~ 2 ~

 理恵は毎日のように報道される韓国の日本に対する宣戦布告のニュースに不安を隠せなかった。
 幾ら古代語魔法を使えるとはいえ、彼女が知っている呪文は初歩中の初歩だ。<眠りの雲スリープ・クラウド>の呪文で相手を眠らせることができたとしても、そんな呪文で眠らせられるのはほんの数人だ。逃げ出す事さえできないだろう。
 TV旭の報道番組でも馬鹿馬鹿しい奇麗事や机上の空論を叫ぶだけの自称知識人やコメンテーターは視聴者からの激しい非難に晒されて苦しい言い訳に終始していた。
 そもそもそのようなコメントを発するコメンテーターや解説者なども実のところある意味ではパンダのような存在としてテレビに出ることが許されているだけで、報道各社は既に政府に対する非難や反体制的な報道は一切行わないようになっている。
 それが証拠に反戦を掲げてデモを繰り広げる自称市民団体、実際にはその混乱に乗じて体制批判を行いたい革命派崩れの団体に関してもさらり、と触れる程度で政府の対応を冷静に、客観的に報道するに努めていた。
 韓国人である水蓮も、今回の韓国政府の“宣戦布告”には呆れかえると同時に本気で腹を立てている様子だった。
 既に北朝鮮の政府内部はプロメテウスによって完全に支配されている。
 知らぬは金正日唯一人だろう。
 そしてその背後にいる中国の勢力にも巧みに潜り込んでいるのだ。そして北朝鮮に対して相互不可侵条約を結ぶように手配を進めていた。
 既に北朝鮮の朝鮮労働党の幹部や人民解放軍の幹部、中国共産党の要人や中国人民解放軍の中核には魔法で支配されたり、魔神や魔法生物に入れ替わられた者達がその隠された任務を遂行するために静かに時を待っている。
 そして余りにも静か過ぎると怪しまれるために、わざと日本を非難する口調で報道官などを通じてコメントを出させるなどの演技を行わせているほどだった。
 要所要所を押さえているとはいえ、未だに反体制・反権力を叫んで共産革命を夢見るような馬鹿者も存在する。そうした人々はありとあらゆる手段で日本政府の韓国への強硬な対応を非難し、撤回させようとしていた。

 国会の一室では政府自民党の選出議員たちによる会議が開かれていた。
 いつもの光景である。
 保守系を自認する自由民主党にも、様々な考え方の議員が属し、また長年の与党政権政党としての時間が様々な場所に澱のように付着し、腐敗臭を放っていた。
 数人の有力議員を中心として、彼らの派閥や協力関係にある議員達が押し進める政策にも、様々な利権団体や彼らの支持団体への利益誘導の色が見え隠れする。自民党の有力者である野村は、いずれは彼の後継者として今の権力基盤を引き継がせたいと考えている小谷と共に、親アジア政策勉強会を立ち上げていた。
 親アジア、と評するものの、実際には外務省チャイナスクールを中心とした親中、新北朝鮮派の議員や、在日朝鮮人、在日韓国人がひそかに支援する人権団体をバックボーンとした団体だった。
 野村自身もかつて軍人として第二次世界大戦に行軍した経験から、外交や軍事面ではいわゆるハト派であり、中国や朝鮮半島に対しての贖罪の念を持っている人物だった。
 そのため、そうした人物を御しやすいと考えたのか、中国利権や北朝鮮の砂利利権を抱える者たちは彼を中心として様々な策謀をひた走らせていたのだ。そして、そうした輩には日本の国益よりも自らの利権や既得権益を優先する者も少なくは無かったのである。いや、むしろそのような人間こそが生き残ってきたのだといっても過言ではない。
 普段から日本の自立を提言する榊原などの支持者達からは「反日売国奴」などという言われ方をしているが、彼自身は「あれほどの迷惑を近隣諸国に与えておきながら、どの口でそのような事をいえるのか!」という信念がある。
 今年に入って急に小渕首相が脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となった後、彼は一日も早く日本の政治を通常体制に戻さなければならない、との思いで、いわゆる密室の会合を開いて林善一を首相にしたのだが、これはマスコミによって旧来の密室政治手法である、と非常に厳しいバッシングを受けて、林の支持率は日に日に低下している有様だった。
 いずれにしても、彼ら政治家は日々の仕事をこなし、立法の為の勉強と根回しを繰り広げていくことだけを淡々と実行していた。
 チャイナスクール出身の佐藤は故小渕首相が江沢民中国国家主席(当時)の来日時、江主席の日本に対する謝罪要求をはねつけたことで、小渕に対して非常な苛立ちを覚えていたらしく、小渕政権下で策定された周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)などの重要法案に対し、「アジアからの信頼を損なう」として激しく反発していたのである。
 こうした政策の動きの裏側には様々な金脈が流れ、それが日本の政治に密接に絡んでいることはもはや一般常識ともなっていた。いや、それは日本だけでなく全世界共通の認識であろう。
 日本の悲劇はスパイ防止法案などの対抗策や有効な対諜報組織が無いために、そうした諸外国からの攻勢に対して常に受身の対応をせざるを得ない、という現状であった。
 そして今も、榊原を中心とした保守派グループはそうした法案を提出し、日本の国益を最大限に引き出す、そして中国や北朝鮮を封じ込めようとする為の体勢を作り出そうとしている。そんなことになれば長年の間に築かれてきた中国共産党や北朝鮮労働党などとの安定した関係を拗らせ、この極東アジアに対してどんな厄災を齎すか、判ったものではない。
 現に、1985年の第102通常国会で自民党所属議員により衆議院に議員立法として提出された「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」(http://ja.wikipedia.org/wiki/スパイ防止法案)など、そのような国防に関する動きは常にある。
 このときは全ての野党が猛反対をした上に、マスコミの厳しい批判に晒されて審議未了で廃案となったものの、そうした国防派の動きは油断が出来なかった。
 今の時代は真に国際協調が求められ、自国の利益のみを追求する時代ではない、とあの頭の古い帝国主義者達には理解できないのだろう。そう佐藤は常々訴えていた。
 そうした動きを警戒して、佐藤は常にリベラル派、親アジア派の絆を固めようと動いているのだ。
 驚いたことに、最近榊原の新しい秘書となった青年は、まだ大学を卒業したばかりの子供といっても過言ではない青年だ。そんな年齢の者たちまで「媚中・媚北の売国政策に反対する」などといわれた佐藤は、その余りにも強い気迫に気圧されていたほどである。
 危険な予感がしていた。
 確かに佐藤の目から見ても江沢民中国国家主席の日本に対する謝罪要求は余りにも日本人の誇りや感情を軽んじているような気がする。
 それに反発して、彼らのような若い世代が中国に対して嫌悪感を抱いてしまうのは、しかし、それは佐藤たち大人の世代の責任だ。
「やれやれ、あの跳ねっ返りにも少し大人の世界の事情を理解してもらわなければならないようですね」
 少し疲れた声で小谷は呟いた。
 あの荒木という青年は榊原の指示で自民党だけでなく民主党の保守派の議員にまで走りまわり、徐々にその存在を知られ始めている。特に彼は英語だけでなく中国語や韓国語、ロシア語、スペイン語、アラビア語やドイツ語まで自由に操れる語学の才能があるだけに、榊原にとっても極めて有用な人材だ。しかも霞ヶ関の役人達が出してくる政策や提言などを恐ろしく深く、一瞬で見抜いて、巧みに隠されている既得権益や裏の意味さえ見抜いてくるだけに、官僚達にさえ警戒心を抱かれ始めているほどだ。
 だが、それはある意味では好機だった。
 高級官僚の既得権益に手を出したものは確実に彼らに抹殺される。その上で、彼が保守派の代議士の秘書だということは榊原にさえ傷を負わせることが出来るかもしれない。
 そう期待して、佐藤は懇意にしている朝日新聞社の政治部の記者にそれとなく荒木の話をした事がある。
 外務省の後輩からは、荒木が文部省管轄の女性の権利保護に関する新しい政策の提案にケチをつけた、との話が伝わってきている。その話に小谷と佐藤はほくそえんでいた。
 女性の人権の保護に反対する男性優越主義者、とのレッテルを貼られたら、もう政治の世界では生きていけないだろう。確かにフェミニズム運動の結果として巨大な利権構造が生まれているものの、マスコミの一部や女性人権拡大運動に身を投じてきている役人達はあろうことか国連の女性人権部とも繋がりがある。
 これで厄介払いが出来る、とリベラル派の議員や官僚達はほっと息をついていた。

「Damn! It's comming again!」
 若い男がスクリーンを覗き込みながら悪態を付く。
 そのスクリーンには地図が描き出され、そして様々な色で何かの分布図のようなグラフィックが重ねられていた。そして全体的に青みがかった映像の中に一点だけ黄色から橙色、そして赤を経て白く変わっているスポットが表示されていた。
 他の男達も慌ててそのスクリーンを覗き込む。
「なんて事だ・・・また起こったのか。これほど強い重力の歪みが発生するなど・・・、一体、これのエネルギー源は何なんだ!?」
 一人の男が呆然と自問した。
 それもそのはずだ。彼らの目にしているスクリーンには重力の分布が表示されているのだが、僅かに一箇所だけ異常な重力の歪みが発生しているのだ。
 NASAの科学者の見解ではこれほど強い重力の歪みが発生している中心では、時空の穴が開いている可能性が高いとの事だった。
 だが、普通それほどの異常な重力現象が起こっているのであるならば、当然の事ながら気象や環境に影響が及ばないはずが無い。
 しかし、そのような異常の兆候さえないという事が、その現象の特異さを物語っているのだ。
「もしかすると、人為的な現象という可能性はありませんか?」
 オペレーターの一人が恐る恐る、といった様子で尋ねた。その言葉に彼の上官や同僚が目を剥いて口元を歪める。
「人為的、とはどういう意味だ! こんな現象を引き起こせる力や技術を持った存在がこの人類の中にいるとでも考えているのか!? この合衆国を差し置いて、だぞ!」
 もし、そんな存在が実在しているのであれば、それは脅威以外の何者でもない。
 そして仮に、その存在が合衆国に匹敵するだけの科学力と経済力を持つ国家であったなら、想像するだけでも恐ろしい。
 だが、データはその可能性を暗示しているように思えてならなかった。
 この奇怪な現象がおきているのは、あろうことか世界第二位の経済大国にしてある意味では米国をも凌駕する科学力を誇る東洋の大国である日本の首都、東京なのだ。
 米軍の誇る特別情報調査局分室、それは決して表に出ることの無い徹底した機密のヴェールに隠された組織だった。国家安全保障局(NSA)の内部組織として、一般のNSA職員はおろか、彼らの中でさえその存在を知るものはごく一部の上級幹部だけである。ましてや、議会の中では合衆国大統領と副大統領、そして国防相以外にはその存在は知らされていない上に、たとえ彼らが引退したとしてそれを口外することは絶対にあり得なかった。
 調査局分室の提出した報告書は、具体的に名指しをすることなく、「人為的に行われた重力の歪曲である可能性がある現象が東京やその近郊でたびたび観測され始めたこと」だけが簡潔に纏められて合衆国大統領宛のレポートとして提出されていた。
 当然のことながら大統領は在日米軍やCIAなどを駆使して情報を得ようと試みていたのだが、NSAの特別組織でさえ正体が掴めないものが相手では芳しい結果が出てこなかったのである。
「だが誰が、一体、何の目的でこんな事を引き起こしているんだ?」
 その質問は困惑に満ちていた。
 当然ながらCIAを通じたり議員同士の繋がりを利用して日本の政治家や警察組織、防衛庁などの官僚達にそれとなく探りを入れてみたものの、彼らは何のことを言っているのかさっぱり理解していない様子だった。もしかしたら自分達の庭で何者かが危険な火遊びをしていることさえ気が付いていないのかもしれない。
 唯一、文部科学省下の組織であるISAS(宇宙科学研究所、2003年10月に宇宙航空研究開発機構に統合された)がこの重力の歪みについて観測をしていたものの、それが何なのかは現在調査中だとの答えが得られただけだった。
 この重力異変を捉えているのは流石の観測技術だと感心したものの、彼らはそれの軍事的脅威の可能性や政治的な意味合いを理解しておらず、あくまでも科学者としてこの現象に興味がある様子だった。
「まったく、暢気のんきな連中だ」
 半ば以上呆れ、そしてその危機感の無さに苛立ちを感じながら、特別情報調査局分室長は今後の動きをどうするか、慎重に検討し始めていた。
 アメリカ合衆国に第二次世界大戦当時からすむ、いわゆるニューカマーではないアメリカ人には心の何処かで日本人に対する恐怖を抱いている者が少なからず存在する。それは第二次世界大戦時に原子爆弾を投下して広島と長崎を破壊した報復を、いつか日本がアメリカに対して行うのではないか、という恐怖だった。
 60年前に国土を焦土にされた日本が、わずか数十年で復興、高度成長を果たして世界第二位の経済大国、技術大国として蘇った姿は米国人に対して不死身の敵としての印象さえ与えたこともあったのだ。
 気が付けば一部の特殊な分野を除いて日本製の工業製品は世界を席巻し、アメリカ産業の輝ける一角であった自動車産業は既にトヨタやホンダなどの日本勢に劣勢にたたされている。半導体産業自体は確かにコンピュータ用のCPUはインテル社のほぼ独占状態にあるものの、日本も少なからぬ数の独自CPUを設計、製造する能力を持ち、OS自体もTRONという組み込み分野では世界のトップシェアを誇るほどだ。要するにPCという箱物を除いて見れば、世界の半導体産業も日本が極めて大きなプレーヤーの一人となっている。現に地球シミュレーターは世界最高の実力を誇ったスーパーコンピューターであり、今でも日本は世界でわずか数カ国しかないスーパーコンピューターを独自設計できる国の一つなのだ。
 そうした恐るべき科学力を持ち、米国の軍事費を除いたGDPの総額に匹敵するGDPを誇る国がある、というのは米国にとって悩ましいものであった。
 ましてや、その国はかつて自分達が打ち負かしたはずの東洋の帝国だったのだ。
 打ち破ったはずのかつての敵国が、今は同盟関係にあるとはいえ自分達に匹敵する国力を誇る国として復活している、というのは恐るべき重圧感を合衆国中枢部に与えていたのだ。
 そんな国の中枢部が、こんな異常な事態に対してただ何も気が付かずにいるなどとはあり得るだろうか、と局長は考えていた。むしろ、今までの平和ボケの仮面をかぶったままですっとぼけている可能性のほうが高いと推測していた。
 何せ相手は日露戦争で帝政ロシアを転覆させ、白人国家に対して初めて敗北を刻み付けた日の昇る国にして、あの大韓航空機爆破事件でも脅威の傍聴能力の一端を見せ付けた情報組織を持つ国家である。
 壮年の情報局長は決して日本という国を侮っていない。
 平和ボケの商人でしかない国家が世界随一の経済大国に張ることは不可能だ。欧州諸国や米国などと丁々発止に渡り合い、資源を奪い合ってマーケットの争いに打ち勝たねば今の世界で勝ち抜いて生き残ることは出来ない。それを現実にやり遂げている国家が無能なはずが無いではないか!
 そう判断した国家保安保障局はCIAの特殊チームを密かに召集し、情報収集作戦を開始していたのである。それは米国だけに限ったものではなく、中国やイスラエル、ロシア、韓国、欧州諸国や北朝鮮など、およそ考えられる限りの諜報組織が東京に終結しつつあったのである。もちろん、日本も自衛隊の特殊チームや情報本部などがカウンターインテリジェンスや独自の情報収集活動を開始し、東京は熾烈な情報戦争が勃発する寸前の状態であった。

「くそっ!、奴等はどこに消えちまいやがった!」
 ジェームスは苛立たしげに呟きながら東京の雑踏の中を歩き回る。
 少しラフなジャケットを着こなしている金髪の青年は、しかし、東京では決して珍しくも無い存在だ。この東洋一の大都市には世界中から人々が集まってくる。金髪碧眼の“外人”など、誰もの視界の中には数人は存在しているだろう。
 そして、彼は他にも世界中から集まっているだろう情報組織のメンバーの一員であることも、当たり前のような事実だった。NSA-国家安全保障局からの報告に従い、CIAのエージェントであるジェームスは東京での調査活動を極秘裏に開始していたのである。
 しばらく調査していた結果、彼は確かに不可解な出来事が起こっていることに気が付いていた。
 林間学校に出かけた学生達が突如、神隠しにあったように消えうせてしまった出来事。その中には以前、コスタリカで極左共産ゲリラに襲撃をされてたった一人生き残った少年も含まれていたのである。
 この少年が生き残った現場は、流石のCIAやNSAでさえ説明が出来ないほどの異常な状況だった。
 何しろ、用意周到に襲い掛かってきたゲリラ達の痕跡は見つかった。それも、数十人規模の部隊の足跡や薬きょう、銃弾などがこれでもか、というほどにあたり一面にぶちまけられていたのだ。
 だが徹底した調査の結果、彼らの足跡はほぼ一方向にしか確認されていなかった。つまり、待ち伏せを行って襲撃をしたにもかかわらず、彼らはその場から撤退していないようにしか見えないのだ。しかし、その周辺にはゲリラの死体も遺品も何も残されていなかった。たった一人、右手にほぼフル装填されたカートリッジを装着した自動小銃を握り締めたまま、両手両脚が完全に自由だったにもかかわらず眉間を極至近距離で打ち抜かれた男の死体を除いて。
 その男の頭部を打ち抜いた銃は、そのすぐ近くでうずくまっていた少年の手に握り締められていた。少年はたった一人、息絶えた現地人の少女の身体を抱きしめたまま一言も喋ることなくじっと蹲っていたのだ。
 少年の名はジェームスにも覚えがあった。
 日本の自由民主党のナンバー3だった古老のたった一人の孫息子。そして皇室男子直系の血を引く、日本保守派が熱望してやまない未来の旗頭の最有力候補の一人。
 あの悲劇が発生した直後、あろう事か自民党の重鎮の一人、榊原が直接コスタリカに参上して事後処理と少年の保護にまで動いたほどの事態だったのだ。
 如何に自らの恩師の孫息子であり、将来的に非常に重要な意味合いを持つ少年のためとはいえ、日本の政治の中枢を担う男がその日のうちに動くなどとは尋常ではなかった。
 そんな少年が行方不明になっている、しかもこれほど不可解な事件が起こる渦中には、必ずその少年がいるのだ。
 ジェームスはそのことが常に頭の中に引っかかっていた。
 また、そんな少年が突如行方不明になったにもかかわらず、日本の保守派政治家や財界人などの動きに不自然なものを感じるのだ。もちろん、大慌てで行方を捜査したり、緊急の会合などを頻繁に開いている。それ自体はなんら問題は無い。むしろ、それさえせずにいた場合、余りにも間抜けな醜態を晒していることになるだろう。
 だが、鍛え抜かれたエージェントとしての勘がジェームスに何かを訴えかけていた。
『余りにも綺麗過ぎる・・・』
 言葉にすればそういう感覚なのかもしれない。
 保守派政治家たちの騒動や財界人、旧華族などの動きが、余りにも予想通りの動きのような気がする。
 そして、何故かリベラル派の動きも鈍いような気がする。
 これほどまでに保守派が動揺している現状はリベラル派にとっても最大の政治的なチャンスのはずであり、事実、野党側の動きは一時高まりを見せた。しかし、その動きは見る見るうちに失速し、今では息をじっと押し殺しているかのような状態なのだ。
 確かに子供達が神隠しにあった、としてその徹底調査や真相究明などを訴える声は連日聞こえてくるし、それを米軍の極秘超兵器の実験に巻き込まれたのだ、という馬鹿馬鹿しい陰謀論に至っては国会でわざわざ言うようなことか、と国民にさえ馬鹿にされているような有様だ。
 それに、マスメディアも謎の神隠しをおどろおどろしい口調で報道してはいても、ジェームスには“余りにも予想どおりの反応”という感覚しか引き起こしてこないのだ。
 だが流石に情報戦争の中に長く身を置いてきたジェームスですら、“魔法”という異界の知識と力を行使した恐るべき作戦が進んでいることを知るすべは無かったのである。

 不意にかかってきた電話に、荒木は「やれやれ、やっとお出ましか・・・」と呟く。
 どうやら朝日新聞が彼の指摘した文部省の女性の権利関連の政策に対してケチをつけたことで、明日のスクープにするために吊るし上げの準備を始めたようだった。
 少なくともインタビューをしないことには記事にすることは出来ない。そんな事をすれば逆に告訴されて傷を負う危険性もある。もっとも、荒木のような単なる政策秘書相手ではたいしたことは出来ないが、榊原翁ほどの人物に対しては慎重に手を打ってくるだろう。
 だからこそ、彼は榊原の身辺警護もかねて、彼の傍に待機しているのだ。
「さて、こんな時間に来る、という事は例の件だろうな」
 榊原は面白そうに答え、そして立ち上がった。
「よろしく頼むよ」
 老人は、しかし久々に大勝負を仕掛けることを楽しみにしているような表情で応接間に向かっていった。
 田所、と名乗った記者は、悠々とソファーに座りこみ、そしてコーヒーに口をつける。
 差し出された名刺には朝日新聞・社会部記者と書いてある。
 アカの巣窟だな・・・、と榊原は感心していた。
「夜分遅くに恐縮します。実は、ある話を聞きまして・・・、実は榊原先生が、今回、文部省が働く女性の支援を拡大するための基本法を提示した際に、予算の規模の大きさと関連団体との関係に関して質問をされた、と伺っております」
「ああ、その話ですか。で、私に何を聞きたいと?」
 榊原は神妙に聞き返しながら、「やれやれ、腹芸もなしに正面から掛かってくるとはな。朝日新聞の社会部の記者も質が落ちたものだ・・・」と内心呆れ返っていた。
「提示された案に対して、疑問に思うことは聞かねばなりませんからな。何せ、連日のように報道が指摘しているように、わが国の国債発行額は年々増大している。将来の世代のことを考えれば、あらゆる案件に対して無限の予算を振りまくわけにもいきますまい」
 田所は先日、朝日新聞が特集を組んだ日本の国家予算の危機という特集の内容を使って切り返してきたことに内心で舌打ちを打っていた。
 確かに日本の国家予算の中でも国債の発行金額は膨大な金額だ。それを聖域の無い予算の見直しを行い、財政の健全さを取り戻すための努力をしろ、と記事をぶちまけたばかりなのである。それを上手くこの女性の権利拡大の法案へのカウンターに用いてくるとは。
 あの荒木とか言う青年はよほど頭が切れるらしい。戦前回帰しか頭に無いような老人に、驚くほどの入れ知恵をして、文部省案の肝心の部分を殺してしまっている。
(厄介だな。寸分の隙も無い理論武装だぜ・・・)
 フェミニズム推進運動に熱心な同僚の女性記者の怒りが爆発するのは目に見えていた。
 だが、流石に海千山千の記者である。
 榊原の話の内容を上手く継ぎはぎして、書きたい内容の記事を掛けるだけの言葉を引き出していた。
 全体としては正論できちんとした話の内容なのだが、言葉の前後を端折ったり、一文だけを抜き出して持ってくることで幾らでも印象を操ることは出来る。その上で取材テープがある以上、編集権を使ったとすれば、後は彼の思うとおりだ。
 暫くして田所は榊原邸を後にした。
 同僚のカメラマンも一緒に出てきた後、取材用の車に乗り込んで携帯電話を取り出そうとする。
 と、その瞬間、コンコン、と窓を叩かれる音が響いて、田所はカローラの窓の外を見た。そこにはすらりとした背の高い青年が窓をのぞき込んでいた。
「ありゃ、あんたは榊原先生の・・・」
「はい。荒木誠、と言います」
 そして、田所は違和感を覚えていた。
 どうして政策秘書がこんな時間、こんな場所にいるのだ?
 やれやれ、口止めでもしに来たのか、と考える。だが、もう遅い。こちらにはテープがある以上、確かに言ったとして堂々と報道が出来る。自民党の重鎮の一人である、しかも保守派の超大物を辞任に追いやった大スクープを取ったら、報道冥利に尽きるではないか!
「なるほど、自分の自己顕示欲と手柄争い。テープを利用しての編集権の行使。考えたものですね」
 田所はぎょっとした。
 まさか、こいつは録音をしたことを見抜いていやがるのか?
 荒木は面白そうに目を細めた。
「よくありますよ。テープには録らない、そう言いながら取材の正確性を期すために、と無断で録音をして後で利用する。しかも本当に録ったテープを利用するから、報道の編集権だとして印象操作を行えるような言葉の継ぎはぎを行える」
「・・・それで?」
 荒木の言葉に田所は内心で冷や汗をかいていた。
「今回の報道、考えたほうが良いですよ」
 記者は逆にほっとしていた。
(よっしゃ!、これで政策秘書による脅迫、ってことになるぜ!)
 だが、次の瞬間に耳に飛び込んできた荒木の言葉に田所はあっけにとられてしまう。
「なりませんよ」
 流石に田所は荒木の言葉に言葉が詰まっていた。
「ならない・・・だと?」
「ええ。なりませんよ」
「・・・どういう意味だ?」
 田所は不気味な感覚を覚えていた。どうしてこいつは俺の心の中を読んでくるように、突っ込んできやがる?
「貴方には報道することは出来ない、という事です。心の中を読む、という事は、相手の心も操れる、ということを意味するのですよ」
 その瞬間、田所はぞくり、と冷たい感覚が背中を奔るのを感じていた。
 後ろの席に座っているカメラマンの堀田を振り返る。確かに堀田は座っていた。だが様子がおかしい。何も考えていないように見える。ただ、虚ろに空中を眺めて身動ぎ一つしないのだ。
「お、おい! て、てめえ、堀田に何をしやが・・・、ひぃっ!」
 田所は荒木向かって振り返った瞬間、罵声が悲鳴に変わるのを自覚していた。
 そこには政治家の政策秘書の姿は無く、一人の女の姿があった。
「ゆ、夕子・・・」
 まだ若い女だった。
 哀しげな表情を浮かべてじっと田所を見つめている。
「お、おい・・・ そ・・・んな・・・馬鹿な・・・」
 苦い記憶と胸を締め付けてくるような罪悪感が田所の心を満たしてきた。
 大学時代の彼女だった。
 その当時、田所はただの三年生の学生でしかなく、夕子が妊娠を告げたときも為す術も無かったのである。煮え切らない態度をなじられた事で、田所は夕子の傍から逃げ出した。
 大学を中退して働くことも出来ず、そして夕子に対しても責任を取れないと考えて、冷静になりたかったと考えていた。しかし、それは結果として最悪の結末を招いていた。
 一週間後、アパートに帰ってきた田所は、そこで大量の睡眠薬を飲んでひっそりと命を絶った彼女の姿を見ることになったのだ。
『あなた・・・酷い人・・・どうして逃げたの・・・?』
 昏い声で夕子が語りかける。
 そっと下腹部を擦った。
 薄く白い肌が怪しく輝くように見えていた。気が付くと夕子は田所の座る運転席の横、助手席に座ってそっと田所の頬に触れていた。
「ひ、ひぃっ!」
 腐臭と血の臭いが閉ざされた空間に充満していく。
 
 おぎゃあ・・・おぎゃあ・・・
 
 何処かからか赤ん坊の泣き声が聞こえ始めていた。田所はもう何も考えられない程の恐怖に身を震わせているだけだった。
 夕子の責めるような言葉だけが淡々と耳に響く。
 耳を閉ざして絶叫しても、その声はまるで頭の中に響くように聞こえ続け、田所の罪悪感と苦しみを掻き立て続けてくるのだ。
 何かぬめぬめした生暖かい液体のようなものに全身が濡れていく感覚があり、エリートである社会部の記者は訳もわからないまま只管脅え、悲鳴を上げ続けていた。
 不意にずしり、とした重さの何かが膝の上に圧し掛かってくる。
 反射的に目を開いた田所は、それが人間の赤ん坊であることを確認するや否や、狂ったような絶叫を上げて車から飛び出していた。しかし、その赤ん坊はしっかりと田所の腰にしがみついて離れようとしない。
 怪鳥のような潰れた悲鳴を叫び続けながら、田所は必死になって赤ん坊を引き剥がそうとする。
『そう・・・また逃げるのね・・・あなた・・・ずるい人だわ・・・』
 夕子の冷たい言葉が田所の心に突き刺さる。
 もう何を考えているのか、自分が何をしているのかすら正常に判断が出来ないほど意識が混濁していた。
「ち、違う・・・逃げてない・・・俺は・・・」
『じゃあ、どうして私達の赤ちゃんの手を離そうとするの・・・?』
 その言葉に、田所はぎくり、と身動ぎして恐る恐る赤ん坊を見つめる。
「お、俺達の・・・赤ちゃん・・・?」
 生まれてこなかった命・・・
 それが今、自分に縋り付くように自分に抱きついている。
 自分をただ責め続けた後悔の日々。
 いつの間にかそれを忘れて、ただ記事を追い求めて走り続けていた日常。
 もし、この子供を抱きしめたなら、多少は慰めになるだろうか・・・
 田所はもう何も考えることなど出来なかった。
 優しく赤ん坊の脇を掴んで、そして持ち上げようとする。
 彼自身は気が付いていなかったが、もう彼はまともに物を考えることが出来なくなっていた。
 夕子が生んだ自分達の赤ん坊。
 その愛しいわが子の顔を一目見ようとして田所は赤ん坊の身体を掲げ、自分の目の前に掲げる。
 そして彼は見た。
 自分の両手の中にいる赤ん坊。小さな手足。ふっくらとした胴の感触。しかし、それだけだった。
 赤ん坊には頭が無かった。
 
 
 

~ 3 ~

 
inserted by FC2 system