~ 4 ~

 息を潜めて数人の男達が山道を滑るように歩いていく。
 目の前に開けた空間が開いているのを見て、苦々しげに舌を打つ。この中国大陸の山道で開けた場所に身を晒すのは危険極まりない。
 巨大な昆虫が生息するあのおぞましい菌の森以外の場所でも、危険な生物が何処にでも棲んでいる。
 あの巨大な鳥の化け物はその中でもとびっきり怖ろしい存在だった。
 下手な車よりも早く大地を駆け回るあの巨大な鳥の怪物は、全身を鋼の鎧のような鱗に覆われて男達が手にしているような武器など何の役にも立たない。その上で鋭く強靭な嘴と鉤爪は男達が着ている簡単な鎧など紙と同じように簡単に引き裂いてしまうのだ。
 鳥は恐竜の子孫だと言う学者が語っていたが、今の鳥の化け物はそれを真実だと実感させるに十分すぎるほどの脅威だった。
 しかも電気やガス、水道などのインフラが元々貧弱だった中国の地方では中央や大都市部が巨大昆虫と菌の森によって滅ぼされてしまったし、様々な怪物や魔物が至るところに出現している。各地の軍閥は既に自分達だけの勢力圏を固めて完全に外部との交流を閉ざしている上に、少しでも環境の良い場所を支配しようと各地で軍閥同士の武力衝突まで起きているような有様だった。
 男達はその軍閥の一つである上海閥の支配する地域にある村の住人だった。
 とはいえ、その軍閥も彼らを護るための兵士を展開するわけでもなく、基本的に自分達の身は自分達で護るしかない状況である。そして、彼らは食料を得るために危険な怪物や魔物の徘徊する森や平原に行っては兎や野豚などを狩っては村に持ち帰ってくる生活を繰り返していた。
 危険な怪物が徘徊しているため、広い畑を耕すことも出来ない。その為、塀に囲まれた小さな畑を細々と耕すだけで何とか税を納めるだけの農作物を生み出すのがやっとだったのである。
 もうこの状況に慣れてしまっていた。
 それでなくとも夥しい数の子鬼や奇怪な生物に脅かされているのだ。少なくともこの大陸では人間は彼らに対して優位など保っていない。
 人々は隠れるようにしてひっそりと生きるか、後は軍閥の支配する地域に逃げ込むかの二つに一つだった。
 食料になりそうな動物を追い求めて此処まで来たものの、恐らくは巨鳥獣か巨大な昆虫-彼らは巨蟲と呼んでいた-が近場を通っていったのかもしれない。
 小動物たちは姿を見せずに、男達は一頭の獲物さえも見つけられないまま狩場の外れにまで来てしまったのだ。
 獲物を仕留めずに帰ることは出来ない。
 村には徒でさえ食料が不足気味で病人まで出始めているのだ。
 男達は覚悟を決めて開けた草原に踏み出す。
 できるだけ姿勢を低くして目立たないように、慎重に歩みを進めていった。
 そして目の前の開けた空間に無造作に穿たれた巨大な足跡を見て表情を曇らせる。
(無理だ・・・。あの化け物がいる・・・)
 男達は大急ぎで森の木陰に戻っていった。
 幸いにもあの巨大な怪鳥の影は見えない。ほっと溜息をついて別の道を目指して歩き出す。
 あの鳥の化け物に襲われたなら逃れる術は無い。
 ただ、あの巨大な体躯は森の中には入ってこれない。
 森の中は決して安全なだけではないのだがアレに襲われるよりはまだマシだった。
 まさに装甲板を連ねたような鋼の如き鱗に全身を覆われ、信じがたい速さで大地を駆け回りながら数頭から十数頭の集団で襲い掛かってくるあの怪物に勝てるものなどいるとは思えなかった。
 しかし、森の中には森に棲んでいる別の脅威がいる。
 それは巨大な昆虫だった。
 今や森は巨大な蟲の王国となっている。迂闊に奥深くまで踏み込んでしまったら生きては戻れないだろう。
 森といっても昔の見慣れたブナやナラの森ではない。既にそのような静かな森は残っていないのだ。
 確かにそうした昔からの木々も生えてはいる。
 だが、その森の中にも動き回る木々が常に獲物を狙って蔦を這いめぐらせ、そして地中にさえ獲物を狙う危険な罠を仕掛けているのだ。
 彼らも何人もの仲間が落とし穴に嵌って命を落としたり、蔦に絡みつかれて生きたまま巨大な葉に飲み込まれていったのを見ている。
 そうした経験を経て、彼らは何とかこの危険な大地で生き残る術を見出しつつあった。
 男達は奥の木陰から彼らの様子を窺っている存在がいることに気が付いていた。
 血の気が引きそうになる感覚を堪えて、男達はじっと息を潜める。
 そして交互に視線を合わせて連携を確認した。
 一人の男が精神を集中し始め、不思議な言葉を唱え始める。そして残りの男達はいつそれが飛び出してきても迎え撃てるように弓を引き絞っていた。
 不意を討つようにその影が飛び出してくる。
 巨大な鳥のような獣だった。
 草原を走り回るあの鷲の怪物ほど巨大ではないにせよ、大人の背丈ほどもある大きな鳥の化け物だ。とはいっても、鷲の怪物のような装甲に護られているのではなく、まだ大人しいほうの部類の強獣だった。
 男達が一斉に矢を放つ。
 次々に鋭い鏃が身体に突き刺さっても、それを気にした様子も無く獣は一人の男に狙いを定めて飛び掛ろうとした。その瞬間、辺りが一瞬暗闇に包まれむ。その暗闇が現れたときと同じように唐突に消え失せたとき、獣は倒れこんでいた。
 その獣が完全に気を失っているのを確認して、慎重に止めを刺していく。そして男達は近くを慎重に調べ始める。
 近くの繁みには大きな卵が数個、巣の中に眠っていた。
 そっと近づいて聞き耳を立てると卵の中でゴソゴソ、カリカリと小さな音がしている。
 思ったとおりだ。
 男達はその卵をそっと背負い袋に入れて慎重に担ぐ。
 そして仕留めた強獣を手早く解体して持てるだけの肉を持って素早くその場から離れる。森を出たところで引き摺ってきた強獣の内臓と手脚を捨てて急ぎ足で元の道を帰っていった。

 それはある意味で不意に起こった出来事だった。
 対テロ戦争と国内の怪物に対して膨大な軍事力をつぎ込んでいた米国の中で南部の州が独立を宣言し、そして同時にアメリカン・インディアンの部族が精霊魔法の力を以ってアメリカ合衆国に独立を宣言したのである。また、中国では溜まりに溜まった農民の怒りが反乱という形で爆発していた。当然の事ながら、中国人民軍は武力鎮圧を試みたのだが、やはり精霊魔法や現実的な力となって現れた様々な呪術の力を身につけた勢力が猛烈な抵抗を行い、中国大陸は泥沼の内戦状態に陥っていたのだ。

 アメリカ合衆国の文化の発信地、ニューヨーク。
 この摩天楼の都は知られざる一面があった。それはアメリカン・インディアンが最も多く生活する都市、という一面である。現在では純粋ないわゆる先住民としてのアメリカン・インディアンの数は少なく、白人や移住者との混血が進んではいるものの、それでも何とかして失われたアイデンティティを取り戻そうとする試みは続けられていた。
 特にその自然崇拝の思想などは近年のエコロジー・ムーブメントとも相まって裕福な白人層の間にも共感と理解が広まっていたのだ。しかし、常に裏切りと迫害の歴史を経験してきたアメリカン・インディアンたちの間にはいまさらになってそのような対応をすることに対する不信感と嫌悪を持つものも少なくは無かったのである。
 アメリカン・インディアン運動(通称AIM)のような民族回帰運動が興ったのも至極当然の事といえよう。
 ニューヨークに住むジョージ・ワカウは、その時までは他のニューヨークに住む若者と同じように、普通の生活をしている青年だった。その夜、友人と共にしたたかに酒を飲んで馬鹿騒ぎをしていたとき、不意に目眩を感じて眠り込んでしまったのだ。それは奇妙な浮遊感を伴った奇妙な感覚だったことを覚えている。そして彼は夢を見ていた。
 自らが連なる大いなる血の繋がり。先祖たちが脈々と受け継いできた自然との交わりの英知。彼らを導く大いなる精霊の息吹・・・
 泣きたくなるほど切なく、そしてただひたすら帰りたいと願っていた。
 激しい後悔の感情が彼の心を満たしていた。
 先祖の土地を奪い、そして部族の者を殺し、そしてひたすら奪いつくしていった侵略者の街で愚かな自分は酒を飲み、ひたすら享楽だけを追い求めていた。
 その狂った文明は自然を破壊して、そしてまた自らも飲み込んで滅び去ろうとしている。

 止めなくてはならない・・・

 ジョージはそのための力を願っていた。
 もっと強くなりたい。愚かな自分を目覚めさせてくれた自然に感謝し、そして彼は大地に平穏を取り戻すことを誓っていた。
 目が覚めたとき、彼は自分が生まれ変わったことに気がついていた。
 彼の恋人が寄り添って眠っていた。その艶やかな黒い髪を撫でて、不意にジョージは自分が不思議な世界を見ていることに驚いてしまった。恋人が買ってきておいてある小さな観葉植物の周囲に不思議な緑色の光が見えるのだ。いや、それだけでない。夜の部屋なのに、信じられないほどはっきりとものが見えている。
 耳を澄ますと普段は聞こえない声がはっきりと聞こえてくる。
 それは驚いたことに観葉植物からも聞こえてきた。ジョージは最初、自分の気が変になったのかと思ったのだが、確かに声は意味を持った言葉として理解できるのだ。それに耳を済ませているうちに彼は不意に、これが自然の話す言葉なのだと理解していた。
 その瞬間、彼はその言葉を口に出して呼びかけていた。無意識のうちに左手を空中で踊るように動かす。まるでそうすることが当たり前であるかのようにジョージは精霊に対する呼びかけの言葉を口にしていたのだ。
 月の光を扉にして淡い光を放つ光の精霊ウィル・オー・ウィスプがジョージの呼びかけに応えて現れる。それは神秘的な光景だった。ニューヨークという都会の一角で自然の力を司る精霊が呼び出される、ということにジョージは深い感動を覚えていた。
 その日からジョージはニューヨークから姿を消した。

 それからおよそ2年の歳月が流れていた。
 久しぶりに歩くニューヨークの雑踏は、ジョージにはもはや何の気分の高揚も与えてこなかった。
 もう世界の金融の中心地の一角に、アメリカの繁栄を象徴していたツイン・タワーは無い。すべてが変わってしまった中で、ジョージは自らがもっとも大きく変わったものの一つだろう、と取りとめもないことを考えていた。何でもTOKYOでは魔法を使ったアイテムが堂々と販売され、人々はそれを買い求めているという。
 ニューヨークの街中には立体映像の広告や情報が溢れんばかりに表示されている。五番街の有名ブランドの店やブティックはそうした煌びやかな映像をふんだんに使った視覚効果で他店を越えるインパクトを与えようと競い合っていた。これもTOKYOにある日本企業が開発した立体映像投影装置をたっぷりとつかった映像効果だ。
(やっぱりこんなスゲェものを作るのはJapanese以外にはいねぇよな・・・)
 ジョージは日本びいきの感情をくすぐられて、どこか自慢げに思う自分に心の中で苦笑いをした。あの精霊の声を聞いた夜、自分は失った自分自身を取り戻すために自然に帰ると決意したはずだ。
 同じアメリカン・インディアンの仲間でかつての自分達を取り戻したい、という情熱を持つ者達を集めて、ジョージは秘密結社を作り出していたのだ。もっとも、秘密結社といっても活動の実態をメディアなどに露出していないだけで、他から見ればよくある一つのエコロジストの団体、という程度の認識だっただろう。しかし、ジョージは仲間を集めて精霊魔法の力を磨くための修行を続けていたのだ。
 とは言うものの、成功している誰か先人がいるわけでもなく、彼らはひたすら無我夢中の状態で自然の中を駆け巡っていただけと言ってもいい。
 しかし、曲がりなりにも精霊の言葉を聴くことが出来るようになった彼らは、それなりの力と自信を持っていた。
 今のところまだ10名ほどの精霊使いがいるだけなのだが、彼らの活動に理解を示し、協力してくれるアメリカン・インディアンの有力者も何人か現れてくれた。協力してくれる仲間も数百人を超え、彼らはようやくアメリカン・インディアンのアイデンティティと名誉を掛けた戦いを始められるところにまで漕ぎ着けていたのだ。
 他にもAIMやユナイテッド・アメリカ・インディアン・オブ・ニューイングランド(UAINE)にも何人か、精霊の力を使えるようになった者を送って、アメリカン・インディアンの力を結集しようと考えていたのだ。
 既にジョージは何とか上位精霊の力を使える程にまでなっている。だが、それでもアメリカ合衆国政府を相手に戦うことなど出来はしない。そのため、行動は慎重に慎重を重ねなければならなかった。
 今、合衆国は膨大な軍事力を外国での対テロ戦争につぎ込みながら、尚且つ国内のあらゆる場所で現れ始めた未知の生物や怪物に対抗して軍を投入しなければならない状況が続いている。しかし、その怪物たちは未だに正体が明らかになっておらず、軍の部隊にも被害が出ていた。
 逆にいくつかの州は州軍の展開を都市周辺部のみに留めて、都市部の安全を確保することを優先し始めていた。これはアメリカ合衆国とはいえ各州は非常に高い自治権を持っている上に、州の間でも経済的な格差が大きかったことも理由の一つである。資金的に余裕がある、またはテキサス州などのように経済的に重要とされる州には軍を導入する余裕や連邦政府からの支援もあったのだが、そうでない州はぎりぎりの状況で自らの州の都市部を護るだけが精一杯だったのだ。
 もっともそれは欧州諸国も同じで、経済的に豊かな国の軍はその国を重点的に護りながらも経済的に厳しい国は徐々にその勢力を人外の存在に明け渡していくことになったのである。逆に中国では中央が管轄する人民解放軍を強引に展開した結果、至る所で被害を蒙り、泥沼のような消耗戦に陥ってしまったのだ。
 そのような状況の中、アメリカ南部の州では「連邦政府は貧しい南部の州を見捨てて北部の豊かな州だけで生き残ろうとしている」というデマが広がっていた。
 近年になってもアメリカ合衆国のなかで南部の州は貧しい州のままであり、経済的にも非常に格差があった。そうした環境が不満を溜め込み、何時爆発してもおかしくない状況だったのだ。また魔物の跳梁による治安の悪化は急速に経済の悪化と深刻な人種間対立を加速させてしまったのだ。
 そして、ついに2002年4月23日にフロリダ州の州軍がヒュドラの大群に襲撃されて全滅したことをきっかけに各州は独自に州境を封鎖、連邦政府は事実上瓦解したのである。
 そうした中、ジョージたちは何とかニューヨークに潜り込むことに成功していた。既に世界各国で人間の国家が崩壊している場所さえある中、辛うじて人類社会を維持しているのは日本とアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国のおよそ半数ほどで、他の地域では政府がその機能を停止してしまった場所も少なくは無かった。
「まったく、それでもこの街は呑気に遊び呆けてやがる・・・」
 半分呆れたような声でジョージは呟いた。
 ニューヨーク州はアメリカ合衆国の中でも数少ない、その壊滅的な影響を免れた州の一つであった。潤沢な経済力を利用して、混乱の初期の段階で人間の勢力を確保することに成功していたのだ。食糧生産は潤沢とはいえないまでも、何とか自給が可能なレベルであり、かつて程の繁栄ではないにせよ、まだ活力を十分に残していた。
 ジョージもさまざまな州を見てきたのだが、他の地域には悲惨な場所も少なくは無かった。
 特に巨大な九頭の蛇であるヒュドラが大量に発生したフロリダはこの世の地獄とも言える状況に陥っていたのである。
「Please look at below!(下をご覧ください!)」
 街頭の立体画像で映し出されたニュース番組のスクリーンの中で、若い女性のリポーターがヘリコプターの中からマイクに向かって叫んでいた。
 カメラに映し出された映像には、泥濘の中を悠然と進む巨大な9つの頭が映し出されている。それぞれの頭はオオアナコンダよりも大きく、胴回りは1m近くにもなる巨大な蛇の魔獣は、その凄まじい生命力と恐るべき戦闘力でフロリダの住民を蹂躙していたのだ。また、元々フロリダに多く生息していたワニも巨大化し、ヒュドラに勝るとも劣らない恐るべき怪物と化したものもいた。
 ジョージは一度だけ見たことのあるヒュドラの恐ろしさを思い出して思わず身震いしてしまう。
 あの恐ろしい魔物と戦うなど、正気の沙汰ではない。
 強靭な鱗に覆われた分厚い皮は拳銃の弾など簡単に弾いてしまう。その上で全身を蜂の巣にされたとさえ思うほどのダメージを受けながら平然と動き回り、そして五人の兵士を咥えて沼地の奥へと去っていったのだ。
 いくら精霊の力を使えるとはいえ、あの恐るべき魔獣に立ち向かうのは自殺行為にも等しい。少なくとも今のジョージにはあの化け物に対しては無力も同然だった。更に力を磨いてより強力な上位精霊の力を借りることが出来るようにならなければならない。
 アメリカン・インディアンの部族の者たちに精霊の力を教えることが出来て本当に良かったと思う。
 もし、その力を持たずにあのような怪物と遭遇した場合、部族は滅ぼされてしまうだろう。
 それに、精霊と交信する力はアメリカン・インディアンとしてのアイデンティティと誇りを取り戻す大きな原動力になっている。しかし何故、このような怪物が現れたのだろうか。
 街に流れる噂の中には米軍やロシア軍、中国軍などが開発していた生態兵器が逃げ出して野生化したのだ、というものから、日本のヤクザが悪魔に命じて怪物を呼び出したのだ、というジャパニメーションを見過ぎのようなものまで様々なものがある。
 真相はまったくの闇の中ではあるが、ある程度政府は情報を知っていたのではないだろうか、と思うときもあった。というのも、他の地域に比べて曲がりなりにもアメリカやヨーロッパ諸国、中でも特に日本は政府レベルでうまく対応し、人間社会を保つことに成功している。もっとも、このアメリカだけは国土の巨大さが災いして州レベルで分裂してしまったのだが、それでもそれぞれの都市圏は人間社会を維持することに何とか成功している。
 また、日本は一早く魔法を政府レベルで保護、活用して国家の維持にフル活用しているらしい。
 アメリカは実質的なキリスト教国であるため、魔法というものの存在に感情的な反発を招いてしまい、この混乱の時代の初歩段階で大きく存在感を失ってしまった。とはいえ、衛星通信網なども新規打ち上げが絶望的な状況では、今現在稼動段階のものの寿命が切れれば徐々に人類の文明は後退していくことだろう。
 人類は産業革命時代の文明に逆戻りするかもしれないのだ。
 そんなことを考えながらジョージは雑踏の中に戻っていった。
 
 マンハッタンの摩天楼は相変わらず煌びやかな輝きを夜空に放っている。
 まるで世界中の混乱が存在していないかのように、ただひたすらに人々の欲望を飲み込んでそれを美しいイルミネーションに生まれ変わらせるのだろうか。
 だが、その足元では人々はその瞬間を生き抜くためにぎりぎりの生活を繰り広げていた。
 ニューヨーク州は隣接するニュージャージー州、コネチカット州などと連携して北部連合州国を結成していた。南部の州が結束し、そしてメキシコと軍事協定を結んだことに対抗しての処置だった。この北部連合州国が実質上のアメリカ合衆国の後継国であったが、その力はかつての世界唯一の超大国のそれとは比べるべくも無かったのだ。
 もっともそれは世界中のほとんどすべての国がそうであり、特にロシアや中国は国家としての体制さえ維持できずに地方の有力者が私兵を纏めて勢力争いをしているような有様だった。
 急速に魔法に目覚めた世界で、この北米大陸も例外ではなく、それぞれの州知事が実質的な終身統治者、つまり事実上の領主となって各地を治めている。もちろん、この混乱に乗じてニューヨークの北部のイロコイ連邦が独立を宣言していた。しかし、かつての居住地を奪われた各地のネイティブ・アメリカン達は自らの本来の生活圏を取り戻すべく独立運動を繰り広げていたのだ。その中で唯一、この北部連合州国はイロコイ連邦の独立を認めることでネイティブ・インディアンたちと比較的穏やかな関係を築くことに成功していた。
 マンハッタンの街中でもネイティブ・インディアン達の店がいくつも開かれ、そして様々な民族の伝統的な物品を扱う地域があちこちに存在する。もちろん、各地の伝統的な呪術を扱う店もひっそりと存在していた。
 ジョージはその中の一つを拠点にしていた。
 確かにイロコイ連邦は独立を得たものの、各地の同胞たちは未だに苦しい生活を余儀なくされている。そのため、彼らはネイティブ・インディアンの真の独立を勝ち取るまで戦い続けるのだ。
 店の扉をくぐると独特の香の匂いが鼻腔をくすぐってくる。そして一人の女性がにっこりと笑顔でジョージたちを迎えた。
「久しぶりね。どうだった?」
 ジョージ達はもう1年以上も北米大陸を歩き回って各地の情勢を見て歩いてきたのだ。
「どうもこうも、世界は本当にひっくり返っちまった」
 そう言って若者は両手を上げて降参のポーズを見せる。しかし、その目は自信に満ちた光を湛えていた。
 その若者たちを見て、ネイティブ・インディアンの女性は眩げに目を細める。一年の旅で本当に彼らは逞しくなった。そしてジョージは特に精霊の力を借りることが出来る力を大きく伸ばしている。様々な部族を訪れ、そして精霊魔法の力と技能を伝授してきたのだ。その新しい技能はネイティブ・インディアンたちにとって極めて重要なものになるだろう。
「そう。でも、あなた達は帰ってきた・・・」
 その言葉を聞いて、ジョージ達はこの1年がもっと長い旅だったようだ、と感じていた。
 もはやこの大地は人間の世界ではなくなってしまったとさえ思える。
 フロリダは巨大な爬虫類が支配する世界となり、ペンシルバニア州は巨大な昆虫が大地を支配していた。また、インディアナ・ポリスやシカゴのあるミシガン湖周辺は恐竜のような巨大な爬虫類型生物が悠然と闊歩しているのだ。もちろん、子供ほどの大きさしかない小さな子鬼やビッグフット、ニュージャージーとペンシルバニアの州境辺りの森ではジャージーデビルらしい奇怪な影も見た。
 よくもまあ、こんな場所をうろつきまわっていて命があったものだと思う。
 ニュース番組で見たり、インターネットで調べた限りでは、世界中でこうした大混乱が起こっているらしい。まだ人間らしい生活がある程度確保されている北米大陸はまだマシなほうだ。その北米大陸でもかつてのアメリカ合衆国は複数の勢力に分裂して生活圏を確保するために全力を向けている。
 中国も同じように比較的被害の少ない地域を中心にして分裂し、生き残るために軍を総動員しているらしい。
 日本はその経済力と国力に比較して狭い領土だったことが幸いしたのか、潤沢な軍事力を怪物の掃討に投入できたためであろう、ほとんど被害らしい被害が出ていないようだ。
 逆に言えば、日本ほどの経済力と軍事力を持つ国が、狭い領土に集中的に力を投入して初めて、あの危険な魔物などに対して優位になる、ということだ。それに引き換え、北米大陸や中南米の国々、中国大陸やロシアはその力に比較して領土面積が大きすぎるために、軍を投入しても戦力が分散してしまい、各個撃破される、という泥沼のような戦況に陥っている。
 その上で日本は日本国憲法第九条を理由にして各国への兵力の提供を徹底的に避けていた。
 幾ら魔法兵器で兵装を整えているとはいえ、全世界に軍を展開して戦うことなど出来るはずが無い。そもそも、第二次世界大戦での大きな敗因の一つに戦線の拡大に伴う補給線の伸びがある。そのために、今ある戦力を国外に向けてしまえば海外での戦線も崩壊し、そして国内の魔物さえ押さえきれなくなるだろう。
 だからこそ、いつでも改正できる情勢になったとはいえ、憲法九条を盾にして海外派兵を行わなくて済むように徹底的に立ち振る舞っていたのだ。諸外国から日本に援軍を求める声が殺到していたのだが、日本国政府はサンフランシスコ講和条約や憲法九条、更には韓国や中国から繰り返し言われ続けた日本の軍事的脅威に対する警戒を理由に「日本は第二次世界大戦以降、戦闘目的に軍を派遣しない」と突っぱね続けていたのである。
 また極一部を除いて自衛隊や警察に導入した魔法兵器は魔力の塔から魔力の提供を受けない限り使用できないようになっているため、万が一他国に奪われても、それが日本の脅威になることを防ぐようになっていた。
 
 突如として崩壊した世界各国の国家的な枠組みの中で、時代は大きく動こうとしていた。
 しかし人間はそうした環境の中にも驚くほどの適応力を見せて人間の社会を維持している地域も少なくは無かった。
 特に精霊魔法の使い手が各地に現れるにしたがって、変化した自然環境や強大な怪物、魔獣にも何とか対抗して生き残る人間達も増えてきたのである。
 とはいえ、そうした環境では人間の営み自体が自然環境に近いものとなり、必然的に文明社会は急速に衰えていったのである。
 それとは逆に日本を中心として先進国の一部では文明レベルの維持に成功して、その社会システムを魔法を用いたシステムで保護、強化することで更なる発展を遂げた地域もあった。結果として地球上には大きく二つの人間社会が現れることになったのだ。
 それは先進国の文明社会の中でも起こっていた。

 渋谷区しぶやく代々木よよぎ公園。
 その総面積五四万七千平方メートル、サイクリング・コースやバード・サンクチュアリもある森林公園は代々木・原宿はらじゅく・渋谷に囲まれた人工の森だった。
 人は例え人工の森とはいえ、自然の環境が身近にあると安らぎを覚えるのだろう。
 この森はある意味で文明圏と自然界の境に位置していた。
 自然の力と理である精霊と語る術を身に付けながらも、都会の生活から離れられない精霊使いたちにとって、この人工の森はその両方を満たすことが出来る数少ない場の一つとなっていた。
 いくら都会の生活から離れられないとはいえ、全く自然環境から隔離された都市部での生活は精霊使いたちにとって苦痛以外の何者でもない。だが、この代々木公園にいれば何とか自然の環境に身を置くことが出来る上に、都心部に出かけることもそう不便ではないのだ。
 そうした事情から、この森にはそれなりの数の精霊使いたちが住み着いていた。
 本来ならばそうした形で公共の場に定住してしまうのは問題があるうえに区の担当部署も対応に乗り出してしかるべきなのだが、この森にはもう一つの、より重大な問題が存在していたために、彼らはお目溢しをもらっていた。
 それは近年急速に姿を見せ始めた妖魔や妖怪、怪物たちである。
 既にこの代々木公園にはインプが相当な数で集団を作って住み着いているのが確認されている上に、様々な妖精や妖怪などが集落を作ったり縄張りを作ってしまっているのだ。そうした存在に頭を悩ませた区の役人達は精霊使い達に住み着くことを許可する代わりに、そうした妖魔や妖怪が森から出てこないように監視する役目を依頼したのである。
 とはいえ、殆どの妖怪や妖精たちは自分達のテリトリーから出てくることはめったに無く、時折、悪さをするのが好きなインプが森の外に飛び出して行っては悪戯をして痛い目にあるのが殆どだった。それに、たとえ河童が池や川に現れたと言っても、それが人間にとって致命的に危険な存在でもない限り昔から語り継がれている妖怪であることもあって、日本人はあっさりとそれを受け入れてしまっていたのだ。
 そうしたことも相まって、日本には人間だけでなく妖精や妖怪などが比較的無害な関係で並存するという摩訶不思議な環境が成立しつつあった。
 それは諸外国から見た場合、極めて理解しがたい光景であり、特にキリスト教世界からは強い反発の声が上がっていた。あくまでも彼らにしてみれば妖精や妖怪は神に祝福されざる悪魔であり、それが現実に現れているのに排除しようとしない日本人は理解しがたい思考をしていると考えてしまうのだ。
 だが、現実問題としてそうした妖精や妖怪、妖魔、魔獣などは強大な力を持った存在でもあり、その殆どは人間を遥かに凌駕する能力を持つため、力ずくで排除することも無理な話だったのだ。
 そうした中にあって、都会の森に生活している精霊使いたちは十分にそれらの危険にも対応できるだけの能力を磨いているのだ。
 他にも妖精や幻獣、妖怪の中にも人間に好意的なものもいて、それらが人間との共存を試みているのも大きかった。結果として日本は人間のみならず、様々な幻獣や妖精、妖怪などが穏やかに共存するという不思議な世界になっていたのだ。
 
 鬱蒼と繁る木々は、ここが都市とはまるで異なる世界であることを強く実感させる。
 梢が風に揺れて奏でる柔らかい音と遥か遠くから聞こえる川の水音、時折聞こえてくる鳥の鳴き声以外には殆ど何も雑音の無い静寂の世界だった。
 そんな中、一人の人間の若者が丸太に腰掛けていた。
 若者は粗末な木綿の服を着ている。飾り気も何も無い、単に着ているだけ、という服装は、まだ都会の浮浪者のほうがましな身なりをしているとさえ思えるほどだ。
 だが、その若者の目は鋭く輝き、強い意志をはっきりと表していた。
 その若者はぼんやりと木々の間から覗き見える巨大な建造物を眺めている。それは巨大なガラスのピラミッドのように見える途轍もない大きさの構造物だった。
 噂に聞く魔法都市というやつなのだろうか。
 もう彼らが都会の生活を捨ててから、時間の感覚が変になっている気がする。
 彼が東京から飛び出して自然崇拝者の生活を始めてからもう二度の冬が過ぎていた。最初は彼らを精神的に導いてくれる女性から精霊との交信の方法を学ぶだけで無我夢中だったが、一度精霊との交信を成功させた後は見る見るうちに彼は実力を伸ばしていったのだ。
 今では長の女性に次ぐ実力を持つ精霊使いとして集落の皆を束ねている。
 そんな彼も時々、東京に残してきた家族のことを思い出す時があった。
 家を出て自然崇拝者として生きていくことを告げたときの事を今でも思い出す。母親は泣き崩れ、そして父親は何も言わずにむっつりと黙り込んでしまった。
 何が不満だったわけでもない。ただ、都市の中でがんじがらめになって生きることが堪らなく苦痛だと感じられてしまったのだ。
 自然の中で、自然と一体になって生きることの躍動感を感じたとき、彼は自然崇拝者としての自分を強く実感していた。
 もう季節は秋が深まり、彼にとって三度目の冬が近づきつつある。
 木綿の簡素な服だけでは流石に寒さを感じるのだが、鹿の皮を滑した上着を着込むと十分な暖かさになるため、冬でも凌ぐ事が出来るのだ。それに、彼らは精霊の力を使いこなせるため、火の精霊を召還したり風を和らげることさえできる。
 そんな自然崇拝者たちの生活は質素ながらも精神的に彼らを十分に満たしてくれるものだった。
 だが、都市の生活は魔法技術を得て、今までのそれを遥かに越える生活を完成させようとしていた。既に海上都市の建造に着手しただけでなく、空中に巨大な都市を浮かべて楽園のような生活を送るべく、膨大な人材と資本を投入しているという噂が流れてきていた。
 彼の目に映っている巨大なピラミッドもその中の一つだ。
 このクリスタルのピラミッドは食料とバイオ燃料を生産するための施設であり、立体状に構築された一つ一つのユニットがそれぞれ様々な野菜や穀物を生産する区画であったり、サトウキビなどの植物からバイオエタノールを生産するための区画として稼動している。
 驚くべきことに、この高さ1.4kmにも達する巨大なピラミッドを動かしているのは魔法による動力ではなく、太陽光発電やこの設備自身で生産したバイオ燃料を用いた発電システムなのだ。つまり、太陽光さえある限り、この設備は半永久的に燃料と食料を生産し続けることが可能であった。
 その生産能力は非常に高く、東京を中心とした都市部に食料とバイオエタノールを供給するのに十分なのだ。
 そうした途轍もない技術の結晶を目にしながら、しかし若者は白けた表情でそれを見ているだけだった。
「あんなものを作っても、この自然の恵みに対抗することなど出来はしないというのに・・・」
 都市文明にしがみつく人々の傲慢さに対して哀れみの感情が沸き起こってくる。
 すでに人類の文明は行き詰っていると思っていた。
 石油や様々な資源を膨大に浪費して、科学文明はすでに地球に対して取り返しの付かないレベルにまで影響を与えつつあるのだ。この数年、急激に世界が変化しているのも、それは異常な形で進んでしまった人類の文明を取り除こうとする地球の意思ではないか、とさえ思えていた。
 何でも強大な魔法を使いこなす者達がこの地球の重力さえも操るほどの力を以って、空中にさえ都市を建設しているのだという。
 さすがにそのスケールの大きさには驚かされるが、それは自然の摂理に大きく反することだと青年の心には強い反発を引き起こすことにしかならなかった。
 もうこの地球の人類は大きく二つに分かれていく道があるだけなのだろう。
 魔法文明を極限まで追求し、そして今までの人類の歩みを最後まで歩んでいく者たちと、彼らのように自然の一員としての人類として、自然に還っていくものたちと。
 
 やがて青年は立ち上がると森の中に帰っていく。
 あんな物を眺めて一日無為に過ごすことほど馬鹿馬鹿しい事は無い。
 巨大なクリスタルのピラミッドを築くために途方も無い労力を払っている都会人に対しては既に嫌悪感しか抱いていなかった。
 無数の小さな影がピラミッドにまとわり付く羽虫のように忙しなく飛び交っている。彼は知る由も無かったが、その羽虫は科学魔法技術によって生み出された汎用作業機械ワーカー・フレームと呼ばれる機械であった。
 人型を基本とした作業用の機械であり、人に近い手足をしていることから柔軟な運用性と科学魔法技術によって与えられた強大な力を兼ね揃えた、いわば次世代の作業機械のことである。
 このワーカー・フレームの実用化によって、魔法都市の建造計画は加速度的に進むこととなったのである。
 だが、それとても青年の関心の範疇には無かった。
 次の瞬間、彼は何かの気配を感じて即座に木の陰に隠れる。
 危険な気配ではなかった。むしろ、彼はその気配を探して森の中を歩いていたといってよい。
 息を殺してじっと潜んでいると、やがて数頭の鹿の群れが姿を現した。
 だが、青年はその群れには目もくれずにその後に続いているはずの気配に精神を集中させる。子連れの野生動物の群れを仕留めるのは決して行ってはならない禁忌であった。
 かなりの数で野生動物が増えてきているとはいえ、その数はこの二十世紀以降に人間の文明が膨張したのと反比例するように数を減じさせた影響は未だに深い傷跡として世界に刻み込まれている。
 奇跡的に近畿地方の大台ヶ原に生存していたニホンオオカミを保護することに成功した動物園と国土庁は、その繁殖させた狼を日本の原生林地帯に戻すためのプロジェクトを進めていたのである。
 その第一陣としてこの奥多摩の原生林を選んだ事だけは賢明だ、と青年は考えていた。この肥沃な森でなければニホンオオカミの繁殖を支えるだけの糧は得られない。その上で日本政府は自然崇拝者の生活圏だとして都市住民の立ち入りを原則として禁止している。
 多少は分別の付く人間が政府側にもいるらしい、と青年は密かに驚いていたのである。
 確かに自衛隊の特殊レンジャー部隊が見回りをしているものの、それは森の中から子鬼や妖魔などが人里に出てこないように監視している以上に、不必要に都市圏の人間が立ち入ることを制限している、という側面が大きいのだ。
 幾ら魔法で防御されているとはいえ、森に住む魔獣や妖魔の中には相当危険な存在もいない訳ではない上に、魔法保護システムで防御されている人間は都市圏を離れると警報の対象となって捜索隊が駆り出されることになる。そんな事になれば森を踏み荒らすことになって動物達は怯えてそのあたりからしばらく離れてしまう。
 だからこそ、特殊能力を身に付けたレンジャー達が横着者が近づくのを防いでいるのは自然崇拝者たちにとってもありがたい事ではあった。
 それにそのレンジャー達も森の周辺部にだけ駐留しているだけであり、彼ら自然崇拝者たちの生活圏には立ち入ることも無い。実力的には熟練の精霊使いとさえ互角以上に戦える戦闘能力を持つ自衛隊員ではあるが、自然崇拝者たちの生活には干渉しないように徹底していることは普段の様子からも窺い知れた。
 青年がじっと気配を殺して待ち続けることに気づかないのか、鹿の群れは青年の前を通り過ぎていく。そして彼はその後に現れるであろう牡鹿を待ち構えていた。
 鹿はある程度の年齢になると、雄は群れから離れて単独行動をするようになる。そうして、機会があれば一頭のボスに率いられた群れを乗っ取るために群れを率いる雄と戦い、そして勝てばその群れの新しいボスとなり、負けた方は群れを追い出されるのだ。
 彼が狙っていたのはそんな単独でいる牡鹿であった。
 自然の中で生きていくために必要な作法だ。
 子を孕んだ雌や小鹿を狩ってしまえばそのときは収穫になるかもしれないが、結果として鹿の群れを滅ぼしてしまうことになる。
 そのため、彼らは自然崇拝者として自然の摂理を壊してしまわないように、単独行動をとる牡鹿だけを狙っているのだ。それは狩人も同じだろう。
 そして遂に、青年が待ち望んでいた一瞬がやってきた。
 神経質そうにきょろきょろと回りを見回しながら、一頭の若い牡鹿が姿を現したのだ。
(よし・・・獲物として十分・・・)
 年齢と性別を確かめた青年は音も無く弓を取り出し、そして矢を番えて弦を引き絞る。慎重に狙いを絞って、そして矢を放っていた。
 その矢は鋭く閃いて牡鹿の首筋に突き刺さる。驚きと怒りで悲鳴を上げた牡鹿だったが、しかし、次の瞬間にどうっ、と倒れこんだ。
 激しい物音と牡鹿の声に驚いたのか、先ほどの群れが全力で書け去っていく物音が響き渡るが、青年は気にも留めずに自分の手で仕留めた牡鹿の元に歩み寄っていく。
 まだ息があるのか、苦しげに震えながら牡鹿は自分に矢を突き立てた人間を見つめていた。
 青年は微かな感傷を感じながらも、右手に短剣を構える。
「自然の中では全ての生き物は繋がっているのだ。お前も私達の肉となり、そして私達もいずれは大地に帰ることになる・・・」
 そういうと青年は両手で短剣を構えて、そして振り下ろした。

 ジョージ・ワカウは焚き火で仕留めたばかりの鹿の肉を炙りながら今後の行動について考えていた。
 北米大陸はもう、様々な怪物や魔物の動き回る危険な大陸となっている。いや、それどころかニュースによれば中国もまた巨大な昆虫や怪物が跳梁跋扈する暗黒大陸と化してしまっているらしい。
 もともと内陸部は深刻な砂漠化が進行していたのと、それ以外の地域も環境汚染によってボロボロになっていた中国は一度崩壊し始めた後はもはや手の付けようの無いまでに荒廃してしまったのである。
 自然に対する畏敬の念を持たないものはいずれ自然からの大いなる揺り戻しを受けて滅びることになる。自らが自然から完全に分かれてしまう事など不可能なことだと、何故そのような当たり前のことに気が付かないのだろうか、とジョージは不思議でならなかった。
 この北米大陸もまた前世紀からの大規模な機械化農業によって地下水を大量に消費してしまった結果、太古から存在していた肥沃な地下水が枯渇し始めてしまい、急速に砂漠化が進行している。
 既に三つに分裂したかつてのアメリカ合衆国は、お互いにそれぞれの勢力を牽制しあっている。ジョージ達にしてみればそんな事で対立をしていてもしかたが無いと思えるのだが、かつての強大な合衆国の記憶がつい昨日までのことのようにある人々にとっては、今の魔物に怯えてひっそりと息を潜めるように生きる今の時代は恐怖に満ちた暗黒時代としか映らないのだろう。
 尤も、あのドラゴンやヒュドラなどの怖ろしい竜族と遭遇した者達は、この大陸の真の支配者が何者なのかを思い知らされることになるだろう。命があったならば。
 ジョージ達も精霊の力を用いることができるから、この北米大陸をぐるりと巡る旅を完遂できたものの、あの怖ろしい竜や蛇の化け物を相手に戦って生き残れる自信など無い。
 北部州国連合の中でも、既に都市部以外は人が出歩けるような環境ではなかった。
 ペンシルバニア州からニュージャージ州、ニューヨーク州にかけて広がっている広大なポコノ山脈は既に様々な野生動物以外にも巨大な昆虫が闊歩する地域となっている。
 他にも様々な生物が巨大化したり危険に変異しているため、人間が太刀打ちできるような相手ではなくなっているのだ。
 他にも子鬼や食人鬼のような人型の怪物や異形の魔物も存在している。国際貿易や採鉱活動に大きな支障が発生したため、経済も急速に縮小し、そして特に火器の維持にも大きな問題が発生していた。
 銃にしても爆弾にしても、高度な化学薬品抜きにしては語ることが出来ない。
 特に現代の高性能爆薬やプラスチック爆弾などは石油を原料とした化学薬品の存在抜きには生産することは不可能だ。
 そのため、それを前提とした今の軍の構成は大きく影響を受けることとなった。
 今では一番生産できる火薬は昔ながらの黒色火薬である。
 黒色火薬とは、木炭、硫黄に酸化剤としての硝酸カリウム(硝石)を加えたもので、日本でも鎖国時代に入ってから生産されていた。糞尿や食物に由来する窒素含有物質を有する土に、土中の硝化バクテリアが作用すると、亜硝酸が生成される。これが時間を経ることで酸化し、硝酸カルシウムとなる。この土を採取し、水に溶かして<濾すと、硝酸カルシウムは濾した水に溶け出すため、木灰を加えると灰の中の炭酸カルシウムと化合し、硝酸カリウム(硝石)の溶液となる。これを煮詰めて濾すことを繰り返すと硝酸カリウムの結晶を採取することが出来るのだ。これは古土法と呼ばれている。
 しかし、この方法では生産に非常に時間がかかるため、動植物の残渣で堆肥を作る要領で塩硝土を作り、これから硝酸塩を取り出す培養法という方法が編み出された。日本では加賀の五箇山が有名で、五箇山の塩硝は草と土と蚕糞をまぜた塩硝土を土桶に入れて灰汁塩硝を作り、中煮塩硝、上煮塩硝と精製されて生産される。
 この培養法は毎年の再生産が可能な優れた方法で、鎖国時代の日本の火薬の需要を担うのに大きな役割を担ったといわれている。
 今となっては魔法を除いた人間が手にすることが出来る最大の火力がこの黒色火薬だった。それでも、この火力でも竜やヒュドラ、巨大昆虫などの大型の怪物にダメージを与えることは困難だったのだ。そのため、人々は都市を自分達の安全な領域として確保し、徹底的に防御を固めることで生き延びる方法を選ばざるを得なかったのである。
 逆に自らの意思で都市を離れたものや、都市が壊滅したことで自然界に放り出された人間達は厳しい自然の中で生きる方法を模索し始めていた。
 いずれにしても、アメリカン・インディアンの部族はジョージ達が伝えた精霊魔法などを徐々に育てて、何とか自然の中でも生きることが出来る方法を見出し始めていた。
 
 
 

~ 1 ~

 
inserted by FC2 system