~ 3 ~

「皆さんに残念なお知らせがあります。社会科の担当をして頂いていました野村先生が、昨夜、交通事故に遭われてお亡くなりになりました。今後の社会科の授業ですが・・・」
 その突然のアナウンスに教室が一瞬静まり返った。
「・・・ね、ねえ・・・なんだか・・・変じゃない?」「だって、これでうちの学校で三人目じゃない・・・」「やだ・・・、千佳の学校でも、もう四人も先生が死んでるんだって・・・」
 ひそひそと声を抑えて話すのを、もう担任の教師さえ止める気になっていなかった。
 何かがおかしい。
 今年に入ってから、正確に言えばこの夏ごろから急に不可解な事故で命を落としたり、深刻な怪我を負った教師が続出しているのだ。
 理恵は何か背筋が冷たくなっていくのを感じていた。
 最初の一人は音楽の教師だった。
 彼女は自宅で首を吊っている姿を帰宅した長女によって発見されたのだ。遺書もなかったのだが、何者かが侵入した形跡も無かったため、警察は衝動的に自殺を図ったのだろう、と結論付けていた。だが、その直後に、今度は国語の教師が事故に巻き込まれて死亡する、という出来事が発生したのである。
 そして今回は社会科の教師である。
 何かがおかしかった。
 それぞれの事故や事件には何ら不審な点は無い。しかし、こうも立て続けに起こると、何かがあるのでは、と疑いたくもなる。
 別に亡くなった教師達に親しみを感じていたわけでもないのだが、それでも自分達の授業を担当していた教師達が突然、何人もいなくなってしまった事に不気味さを感じないわけではない。
 それも自分達の学校だけではない。
 他の学校でも、いや、全国各地でこうした事が起こっているのだ。
 教師達だけではない。今年に入ってから政治家も既に数名、鬼籍に入っている。それどころか、評論家や作家、アナウンサーや芸能人も異様な数で自殺したり事故や病気で命を落としている。
 理恵は底知れない不気味さを感じながら、代理の教師が今後の授業に関しての注意事項などをくどくどと話しているのを聞き流していた。
 確かにあの社会科の教師は決して好きではなかった。
 ことある毎に政府の批判と旧日本軍の悪行をしつこく語りたがるくせに、肝心の質問には答えてくれない、挙句の果てには台湾人である理恵の義姉さんの言葉で尋ねた理恵に逆ギレして陰湿な仕返しをしてきたこともある。他の生徒に対してはまったく減点の対象にならないような細かなミスや書き方に対して厳しい減点を行って、理恵の社会科のテストの点数を散々なものにしたのだ。これには理恵ではなく由紀代が頭にきて、インターネットでこの社会化の教師の仕業を公表したところ、全国から非難の嵐がメールや電話の形で殺到したのだ。
 とりあえずのところ、それでその教師は引き下がったものの、理恵を見つめる憎しみと嫌悪の視線は理恵の心に恐怖を引き起こしていた。
 その社会化の教師があっけなくこの世からいなくなった。
 理恵は心のどこかでほっとすると同時に、そう感じてしまう自分に嫌悪感を感じていた。

 数人の男がソファに腰掛けながらテレビを見て笑い声を上げている。
 その男達を見ながら恰幅の良い男性は苦々しい思いを噛み締めていた。まさか、ナカハンのオーナーが自殺するなどとは信じられなかった。
 ナカハンのオーナーは在日朝鮮人の中でも一番成功した人物の一人で、その商売のために日本に帰化したとはいえ、朝鮮総連に大きな資金提供をしてくれるありがたい存在だったのだ。
 個人的にも知っており、彼が自殺をするような人物ではないと確信している。
 その為、男-李成勲イ・ソンフンは、ナカハンのオーナーは何者かに殺されて自殺に見せかけるように偽装されたのでは、と疑っていたのだ。
 そうであれば、その相手は必ず見つけ出して報復しなければならない。
 しかし、それと同時に李はその相手が自分を狙うのではないか、と不安を感じてもいたのだ。だから彼は青年部の若者達の中で体格にも優れ、テコンドーなどの格闘技に長けている者たちを集めてボディガードにしているのだ。
 彼だけではない。
 何人もの総連幹部や民潭の幹部たちも同じようにボディガードを集めて安全を確保しようとしていた。
 いや、それどころか調べた限りでは日教組の教師達やマスメディアの関係者、大学教授や作家、評論家などありとあらゆる種類の人間で親北派や親韓派、親中派などの意見を持つ良識ある人間が悉く命を落とし始めているのだ。これは間違いなく反動極右帝国主義者の陰謀に間違いなかった。
 確信を持って言うことができる。
 しかし、証拠が無いのだ。
 証拠も無く、そして犯行声明さえも無いため、反撃をする対象さえわからない状況が彼を苛立たせ、不安にさせていた。
 一体誰が何のために・・・
 底知れない恐怖が朝鮮総連の幹部の心を不気味に覆い尽くしていく。
 おそらく、日本の反動保守勢力が朝鮮半島を切り捨てようとしているのではないか、との疑念が頭から離れなかった。
 そんなことは絶対に許せない。
 李は激しい怒りと共に焦燥感に胸を掻き毟らんばかりだった。
 かつて日帝は朝鮮半島を併合して自らの領土に編入した挙句、あの世界大戦で敗北するや否やさっさと半島を放り出したのだ。そして今は世界第二位の経済力と繁栄を誇る堂々たる国威を築き上げている。
 それに比べてわが祖国は経済が崩壊した状態で、世界の繁栄から取り残されているといっても過言ではなかった。
 あの日帝の子孫どもは朝鮮戦争特需でがっぽりと儲けていながら、血の代償を支払った朝鮮民族にはそれに見合う賠償すらしていない。(筆者注:現在の経済学や歴史的資料から、朝鮮戦争特需という事実は無く、実際には朝鮮半島で戦う米軍への物資の供給であり、全ての支払いはアメリカ合衆国から行われていた。また、この物資の補給が無ければ韓国軍と国連軍は敗北を喫していたと考えられている)
 なんだかんだと理屈をつけて賠償を拒否して自分の責任を認めない態度は儒教的な兄の国たる朝鮮に対して非礼極まりない態度だ。
 兄の国を征服し、隷属させておきながら、戦争が終わるとさっさと縁を切ろうとするなど、許せる態度ではない。この国は永遠に兄の国たる朝鮮に謝罪し続けなければならないのだ。
 李はそう固く信じていた。
 だからこそ、彼ら在日朝鮮人が日本に住むことが出来るのは当然の事であり、日本人が負う義務を負わずにいるものまた当然なのだと考えていた。
(阿呆が・・・。マジで殺されるまで理解できないらしいな・・・)
 その呆れ軽蔑しきった呟きを誰も聞くことは無かっただろう。
 部屋にいるのは朝鮮総連の幹部やそのボディガード達だけではなかった。もう一人いた。李の影の中に、もう一人の男が潜んでいたのである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 夜が更けていき、そして男達がうつらうつらし始めるまで、その影はじっと待ち続けていた。
 ボディーガード達がこっくりこっくりと舟をこぎ始めた事を確認した影の中に潜むものは李の影からするする、と影を伸ばしていく。そして男達の影に李から伸びた影が溶け込んでいった。
 ふと一人の男が目を覚ます。
「ありゃ、やべえ・・・。おい、起きろよ」
 仲間を揺り動かして起こした。
 幾らなんでも全員が同時に眠り込んでしまうのはまずい。もう一人の男は半分眠ったような目で起き上がった。
「わりぃ・・・眠り込んじまった・・・」
 そう言いながらも今にも再び寝息を立てそうな様子である。
「おいおい、眠っちまったら李さんにぶっ飛ばされるぞ」
 そう声をかけてから男はリビングルームから出て行った。そのままトイレに向かう。
 暗い廊下はひっそりと静まり返り、いつ李を狙う暗殺者が現れるかと思うと流石に緊張感を掻き立てられてくる。
「本当に来るのか・・・」
 喧嘩になったら負けるとは思っていない。だが、相手が本格的な武器を持っていたら・・・
 腰にねじ込んであるトカレフの冷たい感覚に、不安が追いやられていく感覚がした。どんなに腕っ節に自信があったとしても、銃を突きつけられたら降参するだろう。それでも襲い掛かってきたらぶっ放してやればいい。
 そう考えると気持ちが楽になった。
 緊張に縮こまっていた逸物が伸びてくる。
 一度緊張がほぐれると急に尿意が高まってきた。
 トイレのドアを開いてズボンのファスナーを下ろしている男の足元からするする、と音も無く影が伸びだしたことに、男は気が付いていなかった。一瞬の後に、影はのっぺりとした人の姿を取る。
 そして便器の蓋を上げて用を足そうとした瞬間、男の首に黒いものが巻きついた。
「むぐぉっ!、が、がぁっ!」
 必死の形相で喉に食い込んでくるものを引き剥がそうともがく男の肉体は、恐るべき力にぐいっ、と空中に持ち上げられていく。その黒い紐のようなものは男の影から伸びた人影の手に握り締められ、無慈悲にも男の首を締め付けていった。
 その男の首を締め付けている影はするする、とその身体を伸ばして、軽々と男の身体を吊り上げる。
 やがてぐったりとした男の身体をバスローブなどを引っ掛ける頑丈なフックに吊るして、影は再びするする、と消えていった。
 鍵のかかったバスルームに残されたのは、苦悶の表情を浮かべている男の肉体だけであった。

「遅えなぁ・・・」
 若い男は先ほどトイレに立っていった男が中々帰ってこない事にいらいらしながら呟いた。
 もう三十分以上も経っている。
 まさかトイレで寝込んでしまったのでは、と考えて、若い男は席を立った。
「どこに行くんだ?」
 いつの間にか目を覚ましていた李が若い男に尋ねる。
「はい、朴さんがトイレに行ったまま眠り込んでいるみたいなので起こしてきます」
「そうか。こうも毎日見張りをしてると疲れが溜まってるんだろうな」
 答えながら李は週末になったら交代要員を頼んで、数日でも彼らに休みをやらないといけないな、と考えていた。
 幾らなんでもこう緊張した生活が続くと体力的にも精神的にもきつくなって来る。
 若い男は、今も眠り込んでいるもう一人の見張りを起こそうかと思ったが、ローテーションの途中で起こしてしまうことに申し訳なさを覚え、何分も部屋を離れるわけではない、と考えて「ちょっと行ってきます」と部屋を出て行った。
 多少の不安を覚えたものの、李も別に彼らが家から出るわけではない為、別段気にすることも無く頷いていた。
 やれやれ、何時になったらこのふざけた騒ぎが収まるのか、と朝鮮総連の幹部は苛立ちと疲れの入り混じった感情が頭の中に渦巻いているのを感じる。知り合いの警察署の署長にはこの件で厳重に抗議をして、万全の捜査をするように言ってあった。
 全く、この国の連中は何時まで経っても帝国主義根性が抜けずに我ら偉大なる朝鮮民族を差別し続けるのだ、と李は怒りと軽蔑の混じった声で呟く。
 監視カメラを設置して、若者達を駆り出しながら部屋で襲撃者の脅威に怯えて閉じ込められている事実が堪らなく屈辱的だった。
 それにしても、部屋を出ていった男の帰りが遅い。
「まったく、何をぐずぐずしているのか・・・」
 あの若い男には週末にやろうと思っていた休暇を出さないことに決めた。
 そう考えた瞬間、李の首に細い何かが巻きつき、信じがたい力で首を締め上げてきた。
「ぐっ!」
 叫び声を上げようにも、喉に食い込んでくる紐のようなものが凄まじい力で締め付けて声が出せない。
 呼吸を無理やり止められた苦痛が李の肉体をじわじわと蝕んでいった。
 酸素の供給を止められた肉体が迫りくる死から逃れようとするように激しく暴れようとした。だが、その首を締め上げる紐は僅かたりとも緩む様子など見せずに男の命を奪わんとぎりぎり、と喉に食い込んでくる。
 溢れ出る涙が視界を歪ませた。
 自分の首を締め付ける相手の顔を掻き毟って逃れようと手を伸ばしたものの、李の右手は虚しく宙を切るばかりだった。
 そして視界の片隅にソファに寝そべる男も黒い人影に首を絞められて悶絶している姿が映った。
 激しい酸欠状態に朦朧とする意識の中で、のっぺりとした黒い影がするする、と伸び上がってカーテンレールに男の身体を吊り下げるの見ていた李は、自分の身体が凄まじい力で宙に吊り上げられるのを他人事のように感じていた。酸素を求めて激しく手足が痙攣するのを感じながらも、その怖ろしい窒息死の最中に自分が追いやられていることを恐怖に満ちた意識で薄らと自覚する。
(いやだ・・・死にたくない・・・助けてくれ・・・金なら・・・幾らでも払う・・・)
 必死に頭の中で願いながらも、自分の肉体から酸素が消費されつくしていくことを絶望と共に思い知らされていた。
 宙に持ち上げられた李の肉体は、シャンデリアを繋ぐ強靭なフックに自分の肉体を吊るす紐のようなものが結び付けられたことを朧気ながら感じる。
(た・・・のむ・・・助け・・・)
 心の中で必死に訴える李の脳裏に妻と愛する娘の笑顔が浮かんでいた。
 逃げてくれ・・・
 それが李が考えることが出来た最後の思考だった。
 豪華なシャンデリアの下に吊るされた李の身体がぴくぴく・・・、と動いていたが、やがて動きを止めた。

 高岡はいつもの様に料亭で朝鮮総連の幹部と食事をしながら何か違和感を感じていた。
 どう言えばいいのだろうか、何処と無くいつもと違う気がする。何が違うのか説明することが出来なかったのだが・・・
 今の日本政府の極右的な政策や政治家たちの発言に対して、普通なら朝鮮人民共和国の朝鮮労働党やこの朝鮮総連も激しい反発と強い非難を行うと思われていたのだが、その予想に反して北朝鮮政府も朝鮮総連も何も特別な反応を見せずに淡々と「朝日関係の友好と平和的発展を望む」というありきたりの反応を見せるだけだったのだ。
 確かに金正日総書記自らが日本人拉致を事実として認めて謝罪したことで日本政府が激怒しても北朝鮮は立場的に強い反発を行えないのは判る。しかし、それにしても今の現状はあまりにも静か過ぎる。
 特に保守派政治家たちはこれを幸いにスパイ防止法や国家安全保障法の制定、自衛隊法の改悪まで企んでいるほどだった。
 若い世代の教育を担う日教組の幹部として、高岡は今の日本政府のやり方に対して強い不安と怒りを覚えていたのだ。しかし、目の前の朝鮮総連の幹部は「何も心配は要らない。とにかく、静かにして大騒ぎを起こさないようにしてくれ」と繰り返すだけなのだ。
 それどころか日本政府のそのスパイ防止法制定の画策を非難口調で報道した報道局に対して、韓国の保守派であるハンナラ党が「日本の報道は親北派の立場に立って自国内でスパイが活動することを支援しようとしている」と強い口調で非難さえしているのだ。
 そうした予想さえ出来なかった多方面からの反発によって身動きが取れなくなった親アジア派やリベラル派は見るも無残に立場を失ってしまっていた。
 それどころか、また恒例ともいえる朝日新聞による従軍慰安婦の問題を特集が紙面を飾ったとき、あろう事か金正日総書記自らが「我が朝鮮民族をあたかも奴隷のように惨めに強者に従い、うら若き乙女を強制的に徴収されながら抵抗さえもしなかったような無力で卑劣な民族と貶める悪意の報道である!」と激しい口調で反発してきたのだ。
 これには親北派の韓国ウリ党や盧武鉉大統領も「ハンナラ党に代表される反共派による悪意あるプロパガンダであり、我が民族を貶める邪悪な策動である」として非難したことから朝日新聞のみならず韓国の保守派も窮地に立たされる結果となってしまったのだ。
 実際にアメリカ合衆国で数千人規模の売春婦の摘発が行われ、その殆どが不法入国した韓国人女性だったことなどを引き合いに出して「金銭の欲望にとらわれたブルジョワ思考の堕落した人間が行った売春行為に過ぎない」と朝鮮労働党が非難した結果、ハンナラ党も他の保守派勢力も、自分達が反日工作や反共政策のためにそうした民族の恥を捏造したという汚名を逃れるためにあらゆる手段で反論を行い、主張を変えていったのである。
 今のその騒動で一番困惑しているのが日教組だろう。
 日本軍の蛮行を若い学生に教えるのに、一番適した議題がこの従軍慰安婦問題だったのだが、それが当の本人達が一斉に否定し、逆にそれを報道し始めた日本の親アジア派のマスコミを大非難しているのだ。
 それに振り回されて現場の教師達は混乱しきっていた。
 従軍慰安婦問題を否定しなければ自分達が捏造された報道を鵜呑みにして嘘を教えることになり、それを否定すれば逆に自分達が教えてきたことをも同時に否定することになるのだ。
 そうした現場の混乱は高岡達日教組の幹部達にも届いていた。
 いや、高岡達こそが今の現場に対してどう指示を出せばいいのか統一した見解を出すことさえ出来ずにいたのである。
 それどころか日教組に所属している教職員達が次から次へと謎の自殺や急な病で命を落としているため、組織自体が既に機能不全を起こしかけていた。
 方針を定めて指示を出すべき首脳部が根こそぎ失踪したり自殺をしているため、もはや今の日教組は組織としての体制を維持することさえ困難になり始めていたのである。恐怖に駆られた若い教員達も我先に脱退を始めていて、もう組織が消滅した支部もちらほらと現れ始めているほどだった。
 そして全国に組織を張り巡らせて政治に対しても大きな影響力を誇った日教組は既にその力を完全に失っていた。その支援を受けて国会に議席を構えている民主党の国会対策委員長を始めとする議員達は既に次期選挙で当選できるかどうかも怪しい情勢におかれて、進退問題を含めて恐怖に震え上がっているのだ。
 この上で下手な事をして、最近まるで戦前の体制翼賛体制に戻ってしまったかのような保守派寄りのメディアの報道に取り上げられて攻撃されたらあっという間に潰されてしまう。
 その為、日本と韓国の間で問題になっている懸案に対しても、彼らは息を潜めて当たり障りの無いような答えでお茶を濁している有様だった。
 既に何人かの日教組子飼いであった政治家は保守派の流れを汲む新しい支持母体に協力を仰ぐことに成功し、今までの反動のように狂ったような日教組批判を繰り返しているものまでいる有様だった。忌々しいことに、今の日教組の力とズタズタになってしまった組織では、そうした裏切り者の国会議員に対して批判も圧力も加えることは出来なかったのだ。
 そして日教組批判に転じた代議士を強烈に非難する記事を載せた週刊誌の記者までもが謎の自殺を遂げたとき、大勢はもはや決してしまったと言ってよかった。
 今までもオブラートにくるむような言いまわしで懸念を表明していた、いわゆるリベラル派、進歩派と呼ばれていたメディアまでもが完全に沈黙してしまったのを知って、高岡は現状が自分達が想像していたよりも遥かに深刻な事態になっていることを思い知らされていたのだ。

 狭い四畳半のアパートの一室。
 乱雑に新聞や雑誌などが積まれた小さな部屋の一室で数人の男が息を潜めるようにして車座に座っていた。
 疲れたように扱けた頬が男達が緊張に包まれた生活を送っていることを物語っている。
「なあ・・・、これから一体どうすりゃいいんだ・・・?」
 男の一人が誰にともなく問いかける。
 まさか朝鮮民主主義人民共和国の首領様が日本人の拉致を認めて謝罪するなど、想像さえもしていなかった。そのおかげで革命計画は大きく後退を余儀なくされてしまったのである。
 彼らの言うところの『革命計画』とは、日本全国に労働者の理想である共産主義を実現するための同志をオルグし、十分な数のシンパを募ったところで一斉に全国蜂起をして中国、北朝鮮に続くアジアにおける共産革命を実行する、という計画であった。
 その為に戦前の日本を賛美する、いわゆる『新しい歴史教科書を作る会』なる反動勢力の作り上げた大日本帝国賛美の思想書など認められる訳など無かったし、それを採択しようとする反動保守勢力の野望を打ち砕くためにあらゆる圧力を加えてきたのだ。
 だが、世間は彼らに冷たい視線を浴びせかけてきただけだった。
 結局のところ、彼らの活動によってかえって『新しい歴史教科書』は注目を浴びて、一般の書店でも販売されるようになった挙句、その内容をインターネットで公開されたことであの邪悪な思想を誰でも読めるようにしてしまったのである。
 なんと狡猾な策略であろうか!
 あの忌々しいインターネットのおかげで、知らなくても良い情報に一般市民が自由に触れることが出来る、そして反動的な意見を堂々とインターネットのフォーラムなどで語る輩が出てきたにも拘らず、誰かを容易に特定する術がないためにその意見の発信者に対して正しい情報を諭してやることも出来ない。
 新聞社や報道局にいる彼らの賛同者達によってそうした有害な情報を遮断していたのだが、ここに来てインターネットの無制限な(彼らは無責任な、と考えていたが)広まりによって、そんな情報を誰もが当たり前のように語り合うようになってしまった。
 恐らくは反共勢力の策動であろう。
 そうした動きに容易に乗せられて、今の日本の若者達が危険な国粋主義的な思想を持ち始めていることが彼らには怖ろしい未来を感じさせるものであった。
 愛国心などという邪悪な心理に陥るのはこの日本の若者を堕落させる愚かな風習があるからだ・・・
 そんな事を考えながらも、現実の彼らは公安の目を避けるように小さなアパートにひっそりと隠れて地道な作戦を練り続ける以外に行動が取れなかった。
 時折自分達の主張を繰り広げたり、圧倒的な優位を誇る体制に対して自分達が無力ではないと迫撃砲を権力の象徴たる場所に打ち込む同志達がいるものの、やがて調査の手が伸びては逮捕されている。
 しかも金正日総書記が日本人拉致を認めたことを利用して、日本反動政府はあろうことかスパイ防止法案を成立させてしまったのだ。そして様々な法案を駆使して彼ら市民革命を志す団体を弾圧し始めているのだ。
 国会にある日本共産党も「日本人を拉致することを容認するか否か」という踏み絵を踏まされて、この危険な弾圧法案を通過することを飲まされていたのである。
 いや、むしろ北朝鮮が日本人を拉致したという事実を認めたとき、わざわざ朝鮮労働党とは無関係である、と宣言して反動保守の牙城たる政府自民党の要求どおり、スパイ防止法案などの市民弾圧のための法案成立に手を貸した許しがたい裏切り者であった。
 だが、そう憤ってみても現実は変わらなかった。
 既に旧社会党系の民主党議員たちも何故か自民党保守派の政策に賛同して、与党の一部と化してしまっている。自民党の保守派は言うまでも無く、民心党内部の保守派議員も与党保守派の政策に賛同して議案を採決しているため、事実上、自民党内部のリベラル派や親アジア派も何の歯止めにもなっていないのだ。
 与党の一翼を担う公明党もその母体である創価学会の会長が謎の転落死を遂げた後、完全な混乱状態に陥ってしまったため、何の行動も取ることが出来ていない。
 それどころか、電通ビルが火災を起こして消失、会社としての機能を失った挙句の果てに廃業となった結果、広告代理店を通じて報道に圧力を加える機能を失った形となった為、報道機関もかなり乱暴な意見を述べるようになってきつつある。
 急激に右傾化していく世論に対して、中核派の男達は激しい憤りといつ摘発されるかわからない恐怖にじっと息を潜めて拠点であるアパートに隠れている以外に無かったのだ。
 街を歩いていても何者かに尾行されているような気がしてならない。
 コンビニで買い物をするだけでも神経をすり減らしていた。
 下手な活動を行えば一般人なら放っておかれるような微罪でも逮捕され厳しい取調べの上で即座に起訴されるだろう。戦争反対のビラをマンションの住人に配っただけで住居不法侵入という言いがかりに等しい罪状で逮捕、起訴されてあっという間に懲役刑の実刑判決が下されてしまった者もいるのだ。
 その不当な逮捕の際、ありえないほどの厳しい家宅捜索を受けて同じ活動家の名簿や計画などを記したコンピュータやノート、ディスクなどを一切合財応酬された挙句、芋蔓式に数百名を超える活動家が逮捕されてしまったのである。
 どうやら日本政府は本気で彼らを潰す気でいるらしい。
 対テロ特措法を補強、拡大する形で「テロ活動等防止法案」を策定してしまったのだ。
 この法案に拠れば、指定された「テロ組織、並びにテロ支援組織やそれらの関連団体」に所属しているだけで逮捕、処罰の対象となる。その団体の指定に関しては国家公安委員会と内閣所属の情報組織が関与するため、政府に反する存在を悉く潰すことが出来る極めて強力な法案なのだ。
 戦前の特高警察や治安維持法の復活だとして何とか阻止しようとマスメディアなどに圧力を掛けたのだが、そのマスコミ自身も完全に政府の方針に従い、体制側に媚びているような有様だった。
 もうどうにもならなかった。
 アジア諸国との共存共栄を目指している民主党も、その党の公約とマニフェストにあった「沖縄に関する主権の共有や譲渡を目指す」という部分などが政治的なテロ活動とみなされて党の幹部や関連団体の中心人材が根こそぎ逮捕されて起訴され、党に対しても解散命令が下されている。
 日教組は北朝鮮のチュチェ思想勉強会など、北朝鮮との関わりの強さを理由に組合員の多くが逮捕、起訴されて事実上の瓦解状態になってしまった。そしてそれは中核派や革マル派、連合なども同様に悉くやられてしまっているのだ。
 全国で無防備都市運動をしていたメンバーも外患誘致幇助とテロ支援活動容疑で連鎖的に逮捕、起訴されほぼ全員が死刑や無期懲役の判決を受けている有様だった。
 しかも、この無防備都市運動に署名していた一般市民も起訴され、京都に住む主婦が執行猶予付きの有罪判決を受け、一気に運動が鎮火してしまったのである。
 しかし、中国共産党が巨大昆虫の脅威と軍閥の内乱で滅び去り、また北朝鮮も瓦解した今ではもはや何処からも彼らに支援の手が伸びてくることは期待できなかった。
 だが、それでも彼らが青年時代から情熱をつぎ込んできた共産革命の夢を棄てることなど出来なかった。
 何時の日か革命が成就することを願いながら、男達はこの拠点を引き払う計画を立て始める。
 そして窓に小さな穴が穿たれたのは、その瞬間だった・・・
 
 
 

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