~ 3 ~

「あ、田所ちゃん、お帰り! どうだった!? 特ダネ、行けそうか?」
 期待に目を光らせながら、デスクが勢い込んで質問を投げかけてきた。
 あの榊原が女性の権利擁護の法案にケチを付けた、とならば大仕事だ。うまくすれば榊原の首を取れるかもしれない。
 そうなったら女性人権擁護に反する復古主義者を辞任に追い込んだ大スクープとして報道史に名前を残すことさえ夢ではない。
 期待に胸を躍らせてデスクは田所に再び問いかけた。
 だが、
「いえ、今回は外れでした。ガセネタに一杯食わされるところでしたよ・・・」
 と苦笑いしながら答える田所の様子にすっかり肩透かしを食らってしまう。
「ちょっ!、ど、どういう事なんだ!? 説明しろっ!」
 掴みかからんばかりの勢いで田所に食って掛かるデスクに、飄々としながら答えを返していく。
 曰く、榊原はケチを付けたのではなく、関連する外郭団体の経理についての質問を投げつけたのだということ。そしてその外郭団体は先日、朝日新聞社が特集を組んだ官僚の天下り団体の関連団体であり、文部省の天下り役人が役職を占める団体であること。実際の活動自体はめぼしいことをしていないにもかかわらず、相当大きな金額の補助金が出ていることなどを具体的に指摘し、それが本当に正当な予算の執行に値するのかを問いただした内容であることなどを説明していた。
 その話を聞いたデスクはすっかり肩を落として元気を失ってしまった。
 これでは下手をすると藪をつついて蛇になりかねない。
「これまでだな」
 デスクは苦渋の思いで決断を下していた。
 あの目障りな戦前復古主義者の息の根を止められないのは残念でならないが、これだけの理論武装が出来ていれば下手に騒ぎを起こせば返り討ちにあうだろう。
 それにしてもその若手の政策秘書の手並みは見事なものだ。
「わかった、仕方が無いな。次のネタを追っかけるぞ! きっちり取り返せよ!」
 そう言ってデスクは自分の席に戻って、紙面を開けてもらっていた分を戻すように編集部に電話をかけ始める。ねちねちと嫌味と皮肉の嵐に晒されるとわかっていながら、何も無い空白を一面トップに持ってくるわけにも行かない。
 胃に手を当てながら平身低頭で電話口に向かって頭を下げるデスクの様子を見ながら、田所は自分の席に向かっていった。
「ほんとにあのジジイがそんな事を言ってたの?」
 不意に横から声がかけられる。
 振り返った田所の目に一人の女の姿が飛び込んでくる。
 秋山瑞穂。
 丁度三十を超えたばかりの、まあ、美人といえない訳でもないタイプの女だった。
 トレードマークの眼鏡を右手で弄りながら、瑞穂はにたにたと笑っている。
「テープ、録ってきてるんでしょ? 聞かせて」

 薄暗いバーの片隅で、田所は瑞穂とグラスを重ねていた。
 榊原とのインタビューの話を聞きながら、瑞穂は何とかしてこのネタをうまく使えないか、と頭をフル回転させている。
 確かにその答えのままでは余りにも隙が無い。
 おそらく相手もテープにやり取りを録音しているだろう。取材班だけが録音をして、後で自分の言葉を証明できないのは不利に働く。
 何度もの取材対象とのやり取りで、田所も瑞穂も相手が慎重になってこっそりと録音をしていたり、ビデオに収録していることがあることを良く承知している。
 鬼の首を取った、と特ダネを報道した後で取材対象となった相手にいきなりやり取りを公開され、実際のインタビューの内容の極一部を切り貼りして報道したことを証明された結果、裁判沙汰になって敗訴したことさえあるのだ。
 そうした取材対象者の側にも報道に対する防御体制を整えて、虎視眈々と待ち構えている場合さえある。
 更には今はインターネットで一般人が一次情報を調べることも難しくは無い。
 まかり間違えれば相手も取材時のやり取りや内容をインターネットで公表してくる場合もある。
 そうなったら、徹底したそのオリジナルのやり取りと記事の内容の比較がされて、印象操作をしたとなった場合、大問題になるだろう。
 報道が不正確な報道を行った、もしくは意図的に歪曲した報道を行った後で、取材対象に謝罪する羽目に待った場合、メディアとしての権威は大きく失われることになってしまうのだ。
 それでも・・・
「やっぱり残念よね。あの榊原に一太刀も浴びせないで尻尾を巻くなんてさ」
 瑞穂は残念そうに呟く。
 大体、あんな戦前の遺物がのさばっているおかげで新しい社会の時代がおかしな物になっているのだ。
「お前、何を考えてる?」
 田所が感心なさげに尋ねた。
 どうも何時もと様子がおかしい、と瑞穂は頭をひねった。
「別に。うちが報道できないネタじゃ、しゃーないけど、週刊誌のネタぐらいにはなるんじゃない?」
 つまり、報道として特ダネを突きつけることは出来ないまでも、週刊誌の記事として載せるなら、ある程度の話題で世間にぶちまけて尚且つ、新聞報道のような厳しい姿勢でなくともインパクトを与えることが出来るはずだ。
 瑞穂はそうすれば、国会でスキャンダルとして取り上げて、社民党や共産党から榊原が集中砲火を受けるだろうと考えていた。
「なるほどね・・・」
 田所は苦笑しながら首を振る。
「無理だな」
 その言葉に瑞穂は気色ばんだ。
「どうしてよっ!」
 田所は相変わらず興味を持った様子もなく、淡々とグラスを傾ける。その様子にますます苛立ちを高めながら、瑞穂は同僚の肩を揺さぶる。
「あんた、様子が変よ。怖気付いたわけ!?」
「いや、怖気付いたわけじゃない」
 瑞穂の方を向くこともなく呟く田所の様子に瑞穂は何かただならぬ雰囲気を感じ始めていた。
 そして気が付いた。
 バーから人の気配が完全に消えている。
「な、何よ・・・」
 さっきまで上品なジャズが流れ、何人もの客がそれぞれの時間を楽しんでいたはずだ。
「ちょっと、これって・・・」
 同僚の方を向き直った瑞穂は、今まで隣でグラスを傾けていたはずの男の姿が無いことに気付いた。
 
 ヒッ・・・
 
 喉から引き連れたような息が漏れる。
(何が起こっているの!?)
 心の奥底から恐怖が滲み出していた。スツールから飛び降りようとして、瑞穂は腰が動かないことに気が付く。
 必死になって腰を動かそうとするが、自分の身体は思うように動かない。左手をカウンターに付いて身体を浮かそうとした。しかし、その左の腕がずるり、とカウンターにめり込んでしまう。異様な感覚に瑞穂の喉から絶叫が響き渡った。
「あ・・・ああ・・・・」
 ガタガタと震えながら瑞穂はパニックを起こしていた。
 下半身もずるずるとスツールの中にめり込んでいく感覚がする。もう彼女の身体には何も自由は残されていなかった。
 
 カサカサカサ・・・
 
 何処かから乾燥した何かが小刻みに擦れるような不気味な音が聞こえてくる。
(ま、まさか・・・嫌ぁーっ!)
 生理的な嫌悪感を覚える音が、何によって起こされているのかを反射的に悟ってしまった瑞穂は狂ったように頭を振って絶叫をあげ続ける。
 涙と鼻汁でべとべとに濡れた顔を振り乱して、救いの手がないか、必死にあたりを伺った。
 そして、彼女は見てしまった。
 自分の足元に無数の昆虫が蠢き、そしてそれが徐々に自分に向かって這い上がってきている。
 瑞穂の下半身に熱い感覚が広がった。恐怖の余り、失禁してしまったのだ。
 だが瑞穂にはもうそんな事を考えている理性など残されていない。
 只管、半乱狂の悲鳴を上げながら迫り来るおぞましい蟲の足音を聞いているだけだった。夥しい数の脚が自分の身体にまとわり付いてくる感覚に、何度も吐瀉物を吐き出した。
 胃が引き攣れる不快な感覚が襲い掛かる。
 昆虫の鋭い足が全身に突き立てられ、身体を這い登ってくるおぞましい感覚に瑞穂は泣き叫び、そして意識は黒い蟲の影に覆われていった。
 
 田所はぼんやりと身動きを止めた瑞穂の姿を見つめていた。
 柔らかいサックスの響きが店内に響き渡り、心地よい雰囲気に浸りながら田所はちびちびとグラスを傾けている。それは周囲から見れば少し変わった光景だっただろう。
 隣にいる女性はまるで硬直したようにじっと身動きをせずにスツールに座ったまま、男は関心もなさげにグラスを口に運んでいるのだ。
 その二人の様子をちらちらと見ながら、バーテンダーは変な客だ、と呆れていた。
 二人から離れた場所で一人の男が関心無さ気にビールを飲んでいる。
 弘樹だった。
(さて、と。面白い駒が手に入ったな。秋山瑞穂、三十一歳、独身。朝日新聞社社会部の記者。あの松井やよりとも繋がりがある人物で、以前の男は中核派の中堅幹部の一人。今は裏でそいつとつるんでフェミニズム運動に傾倒、か・・・)
 ひとしきり考え込むと、弘樹は手にしていた古ぼけた本を閉じる。
(流石にこの魔神の力は役に立つな・・・)
 内心、ほくそ笑む。
 眞が召還に成功し、そして使役し始めた魔神という名の異世界の魔物。
 わずか十六歳の少年は、その魔神から魔法の知識と力を奪い取り、そして己の物とした後、日本を変えるために戦い始めていたのだ。
 そして日本を覆う闇と戦うことを願っていた弘樹は、失意のどん底の中から眞と伊達に見出され、彼らの仲間として戦う力を得た。
『技能の書』という写し取った相手の能力を自らのものとして使うことの出来る能力を身に付けた弘樹は、眞と同様に古代語魔法の力や様々な能力を自らのものとして使いこなせている。
 その中の一つが、この幻覚の能力だ。
 彼らが召還した魔神の中に、マリグドライ、という種族がいる。
 この魔神はまるで梟のような外見をした姿を持ち、恐るべきことに幻覚を操る能力を持つのだ。
 その幻覚に蝕まれた人間はマリグドライによって精神を支配され、操られる人形となってしまう。弘樹はその能力を奪い取り、自らの能力としてその幻覚の力を操れるのだ。
 荒木誠も同じ能力を持っている。
 誠は具現魔術によって自ら生み出した使い魔『ビフロン』に、幻覚や幻影を操る能力を付与し、強大な幻影使いとしての能力を持っているのだ。
 社会の奥深く、闇の世界に巣食う強大な組織を相手にするには、正面から戦闘を行うよりも遥かに役に立つ能力である。もう彼らは既に幾つもの組織や政治家、官僚たちを支配下において自由に動かせる駒としていた。
 特に法務省と財務省、外務省などの中枢部を侵食しているため、かなりの影響力を行使できるようになりつつあったのである。
 だが、まだ準備は万端ではない。
 その為にも、中核派や革マル派などの極左組織、朝鮮総連や民潭などの団体に食い込んでいく必要があるのだ。
 眞が異世界の魔法事故に巻き込まれて、その世界に転移してしまった後でも、彼らは魔法を駆使して辛うじて連絡を取り合うことを可能にしていた。そのため、彼らプロメテウスも希望を失うことなく、眞の帰還の時を迎えるべく任務を遂行していたのである。
 幸い、魔法工芸品や魔法兵器などの研究や創造は上位古代語の魔法を得意とする魔神を行使することで生み出すことを進めていた。
 眞が開発した恐るべき魔法兵器の一つに『ルークワーム』というものがある。これは人間や魔獣、幻獣やその他の生物などの胎内に潜り込み、その対象を完全に支配することの出来る魔法機械だ。
 そしてこの支配の能力は魔神にも及ぶ。
 その為、万が一にも暴走したら危険極まりない魔神を安全に運用するために欠かせない存在だった。その上でプロメテウスは魔神に対して<魔神支配デーモン・ルーラー>の呪文を用い、更には魔神封じの指輪などの魔法の宝物で物理的にも封印をして魔神を運用しているのだ。
 特に、グルネル種の下位魔神は付与魔術に長けた中級レベルの古代語魔法の能力を持っている魔神であるため、既に十体以上、こうした方法で魔法の工芸品を生産するために運用されている。
 また、特に強力な魔神封じの指輪には通常では不可能な上位魔神さえ封じることが出来るため、ギグリブーツという上位魔神の中で最高の古代語魔法の能力を持つ魔神を運用することに成功している。
 この魔神の能力がなかったなら、プロメテウスの計画は未だに準備段階に終わっていたかもしれない。
 また同じく上位魔神のレグラムやケプクーヌ、下位魔神の中でもドッペルゲンガーやレグラムに次ぐ古代語魔法の能力を持つ犬頭の姿をしたエルゴウスなどをも魔神封じの指輪や魔神支配の呪文で封じてその高度な魔法能力を運用する体勢を整えていた。
 他にも“姿なき魔神”との異名を持つ完全に透明な魔神であるゴードベルや相手の姿を写し取る魔神ドッペルゲンガーやその下位種であるダブラブルグなどを利用して様々な潜入工作などを行うための機動ユニットをも編成している。
 他にもストーカーや各種の魔法生物、ゴーレムやホムンクルスなどを創造して、文字通り人間の想像を超えた作戦を展開し始めていたのだ。
 実のところ中央もさることながら、地方の議会などを蝕む女性人権運動に名を借りたフェミニズム運動や同和利権などは無視しがたいものがある。
 そうした地方の隅々まで散らばってしまった細胞を駆逐するためには、それこそ気の遠くなるような戦いが必要になるだろう。しかし、中央を取られてしまえば国策としてそれを実行される羽目になってしまう。そうなれば取り返しの付かない事態になりかねないため、彼らプロメテウスは危険な賭けではあったが左派の政治家や官僚、ハニートラップに引っかかった緊張感の無い代議士や官僚たちを中心に、精神を奪い取ってまで勢力を固めていったのだ。
 その結果、国会は既に衆議院、参議院共に四分の三近くの議員が彼らの意のままに操られる傀儡くぐつとなり果て、そして中央官僚の大部分さえも支配下に置かれている。
 今頃、地方では霞ヶ関に陳情したはずの案件が一向に進んでいないことで頭を悩ませているだろう。
(さて、次はこいつらを使ってマスコミと中核派を処理しなければな・・・)
 弘樹は最後のビールをぐいっと飲み干し、そして静かに席を立った。
 その後を追うように無表情なまま田所と瑞穂もまたぼんやりと立ち上がり、そして弘樹についていくように店を後にしていった。

 都会の雑踏の中を歩くその影は誰にも知られることなくその歩みを進めていた。
 それもそのはずである。
 ショーウィンドウに映っている筈のその存在がいるべき場所には何も映し出されておらず、その向こう側にいる人々が歩く光景が映し出されているだけだった。
 その場にいたのは完全に透明な存在として作り出されたプロメテウスの魔法兵器、インビジブル・トルーパーである。一種のゴーレムだが、古代語魔法の<隠身インビジビリティ>の呪文効果などで、完全に透明な存在として創造されている。人工的とはいえ魔法による知性さえ付与されており、高度で知的な判断を行って自律的に作戦を遂行できる能力を持っている。
 その上でプロメテウス本部にあるコントローラーへ逐次情報を伝える能力を持っており、遠隔からでも指示を与えることが出来るのだ。このインビジブル・トルーパーに魔神封じの指輪を装備させてインビジブル・トルーパーだけでは不可能なミッションすら遂行可能なように強化されているこの特殊兵器は、プロメテウスにとって非常に重要な役目を持っていた。
 それは相手に気取られずに組織や敵地の奥深くに侵入し、相手が気が付く前に組織の中枢部を乗っ取ることだった。他にも要人の暗殺や情報収集など、透明であるが故に可能になる特殊任務は幾らでもある。
 いま、そのインビジブル・トルーパーは目標に定めた一人の男を足音さえたてずに密かに追跡していた。
 その見えない影が追跡している相手は、公安当局もマークしている中核派の重要人物だった。
 よく日本にはスパイ組織、諜報組織が無いと言われているが、それは正しくは無い。
 法務省の外局である公安調査庁(Public Security Intelligence Agency; PSIA)という組織は、破壊活動防止法などの法令に基づき、日本に対する治安・安全保障上の脅威に関する情報収集(諜報活動)を行う組織であり、事実上の諜報機関として機能している。海外ではPSIAの名前でも知られ、敵対組織や国家の内部にスパイ網を構築し、情報提供やカウンターインテリジェンス活動を行う諜報機関である。
 公安調査庁の設置にあたっては、戦後、公職追放されていた陸軍中野学校、特別高等警察、旧日本軍特務機関の出身者が参画したとされており、現在もCIA(米国中央情報局)に研修の為に派遣されていると言われている。
 また、公安調査庁は、CIAやSIS(英・秘密情報部、MI6)、DGSQ(仏・対外治安総局)、BND(独・連邦情報局)、モサド(イスラエル)、国家情報院(韓国)などとも情報交換を行っており、諸外国には日本の情報機関であると認識されている。
 既にそれらの情報機関は日本各地で中核派や革マル派などの極左過激派や彼らに連動する教職員、マスコミや官僚など、ありとあらゆる過激分子や北朝鮮や中国、韓国との繋がりの深い反体制派の人間が尽く抹殺されたり、行方不明になっていることを把握していた。
 その為、そうした攻撃対象を徹底的に洗うことで逆に彼らに対してこのような攻撃を仕掛けている存在の手掛かりがつかめないか、そしてそれが奇怪な重力異変との繋がりがないか期待していたのである。
 特に日本の政界の動きと変化には目を見張るものがあった。
 いわゆる、“普通の国”が行うような政策が、野党の民主党に所属している議員まで巻き込んで普通に論じられるようになってきているのだ。しかも、今までならマスメディアが大騒ぎをして報道をして狂ったようなバッシングが発生していたはずだったが、今では淡々と事実だけを報道しているだけだった。
 尤も、あの高校生達が神隠しにあった頃を境として世界各地でも奇怪な現象が起こるようになり、また、怪物や不気味な未確認生物などが現れるようになっていたのだ。
 それが頻繁に観測されていたあの不可思議な重力異変と関係があるのかを探るため、世界中の情報局員が東京を駆けずり回っていた。もちろん、そうした諜報のプロ達の活動はプロメテウスによって把握されている。
 そしてその動きを利用して最大の効果を得るための方策を練っていたのである。

 アメリカ中央情報局、通称CIAと呼ばれる情報組織はあらゆる意味で世界最大の情報組織である。
 その規模、そしてアメリカ自身の経済力に裏打ちされた潤沢な資金と技術力に支えられた恐るべき実力を誇る諜報組織であり、対外工作機関でもあった。
 その対日工作拠点のひとつは赤坂にあるホテルオークラの中に店を構える料亭「山里」と噂されている。
 同盟国である日本に対して彼らが拠点を構えて工作活動を行う最大の理由は、日本が反米勢力にならないようにコントロールする、というものだった。
 ジャパン・ハンドラーと呼ばれる勢力が米国の政界には存在する。いわゆる「知日派」と呼ばれる勢力である。彼らは日本との緊密な関係を維持することで米国とのWin-Winの関係を築き上げよう、というグループであり、ある意味では日本にとっても有益なグループだった。しかし、それはあくまでも「アメリカ合衆国にとって都合の良い日本」であり続ける限りという条件であり、決して日本をフリーハンドにさせようなどと考えてもいない存在だった。
 かつて大蔵省の官僚達のスキャンダルが暴かれて日本の政界が大混乱をきたしたことがあったが、その破廉恥なスキャンダルの情報を週刊誌にリークしたのがCIAであると噂されていた。というのも、米国の政治家自身でさえはむかうことが出来ない国際的な金融マフィアに対して対抗できる力を持っている数少ない存在が日本の旧大蔵官僚、今の財務官僚達だからである。
 その影響力を削いで国際金融マフィアとも呼ばれるヘッジファンドのグループが日本を草刈場にしようと試みたと考えられていたのだ。
 結果は日銀の巨大な金融オペレーションによって数千ともいわれるヘッジファンドが破綻し、数百人とも言われるファンドマネージャーやファンド経営者達が自殺したり行方不明になったりしたのである。
 こうしたヘッジファンドたちは米国国務省の官僚たちと繋がっているため、CIAを動かして日本のみならず世界各国の情勢を操ったりしてその莫大な資金を動かすマネーゲームの舞台にしようとするとさえ考えられていた。
 戦後の日本はそのようにしてアメリカ合衆国に都合の良い国として振舞うように裏から操られていたのである。
 当然の事ながら日本のマスコミはその強い影響下にあり、戦後まもなく行われたGHQによる検閲などの影響を未だに受けていると言われていた。その他にもKGBの影響を強く受けて設立された旧社会党や日教組、各種労働団体や朝鮮総連の影響の強い在日朝鮮人社会、KCIA(現韓国国家情報院)との関係も噂される民潭や中国に深くコミットしている朝日新聞グループなど、様々な勢力が日本という国の内部に浸透して暗闘を繰り広げているのだ。
 ジェームスはそうした勢力が日本のあらゆる場所で隠然たる影響力を行使してこの日本を揺り動かしていることを当事者の一人として感じていた。
 しかし、それももう過去の話だ。
 怖ろしい勢いでこの日本からそうした海外の情報組織や工作員達が駆逐されているのである。
 それは米国も例外ではなかった。
 日本の国会がスパイ防止法案を議案として提出した後で、それを潰すために国務省が動いていた。米国の国務省も実の所、一枚岩ではない。ジャパン・ハンドラーだけでなくチャイナ・ハンドラー、果てはロシア・ハンドラーなど様々な勢力が魑魅魍魎のように巣食っている万魔殿パンモデウスのような様相を呈しているのが実態だった。
 そして中国に深くコミットしているチャイナ・ハンドラーや商務省の対日強硬派などはこうした動きを全力で潰そうと様々な工作を仕掛けていたのである。
 だが、何人かの重要な閣僚のスキャンダルを暴く情報を週刊誌にリークしたり、強い影響力を行使できる有力者達に接触したりと、通常ならば絶対に失敗することの無いアクションを起こしたのだが、その全てが完全に空振りに終わっているのだ。
 スキャンダルの情報を伝えた週刊誌は、その担当の編集部長が謎の心臓発作で急死してしまった。そして財界の有力者も曖昧な笑顔を浮かべたまま煮え切らない態度に終始していたのである。それに加えて中国やその他の外国勢力の操る工作組織である幾つかの市民団体やNGOも、中心メンバーや有力なメンバーが次々に死亡したり行方不明になったりして機能不全に陥っているのだ。
 そして遂に国務省の高級官僚にも死者が出てしまったのである。
 その官僚は対日強硬派の中でも中核にいる人物の一人で、常日頃から日本をもっと従順な存在にするべきだ、という主張をしていた。そして今回、幾度もの対日工作の失敗にも拘らず、さらに強硬な手段を執らなくてはならない、決して日本を自由にしてはならないという主張を行い、議会にまで圧力を加えようとしていた矢先、交通事故で死亡したのである。
 事故自体はよくある信号無視による衝突事故であり、不自然な点は無かった。
 車にも工作された形跡など無く、交差点に設置されている監視カメラによる映像の分析の結果でも、運転手が信号を間違えたのか、赤信号の交差点に侵入してしまい、横から高速で走りぬけようとした車に突っ込まれたのが明白だった。
 だが、それが余りにも完璧すぎるタイミングだった。
 その官僚の事故死に混乱している間に、日本の国会はさっさとスパイ防止法案を可決してしまったのである。
 今までなら強烈な反対運動を繰り広げていたはずの新聞やテレビ報道も淡々と事実を報道するだけで、何の反応らしい反応も見せていなかった。
 そうした余りにも唐突な日本の変化に混乱をきたしているのは米国だけでなく、中国やロシア、韓国や北朝鮮も同様であった。
 しかし、いずれにしても日本がスパイ防止法案や国家機密保護の法案を可決し、同時に外国勢力からの影響を政治家に直接に及ばないように法改正を進めていることから、各国は対日戦略の変更を余儀なくされていたのである。
 
(くそっ、奴は何処に消えやがった!)
 ジェームスはもう何度も行方を見失った相手の事を考えて歯軋りをした。
 彼は密かにある日本人の若者を追跡していた。
 その青年の名は荒木誠。
 最近、自民党の榊原代議士の政策秘書となった若者であり、その経歴や能力の上でも非常に優れた人物だと評されている。だが、本国の国務省の分析では彼は中々筋金入りの“国粋主義者ナショナリスト”だと考えられているため、警戒を要するとの報告が上げられていた。
 確かに今までの彼が関係していると見られる政策立案の内容を見れば、スパイ防止法案を始めとして様々な日本の戦後レジームを脱却させるため、そして日本を“普通の国”に変革させるための様々な法案に関わりを持っている形跡があった。いや、むしろ彼が様々な政治的障害を覆してこうした法案を通過させ続けているといっても過言ではないほどの動きを見せているのだ。
 どう見ても不可解だった。
 幾等、自民党の重鎮である榊原翁の右腕として動いているとはいえ、一介の政策立案秘書に過ぎない青年が之ほどまでに海千山千の政治家たちを自由に動かせるものだろうか。
 そう考えた米国の国務省はこの青年の背後を探るようにジェームスに命じたのである。
 時々街中に出かけるタイミングを見計らって彼の周辺を洗おうとしたのだが、毎回、何処かに消えうせてしまったように行方を見失ってしまうのだ。
 まさかとは思うが、既にジェームスの存在に感づいて彼を誘おうとしているのかもしれない。
 そう考えるとぞっとするような感覚に襲われるのだが、華奢な秘書一人に特殊工作や格闘戦闘術を骨の髄まで叩き込まれたジェームスを倒せるような一般人がいるはずも無い。彼らCIAのスペシャル・エージェントは文字通り、生きている特殊兵器といっても過言ではないほどの驚異的な戦闘能力と様々な特殊工作技能を持っているのだ。
 その彼を手玉に取るような動きを見せる青年は、やはり只者ではない。
 何度も失敗を繰り返すわけには行かない。
 そう判断した国務省のチームはCIAに命じて、海兵隊の特殊部隊であるSEALを率いての作戦を依頼してきたのだ。同盟国の首都で、しかも政治家の秘書を拉致するなどという大胆どころか信頼を裏切るような真似をする作戦に大統領が実行許可を与えたことに、ジェームスは今起こっている不可解な出来事に関してのホワイトハウスの苛立ちと不安の強さを読み取ることが出来た。
 失敗は許されない・・・
 そんな緊張感と共に、若いCIAエージェントは密かに目標を狙っていたのだ。
 
 ふと横を向いた瞬間、思わずジェームスは目を疑っていた。
 見失ってしまったと思われた荒木誠が大きめの書店に入っていくのが目に留まったのだ。
 夜の東京とはいえ、まだ七時を過ぎた時間では日も暮れ切っていない事もあって街は人々の賑わいに溢れている。だが、それもあと数時間のことだ。
 妖魔や妖怪などの中でも危険な存在は夜遅い時間にその最も活動的になる。そうした危険から人々は夜九時には帰宅を始めて、そして十時までには完全に外には自衛隊員や特殊警察官以外の人間だけとなるのだ。
 防御システムが張り巡らされている居住区域内では安全が確保されているものの、それが保障されていない地域では危険すぎて夜、人が出歩くなど不可能だった。
 そして日本政府は日本人以外には防御ブレスレットを配布していないため、ジェームスたち外国人は魔法による防御無しに危険な妖魔等がうろつきまわる夜の世界を歩き回る羽目になる。本国からもそのような危険は犯してはならない、と厳重に命じられていた。
 ある程度の魔法の防御を可能にする指輪など、幾つかのアイテムを購入すればそれなりに魔法的な防御を固めることが出来るとはいえ、強大な力を持つ妖魔や魔獣を相手にするのは自殺行為だった。
 幸いなことに目標は都市部のみで活動をする政治家の秘書だ。
 上手くいけば一瞬で片が付くだろう。
 どれほど勘の良い人物でも、素人が戦闘のプロを相手にしてやり過ごしなど出来はしない。
 一瞬で決めるつもりだった。
 何度も見失いながらも、今までにジェームスたちは荒木の通るルートなどを完全に調べ上げてある。
 本を何冊か買い、店から出てきた誠を追跡しながらジェームスは作戦を開始していた。
 流石にハリウッド映画のような派手なアクションで拉致するわけには行かない。あんな馬鹿騒ぎをするのは映画の中だけだ。
 米軍の誇る海兵隊特殊チームであるSEALとはいえ、流石に東京のど真ん中で派手な銃撃戦を演じるわけにも行かない。その為、装備も隠して持てる拳銃に加えて、ボストンバッグに詰め込める消音装置つきのサブマシンガンが三丁と、極めて制限された武装しか用意していない。
「やれやれ、まさか合衆国の友好国のはずの日本で政治家の秘書を拉致する羽目になるなんてな」
 角刈りに頭を整えた海兵隊員が緊張を押し隠すように軽口を叩く。
 だが、例えそれが友好国であろうとも合衆国の国益こそが最優先される、と彼らは徹底した訓練と教育を受けている。仮に相手が同盟国の政治家の懐刀であろうとも躊躇することさえなかった。
 目標となった若者には申し訳ないが、合衆国の軍人にとって母国政府からの指令は絶対のものなのだ。
 ジェームスは付かず離れずに誠の後を追尾し続けていた。
 交代要員が何度も入れ替わり、誠の現在位置を把握しながら作戦の実行場所を定めていく。
 そして作戦が開始された。

 誠はふと何処かから子供の泣き声が聞こえたような気がして周囲を見渡した。
 だが、誰の姿も見当たらない。
 しかし微かに聞こえる子供の声は小さいながらも確かに響いてくる。

 お母さん、何処なの・・・?

 今にも泣き出しそうな声で懸命に母親を探す声は、どうやら今は放置されている工事中のビルの中からのようだった。
 恐らく、遊んでいるうちに出られなくなってしまったのかもしれない。
 誠はそう考えて、フェンスの破れ目からひょい、と身体を捩じ込ませる。埃っぽい空気が鼻腔を刺激してきた。
「おーい、誰かいるのか?」
 助けが来た事を知らせる為に大きな声で呼びかける。
 しかし、返事は無く、母親を求めてすすり泣く声だけが微かに聞こえてくるだけだった。
(まったく・・・)
 こんな見え見えの罠を仕掛けるなど、呆れてものも言えない。
 どうせ日本の政治が急激に変化し始めたことで焦りを感じたどこかの国のじゃじゃ馬がその背後で糸を引く誠に見当をつけて仕掛けてきたのだろう。しかし、こんな安っぽい罠で強引に事を起こそうとしていることから考えても、相手は相当焦っていると見える。
(相手は十二人、いや、十三人か・・・)
 幾等姿を隠していても気配を殺していなければ意味がない。
 やる気満々の気配がビルの中に渦巻いているようだった。
(馬鹿を相手にするのは疲れるから面倒だが・・・)
 恐らく誠の事を執拗に追い掛け回していた米国の犬だろう。血の気の多い連中を引き連れていることから、どうやらかなり強引な手段をとる事をも厭わない覚悟でいるようだ。
 CIAとやらも質が落ちたんだな・・・
 と、彼らの上司である米国の役人達の気苦労を考えて苦笑いをする。
 あの対テロ戦争とやらの一環でアフガニスタンに侵攻する際も、現地からの情報は全て英国の情報部の現地要員からの情報に依存したほどだ。戦略会議の場で英国の担当者から現地からの情報を求められた米軍の司令部はスパイ衛星からの衛星写真を見せて、「これが最新の写真です」と言い放ち、英国の担当者を絶句させたといわれている。
 もちろん、その英国の担当者はCIAのスパイ衛星からの写真に驚いたわけは無く、現地に人を入れることなく衛星からの写真だけに依存して戦略を立てようとする余りのお粗末さに衝撃を隠せなかったのだ。
 衛星では入り込めない、人による深い情報こそ彼ら情報組織が本来最も価値を見出す情報のはずである。
 しかしCIAは何時の頃からか、自国の技術的アドバンテージを絶対視して、人のコミュニケーションから得られる生々しい情報を軽んじてしまっていたのだ。
 結果的にアメリカ合衆国の対テロ戦争は泥沼に陥り、日に日に膨れ上がる戦費と増え続ける自国の兵士の犠牲に圧迫されて撤退することさえ出来ない状況に陥ってしまっている。
 それを経験しながらも未だにそれを変えられないというのは、CIAが既に官僚組織に変貌してしまっているためなのかもしれない。
 とはいえ、流石に戦闘訓練も受けたであろう潜入工作員と軍の特殊部隊員を相手に戦闘ともなれば侮る訳には行かないだろう。
 誠はその優しげな笑顔の裏に残酷な牙を隠しながら彼に襲い掛かろうとしている者達を誘い出そうとしていた。

 海兵隊員たちは若い国会議員秘書が廃ビルの中に入り込んでいくのを見て、作戦が上手くいったことを確信していた。
 この廃ビルの中では誰も助けに来ない上に、彼らの姿を見咎められる心配もない。
 ランデブーの為にバンがこの近くにやってくるまで十五分。
 丸腰の青年を確保するには十分すぎるほどの時間だった。
「よし、全員所定の配置につけ」
「「了解!」」
 ジェームスの指示に従って男達は素早く展開していく。ビルの中に入ってから各々の手に消音装置つきの拳銃を握り締めた。海兵隊員の一人がボストンバッグを開いて中に入れていたサブマシンガンを取り出して二人の隊員に手渡し、そして最後の一丁を自分の肩からぶら下げた。
 四人ずつチームに分かれて三方に分散していく。
 これだけの部隊を投入するのは大げさかもしれない。だが、慎重に慎重を重ねるとこの人数で逃さないようにしなければならなかった。
 万が一、青年を取り逃して大騒ぎになった日には、米国の威信は地に落ちるだろう。
 そう思うと、今更ながらに自分の行おうとしている作戦の重要さが身に染みて実感させられてくる。
 だが暗視装置ナイトゴーグルを着用して誠の姿を追っていた海兵隊員は、誠が通路の角をひょい、と曲がったのを見て、その角を覗き込んだ瞬間に自分の目を疑っていた。
 通路の先には小さな部屋があったのだが、その中には誰もいなかったのだ。
 ぞっとする思いを抱きながら慌てて部屋の中の様子を探っても、そこには誰もいない。
「隊長、目標が消えました!」
 突然飛び込んできた無線連絡に、ジェームスは驚愕していた。

 消えた、だと・・・!?

 ありえなかった。
 このビルの構造は完全に把握している。そして、二階を抜けて三階の端の部屋に向かっていったことも確認済みだ。その部屋にはレコーダーが置いてあり、先ほどから誠を誘導していた子供の声が流れるようになっている。
 その部屋は出入り口は一つしかなく、また、窓から飛び降りようにも下には一チームが物陰に隠れて待機しているため、逃げ場は無いはずだった。
 しかし、そのチームからも目標が飛び降りたとの連絡はないうえに、その監視員のバックアップチームが部屋に飛び込んでも、その部屋にはやはり誰一人として存在しなかったのだ。
「そんな馬鹿な・・・」
 目標を見失うなど、あってはならない事態だった。
 もうなりふりなど構っていられなかった。
「全力でこのビルを捜索し、目標を確保する!」
 その指示でビルの中にいる全員が慌しく部屋に飛び込み、大慌てで家捜しを始めていた。
(全く、ちょっと姿が見えなくなっただけで簡単にパニックを起こしやがって・・・)
 血相を変えて誠の姿を探す海兵隊員の姿をのんびりと見つめながら・・・・・・・・・・・、誠は思わず苦笑しそうになってしまった。
 誠は幻覚を自分自身に重ねて姿を見えなくしたのである。
 単純な幻影だ。
 もし相手が眞なら簡単に気配を探られているだろう。
 だが海兵隊員はそんなことに気付く様子さえなく、血眼になってビル中を探している。
(さて、そろそろ片付けようか・・・)
 誠の狩りが始まった。
 
 
 

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