリアには無い魔法の技術であり、この世界がフォーセリアと接触をした結果、魔法的な要素がこの世界に流入したため、こうした独特の魔法体系が実際の力を持つようになったのではないか、という話だった。
 この異世界との接触の影響で世界各地で神話や伝説の怪物などが実体を持ったり、フォーセリアからの怪物が出現したようだった。
 もっともそれは悪いことばかりではない。
 特に眞が身につけ、そしてプロメテウスのメンバーに伝えた古代語魔法は大きな力である。この偉大な知識と力をうまく使うなら、人類はかつて無い飛躍的な進歩を実現することも不可能ではないのだ。
 だが、それはある意味では自然のままに生きることを望む自然崇拝者たちの考えや真摯な信仰を持つ宗教者たちとは相容れない一面があった。
 
 久しぶりに親友と会った武内美由紀は内心で恵美の変化の大きさに驚いていた。
 強大な精霊の魔法を身につけたとされている彼女は、数百人を越える集団の精神的なリーダーとして何処か威厳のあるオーラを身に纏っていたのだ。
 彼女の率いる自然崇拝者の団体は日本国内で最大規模の自然生活者のグループであり、精霊の魔法を使う人間が多い事でも知られている。恵美自身、この世界で一番最初に精霊魔法を身につけた人間の一人だ。
 このグループに精霊魔法の修行を受けるために訪れる人々も多い。
 一番有名な出来事は南米を中心に生活するニューエイジ・グループが彼らを訪れて精霊の魔法を学んで帰っていったことだった。
 これを切っ掛けにして南米ではインディオを中心とした自然回帰派の人々が大きな勢力を持ち始めていた。
 元々経済的に破綻していたといっても過言ではない社会だったため、貧しい人々を中心として一気に都市を離れる人口が増えていったのだ。
「本当に久しぶりね」
 恵美に会うために美由紀はわざわざこの奥多摩までやってきたのだ。
 にこやかに微笑む恵美は、前と変わらないように見える。だが、彼女は恐らく世界でも指折りの精霊魔法の使い手であり、自然崇拝者のリーダーとして大きな存在感を放ち始めていた。
 そして彼女が街を離れることを決意してからも、世界はあっという間に変わってしまった。
「そうね。あれからいろんな事があったから・・・」
 美由紀はお茶を一口飲んで、ほっと溜息をついた。
 彼女は銀のブレスレットを身に着けて、魔法の力で妖魔や怪物から身を護っている。そして恵美はそんなものに頼らなくても自分の力で集団さえ護ることができるほどだ。
 特に、恵美の住む奥多摩の森の中には小さな妖精が集落を作っていて、日本も自衛隊のレンジャー達を派遣して保護に当たっている。この自衛隊の特殊レンジャー部隊は具現魔術を使う者達を選りすぐって構成しており、“魔法レンジャー隊”と呼ばれていた。
 とはいっても、自然崇拝者たちと対立があるわけでもなく、ひっそりと余計な侵入者を森から追い払うだけなので、ある意味では自然崇拝者たちにとってもありがたい存在だったのである。
 来年の春には東京で魔法を教える大学が開設されることが発表されていた。
 このことからも判るように、日本政府は既に魔法の存在を秘密にしていなかった。大々的に発表してはいないものの、既に様々な魔法の宝物が流通し、それを放置していることで日本が魔法の存在を黙認している、という姿勢を取っていたのだ。
 そうした大きな変化が僅か一年ちょっとの間に起こっていたのである。
「ねえ・・・、本当にもうこのままこの集落で生活するつもりなの?」
 美由紀は苛立ちを隠せないように少しだけ声を荒げる。しかし、すぐにその苛立ちの原因が恵美に対してではなく自分自身によるものだと気付いて、謝罪の言葉を口にした。
「・・・ごめん。変なこと言って」
 確かに日常生活には大きな変化は無い。しかし、何処と無くいつもと違う生活が美由紀には大きなストレスになっていた。
 東京の中心地は既に魔法や様々なテクノロジーを用いた新しい都市へと生まれ変わらせるための大規模な建設計画が進んでいる。
 おかげで景気は大幅に上向き、そして高度に発展した科学技術や魔法技術の恩恵でまるでSF映画のような新しいものが毎日のように提供されていた。その中の一つに、リフターボードという全く新しい乗り物があった。
 その画期的な製品の登場は文字通り世界を震撼させた。
 着々と産業や経済界、政界に基盤を確立し、もはや揺るがされる恐れの無い状況を作り出しての魔法製品の発表は、世界第二位の経済大国である日本という立場をうまく生かして、世界に衝撃を与えることに成功していた。
 プロメテウスの100%出資である株式非公開企業である日本エア・リフター・テックが、空中に飛行を可能にする一人乗りの小さな浮遊装置を発売したのだ。
 直径が1mほどの円盤状の装置、"リフターボード"は表向きには反重力を用いた浮遊システムを内蔵している、とされていた。もちろんその内部は完全な魔法装置であり、彼ら以外には原理なども理解するどころか想像することも出来なかった。そして、確かに"魔法を用いた反重力浮遊システム"なので嘘でもない。
  限界高度は10m、最高速度50km、最大で100kgの重量まで乗せられるというこの乗り物は世界中で熱狂的なファンを生み出していたのだ。しかも未知の乗り物、ということで最初は全世界で3000台の限定生産にした、ということが逆に世界的に強い需要を齎していた。日本エア・リフター・テックは記者会見の場でこの製品を発表する際に新しいアイドル・グループを使って彼女たちに実際に空中を飛びまわらせて大々的なパフォーマンスを演じさせたのだ。
 その結果として一気にその画期的な新製品は追加販売の要望でメールボックスがパンク寸前になるほどの反響を得ていた。
 それもそのはずで、人類の思い描いていた夢の一つである「自由に空を飛ぶ」ということを実現する夢の乗り物なのだ。現代のヘリコプターや飛行機などはあまりにも大掛かり過ぎて空を自由に飛びまわる、というイメージには程遠い。しかし、このリフターボードは注意をすれば家の中でさえ自由に動き回れる。高さには10mほどの制限があるものの、個人が自転車を乗るような感覚で空を飛べるようになるのだ。
 プロメテウスは魔法システムのインターフェースであるブレスレットをキーとしてこのリフターボードを稼動させられるようにしていた。これはセキュリティの問題と同時に安全性の確保の問題も絡んでいたためである。 
 この新しい乗り物のおかげで『空を飛ぶ』という事が身近なものとなったことで、途轍もない生活レベルでの革命が起きようとしているかのようだった。
 アメリカ合衆国ではITビジネスで成功を収めた若いビジネスマンたちがインターネット・オークションで数百万ドルもの大金を出して購入をしようとして、ニュースを騒がせていた。このブレスレットによるセキュリティ・システムは安全を確保するためにも必須であると同時に、世界を騒がせ始めた怪物の脅威からも比較的有効に身を護れるようになるため、合衆国政府はこのシステムを全米規模で導入しようと考えていたのだが、同時にID番号や安全確保のための位置特定システムなどがプライバシーの侵害になる、として多くの人々が反発していたのも事実だった。実際には普通に使用されている携帯電話程度の位置情報確認のための機能程度しかなく、ネットワークに接続するためのどの接続ポイントと交信をしているのか、という程度の情報しかわからない。
 だが、恵美達自然生活者たちはそうした便利な生活を拒絶して、最低必要源だけの道具を用いるだけの生活をしている。
 それでいて恵美は幸せそうに見えるのだ。
 彼らは畑さえ最低必要限度のものだけを耕作し、あとは可能な限り自然の恵みだけに依存して生きようとしていた。だからこそ自然の精霊とも交信する能力を持てるのだろう。
「美由紀があたしのことを心配してくれているのはわかるわ。でも、あたしはもう都市の中では生きていけないの・・・」
 そう言って恵美は寂しげに笑った。
 恵美ほど強く精霊と交信できるほどの精霊使いは、逆に都市の中ではその余りに強い科学文明の持つ自然からかけ離れた歪みに耐えられないのだろう。
 二人が会うことができるのは自然崇拝者たちが住む森の外れにある小さなロッジだけだった。この山小屋には辛うじて電話とファックス、コンピューターが備え付けられていて、家族から連絡があった場合、この小屋に届けられる仕組みになっている。そうすると交代でこの小屋に詰めている担当者があて先の人に届ける手筈となっているのだ。
 逆に美由紀の装着しているブレスレットはこれよりも街から離れると、安全な圏外から離れようとしている警告を発してくる。
 そうすると自動的に一番近い警察や自衛隊に連絡が入り、捜索に入るかどうかの確認が入ってくるのだ。
 不自由だと思うが、逆にこれだけの安全対策が取られ、それによって護られている、という安心感は大きい。もう既に美由紀はこのブレスレットの防御や安全保障ネットワークのサービスなしでは生活ができないほどだった。
 これは美由紀だけではなく、都市に住む殆どの人間がそうだろう。
 二人は自分達の住む世界が余りにも異なる世界になってしまったことを思い知らされていた。
 一瞬だけ沈黙が美由紀と恵美の心を暗くする。
 だが、それを忘れるように二人はどちらからとも無くおしゃべりを再開し、夢中になって話し続けていた。そうすることで失ってしまった共通の世界を取り戻そうとするかのように。
 何時間も話し続けて、気が付いたときにはもう外は夕暮れの時間になってきていた。
 名残惜しげに二人は別れの挨拶を交わして山小屋から外に出る。
「ごめんね、こんなに長く話し込んじゃって」「ううん、私こそあんまり連絡を取れなくなっちゃったから、ごめんなさい」
 美由紀と恵美は山小屋の前で立ち止まった。
 小屋の前から伸びる道は、片方が八王子の街に向かう街道へと続き、そしてもう一方は恵美達が住む森の奥へと続いている。それがあたかも二人の世界を隔てるかのように・・・
「じゃ、行くわ」
 心を締め付けるような感傷を振り切るように、明るい声で美由紀が恵美に告げた。
「またね!」
 そう言って軽やかに身を翻してバス停へと向かう。此処からは近い上に頑丈な建物になっているため、バスが来るまで待っていても安全だった。
 ブレスレットを操作し、立体映像の画面にバスの時刻表を映し出す。幸いなことにあと10分ほどでバスが来るようだった。
 そんな美由紀を恵美は寂しげに見つめていた。自分達の住む世界とは違う、新しい技術が満ち始めた新文明の目覚めを感じさせている。
 だが、自分は違う世界を選んだのだ、と思い直して恵美もまた感傷を振り払うようにゆっくりと森に向かって歩き出す。小声で精霊語を唱えて、小さな光の精霊を召還して周囲を照らし出した。
 不意に明るくなったのを感じて、美由紀は振り返る。
 そして恵美が光の精霊を宙に浮かばせながら森に向かって歩いていく光景を目の当たりにし、彼女が自分の住む世界に帰っていくのを今更のように実感していた。
(さよなら、恵美・・・)
 それは永遠の別れではない、と美由紀は自分に言い聞かせて自分の住む街に帰るために、彼女もまた歩いていった。
 
 美由紀の恋人の北原祐司は手にした分厚い本を繰りながら、必死にペンを走らせる。
 その本は授業で使う本ではなかった。
 どちらかというと古いハードカバーの洋書のような本である。その本のタイトルは『初等魔術の原理』と記されていた。流石にこの本を手に取るのは勇気が要ったのだが、オンラインで購入できるということもあって、思い切って買ってみたのだ。
 世界各地で様々な怪物が現れたりしている上に、魔法の護符や様々なアイテムが購入できるようになってきたため、この“魔法”なるものに興味を覚えていたのだ。
 そして、自分でもこうした、いわゆる魔法のアイテムを使ってみて、それが本物であることを確信した祐司は、逆にどうすれば魔法を使えるようになるのか、知りたくて堪らなくなったのである。
 この本の事は恋人の美由紀にも秘密にしていた。話すことが何となく憚られたのと、彼女の親友の恵美が精霊を操る力を覚醒させて森での生活を選んで、都会から離れてしまったことでショックを受けてしまった美由紀に、これ以上の不安を与えたくなかったのだ。
 三ヶ月ほど練習を繰り返して、最近ようやく魔法の力らしい何かを使えるようになってきた気がする。ほぼ百発百中で『力』の衝撃波を飛ばせるようになってきたのだ。もっとも、それはまだ鉛筆や消しゴムを指で軽く弾く程度に動かす程度だったが。
「・・・魔力を感じられるようになってから、今度はそれを制御するための訓練へと進む。第三章には・・・」
 声に出して読みながら、祐司は最近始めた魔力制御の訓練へと切り替えていく。
 魔力の制御訓練は、まず、無意識の中に魔法の紋章を刷り込むことから始める。とにかく、集中してある特定の紋章を記憶して、それに関連付けた魔法のイメージを結び付けていくのである。本に拠れば、こうすることで魔法を制御しやすくすると同時に、方向性を定めて固定化することで力を強く発動できるようになるらしい。慣れてくるとまるで目の前にその紋章が浮かび上がると思えるほど強いイメージを作り出し、同時にそれに関連付けた魔力が非常に強い力で発動するようになる、との事だった。
 他にも剣のイメージを強く作り出して、魔力の剣として操ることができるという方法も載っていた。それには鋭いナイフを指先に近づけながら、その感覚を意識して魔法の剣をイメージの中に焼き付けていくのだ。
 祐司はこの魔力剣の術と精霊具現の魔術を練習しようと考えていた。
 こうすれば万が一、危険に遭遇しても美由紀を護るために戦うことができる。
 そんなことを考えながら、祐司は再び精神を集中させ、銀色の輝く剣のイメージを強く心に焼き付けるように思い浮かべていった。
 暫く練習を続けていると、自分のブレスレットから呼び出し音が鳴り響いた。
 魔法の練習を中断してみてみると、それは美由紀からだった。
「どうしたん?」
 祐司のいつもと変わらない声に美由紀は救われたような気がしていた。
 こんな変な世界になってしまっても、祐司だけは私の傍にいてくれる。そんな確信が美由紀の心に産まれはじめていた。
 そんな想いを押し隠しながら、美由紀は恵美と過ごした時間のことを話し始めていた。
 
 街はすっかり秋の装いを終え、冬支度が始まっている。
 今年は国際的な貿易が非常に落ち込んだため、輸入雑貨を中心として品薄の状態が続いているのだが、逆に日本各地の特産品や新商品などがショーウィンドウに並んでいる。
 水蓮は久しぶりにのんびりと買い物をしようと街に出ていた。
 普段よりは気持ちが軽いのは左手の薬指に嵌めた指輪のせいだと自覚している。
『ずいぶんと楽しそうだね』
 微笑みながら白いセーターを手にした彼女に、指輪から声がかけられた。
 幻影魔法で編み出された声と判っていても、水蓮にとっては本当の声と変わりない。
「そうよ、眞さん。こんなにゆっくりと街を歩くなんて、本当に久しぶりだもの」
 心の中で、(それに、眞さんと二人で出かけるなんて、今までも殆ど無かったから・・・)と付け加える。
 彼女の指輪には眞の意思と精神が付与されている。先日の夜魔との戦いで絶体絶命の危機に追いやられたプロメテウスの前に、突如として次元の壁を破って現れた眞は、実は眞が古代語魔法で作り出した彼自身の分身だった。
 その眞が水蓮に渡したのが、この魔法の指輪である。
 分身とはいえ、この魔法の指輪に付与されている眞の意思と精神は異世界にいる本人とも繋がっていて、実質的には眞がこの世界にいるのと同じだった。
 その上、一日に三回、一時間だけずつとはいえこの指輪に付与された眞の精神は仮初の肉体を創り出して、独自に動くこともできる。
 魔法に関しては眞は指輪から直接魔法を使うことができるため、かなりの事ができるのだ。
 制限は指輪単体では身動きが取れないため、移動する際には誰かに運んでもらう必要がある。そのため、水蓮は自分でその指輪を身につけて眞を連れて歩いているのだった。
 流石に試着室などでは眞は気を使って意識を封じてくれている。
 何度も肌を重ねている二人だが、こういう所できちんとエチケットを護ってくれるところがやっぱり眞だと思う。
『そうだね。時間制限無しで東京を歩けるようになるのは何時になることやら』
 冗談のように眞が応える。
 そもそも、眞の友人たちや悦子、里香達はこの世界に意識の一部さえも戻すことはできないのだ。
 それを自覚している眞は、決して浮かれるような態度は見せていない。眞もこの世界に意識を付与した指輪を送り届けたのは、果たさなければならない使命があったのと、何とかして異世界フォーセリアとこの世界を繋ぐ次元の門を開いて、彼らを再びこの“ユーミーリア”に戻す方法を見出すためだろうと水蓮は考えていた。
 だが、それでも水蓮にとっては愛しい人がこの世界に戻ってきたことで喜びを抑えきれなかった。
 そのため、彼女自身も忙しい仕事を片付けて、久しぶりに街に買い物に出かけてきたのだ。
 眞が完全な実体でないとはいえ、帰還を果たしたことでプロメテウスの仕事や彼らのメンバーの修行など、ここ数ヶ月は文字通り寝る暇さえ惜しいほどの多忙なスケジュールが続いていたため、この貴重な休みは水蓮にとっては一年分の労働と引き換えにしても惜しくないほどの価値がある。
 暫く街を歩いて、確かに街の様子が変わっていることを実感していた。
 様々な場所に幻影魔術を応用した最新の立体映像システムが導入されている。様々な古代語魔法を基礎技術とする新技術によるアイテムやインフラが徐々に町中に浸透し始めているのだ。
 先月、発表されたばかりの搭乗型汎用作業ロボットも、既に幾つかの建築現場などで導入が始まっていた。
 現在、陸上自衛隊などで研究が進められているナイトフレームほどの凄まじい性能は無いが、それでも二本足で動く人型に近いスタイルをした汎用作業ロボットの登場は、ついに新時代がスタートした、という興奮を世界中にアピールするのに十分であった。
 しかし、別の意味ではこうした技術の登場は、世界において若干複雑な影響を引き起こしてしまう。既に国会ではこうした汎用ロボットの軍事利用について昼夜を問わぬ論戦が繰り広げられていた。しかし、既に強大な経済力を背景にしたプロメテウスの表向きのダミー企業などからマスコミへの広告の調整などの形で様々な圧力を加え、結局のところは通常の自衛隊の戦車などの運用と変わらない方向で運用されることが暗黙の了解となっていた。
 そんな中で、プロメテウス達は先日遭遇した『夜魔』の情報収集と現状の分析を進めていたのである。
 
 結局のところ、夜魔については目新しいことは判らなかった。
 そしてあの強大な力を持った炎の夜魔将が撤退してから表立った夜魔の動きは見られないため、一時的に夜魔の対策はレベル4警戒態勢にまで落とされることとなっていた。いずれにしても、するべき事は幾らでもあるのだ。
 特に海上からの資源の輸入や製品の輸出に対して、海に生息し始めた様々な海凄の魔獣や怪物などが大きな障害となっていた。そのため、一時的に日本は食糧や石油の国家備蓄にまで手を出さざるを得ない状況にまで陥っていたのである。プロメテウスが創り出していた油田や、作業ロボットを用いての海底資源の採掘が可能になったおかげで辛うじて産業に壊滅的な打撃を被る寸前で事態を回避できていたのだが、食料が問題となっていた。
 最近では家庭菜園などのプランターがあるのだが、当然ながらそんなものが間に合うはずも無く、膨大な食料を賄うために国家的なプロジェクトが進められている。巨大な建造物を創り出し、その中で水耕作により大量の農作物を生産し、提供するという途方もない規模のシステムだった。
 既にその建築は始まっていて、静岡や山梨県などで基礎工事が開始されている。この巨大なピラミッド上の建築物は、実は地表には直接設置されず、基礎部分は完全に柱だけで支えられ、10mほどの高さの空間がピラミッドの下にある吹き抜けの構造になっているのだ。下への光はピラミッド上の建築物の表面から採光した日光を光ファイバーで構造体下部まで誘導し、そしてそのまま光を通させている。また、構造体自体もガラス上の透明な素材で作られていて、光を可能な限り地表に透過させられるようになっている。
 こうした構造をもつ食物生産プラントを作ることで、大量の食料をまかなう事が計画されていたのだ。
 また、リフターボードは余りにも人々の心を捉えてしまい、生産を拡大するように様々な方面から要望が相次いでいた。当然ながら様々な方向性からその有用性を研究され、特に災害救助や警察、軍事用の利用が研究されている。だが、それ以外にもこの飛行モジュールを応用して、空中に都市やプラントを創り出そうという計画さえ立ち上がっていたのだ。
 これには現実的な理由もある。
 広大な面積を必要とする農業では、どうしても妖魔や魔獣などの被害に遭いやすい。しかし、空中にその環境を隔離してしまえば地上における怪物の跳梁を回避してしまえるのだ。それと同じ理由で空中に都市を建設することも考えられていた。
 既に基礎研究が進められていて、来年早々にも実験都市の研究が予定されている。
 尤も、この空中都市計画はファールヴァルトでも進められていて、その進んだ研究成果をフィードバックされているため、基本的に必要な技術は実用レベルにまで達しているのだ。あとは予算を獲得して建設開始を待つだけである。
 とは言うものの、すでにプロメテウスは、というよりも眞は個人的にかなりの規模を誇る自分の宮殿を東京上空に建設し始めていた。この直径が24kmもある巨大な宮殿は、特殊な結界に隠されて誰からも秘匿されている。知っているのはプロメテウスの中でも水蓮を始めとして極限られた者だけだった。
 この宮殿の創造には中心となる魔力を供給する魔法機関が設置され、ゴーレムや魔法で創造された労働者が建設作業を行っている。カストゥール王国の空中都市レックスは付与魔術師ブランプナスによって建設されたとされているのだが、その建設された時期は、驚くべきことに魔力の塔の建設よりも早い。つまり、適切な設計と十分な資源の確保さえ行えれば、空中都市の建設は不可能な難事業ではない。
 ましてや眞は膨大な魔法の宝物を所有している。そうした宝物を使いこなせば、こうした空中都市の建造は十分に可能だったのだ。
 こうした大規模な魔法を応用した研究や創造活動には膨大な魔力を必要とするのだが、無限の魔力の塔や強力な魔力機関が建設され、魔力の供給が行われていた。
 その巨大な宮殿は“ミネルヴァ”と名付けられることになっている。
 基本的に眞が居住するだけの城が建設されるだけなので、都市計画などは必要が無い。むしろ様々な自然環境をふんだんに再現し、また、量子工学と古代語魔法の奥義を用いた博物館や美術館などが建造される予定となっているため、どちらかといえば巨大な美術品のようなものだった。
 建造方法はある意味では単純な方法だった。要するに空中浮遊のための魔法を付与した馬鹿でかい骨格を創り出し、それを空中に浮かべて組上げた基盤にベースとなる岩のブロックを組み合わせて巨大な土台を作り出して、その上に土砂や岩を積み上げて敷地にしてしまうのだ。そして、その上に山や丘、川や湖、南の縁には海岸線まで作り出して一つの小さな環境を作り出してしまうという計画だった。基本的には整備にウッドゴーレムなどを用いる以外にはその生態系自身には魔法での制御は行わないようにして、自然のままにする計画だった。
 物理魔法工学の特徴の一つに、単一の機能を持った部品を大量に生産し、それを組み立てることで高度な機能を持った製品を大量生産可能にする、というものがある。一つ一つの芸術品のような完成度の部品を手作りするのではなく、工業製品のように規格化されたものを大量に生産することで、一般での使用と消費に耐えられるだけの産業基盤の一つにすることを目指しているのだ。
 こうした都市計画なども、建設開始から数十年も掛かっていては利用価値がなくなってしまう。そのため、骨格やベースなどをモジュール化して、迅速に展開できるようにする必要があった。
 そのような要望から、このミネルヴァ宮建造計画は実際の空中都市建造におけるデータ収集を兼ねたプロジェクトだったのだ。
 この宮殿の建設を皮切りに、巨大な空中都市の建設などが計画されており、それらの計画の開始と共に新しい時代が生まれようとしているようだった。
 
 
 

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