~ 4 ~

 海兵隊員のデービッドは一瞬にして姿をくらませた相手に身の毛もよだつような恐怖を感じながら見えない敵を捜し求めていた。
 もしかしたらアレが噂に聞く本物のニンジャなのかもしれない・・・
 そう思いながら、もしあの青年が本当のニンジャだったら口から火を吹きかけてくるのか、それともいきなり空中から現れてニンジャ・ソードの一撃で彼の首を跳ね飛ばしてくるのか、などと想像して全身から冷たい汗が噴出してくるのをとめることが出来なかった。
 テレビで見るニンジャは助走も無く数十メートルの高さのビルを飛び越えて、あらゆる武術を極めた無敵の戦士だ。壁を走って来る奴までいるらしい。
 そんな化け物を相手にこんなちっぽけな拳銃などなんの役に立つというのだ!
(やべえよ・・・。本物のニンジャのいる国で、よりにもよって本物とやりあう事になっちまった・・・)
 今にも暗闇から手裏剣で首を切り裂かれるのではないか、という恐怖にへたり込みそうになる。
「おい、デイブ! しっかりしろ!」
 その声が自分のバディであるアレックスの声だと気付くまで数秒ほど考え込んでしまった。
「アレックス・・・なあ、俺達は生きて帰れるのか・・・? 本物のニンジャだぞ、アレは・・・」
 その頼りなさげな声を聞いて、アレックスは頭を抱え込みたくなっていた。
 確かに相手は自分達の監視の目を掻い潜って姿をくらませたかもしれない。だが、それは気の利いた手品師でもやってのけられる事だろう。
 自分達が見失ったとはいえ、このビルの中に九人しかいない状況では死角など幾等でもある。
「あのな、もしもアレが本物のニンジャだったとしても、本物のニンジャってのはテレビに出てくるスーパーマンなんかじゃない。ただのスパイだ」
 たしかそう本で読んだ覚えがある。
 優れた武術を身に付けているのは事実だが、それでも人間の技術の範囲内に収まるものだ。
 過酷な戦闘訓練という意味では、彼ら合衆国海兵隊のそれを上回るものなど無いだろう。
 その言葉に漸く我を取り戻したデイブは、やっと膝の震えが収まっていることに今更ながらに顔が赤くなる。
「サンクス・・・」
 相棒に声をかけた瞬間、デイブの目が見開かれて全身が凍りついた。
 ニヤニヤと面白げに笑うアレックスの背後に見慣れない人影が立っていたのだ。その姿が良くテレビで見た黒いニンジャ装束の男だと気が付いて、相棒に声をかけようとした瞬間、銀色の光が一閃する。その光はアレックスの肩の上、丁度首を真横に奔り抜いたように見えた。
「お、おい!」
 アレックス、後ろだ!・・・、と続けようとした瞬間、アレックスの首が真後ろに落ちて支えている物を失った首から噴水のように血が吹き上げてくる。そのまま相棒の身体は前に向かって倒れこんで、デイブの身体に圧し掛かっていた。
「ヒ、ヒイィーッ!」
 重い相棒の身体を押しのけようともがく海兵隊員の目の前に立つ黒装束のニンジャの手に握られている異様なきらめきを放つ白銀のニンジャ・ソードがゆっくりと振り被られるのを恐怖に白く染まったままの思考でデイブはぼんやりと見つめていた。
 
 海兵隊の隊長とジェームスは次々と交信が途絶えていく隊員達の様子に完全に状況を見失っていた。
「くそったれ! 一体どうなってやがるんだ!」
 苛立たしげに罵る隊長を見ながら、ジェームスも状況を打開するために必死にその明晰な頭脳を回転させていた。
 どんな手段を用いているのか、既に二チーム、八人の隊員が交信不能の状況に陥っているのだ。
 相手が飛び降りたときの事を考えて待機していたチームがビル内に戻ってきているのだが、既に手勢はジェームスと海兵隊隊長、そして三人のチームのみとなっている。
 予想だにしていなかった事態だった。
「とにかく、脱出しよう」
 自分達が完全に罠に嵌められたのだと悟ったジェームスは、まずこの逆トラップと化したビルから脱出することを考えていた。あと五分で別働隊のバンが到着する。
 そうすればここから撤退することも出来るし、少なくとも今の状況を米国大使館と海兵隊司令部に連絡することが出来る。
 交信不能となった海兵隊員たちの安否が気遣われるのだが、今は少なくとも自分達自身の安全の確保が最優先される。
 苦渋の、そして屈辱の決断だった。
 だが、どのような手段を用いているのか、無線交信も完全に遮断されている現状では対応の仕様が無い。彼らが拉致の場所に選んだこの廃ビルが、今はその特殊部隊員たちがそのビルに囚われている。
 ドアを出て十数メートルの距離の廊下を横切って階段を降りて、目の前にあるはずの出口から飛び出すだけの距離が途轍もない難関に感じられていた。
 流石に三階の窓から飛び降りては鍛え上げられた海兵隊員とはいえ無事ではすまないだろう。
 じりじりと焦燥感だけが募ってくる。
「止むを得ん・・・。全力で廊下を突破して階段を降りて出口に向かう」
 ジェームスは呻くように撤退の指示を出した。
 単純な構造のビルであるが故に、どのようなオプションも取り様が無いのだ。
「ランディ、トムとペアを組んで先鋒を務めろ。マークはジェームスの補佐を、俺が殿をやる」
 隊長がてきぱきと命令を下し、ランディとトムがお互いの背後を庇い合うように体勢を維持しながらドアに張り付いた。ちらり、とジェームスの方を向く。
 そして海兵隊隊長の頷きに応じて、一気にドアを開いて銃口を向けた。素早く視線を走らせて、そこに誰もいないことを確認し、廊下に足を踏み出した。
「大丈夫です、コーナーまで誰もいません!」
 ジェームスはその声を聞いてマークと共に廊下に飛び出す。一拍おいて隊長のアンソニーが飛び出してくる気配がした。
 それは地獄への侵入だった。

 ランディが曲がり角の向こうをじっと見張っている横でトムが手を振ってこちらに来るように合図をしている。僅か五メートルほどの距離が怖ろしく遠く思えた。
 何が来るか判らない。
 窓の外から狙撃が来ることを警戒しながら、曲がり角のまでたどり着く。窓も嵌められていないぽっかりと開いた窓枠から丸見えになっていることが恐怖をじりじりと掻きたててくる。ビルの中にいる姿を消した相手と、もしかしたら外から狙撃されるかもしれないという状況が精神的に異様な疲労を与えてくるようだった。
(くそっ! ・・・外から丸見えじゃねえか! まさか、この日本で外からの狙撃を警戒しなきゃならんとはな・・・)
 だがそれは余りにも日本の安全を過信していたと判断を悔やんでも既に取り返しの付かない事態に陥っている。
 確かに日本は安全で周囲にいる人間もまず銃器で武装していると考える心配は無い。
 それが為に各国のスパイも丸腰で活動をしていても狙撃の心配なども無い、という奇妙な安心感をお互いに与えていた。しかし、今はもう日本でもスパイ防止法案が施行されて、情報収集活動や工作活動などに対してそれを取り締まれるようになっているという事を余りにも甘く考えていたのかもしれない。
 今は何とかしてこの場所から脱出することが最優先事項だった。
 ランディとトムが再び腰を落とした低い姿勢で滑るように階段に向かって進んでいく。しかし・・・
「た、隊長! か・・・階段がありません!」
 悲鳴のような声が廊下に響き渡った。

 階段が無い、だと!?

 一体どういうことだ、とジェームスが曲がり角から飛び出そうとした瞬間、突如、背後からドアが勢い良く閉じられる音が響いた。
 ぎょっとしてジェームスとアンソニーが振り返ると、確かに開けっ放しにして出てきたはずの扉が閉まっている。
 ぞっとするような感覚が全身を貫いていた。
 アンソニーが素早く引き金を引いて三発、ドアに打ち込む。
 圧縮された空気が飛び出すような音が響いて、ドアに丸い穴が穿たれた。極力、銃の使用は控えたかったのだが、もうそんなことを言っていられるような状況ではなかった。
 後ろでは突如、誰もいないはずの部屋のドアが閉じられ、そして脱出するための唯一の通路であるはずの階段がなくなっているという。
 とにかく、先鋒を務める二人の場所に辿り着く必要があった。
 もう隊列など考える余裕もなく、ジェームスと二人の海兵隊員は弾かれたようにランディ達の場所に駆け寄る。
 やはりそこにはあったはずの階段は無かった。
 困惑した視線でのっぺりとした壁になっている、階段があったはずの場所に立ちすくむ二人の隊員達は、もう誇り高い合衆国海兵隊員の表情ではなく、泣き出しそうな情け無い顔をしていた。
 ジェームスがその壁を触ってみても、硬いコンクリートの壁があるだけだった。

 閉じ込められた・・・。しかし、どうやって・・・

 そんな疑念だけが心の中に膨れ上がっていく。
 そしてランディとトムの方を向いた瞬間、視界を何かが横切るのが見えた。それは間違いなくあの青年だった。
「ジェームス!」
 低く鋭い声でアンソニーが警告を発した。
 それがジェームスの見たのが幻ではない事を確信させる。
「追うぞ!」
 脱出口を塞がれた今、もはや力ずくであの青年を押さえ込んで制圧する以外にこの場所から脱出する術は無かった。
 全員が凄まじい勢いで青年が通りすぎた曲がり角に向かって走り出す。
 その角を曲がった瞬間、再び海兵隊員たちは恐怖に震え上がっていた。そこには同じような部屋があるはずだった。しかし、目の前には数百メートルはあるだろう長い通路が延びているだけなのだ。
「ひっ・・・」
 誰からとも無く引き攣ったような声が漏れた。
 ありえない。
 いや、そんなことはあってはならなかった。
 もう何がなんだか判らない。目の前の光景が現実なのか、それとも現実でないのかさえ判らなくなってくる。
(こ、こんな事が・・・ま・・・さか・・・)
 ジェームスは不意にある可能性を閃いて驚愕と恐怖に包まれていた。
 もしかしたら、あの政策秘書がこの不可解な現象を起こしているのならば、その方法を用いて日本の政治家や官僚を意のままに操っているのかもしれない。それどころか国務省の官僚を死なせたのもあの青年なのかもしれなかった。
「よく気が付きましたね」
 不意に涼やかな声が響いた。
 振り返るとそこにはあの政策秘書の姿があった。
 しかしもう歴戦の海兵隊員たちも子供のように震えるだけで腰を抜かしたようにその場にへたり込んでいるだけだった。
「しかし、それはあなたの不幸でしかありませんよ・・・。余計な事を知らなければもっと長生き出来たものを・・・」
 フフ・・・、と冷酷な笑みを浮かべた青年の顔はもはやただの政策秘書のそれではなかった。
「ひ、ひぃっ!」
 子供のように喚いて、誰かが発砲する。幾つもの穴が青年のシャツに開いて、次の瞬間、その弾痕から噴水のように血が噴出した。
 流石にこれは殺っただろう、と思った海兵隊員たちは、しかし口から血を流しながら平然と歩いてくる青年の姿に目を疑ってしまう。
 自分達の常識を超えた異様な光景に、恐慌をきたした男達はただひたすら引き金を引き続けていた。
 しかし、それでも青年は倒れることなく平然と笑みを浮かべているのだ。
 やがて手にした銃に装填してあった弾丸は撃ちつくされて、最新式の拳銃はカチッ!、カチッ!、と空しい音を響かせるだけとなった。だが、青年は男達を嘲笑うかのように血に塗れながらも笑って立っている。
「もう終わりか?」
 囁くように問いかけてきた青年の言葉に海兵隊の男達は子供のように涙を流して首を横に振り続ける。
 もう意識が目の前の光景を受け入れていなかった。
「た、助けてくれ・・・、死にたくない・・・ママ・・・死にたくない・・・」
「人に銃弾を撃ち込んでおいて、自分は死にたくない、か・・・。お前、人を撃つ時は、自分が撃たれることも覚悟しておけ。相手は血の通っていない目標じゃないんだぜ・・・」
 生臭い血の臭いが吐きかけられる。
「他人の人生を、他国の民衆の歴史や運命を自分の都合で操ろうとした報いは受けてもらう・・・」
「な、何の事だ!? 俺達は世界の人間の自由と人権の為に・・・」
「それが傲慢だというのだよ。お前達のやり方は所詮、“自分達の都合の良い自由と人権”を他者に押し付けているに過ぎない」
 ぞっとするほどの怒りと憎しみに満ちたその瞳の輝きにジェームスは魂が凍りつくほどの恐怖を味わっていた。
「かつての我が国はお前達の言うような帝国、絶対君主に支配された邪悪な国家などではなかった。それを言うなら大英帝国も同じことになるだろう。大日本帝国は議会制民主主義をその政治制度として採用し、三権分立を憲法で保障された立憲君主制に順ずる国家だった。同じような政治システムを持っている国は欧州諸国にも幾等でもあるだろう・・・」
「だ、だが、その議会制民主主義は軍部に牛耳られていた・・・」
「今のアメリカ合衆国の軍産複合体はどうだ? ロッキード社は、ノースロップ社は、何もロビー活動をしていないのか?」
 現実としてアメリカの国政には軍産複合体は非常に大きな力を持った存在として明らかな影響力を行使しているのだ。また退役軍人で作られる組織は政治的にも大きな力を持っており、彼らの意図を無視して政策を実行するのは不可能に等しいのだ。
 そうした現実から、軍部の影響を無視した政治は現実世界にはありえない。
 そもそも外交自体が軍事力を中心とする国力の鬩ぎ合いである以上、政治に軍部が関与しない理由は無いだろう。実際に政治システムの中に軍組織が組み込まれている現実を考えると、それの影響力を無視して政権運営を行うことは不可能なのだ。
 シビリアン・コントロールという考え方があるが、それも程度問題であり、専門の知識や能力を持たない人間がそうした高度な専門組織を操れるわけが無いし、危険でさえある。
 事実、かつての阪神淡路大震災の時、時の村山首相は事の重大さを理解できずに、イデオロギーから自衛隊に対して派遣命令を出さなかった。その為、いたずらに被害を拡大させて救えたはずの命をみすみす失わせる羽目になったのだ。
 力を持ち、それを振るうことには当然の事ながら責任が伴う。その責任ある指示を振るうためには素人では限界があるという事を端的に示す悲しい実例であろう。
「付け加えておけば、当時のお前達アメリカ合衆国の政権内部には旧ソヴィエト連邦のスパイが巣食っていたし、ハルノートの作成者のホワイト報道官自身もKGBのスパイだった事を報道されているだろう?」
 それは衝撃の事実だった。
 1996年、機密解除されたCIAの内部資料によって確認された内容に拠れば、ハルノートの草案作成者であるハリー・ホワイトはソヴィエト連邦のスパイの疑いが強いとされている。しかし、ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定したが、その直後の8月16日、ジギタリスを大量服用し不可解な死を遂げてしまった。
 1997年9月、NHK取材班が行ったビタリー・ グリゴリエッチ・パブロフへの取材に拠れば、この元NKVD内務人民委員部対米諜報部副部長はコードネーム雪作戦(スノウ(snow)作戦、ホワイトの名より)を認めながら、ホワイトはスパイではないと証言している。とはいえ『ハル・ノート』そのものがソ連で作成され、ホワイトに提供されたものであることが明らかにされているのだ。
 実際、パブロフは1941年5月に雪作戦の際、イサク・アブドゥロービッチ・アフメロフ(ソ連スパイ、Iskhak Abdulovich Akhmerov)がハリー・デクスター・ホワイトと接触し、ソ連内で作成されたハルノートの原案を提示している。その内容がほぼ完全にホワイト案のハルノートとして反映されていることから、この日米開戦の引き金となった文書にソ連が強く関わり、また関心を持っていたことが窺い知れる。
 もはやジェームスは何も言うことが出来なかった。
 是ほど迄に情報を戦略的に使いこなせる者がまだ日本に居たとは・・・
 既に彼らは自分達が敗北したことを悟っていた。
 そして意識は闇に飲み込まれていった。

 清潔に片付けられた会議室に座っている男達は恐怖の余り、言葉一つ立てることなくじっと目の前の出来事を見つめていた。
 いや、目を逸らすことを許されていなかった、と言うのが正しい。
 外務省の一室だった。
 小さな部屋には二十人ほどの官僚達が集まっている。いや、集められていた。
 中村外務大臣に呼び集められた高級官僚たちは、また面倒な外交懸案の処理に関してケチをつけられることを予想して、心の中でうんざりしながら部屋に向かったのだ。
 大体、表にたって文句を言うだけ、格好をつけるだけで外交問題が済まされるわけが無い。手を変え品を変え、様々な駆け引きの中で最大限に成果を引き出さなくてはならない官僚達にとっては、成果こそが全てだ。格好の良い駆け引きを演じて、失敗でもしたらその瞬間に彼らの将来は永遠に閉ざされてしまうだろう。
 メルボルン事件、という事件がある。
 これは1992年6月、オーストラリアのメルボルン空港に到着した日本人観光客らの所持するスーツケースから大量のヘロインが発見され、有罪判決を受けた事件である。(メルボルン事件:http://ja.wikipedia.org/wiki/メルボルン事件)
 この事件発覚後、当時の日本の外務省は「相手国に対して内政干渉になるので事態を見守るしかない」として、救いの手を差し伸べようとはしなかったとされている。結果として日本側は『外交問題』に発展する事を恐れて沈黙に徹していたのである。
 そうした外交姿勢は、いわゆる「お公家外交」とも呼ぶべき、相手の言いなりになりがちな交渉態度となって、どれほどの国益を損なってきたのかはかり知ることは出来ない。
 しかし、コネや家柄で結びついた関係が最重要視される外務省では、こうした事態を変えるなどという発想さえなかったのである。
 だからこそ、このある意味で派手好みの外務大臣のやり方は外務省の中では頭痛の種だったのだ。
 大体、日米安全保障体制のより効果的な運用を目指して、周辺事態法の制定や通信傍受法などをぶちまけたときには、彼ら霞ヶ関の官僚達の間には嵐のような大騒動が起こったのである。
 実際に外務官僚たちの中には中国や韓国、北朝鮮にまで出向いて調整をつけてきたものもいる程だ。
 中国の江沢民主席の来日の際に、これからの更なる日中友好の発展を考えれば日本がきちんとした謝罪をするべきであっただろうに、故小渕首相はそれを断固として拒否し、それを後押ししたのは中村外相だった。
 そのおかげで彼らの同僚の一人は中国側とのパイプに罅が入り、かつてならスムーズに進んでいたすりあわせ作業にもギクシャクした雰囲気が流れ始めている。
 
 かつての過ちを犯すわけにはいかない・・・
 
 外務省の中には日本が強固に主張することで不必要な摩擦を生み出すよりも、出来るだけ日本が大人になって対応することで物事を円滑に進めようとする雰囲気があるのだ。
『主張する日本』という勇ましい言葉が世間で語られつつあるのは知っているが、少なくとも実際の行動や国際関係の場に立つ彼ら官僚達にとっては一切興味の無い話だった。
 そうした雰囲気に苛立ちを感じたのか、中村はいきなり上層部全員を呼びつけたのである。
 忙しいスケジュールを何とか調整して集まったトップキャリア達は、また下らない説教を聴かされるのかと思ってうんざりした様子で部屋に集まった後で、この世のものとは思えないほどの恐怖を味わっていた。
「さて、返事を聞かせてもらおう」
 中村の後ろに控えた青年は、目の前で起こっている出来事に感心なさげに官僚達の醜態を眺めている。
 いつもの、という訳ではないものの事ある度に「主張する外交」を訴える中村の話を半分聞き流しながら耳にしていた官僚達に、精悍な顔つきをした外務大臣は吹っ切れたような表情で息をついていたのだ。
 そして、彼はとんでもない言葉を口にしていた。
「やはり、埒が明かんな。君の言うとおりだ。こいつらの頭の中は腐っている」
 流石に怒りがこみ上げてきた官僚達の口を右手を上げて塞ぎ、中村は傍に控えていた青年に視線を向ける。
「すまんな、結局は私の力不足だ」
 そう言われた青年は、しかし黙って首を横に振る。
「いえ、中村外務大臣の責任ではありません。この国に蔓延する淀んだ空気のなせる業でしょう。主張しない外交、摩擦を忌避するだけの消極的な外交を正当化するためだけにせっかくの優れた頭脳を振り絞る。それは戦後のGHQの行ってきたWGIや自虐史観によって形成されたものに他なりません。ならば、いずれわれわれ自身の手でそれを断ち切る必要がある」
「そうだな・・・。我々は反省してきた、と言われているし、そうとも考えてきた。だが、それは何のための、そして誰のための反省だったのか、と言われると・・・、正直言って胸を張って答えられる自信は無い」
 何の話をし始めたのか、と訝しげに思い始めた官僚達に向かって、二人の男は向き直る。
「さて、誰からはじめる?」
 中村は哀れみのこもった眼差しで官僚達を見回す。
 その瞬間、不意にドアに鍵が掛かった。
 官僚達は反射的にそのドアを見つめる。しかし、その場には誰もいなかった。
 
 シャッ!
 
 軽い音が響いて窓のブラインドも落とされる。もちろん、誰も窓際になどいない。
「な・・・、何の冗談ですか!」
 ただならぬ雰囲気に、一人の男が声を上げる。
 言葉を返したのは中村ではなく、青年のほうだった。
「冗談、ではない。お前達がしてきたこと、そして、してこなかったことに対する代償を支払ってもらう」
 冷たい声が響いた。
「ふ、ふざける・・・!!!」
 怒鳴りつけようとした男が不意に息を詰まらせ、そして驚いたような表情で青年を見つめる。染みの浮いた肌に脂汗が浮かび、皺の刻まれ始めた顔が次第に青ざめていった。
 ぱくぱく・・・、と口を開けて息を吸い込もうとする。
 しかし、男は恐怖に満ちた眼差しを浮かべながら青年に手を伸ばそうとした。しかし、青年は冷ややかな視線でその男を見下ろし、拒絶する。
「今、お前の呼吸を止めた。あと7分で完全にお前は窒息死することになる。お前が知っているかどうかは知らんが、窒息死はこの世で一番悲惨な死に方の一つだ。酸素が回らなくなって、地獄の如き苦しみをたっぷりと経験した上で、自ら喉を掻き毟って死ぬことになる。国民のことを考えず、自らの地位とこのような閉ざされた世界にのみ安寧して、日本という国家の国益を損なうことを黙ってみていた報いだ」
 もはやこの場にいる男達には日本の外交政策を担うエリート官僚であるという自信や誇りなど一欠けらも残っていなかった。
 目の前で不可解な力を操って平然と人を殺害しようとする青年が、まるで何かの化け物のように見える。
 涙と鼻汁を浮かべて唇を青紫色に染めた官僚は、恐ろしい苦しみにのた打ち回っていた。声が出るならば、どのような叫びが聞こえてきたのだろうか、その惨劇を見せられている官僚たちには、逆に悲鳴が聞こえないだけに恐ろしい想像が広がっていく。
 徐々に力を失っていく肉体が、その激しい悶絶の動きを止め、やがてぴくぴく・・・、と軽い痙攣を起こし始めていた。
 し、死んでしまった・・・。
 男の同期だった官僚がそう思った瞬間、青年は軽く指を鳴らす。
 一瞬の後、恐ろしい窒息責めにあっていた官僚は咽かえるように激しく喘いで息を吹き返した。
 仰向けになったまま官僚は只管酸素を貪るように呼吸を繰り返す。
 その姿に向かって青年は冷ややかに尋ねた。
「考えは変わったか?」
 
 若手官僚の一人である吉住は、思わず自分の上司である黒崎課長を見つめ返していた。
 かねてからの懸案となっている中国との折衝で、難航が予測される厳しい交渉に対して、驚いたことに黒崎は「構わん。思いっきり食いついてやれ」と、普段の態度からは信じられない言葉を返してきたのだ。
 これから昇進が掛かる時期であるだけに黒崎は常日頃から慎重に慎重を期す交渉をするように心がけている。本省課長クラスまではほぼ横並びに自動的に昇進する高級官僚たちも、これからは熾烈な出世競争を繰り広げていくことになる。そのため、どうしてもスタートで躓くわけにはいかないのだ。
 しかし、今の黒崎はそんなことを気にした様子もなく、吉住に対して「主張する外交を決めて来い」と言い放ったのである。
 周囲の様子を伺って見ると、どうやら他の課や局も同じような変化があったらしく、黒崎の同期の課長も部下を叱咤激励しているらしい。
 中村外相に呼び出されて話をしたと言われている夜に、おそらく何かがあったのだろう。
 そう考えて吉住は書類を纏めて自分のデスクに向かっていった。
 その後姿を見つめる黒崎の腹の中には透明なルークワームが潜み、その吉住の姿を遠く離れた彼の指揮者に転送し続けていた。

 自民党の元幹事長である野村は朝日新聞がいつまでたっても榊原の発言を記事にしないことで苛立ちを募らせていた。
「どういうことなんだ、一体? 佐藤君、君は知り合いの新聞記者に榊原の話をしたのではないのか!?」
 このまま国会で審議が通過してしまったら、榊原の大きな得点になってしまう。
 もっとも、連立政権を組む公明党はこの法案への反対を明確にしている上に、野党側も民主党を始めとして社民党、共産党が反対の意見を表明している。採決を求めたところで否決される可能性のほうが大きい。
 しかし、あの榊原がそんな粗末な策を練るだろうか。
 心の何処かに不安が残っていた。
 それは榊原の下で国会対策に走り回っている若手議員達も感じている不安だった。
 もし、この修正案を否決されたとしたら榊原の影響力は大きく低下することになる。そうなったとしたら、下手をすれば自民党保守派は回復不可能な痛手を受ける可能性さえあるのだ。
 だがこの勝負を仕掛けた榊原の秘書は平然として法案の提出作業を進めている。

「本当に勝算はあるのか?」
 当選二回目の議員が流石に心配になって誠に尋ねてきた。
「勝算も何も、確実に通りますよ」
 にこやかに答える誠に、議員達は何ともいえない表情を浮かべていた。
 今現在の彼ら保守本流派のグループは四十二名いる。この修正案に対して森派は賛成の意向を示してくれたが、条件として衆院での過半数を取れることが条件だった。賛成の返答をくれた麻生派を加えても衆院過半数にあと十票ほど足りなかった。
 そして澤田が代表を務める民主党も、全力で無所属の議員に接触をして法案に賛成しないように攻勢を加えているという。
「十票。これを詰め切れなければ我々の負けだ・・・」
 深い溜息とともに中堅の議員が票読みのための資料に視線を落とした。
 この十票を詰めることがどれほど厳しいことか、身に染みて理解している。今後の政権運営の行方や党内の力関係を左右する結果に直結するため、各派閥の領袖はそう簡単に動いてくれない。
 そして野村を中心とした反榊原派も徹底的に他の小派閥を押さえ込んでいるのだ。
 選挙対策委員長である小谷を擁する野村派は、選挙での扱いを武器にして基盤の弱い新人や小派閥を一本釣りしている。
 常識で考えて今の状況をひっくり返す術は無い。
 一番良い落としどころは、原案に対して多少手を加えてもらい、修正案で盛り込もうとしている修正内容の文言を含めた代案を共同で提出することだ。
 そうすれば自民党が割れる危険性を防いで、尚且つ負け戦を戦わずにすむ。多少は野村派に得点を許すことにはなるが、決定的な失点にはならない。
 そんな空気が会の中にも漂い始めていた。
 だが、当の榊原は秘書の荒木を信頼しきっているのか、最後まで突き進むつもりでいるらしい。
(とんでもない事になっちゃったな・・・)
 今度の組閣では副大臣としての登用も噂されている中堅議員は、この不利な勝負に全力で突っ込んでいる自分の立場を考えて胃に穴が開きそうだった。

 民主党の代表澤田はいつもの料亭で佐藤と向かい合って食事を進めていた。
「本当にお久しぶりですな、佐藤さん」
「いや、私こそ澤田代表に声をかけて頂けるとは思いもよりませんでしたよ」
 お互いに白々しい、と腹の中で呟きながら、取り繕うようににこやかな雰囲気で話を進めていた。
 共通の目標が無ければ同じ席に座るはずの無い二人だった。
 榊原の仕掛けたこの修正案は、野党にとっても党内の対立勢力にとっても格好の的になる内容だった。確かに天下り役人の巣食う関連団体に不透明な資金が流れているとはいえ、働く女性への助成と福祉拡充を進める法案に修正を加えようとしているだけで週刊誌などは大騒ぎをしている。
 それに、天下り団体に手を出そうとしたことから、厚生労働省の官僚達も澤田や佐藤にしきりに接触をしてきているのだ。
 ここで修正案を否決した上で厚生労働省から出てきた関連法案に対して、榊原が修正をしようとした部分を多少いじくるだけで批判をかわせるだろう。
 そうすればあの保守派の重鎮の権威と力は地に落ちることとなる。
 あとは澤田と佐藤が良い関係を築いていけば政界への影響力は一段と増すことになるだろう。
 そう考えた二人はこれを機に協力体制を敷くことを考えたのだ。
 弱小派閥に落ちたとはいえ、外務省のOBである佐藤は腐っても鯛である。そして民主党の数と佐藤の派閥の数を合わせれば、他の勢力を巻き込んで政権を取る事も不可能ではない。いや、今回の法案の提出で公明党は連立解消も辞さないとの強硬姿勢を見せているため、佐藤が自民党を割ったならば公明党も自動的に付いてくる可能性がある。
 悪い話ではない。
 そう考えて、二人は明日の採決後の展開を心に描き始めていた。
 
 その日は日本の戦後政治の運命を決する日となった。
「くそ・・・、やっぱりあと八人足りない・・・」
 絶望的な思いが榊原派の国会対策を務める中堅議員の心に広がっていった。
 何度資料を見返してみても、絶対に過半数に到達することは無い。
 森派からも何度も確認をする電話が掛かってきていた。それに対しても、心臓が縮み上がるような思いをしながら応答を繰り返している。
 なのに、あの肝心の小僧は!
 何度も問い詰めても、「心配要りません。確実に通ります」としか言わないのだ。
「バカヤロー・・・、こっちはこの勝負に負けたら終わりなんだよ・・・」
 もう泣き言しか出てこなかった。
 やがて時間が来て、衆議院本会議場へと向かうころには、可哀想な代議士は処刑場に向かう囚人のような表情となっていたのである。
 澤田は自信に満ちた表情で席に座って談笑している。
 そしてこの修正案の否決に自信を持っているのか、野村や佐藤も落ち着いた表情で話し込んでいた。
 対照的なのは榊原派や彼らに賛同した麻生派の議員達で、一様に疲れきった表情でじっと俯いていた。やはり、最後の壁を突破できなかったのだろう。森派を含めたとしても僅かに過半数に届かないままでは、最大派閥である森派は動かない。つまり、彼らは圧倒的少数で負ける以外に無いのだ。
 政治家とはいえ、所詮は選挙に当選しなければただの人だ。
 選挙対策を抑えてある野村派はこの後始末で圧倒的に有利な立場にある。
 そんな皮算用を考えているうちに、採決が始まっていた。
「それでは、この修正案に賛成の議員はご起立を願います」
 悲壮な表情をしながら榊原派と麻生派の議員が起立する。そして彼らに賛同する代議士たちもぱらぱらと立ち上がっていた。
 しかし、やはり圧倒的に数が足りない。
 森派の議員たちもじっと様子を伺っていた。
「あと十人、揃っていれば・・・」
 様子を見ている森派の議員達の中にも悔しそうな表情を浮かべている者たちもいた。彼らも官僚達が堂々と天下りをして限られた予算を食い物にしていることに義憤を感じているのだ。
 しかし、民主主義の議会では多数決が唯一の意思決定方法である。
 数が足りない、という歴然たる事実の前には、何の抵抗も仕様が無い。
 榊原が悠然と起立をした。
 一瞬だけ澤田と視線が交錯する。
 民主党の党首は不敵な笑みを浮かべて勝利を確信していた。
(やっと俺は、あの榊原老人に勝ったのだ・・・)
 そう思うと感慨深いものがある。
 そして議長が採決の可否を宣言する瞬間を待った。だが・・・
 不可解そうな表情を浮かべた野村と佐藤が呆然と澤田の方を見ていた。正確に言えば、澤田の背後を、である。そしてざわざわと囁きあいながらお互いを見合っている議員達。
 異様な何かを感じながら背後を振り返った澤田は、自分が一体何を見ているのか信じることが出来なかった。
 二十数名の議員が起立していたのだ。
 それも、民主党の議員達であった。あろう事か、旧社会党から合流した横川とそのグループが榊原の提出した法案に賛成の起立をしていたのだ。
 その姿を社民党の党首も呆然と見つめていた。
「よ、横川さん! 血迷ったのですかっ!?」
 悲鳴のような声を上げたのは、党副代表の鳩峰だった。
 しかし、その副代表の声を無視して、横川と彼のグループは悠然と起立している。
「じゅ、十人を・・・超えた・・・」
 誰かの呟きを引き金にしたように、自民党森派の議員たちも一斉に起立をしていった。
 それに負けじ、と民主党の保守派を自認する議員たちも起立を始め、つられる様に自民党の中の弱小派閥の議員たちも慌てて起立をし始めていた。
 このまま反対の着席をしていては、勝利した賛成派からどんな冷や飯を食わされるか判ったものではない。
「そ、そんな馬鹿な・・・」
 佐藤が呆けたような声を上げた。
 その言葉と同時に澤田も同じ言葉を呟いていたのは佐藤の耳にも榊原の耳にも届くことは無かった。
 
 
 

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