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 戦後の日本の政治を常に担ってきた政権与党である自由民主党の議員会館の一角にある執務室で老年と呼ばれる域に差し掛かった男は机の上に置かれた小さな彫像を見ながら、その日の事を思い出していた。
 そう、その日こそが日本の、そして世界の運命を大きく変える事となったのだろう。
 
 窓の外には赤坂の夜景が遥か下に広がって見える。
 静かにクラシックの音楽が流れるレストランの中には他の客もなく、初老の男性とまだ高校生のような少年が向かい合って食事をしていた。
 榊原は目の前の席に座る少年の瞳を見つめ、そしてそっと溜息をつく。まだ、十六歳の少年に大人の世界を語ることができるかどうか、自分にも自信が無かった。少年のことは、彼がまだ産まれたばかりのことから知っている。榊原は少年の祖父がまだ自民党のナンバースリーとして権力を振るっていた頃から、秘書として昼夜の区別無く全力疾走していた。
 もう榊原自身も孫を持つ年齢である。だが、自分の孫と同じくらい、この利発な少年のことが好きだった。
 数年前に少年が加わった観光ツアーの団体がコスタリカの密林でゲリラに襲撃された、と聞いたときには、自ら地球の裏側の国にまで出向いて捜索の陣頭指揮を執ったほどである。
 この襲撃事件で彼の父親は行方がわからなくなり、そして間もなく少年の祖父も原因不明の死を迎えた。
 天涯孤独の身になってしまった少年を支えてやることもできないまま、榊原は時間が少年の心を癒してくれることを願っていたのだ。
 だが、少年は榊原が考えていたよりも遥かに強い心を持っていた。
 孤独に耐え、そしてクラスメートからの執拗な虐めにも屈しなかった少年は、榊原が知らないうちに異世界の知識と力を身につけていたのである。
 それは古代語魔法、という遠い世界の、そして遥かな古代から伝わる世界を操る法則と知識・・・
 幼い頃から少年は、その並外れた才能と能力を感じさせていたのだが、まさか、世界の法則さえも覆すような事をやってのけるほどだとは、老人には想像さえも出来なかった。
「榊原さん、この水晶球を提供します。今の榊原さんのお役に立つはずです」
「眞君・・・」
 少年の差し出した彫刻のようなものをしげしげと眺める。
 それは不思議なデザインのオブジェだった。
 岩場に立つ三人の美しい女性が直径10cmほどの水晶球を掲げ持っている、というデザインである。そしてその女性の像が立つ台座からは向かって右手に盛り上がった岩の上には小さな地球儀があり、女性の像の足元からは磨かれた小さなノートほどの銀の板がはめ込まれていた。
 その銀のプレートには何処かの地図が浮き彫りのように描かれている。
 地図の周りには大理石のボールや幾つかの古めかしいダイヤルが取り付けられていて、なにかを操作できるような印象があった。
「・・・これは?」
 榊原は好奇心を刺激されたように眞に尋ねる。
 眞はゆっくりと頷いて、榊原に答えた。
「これは"物見の水晶球"という魔法装置です。お気づきのように、これは只の彫刻ではありません。この地球儀を動かして、映し出したい場所をこの指針で示してください」
 そういってから眞は一言、不思議な響きの言葉を唱えた。
 その瞬間、榊原は目を疑っていた。水晶球の中に何処かの映像が映し出されていたのだ。その榊原の驚いた表情をみて、眞は微笑む。まるで、孫が面白い悪戯をして祖父を困らせたかのような笑みだった。
「そうすると、この銀の板にその場所の地図が映し出されます。これは魔法で立体表示ができますので、これだけでもお役に立つはずです。この地図の横にあるこの球体で簡単に焦点を移動させることができます」
 眞の繊細そうな手が大理石の球体をころころ、と転がすと地図が流れるように動く。それにつれて水晶球の内部の映像も流れるように移動して、別の場所を映し出していた。
「他にも、このダイヤルを使って、見たい場所にズームインしたりズームアウトをさせることもできますし、こちらのダイヤルでは高さを調整できます。もちろん、空中や地下の映像を映し出すことも可能です。水晶に映し出される映像は、自分達が見ている方向と同じ方向です。もちろん、僕が見ている映像と榊原さんの方から見える映像とでは逆方向に見えるはずですよ」
 それどころか、その女性の像の一つが持つ巻貝の彫像から音を出させることさえも可能で、人間の会話であれば他の言葉に同時翻訳させることさえも可能なのだ、と眞は付け加えた。
「何と言うことだ・・・」
 榊原は驚愕していた。この魔法の彫像は、使い方によっては今、日本政府が打ち上げを予定している情報衛星よりも遥かに高度な情報を得ることが可能になる。北朝鮮が日本の上空を飛び越えてミサイルを発射したときから、日本政府は情報収集体制の欠落を痛恨とともに思い知らされていたのだ。
 だが、この魔法の彫像さえあれば、今までほぼ無力に等しかった日本独自の情報収集能力に大きな能力を持たせることが可能になる。
 2003年3月に予定している情報収集衛星の打ち上げをのんびりと待っているわけにも行かないのだ。
 北朝鮮による核開発が進められていると言う情報が流れる中、この東アジアで有力な情報収集能力を持つのが中国とロシア、そしてアメリカ合衆国だけだというのが今更ながらに重く感じられる。
 緒方眞という、自らがかつて師と仰いだ大政治家、緒方麟太郎の孫息子がこの時代に、異世界の偉大な知識と力を手に入れて日本の安全を守るためにそれらを提供してくれる、という申し出は政権中枢で日本という国家の責任を担う榊原にとっては願ってもないものだった。
「眞君・・・。その申し出、ありがたく受けさせてもらうよ。そして、君の持つその知識と力を日本の宝として保護し、活用させてもらうことを約束しよう・・・」
 眞が得た力と知識は、それが彼にしか扱えない特別なものではなく、修行し、学習すれば身に付けられるものであることを聞かされ、榊原はその古代語魔法の齎す革命的な変化のなかで、日本と言う国家、民族の最大限の利益を確保すべく、行動に出ることを考えていた。
 もちろん、彼の作り出した"プロメテウス"という組織とも全面的な協力関係を築くことになるだろう。
 その日から榊原は絶対の信頼を置くことができる仲間や部下だけを密かに集めて日本の戦後レジームの脱却を目指したグループを立ち上げたのである。それは熾烈な政争であり、ある意味では政治的な内戦にも等しいほどの過酷な戦いとなるはずだった。
 それほどまでに日本の中枢に巣食う闇は深く果てしなかった。
 まず第一に、第二次世界大戦後の占領政策で採られたWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)という米軍の政策がある。これは徹底的に新聞やテレビ報道を含めた報道を検閲して、「第二次世界大戦を引き起こしたのは日本の責任であり、全ての悪は日本にある」ということを徹底して教え込む、という恐るべき政策だった。
 現実にはフランクリン・ルーズベルト大統領が採用したハルノートも、モーゲンソー財務長官の下にいてハル・ノート策定に関わったハリー・ホワイト財務省次官補がソ連のスパイだったことが99年に新聞報道されている。
 また、日教組などにも旧ソ連の共産党の工作機関が日本の赤化(共産主義化)を目指して資金供与を行うなど、様々な情報工作を積み重ねてきたことも一部の報道で明らかになっているのだ。
 他にも統一教会や創価学会などが政権内部や報道機関、マスメディアなどに浸透して、日本の情報産業や教育、政策などを我が物顔で弄んでいる。
 そのため、榊原は信頼できる憂国の士達だけで組織をつくり、そうした闇の勢力に対抗することを密かに進めてきていたのだ。
 だが余りにも強大な相手に対して、彼らは正面から戦えるほどの力は無かった。
 今までは。
 故緒方麟太郎の孫息子にして異世界の魔術を身につけた少年は、そうした闇の勢力と戦うために榊原に強力を申し出てきたのだ。
 既に彼自身も“プロメテウス”と名乗る組織を立ち上げ、祖父を死に追いやった勢力を滅ぼすための行動をとり始めていた。その少年の冷酷なまでの強さは長年の政治の世界での権力闘争や戦後の焦土と化した世界での生活を知る榊原でさえ背筋が冷たくなるほどのものだった。
 眞が榊原に見せた数々の魔法兵器や様々な工芸品は、それらを活用することで恐るべき効果を得られる事が容易に推測される。幾つかの魔法生物は特に、工作活動や暗殺能力に長けているため、汚い破壊工作さえ相手に気取られずに遂行することを可能にしていた。
 眞は平然とこれらの兵器を開発し、運用するための準備を進めていたのだ。
「眞君、これほどまでの兵器を、一体・・・」
 驚愕した榊原老人に眞は表情一つ変えずに言葉を返す。
「榊原さん、僕はコスタリカで、そしてこの日本で大きすぎる代償を支払う事になりました。所詮、力を持った人間が勝ちです。僕はあの時、力が無かった。だから力を身につけたんです。古代語魔法という名の力を。ですがそれだけでは力ではなく数で押してくる敵には対応できません」
 そう言って眞は一息ついた。そして言葉を続ける。
「数に勝つには二つ方法があります。一つは相手に勝る数を揃えること。そしてもう一つは相手の数を弱点に変えてしまうこと、です」
 そう言って眞は説明を始めた。
 確かに中核派や圧力団体は目標が実体を持った組織に対しては非常に強い。それは数の威力を一点に集中させられるためだ。しかしその目標が見えない、もしくは分散している場合、その数の圧力は威力を失ってしまうのだ。
 インターネットが普及して、保守派の言論が堂々と語られるようになっても、既存のメディアが上手く対応して今までのように情報を操作できなかったのはそのためである。一人の人間、一つの組織などの形で目標が定まらないため、圧力の加えようが無かったのだ。
 その上で眞は恐るべき攻撃手段を編み出した。
 それは魔法を用いた機動兵器群である。
 古代語魔法で生み出される魔法生物の一つにストーカーというものがある。様々なガスを素材として、人間の精神を融合させて作り出される魔法生物であり、どんなところにも忍び込んで相手を暗殺する恐るべき存在だった。
 眞はその身に付けた古代語魔法の知識から、一般的に使われる人間の精神を犠牲にしてストーカーに知性を付与する方法とは違う、人工的に知性を付与する古代語の失われた呪文を用いて人間を犠牲にする必要の無いストーカーなどの製造技術を確立させていたのだ。
 そうした方法を用いて作り出されたストーカーに、映像や音声を手持ちの制御装置に転送する機能を付与して、偵察活動や様々な工作活動に運用しているのだという。
 もちろん、それは日本国内だけでなく、中国や韓国、北朝鮮、さらにはロシアや米国など世界中にそうしたストーカーの部隊を派遣していたのである。
「何だと・・・」
 流石に榊原は自分の想像を遥かに超える手段をこの少年が使っていることに衝撃を受けていた。
「別に相手を殺す必要などありませんよ。ですが、あるべきものが無い、無いべきものがある。そうした不可解な事が起これば、事を企てる人間は必ず混乱し、疑心暗鬼に陥ります」
 その結果、勝手に自滅するのを見ていればいい、と少年が言葉を締めくくった。
 榊原はまだ十六歳になったばかりの少年がこれ程までに冷酷な策略を巡らせることを躊躇しなくなってしまったほどの過酷な経験のことを考えて、胸が痛むのを実感していた。
 そして今、その少年は異世界で英雄となり、一国を率いて戦乱の時代が幕明けた世界で戦い続けている。
 残された者たちもまた、それぞれの戦いを続けていたのだ。
 時代は大きく揺れ動き始めていた。
 
 もうそれは数十年もの長い間、ひっそりと進んでいた。
 変化はほとんど誰も気が付かないまま、しかし、確実に起こっていたのだ。
 膨大な量の産業廃棄物が雑然と積み上げられていた。
 中国大陸にはこのような場所が無数に存在する。経済成長を最優先する政策の結果、人民の健康や環境問題を置き去りにしたまま、猛烈な勢いで中国の産業はフル回転しているのだ。
 安い賃金と膨大な人的資源を両輪とする経済は、ある意味でその地の人間の命さえも極端に安い消耗品にさえしてしまっているのかもしれない。
 視界の限りを埋め尽くした産業廃棄物の山の中で、少年たちは町の工場に売るための屑鉄を拾いながらゴミの山の上をひょい、ひょい、と軽やかな足取りで歩き回っている。地方政府の役人たちは何だか、この場所に近づいてはいけない、と言っていたのだが、少年たちにはその理由がさっぱりわからなかった。大体、父親も都会に出稼ぎに出かけているし、この近所の工場では屑鉄を買ってくれる。
 それにこのゴミ捨て場には大量の屑鉄や売れるものがいっぱいあるのだ。そうでもしないと父親の送ってくれるお金だけでは一家が生活するにはぎりぎりで、食べるだけで精一杯だった。
 最近、ここで変な物音を聞いたとか、何か大きなものが動いているのを見た、という人達がいたが、きっと、ゴミが崩れるのを勘違いしているのだろう。
「リーチェン! こっちに来てみろよ!」
 仲間の少年が呼んだ声に応えて、少年は数人の仲間が集まっている場所に駆け寄っていった。
 崩れ落ちそうな足元に気をつけながら、リーチェンは急いで仲間のところに向かう。そこでは少年たちが興奮した様子で何か口々に喋りながら興味深そうに何かを覗き込んでいた。
「何があったんだ!?」
 少年が近づいて尋ねた。しかし、彼よりも一歳年上の友人は黙って顎をしゃくり、自分で見てみろ、と態度で示してくる。訝しげにリーチェンが足元にぽっかりと開いた穴を覗き込んだ。
 最初、それが何なのかさっぱり理解できなかった。
 余りにもそれは常識はずれの代物だったのだ。
 艶やかなそれは、確かに見覚えがある。夏になるとよく家にも飛び込んでくるカブトムシのようにも見える。ただ、その大きさが尋常ではなかった。
 少なく見ても、その背中の殻だけでリーチェンが両手を広げたほどもあるだろう。信じられないような大きさだった。恐らく、もう死んでから暫く経つのだろう、長大な角を持った頭部や背中の殻、そして幾つかの脚が残っているだけだったが、それでも途轍もない大きさのカブトムシだっただろう。
「な・・・なぁ、帰ろうぜ・・・」
 一人の少年が口にしたが、お互いに黙ったまま仲間の顔を見回してしまう。だれも臆病者だと思われたくなかったのだ。
 だが誰もが内心、不安を感じていた。
 慣れているはずのこのゴミ捨て場が急に不気味な異界になってしまったような気がする。
「こんな変なもの、役場のおじさんたちに教えてあげたほうがいいんじゃないか?」
 もう一人が口にした言葉に、全員が救われたような表情で口々に話し始める。
 本当に大人に知らせても良いのか、彼らが勝手に持っていってしまわないのか、など、散々に喋った後で、とにかくこの巨大なカブトムシの残骸を持って帰ることにした。上手くすれば高く買ってくれるかもしれない。
 そうして巨大な殻を引き上げるために、数人の少年たちはロープを手にして少年の背ほどもある穴の中に降りた。角と甲羅、そして幾つかの脚の残骸にロープを括りつけて穴から出ようとしたとき、気が付いた。
 その縦にくぼんだ穴の横に、ぽっかりと別の穴が開いていたのだ。だが、流石にそれを覗き込む勇気も無く、少年たちは慌ててロープを掴んで穴から這い出す。
「どうしたんだ?」
 顔色を変えて上ってきた少年たちを見て、リーチェンは訝しげに問いかけたのだが、彼等は黙って首を横にふり、そしてカブトムシを引き上げよう、と言ってロープを引っ張り始めた。
 それを見てリーチェンも一緒にロープを引き上げていく。意外なほど軽いそれに、ちょっと拍子抜けした気がしたが、それでも手元に引き上げた巨大な昆虫の殻は凄い迫力を持っていた。
 
 中華人民共和国は、その地方行政に於いて地方人民代表大会と地方人民政府がそれぞれ、地方における権力機関と行政機関として定められている。4つある直轄市(北京、天津、上海、重慶)と5つの民族自治区(内蒙古、広西壮族、チベット、寧夏回族、新彊ウイグル)、2つの特別行政区(香港、マカオ)があり、香港とマカオを除いて、それぞれに地方人民代表会議と地方人民政府が存在するのだ。
 河北(Hebei)省保定(Baoding)市の保定市環境保護局の張建超は午後も遅くなった時間に掛かってきた電話を取った。保定市は地級市であり、中国第5位の都市である。
 この河北省には中国人民が誇るべき国家の中心である北京があり、体外的にも模範であることを求められる都市だった。そして、この環境保護局は近年、特に厳しくなってきた欧米や日本からの環境問題に対する問い合わせや苦情などに的確に対応することを求められる部署であり、逆にこうした日々の対応こそが中国の国際的な環境問題に対するプレゼンスを一層、強いものにするのだ、と張は理解していた。
 だがその日、彼が応答した電話の内容は馬鹿馬鹿しいにも程がある内容だった。
「まったく、人を馬鹿にしやがって!」
 思わず毒づいた言葉が思いがけずに大きく響いた気がして、張は慌てて周りを見渡す。幸いにも誰にも聞きとがめられなかったようだ。
 全長が3mもあるカブトムシが見つかった、など、こんな与太話を上司に報告しようものなら、その瞬間に彼の将来は永遠に閉ざされてしまう。無知な農村の老人の戯言などに取られている時間など、彼のスケジュールには1秒たりとて無かった。
 この後すぐに、保定市の郊外に建設される新しい太陽電池の工場の稼動スケジュールに関しての会議があるのだ。
 今や中国は世界の工場として、そして新興工業大国として新たな基軸国家の地位を担おうとしている。その輝かしい中国を担うものの一人として、張は毎日、分刻みのスケジュールをこなしていた。
 しかし一瞬だけここ近年、WHOや科学者たちのグループから報告されている環境汚染との関連が気に掛かった。しかし、それは張の権限と職務の範囲外である。そう考えて彼は足早に会議場へと向かっていった。
 
 少年たちが持ち帰った巨大な昆虫の殻を見て、村中は大騒ぎになっていた。
 こんな巨大なカブトムシの甲羅など見たことが無い。そう言って長老たちは慌てて近くの保定市にある地方人民政府に電話をかけていたのだが、その共産党員は「何を馬鹿なことを言っている」と一蹴していたのだ。
 尤も、それも当たり前のことかもしれない。
 巨大カブトムシといっても、アマゾンに住む世界最大のヘラクレスオオカブトでさえ精々、全長が17cmほどである。全長が3mもある巨大なカブトムシ、といわれても馬鹿にされているとしか思わないだろう。
 だが、そう言われても目の前にある巨大な昆虫の死骸はどうすることもできない。
 それに徐々に風が強くなってきていた。今夜はひどい突風になりそうだ。
 もう何年も天気が荒れがちなのだが、老人はまたいつものことだ、とあきらめた様に溜息をついて小さな家に戻っていった。
 あの馬鹿でかいカブトムシの死骸は気味が悪かったが、放っておく事もできないので村民委員会の建物に運び込んでおくことにした。
 その夜、河北省は記録的な突風に襲われ、保定市の郊外では竜巻に襲われていた。とはいえ、人的被害はほとんど無く、リーチェンたちが屑鉄を拾っていた廃棄物処理場がひっくり返ったように荒らされ、事務所として用いられていたプレハブ小屋が飛ばされた程度だった。
 しかし、その竜巻が吹き飛ばした廃棄物の山の奥底から現れたものは、その文明の残骸の積み重なった中では常に不足がちだった酸素に満ち溢れた世界に触れ、凄まじい勢いで成長を始めていた。
 汚れた綿埃のようなものが風に巻き上げられ、そして東のほうに向かって飛ばされていく。そして捲れあがった廃棄物の隙間から次々に蔦が恐ろしいほどの勢いで成長していた。その蔦は、しかし不気味なほど捩じくれ、まるで異界の森に生える植物のようだった。
 腫瘍のような異様な膨らみが幾つもある蔦は広大な廃棄物の山を見る見るうちに覆っていった。
 蔦状の植物だけでなく、巨大で異様な姿をした茸のような植物や様々な不気味な植物があっという間に広大な廃棄物処分場を多い尽くしていく。その途轍もない大きさの樹木は余りにも異様な姿で、まさに魔界の森を思わせていた。
 その樹々の間をいつの間にか、巨大な昆虫達が蠢いていた。
 1メートルはあろうかという巨大なダンゴムシのような虫がもぞもぞと動き回り、生え出してきた不気味な色をした茸を啄ばみ始める。そんなダンゴムシにその数倍はあろう途轍もない大きさのムカデがじりじり、と静かに近寄っていた。一瞬の間に巨大なムカデがダンゴムシに襲い掛かる。巨大なダンゴムシもまた、一瞬にして丸まって身を護ろうとするが、巨大ムカデは容赦なくその牙をダンゴムシの殻の隙間に突き刺し、やがてその哀れな犠牲者はぴくぴく、と痙攣したまま力無く伸びてしまった。
 巨大なムカデはそのご馳走を堪能するために長い体をぐるぐるとダンゴムシに捲きつけ、顎を柔らかいダンゴムシの腹部に潜り込ませていった。
 
 河北省の北部一帯は、突然飛来したその不思議な綿埃のようなもので真っ白になっていた。
 その綿状の物体は地面に落ちるや否や、すぐにねばねばした粘液のようなものを分泌し、あちこちにくっついてしまっていたのだ。街の住民たちは見たことも無い物体に困惑し、地方人民政府はこの物体を除去すべく大量の人員を導入していた。
 だがここ数年、激しい乾燥と雨不足に悩まされ続けている中国では、街全体を掃除するような水の散布など認められるはずも無かった。仕方なく、役人達はありったけの人員を集めて、手でこの埃上の物体を取り除くように命じていたのだ。
 保定市はもちろん、中国でも非常に大きな都市であるため、電車などの交通機関の整備は充実している。
 近年、黄砂が慢性的に降るようになって常に砂塗れのようになっていたのだが、この奇妙な綿埃のようなものなど、彼が生まれて初めて目にしたものだった。
 車掌はこの埃を取り除くように努力していたものの、余りにも手間が掛かるためについには諦めて電車を発車させることにしていた。もう既に発車の時刻が迫ってきている。いつものように旅行客やビジネスマンを大陸の首都北京へと運ぶ地道な作業が始まるのだ。
 北京までは電車で約1時間半ほどの距離である。もう既に席に着いた乗客たちは新聞を読んだり向日葵の種を食べたりしながら出発の時間を待っていた。
「発車する!」
 そんな乗客たちの様子をちらりと確認し、車掌は出発の合図を送った。
 いつもと変わらない光景が窓の外を流れていく。
 しかし、そんな光景は数十年前の中国では信じられないような光景だった。かつての中国は広大な国土を持ちながら、欧米列強に国土を分割され、屈辱的な統治を感受しなければならない時代があったのだ。
 それでも第二次世界大戦の後、共産革命を経て核兵器を持ち、今では経済的にも大国として栄光ある地位を確立しようとしていた。そんな祖国を思うと男の胸には熱い想いが沸き起こってくる。
 尤も、そんなことを考えているのはこの電車の中では彼だけだったかもしれない。
 ほとんどの乗客は今日のビジネスのことで頭が一杯か、海外から来た観光客や留学生ばかりだ。真っ白な綿埃がくっついた電車を見ても、それが自分達を目的地に連れて行ってくれるなら気にもしない。
 だから、走っている電車から乾燥した綿埃がぱらぱら、と僅かずつはがれて飛んでいっても、それに気が付いた者さえいなかった。
 やがて電車は巨大な都市に滑り込んでいった。
 その電車の駆け抜けていった後に、細かな埃が煙のように尾を引いて流れていたが、やがてそれも風に流されて消えていく。だが、保定市から飛び続けたその埃の量はどう考えても電車に付着していた埃の量とは釣り合わなかった。
 北京駅の駅員は、その汚れ切った様子の電車を見て顔をしかめる。
 偉大なる中国の首都北京の中央駅、それは世界が一番最初に見る中国であり、その駅は国外からの賓客やビジネスマンを迎え入れる中国の入り口でもあるのだ。それなのに、あろう事かこんな汚れた電車が入ってくるなど、恥曝しもいいところである。
 車掌に厳しく注意をしなければ。そう考えながら駅員は車掌席に向かっていった。
 扉が開いて、乗客がどっと電車から溢れ出す。
 そして彼等は別の電車に乗るために駆け出していったり、そのまま出口改札に向かって早足で歩いていった。
 その綿埃は雑然とした人ごみの中に舞い込み、そして人々はそんな綿埃など気にした様子もなく目的の場所に向かって慌しく歩き去っていく。
 だが、誰もその綿埃が列車の車体の下やホームの片隅で成長を始めていたことに気が付かなかったとしても、それを責めることはできないだろう。そんなことを気にするような必要など、日常生活ではなんら無いのだから・・・
 やがてホームの下や敷石の陰などが綿埃によってうっすらと覆い尽くされていった。
 
 リーチェンたちは遠くに見える鬱蒼と繁った森を呆然と見ていた。
 いつもと同じように屑鉄を拾いに廃棄物処分場に向かったのだが、暫く歩いているうちに様子が違うことに気が付いていたのだ。いつもならぽっかりと開けた場所に雑然と積み上げられたゴミの山が悠然と見えるはずなのに、今は不気味な樹木に覆われて異様な雰囲気を漂わせている。
 その妖気のような空気に気圧されていた少年たちは、しかし、それでも日課になっている屑鉄拾いに不気味な木々に覆われてしまった廃棄物の山へと足を踏み入れていく。屑鉄を拾うことができなければ、お金を稼ぐことができなくなる。そんなことになれば、食べることができなくなってしまうのだ。
 彼らの父親たちも北京で出稼ぎ労働をしているのだが、それでも一家を養えるほどの金額を得ることはできない。だからこそ、少年たちは危険だと知っていながらも廃棄物処分場で屑鉄を拾って少しでも現金を得る必要があったのである。
 意を決して、少年たちは濃い緑色をした羊歯のような葉を掻き分けて、奥へと入り込んでいった。
 その異様な空間は少年たちが今まで見たことも無いような光景だった。ここがジャングルでないことは足元にごろごろと転がっている剥き出しの産業廃棄物のゴミがあることで良く理解できる。しかし、そのゴミを不気味に捩じ繰りかえった木の根や蔦がびっしりと覆い、一層得体の知れない雰囲気を生み出していた。
「な、なぁ・・・帰ろうぜ・・・」
 一番年少の少年が震える声を必死に抑えながら仲間に訴えかける。
 幾らなんでも様子が異常過ぎた。
 一晩でこんな巨大な森が出来上がるはずなど無い。それに、もしかしたらあの巨大なカブトムシ以外にも何かいるかもしれなかった。
 少年たちは暫くお互いの顔を見回していた。内心ではみんなこの異様な森に対する恐怖を感じていたのだが、それを口に出して臆病者だと馬鹿にされるのも嫌だった。それに、屑鉄を拾えなければお金を稼ぐこともできなくなる、という切実な事情もある。
 そうして黙ったままいる少年たちは、自分の周囲の木々の様子が変わっていることに気が付かなかった。
 まるで蛇のように太い蔦が音も立てずにするする、と伸びてくる。足元にも細い根のようなものがゆっくりと、しかし確実に忍び寄ってきていた。
 ようやくこのまま森を出て村に帰ろう、と決めたときにはもう手遅れだった。
「よし、帰ろ・・・」
 そう言いかけて、一番年長の少年は絶句していた。
 今、やってきたばかりの道が無いのだ!
 確かに数メートルはなれたところにある冷蔵庫のドアの脇に生えている木の横に開いていた空間からやってきたはずだ。しかし、その木の横にはかなり太い幹を持った別の木が生えている。これでは帰れない。
「そんな・・・こんな木なんか生えていなかったのに・・・」
 そう呟きながらその木の周りに元の道に返る隙間が無いか、調べようと数人の少年が周りを調べ始めた。その瞬間、蔦がするり、と動いて少年の首に絡みついた。恐ろしい力で締め上げてくる蔦を何とか引き剥がそうと必死で暴れまわったが、その不気味な蔦は少年の首に無慈悲に食い込んでいく。酸欠状態になって紫色になった唇が何かを訴えようとかすかに動いたあと、哀れな少年の手足は不意に力を失ってだらり、とぶら下がった。
「う・・・わあああああぁぁぁぁぁーーーーーっっっっっ!!!!!」
 悲鳴を上げて逃げ出そうとした少年の一人はいきなり足元を取られて激しく転倒する。思い切り顔面をぶつけて頭の奥に黄色い火花が散ったような気がした。その足を掴んでいるものの正体に気づいて、その少年は狂ったような悲鳴を上げながら助けを呼ぶ。細い、しかし強靭な木の根のような蔦がしっかりと彼の足に絡み付いて、手繰り寄せるように恐るべき力で少年の体を引っ張っていた。
「嫌だー!!!、た、助けてー!!」
 涙と鼻水で顔をべたべたにしながら少年は必死に地面に生えている木の根やゴミを掴む。しかし、その蔦の信じられないほどの力には敵わず、じわじわと引きずられてしまう。少年は何とかして死の脅威から逃れるために、爪がはがれてしまった手で掴めるものになんとか手を伸ばそうとするものの、その圧倒的な力には敵わなかった。
 その少年が最後に見た光景は、巨大な葉がまるで大きな口のように彼を飲み込もうとしているその瞬間だった。
 
 残った少年たちはもう訳がわからないまま必死の形相で森の中を駆け巡っていた。心臓が破裂してしまいそうな気がしたのだが、ちょっとでも足を止めるとあの不気味な蔦につかまってしまいそうで、ただひたすら走り回っていたのである。
 ふと気が付くと、リーチェンの周りにはもう二人の少年しかいなかった。
 不意に開けた場所に走り出た少年たちは、驚いて思わず足を止めてしまう。きょろきょろと周りを見回して、あの動き回る蔦が無いことを確かめて、思わずしゃがみ込んでしまった。
 へたり込んでしまった少年たちは、急に心細くなって俯いてしまう。どうやって家に帰ればいいのか、見当さえも付かなかった。
 大きく開けたその空間はじっとりと湿っていて、非常に乾燥しているはずの外の環境とはまったく違う世界だった。
 そこは不思議に静かな世界が広がっていた。巨大な空間は5階建てのビルさえすっぽりと入ってしまいそうなほどの高さがある。そしてその壁や床は植物の樹皮のような素材だった。びっしりと苔に覆われたような壁と地面はどこか柔らかく、安心して座り込めそうだった。
 その静かな空間はまるで、異次元に広がる別世界のように思えて、哀れな少年たちはじっと身を寄せ合って震えている。
 しかし、いつまでもここにいられない、とリーチェンは恐怖に震えながらも何とか立ち上がって二人の少年を叱咤する。ここにも自分達が気付いていないだけで、何かがいるかもしれない。
「ここで休んでたら危ない。すぐにここから出る道を探さないと・・・」
 その言葉を聞きながらも、二人は反泣きになりながら首を横に振っていた。
「やだよ・・・。あの変な木に殺されちゃう・・・。ここで大人が来るのを待ってるほうがいいよ・・・」
「そうだよ。もし、僕らが帰らなかったら、村のおじさんたちもここに来てくれる・・・」
 涙を流しながら動こうとしない仲間に苛立ちながらも、リーチェンは何とか彼らを脱出路探しに連れ出そうと懸命に説得を続ける。だが、もう常識はずれの事態に完全に参ってしまったのか、二人の少年たちはようやく見つけたこの安全だと思われる空間から動こうとしなかった。
 それも仕方が無いことかもしれない。
 植物が自由自在に動き回って人に襲い掛かるなど、荒唐無稽もいいところだ。
 余りに常識はずれの事態に、もう何が何だか判らなくなっていた。無言でじっと足元を見詰めて座り込んでいた少年たちだったが、不意におかしな物音がしていることに気が付いていた。
 何処かから風が鳴るような音が聞こえていたのだ。先ほどまでは完全な静寂だったのに・・・
 気が付くと周囲は霧のようなもので包まれていた。
 リーチェンは驚いて立ち上がろうとしたが、彼の両脚は痺れたように力が入らずに、その小柄な体は糸が切れた人形のように力無く崩れ落ちる。
 全身を甘美な麻酔に冒されたかのように意識が朦朧としていた。必死に助けを呼ぼうとした少年たちだったが、その体は非情にも頭脳の命令に応えようとしなかった。
 どれほど時間が経ったのか、それとも一瞬だったのか、リーチェンは時間の感覚も失っていた。
 途切れ途切れになる意識の片隅で、少年は自分の死が近づいている事にさえ気が付いていなかった。だが、それはある意味で幸いだったかもしれない。
 もし、正常な意識が残されていたならば、彼は自らに襲い掛かるおぞましい死の瞬間に苦しめられ続けただろう。それがたとえ短い間だったとしても。
 地面に力なく倒れ伏せた少年たちの視界の片隅に、何かが動いているのが見えた。
 それに気が付いた時も、少年たちは既に正常な思考を失っていたため、その巨大な物体が近づいてくる光景をぼんやりと見つめているだけだった。
 艶やかな黒い甲羅が信じられないような俊敏さで動いている。
 1メートルほどの大きさのそれは、しかし、数十体も群れを成してごそごそと動き回っていた。
 黒い体を支える六本の足は信じられないほどに繊細で、しかし力強くしなやかに動き回り、その巨大な腹部と胸部を繋ぐ腰はどうやってその体を支えているのかわからないほどの細さだった。その姿はどこでも見かけることができただろう。大きさを除いて、だが。
 リーチェンは呆然とその巨大な蟻が自分達の方に向かって歩いてきている姿を薄れゆく意識の中で見つめていた。
 
 2008年の北京オリンピックの開催に向けて、北京市の役人たちは大量の書類と格闘し続けている。
 とにかく建設するものが余りにも膨大で、しかもどれ一つとして間に合わないなどということは許されない。これは中国という国家の威信をかけた大プロジェクトなのだ。
 楊義京は今から視察に向かう建造物の資料を抱え、足早に部屋から歩き去っていった。
 重厚なオフィスビルの廊下を歩きながら、この北京オリンピックのことを考える。かつての日本が東京オリンピックを成功させたことで堂々と大国としての地位を世界にアピールすることに成功したように、この北京オリンピックもまた中国という国家の存在感を世界中に轟かせることになるだろう。
 地下の駐車場には既に出迎えの車が待っていた。
 運転手が恭しくドアを開けるのを当たり前のように、楊は滑り込むように車に乗り込んだ。共産党の幹部候補生であり北京市のキャリア官僚でもある楊にとって、運転手つきの車で目的地に向かうのは食事をするのと同じくらい当たり前のことであった。
 建設作業の進捗を実際に見て、その計画を完成させるのは重要な仕事であり、その結果では中央での活躍の場が開かれる可能性も決して低くない。
 正直なところ、日本の建設会社などに工事に参加させて、彼らの持つ高度な技術やノウハウを使いたかったのだが、日本の首相が政治的に敏感な問題である靖国神社に参拝したことで中央政府が激しい反発をしていて、とてもではないが日本の協力を仰ぐ、などという事は言い出せなかった。しかも、日本の領土である北海道や新潟などから潤沢な石油が出た、とのニュースが世界を駆け巡り、この隣の小さな大国は世界に対する大きなプレゼンスを得ようとしている。
 それに加えて中国が島と認めていない沖ノ鳥島も、急に謎の隆起をして、今は大きな島に変わってしまったのだ。沖ノ鳥島の周辺で大きな海底火山の活動が発生したと聞いたとき、あの忌々しい岩塊が崩れ落ちてしまうことを期待した中央の人間には、逆に火山活動の影響なのか沖ノ鳥島が大きく隆起してしまったことを知って、怒りのあまりに倒れてしまった者までいたらしい。
 沖ノ鳥島だけでなく、その周辺の海域では火山活動の影響と思われる海底噴火がおき、急激に溶岩が隆起したことから大きな島が隆起してしまったのだ。その大きさは実に九州とほぼ同じ面積があるほどだった。その形は細い菱形をしており、東西の幅は最大で九州の半分ほど、南北の長さは九州の二倍を越えるほどの大きな島が小笠原諸島の西側に浮かび上がったことで日本の領土と領海、並びに排他的経済水域が大幅に増えてしまったことから共産党の中央はその政治的な影響を検討するために連日のように会議を開いている、との噂が流れていた。
 
 今のところ、気掛かりなのは世界中で報告が出始めた未知の生物や怪物のことである。
 この中国でも例外ではなく、各地で不気味な子鬼を見た、キョンシーが現れた、などの噂が各地から聞こえてくる。
 郊外の小さな村からも、子供達が行方不明になった、という訴えが出され、警察が捜索活動に出向いていた。
 他にも倉庫が荒らされてごっそりと食料を盗まれた、家畜が行方不明になった、などの被害を訴える陳情が全国各地からそれぞれの地方政府に届けられている。だが、地方の役人たちは慎重に調査を進めるため、未だに中央政府には報告が届いていなかった。
 そして事件は突如として起こったのだ。
 アメリカ合衆国、そしてフランスやドイツ、日本を含む合同の化石発掘調査隊が突如として行方を絶ったのである。
 それは遼寧古生物学博物館を中心とした遼寧の貴重な化石の合同発掘と調査を目的とした国際的なプロジェクトだった。遼寧一帯は特に、世界でも珍しい羽毛を生やした恐竜化石が豊富に見つかることで有名であり、鳥類と恐竜との関連を研究する上で欠かすことのできない貴重な資料を数多く発掘した世界でも極めて重要な考古学上の要所の一つである。
 今回は特に、日本やアメリカの最新の測定機器を持ち込んでの大規模な調査であり、大きな成果を期待して世界中の考古学研究者が注目している発掘調査であった。
 しかし、数日前に調査隊から「重大な発見をしたようだ」との無線連絡を受けたのを最後に、ぷっつりと連絡が途絶えてしまっていたのである。
 もしかしたら貴重な化石を盗掘に来た犯罪者に襲われたのかもしれない、と警察は慌てて救助活動に向かっていた。
 だが、この数日は一向に手がかりが掴めないまま、警察は焦る気持ちを押さえ込んで慎重な捜査を進めていたのである。国際的に注目を集める、しかも諸外国のトップクラスの研究者が中国で盗掘者に襲われた、などという事態になったら、中国の名誉に泥を塗ることになる。
 各国が好き放題に中国を、まるで未開の土人の国のように非難し、嘲る光景を想像して、その救いがたい馬鹿者を自らの手で絞め殺してやりたいほどの怒りと恥辱が胸にこみ上げてくる。
 ようやく発掘地点にたどり着いた警察隊員たちはその凄惨な光景を目にして絶句していた。
 ベースキャンプは無残なまでに破壊されていたのだ。
 厚く丈夫な布で作られたテントはずたずたに引き裂かれ、車もばらばらに引き裂かれていた。凄まじい力で振り回されたのか、あちこちがひしゃげ、窓は一つ残らず粉砕されていたのである。
 捜査の結果、生存者は一人も確認されなかった。だが、捜査が完了し全ての状況を明らかにするまで彼らの任務は完了しない。
 この襲撃現場の近くでキャンプを展開する事に関して若干の議論があったものの、無防備な研究者と完全武装した警察部隊を同じにすることはない、として捜査の効率性を考慮した結果、近くにキャンプを張っていたのだ。
 そして夜、一人の若い警官が歩いていた。
 用を足しに離れた場所に向かっていった。流石に簡易便所はあるものの、これだけの数の隊員がいると流石にどうしようもない。
 岩場の影に回りこみ、誰もいないか周りを確かめようとする。そして気が付いた。
 何か赤い光が見える。誰かがタバコを吸っているのだろうか。しかし、その割にはその光は動くことなくじっとしている。
 違和感を感じながらも若い男はその光をじっと見つめていた。
 徐々に闇に目が慣れて辺りの様子がなんとなく判るようになってきた。その光はどうやら自分が回りこんできたような大きな岩に張り付いているようだった。その光は何故か、何処かで見たような気がする。
 何処で見たのだろうか。男はそれを考えながら、無意識のうちに腰のホルダーに収められている拳銃に手を伸ばしていた。
 長い時間が経ったのか、それとも一瞬のことだったのか、雲の隙間から月光が男と赤い光のある辺りを淡く照らし出す。その瞬間、その赤い光の持ち主が姿を現した。
 男の目が驚愕のあまり、丸く開かれ全身が凍り付いていた。
 巨大な、それこそ牛さえも串刺しにできそうなほど巨大な角と、虎の首さえ切断できそうな顎を持った水牛ほどの大きさの物体だった。全身を覆う漆黒の甲羅が月光の柔らかい光を映して艶やかに光を反射している。6本の脚はその巨体に比べて驚くほど細く、どうやってその岩場にしがみついているのか信じられないほどだった。
 悲鳴を上げて拳銃を構えようとした警官だったが、それよりも早く凄まじい速さで跳びかかってきた怪物の角が男の筋肉をあっさりと断ち切って胸板を貫く。気管支を潰された男は悲鳴を上げることさえできずに一瞬にして絶命していた。
 巨大な顎が左右から男の胴を挟みこみ、ボキボキ・・・、と不気味な音を立てながら哀れな犠牲者の肉体を断ち切っていった。溢れ出る新鮮な血を吸い取りながら、巨大な昆虫は肉を食いちぎり始めていた。その溢れ出る血の匂いの誘われたのか、一体、また一体と次々に怪物のような大きさの昆虫が闇の中から姿を現し、血の饗宴に加わっていく。少しでも分け前に預かろうと、お互いに押し合いながら男の死体に食いつき、引きずり回していた。
 突如、襲い掛かってきた見るもおぞましい巨大な昆虫に、古生物調査隊の行方を捜索に来ていた警察部隊は数刻も持たずに壊滅していた。
 
 
 

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