~ 4 ~

 夜更けになっても東京という巨大な街は眠ることが無いかのようにネオンサインとビルの明かりがぎらぎらと通りを明るく照らしている。
 赤坂のとある料亭では密かに、しかし政界の中でも錚々たる顔ぶれが集まっていた。もちろん、そのような事があるのでは、と新聞社や雑誌社の政治部の記者たちが密かに張り込んでいるのだが、今日ばかりは彼らに嗅ぎ付けられるわけにはいかなかった。
 黒塗りの高級車が一台、その料亭の裏口に滑り込むように停まった。そして少しの間だけ様子を伺うように静かに停まっていた後、後部のドアが開いて一人の初老の男性が降り立つ。
 民主党の副幹事長、横井修造だった。
 日教組の元委員長であり、未だにその絶大な影響力は全国の日教組に対しても強い発言力を持っていることからも容易に想像される。
 横井が料亭の裏口からそっと入ろうとしたとき、不意に声が掛かった。
「横井先生でいらっしゃいますか?」
 一瞬、驚いたものの横井は平静さを保ったままその声の主を振り返る。
 くたびれたスーツを着た、無精髭の伸びた男だった。年齢は二十代の後半だろうか。
「お忙しいところ申し訳ありません。私は週間潮流の政治部の記者をしております、森口と申します」
 横井はじろり、とその男を見てからにやり、と笑った。
「ははあ、さては今夜、ここで秘密の会合がある、とでも踏んで待ち伏せていたのかね?」
「おっしゃる通りです。永田町詰めの記者の間では、自民党の榊原元副総裁が裏で手を引いている、と噂されているリベラル潰しの活動に対する対応を図る密会が予定されている、と持ちきりですからね」
 その噂はある意味で的を得ている。
 北朝鮮の金正日総書記が日本人の拉致を認めてから、榊原の動きは余りにも素早かった。まるで、あらかじめこの事を予測していたかのような動きだったのだ。
 そのため、民主党だけでなく社民党や共産党もその電撃的な動きを怪しんでいた。
 だが、あっという間に北朝鮮から五人とはいえ拉致されていた日本人を取り戻したことで、世論は今泉首相と彼の後見人である榊原を絶大なまでに信頼しているのだ。
 そしてその北朝鮮に対する制裁の中で、北朝鮮関連の利権を徹底的に潰しに動いている。
 また、これも榊原が一枚噛んでいる、と噂される某民間放送局の買収も気になる動きだった。この放送局は以前にも北朝鮮との繋がりが噂され、また、朝鮮総連や在日朝鮮人の社会とも深い関係が噂されており、それを潰しに掛かったのだろう。
 結局、その放送局は外国資本のファンドに全株式の89%を握られて一度廃業する羽目になったのだ。そして、残った建物や機材などはそのファンドを動かしていた日本人青年実業家と彼の仲間が再度買収し、そして保守派の小さなメディアがその巨大ネットワークを丸ごと飲み込むこととなったのである。
 その結果として、その放送局からはリベラル色の強い職員や左派傾向の職員、キャスターやアナウンサーは躊躇無く解雇されていた。一度倒産し、破綻した後に選別の上での再雇用、という方法を用いたため、法的にも問題がない。
 ケチの付けようの無いやり方は今までの保守派の動きと違って巧みな戦略によって動かされている。
 同じような方法で別の戦前から存続する大手メディアもまた買収されていた。この放送局は同系列のリベラル派の新聞社が株式の三分の一以上を持つという、事実上の安定大株主だったのだが、やはり外国籍の株主の制限である20%を超えた段階で、これが逆に裏目に出ていたのだ。
 その株が紙切れになる、という状況から一瞬にして大暴落をした放送局の株は同時にその新聞社にも深刻なダメージを与えていた。只でさえ販売部数の減少により収益が悪化していたその新聞社は一気に経営が悪化し、そしてそのことを嫌った資本家たちは雪崩をうつようにプロメテウスが仕掛けた買収策に飛びついてきたのだ。
 本来、資本家は株主となることで企業を支援し、そして自らの資本を増やすことを目的として投資活動を行う。それが大幅に損を蒙る可能性が出た、という状況では株を手放さないはずが無い。
 そもそも、放送局にとっては放送免許こそがその事業の根幹である。それが免許停止になる、という状況では事実上の破綻に追い込まれることになる。そのため、プロメテウスの仕掛けた買収に乗る以外に方法が無かったのである。
 結果としてその放送局も新聞社も丸ごとプロメテウスに乗っ取られる事となったのだ。
 日本の大手メディアの中で最もリベラル色が強く、そして親アジア的な色合いの強いメディアが立て続けに買収されたことで、民主党も社民党も非常な危機感を感じていた。だからこそ、早めに対応策を練る必要があるのだ。
「まあ、色々と噂が流れているようだが、私は今日はゆっくりと食事をしに来たのだよ。それに、密会があるならもっとバタバタしていてもおかしくないんじゃないかね?」
 そういいながら横井は引き戸をくぐり、上品な佇まいの料亭の中へと消えていった。
 森口は暫く物陰からその料亭の様子を伺っていたが、幾ら待っても誰も現れようとしないことに待つのを諦め、ひょい、と肩をすくめた。
「やっぱりガセネタだったか。まったく、つまらねえ時間を使っちまった」
 一人呟いてとぼとぼと闇の中に歩いていく。流石にこれだけ待ちくたびれて何も収穫がありませんでした、などとデスクに言うのは気が重い。あの赤ら顔が怒りの余り引きつっていくのが目の前に浮かび上がったような気がして、思わず森口は身震いをしてしまった。
 ネタが取れなかったときのデスクほどおっかないものはこの世には無いな、そんなことを考えながら森口はとぼとぼと歩き去っていく。
 その姿は少し離れた場所からじっと見られていた。
「やっと離れましたね」
 清潔そうなスーツを着た壮年の男が老人に語りかける。この料亭には表口と裏口以外にも極秘の入り口があった。
 それは実は隣の古い雑居ビルである。
 そのビルの中から地下に降りると、そこからそのまま料亭の地下にある特別の部屋へと繋がり、そしてその上にある特別室へと通じているのだ。ここはそうした秘密の構造と従業員の口の堅さで政治家や実業家たちから篤い信頼を置かれている。
 どんな密会を誰としたとしても、それが外に漏れる事は絶対になかったのだ。
「そうだな。まあ、これだけの大騒ぎがあちこちで行われているのだ。誰がこのような会合を持ったとしてもおかしくは無い、と考えるだろうな」
 もしかしたら榊原か保守派の誰かがこの会合のことを嗅ぎ付けて、ブンヤに情報を流したのかもしれない。
 だとしてもこの会合は絶対に行わなくてはならなかった。
 あの放送局と新聞社の買収劇を見ても、この国の保守派が一気に情勢を決めようとしているのが容易に理解できる。だからこそ、先の大戦の反省に立った親アジア平和主義の我々が敗北するわけにはいかないのだ、と老人は心に誓っていた。
 あの地獄のような戦争を生き延びた老人にとって、保守の躍動とはすなわち戦前への回帰に他ならなかった。だからこそ、新しい日本の誕生を願ってその活動に自らの人生と命を費やしてきたのだ。それなのに、この期に及んで戦前の亡霊が蠢いていることが不気味で、そして何よりも恐ろしかった。
(この戦い、絶対に負けるわけにはいかぬ・・・)
 そう心に噛み締めながら廊下を歩いていく老人とその秘書の姿を見ているものがいたことに、誰一人として気が付いていなかったのは不思議ではない。その視線の持ち主は生身の肉体を持っていなかったのだ。
 
 同じ頃、柴田は自分が籍を置く宗教法人の本部を訪れていた。
 久しぶりに話す名誉会長は、やはり年齢のためかやや顔に疲れが見える。あの青年実業家に買収された放送局などが公明党と学会の繋がり、そして朝鮮総連や中国共産党との関連などを徹底的に批判する報道を繰り返しているためだろう。
 何度も繰り返して抗議を行ったのだが、あの連中はまるで頭がおかしくなったかのように執拗な批判報道を繰り返しているのだ。
 他にもその報道に怒りを募らせた一部の信者が強圧的な態度で乗り込んで行った一部始終までも生中継で報道され、これが世論の批判をますます強める事となってしまった。上層部が報道機関に圧力をかけるために、機関紙の印刷委託業務を停止すると告げたところ、あろうことかそのメディアの担当者は「どうぞご自由に」と鼻であしらうような対応をして、その場で逆に「私共の方で印刷を続けますか?それとも取引を終了しますか?」と尋ね返されたのだ。この教団の機関紙は大量の印刷業務を依頼するため、新聞の印刷を行う印刷所にとっては無くてはならない取引の一つである。
 ところが、そのメディアはペーパーレス事業の推進に加え、コンパクトで高品質、低価格の印刷システムを導入することでランタイム印刷を実現する全く新しい新聞印刷形態の事業に取り組み始め、逆に大量の印刷委託は足かせになる、として新規案件を断ってきたのだ。
 結果として幾つかのメディアがフリーハンドになってしまい、様々な形で批判的な報道が繰り返されていたのである。
「やはり、あの放送局と新聞社の買収を許したのが間違いだったな」
 疲れたような声で、老いた名誉会長は呟いた。
 日本でも最大の宗教団体としてその絶大な影響力を振るってきた男も、その信者から提供されるお布施や事業から得られる資金以上の膨大な資本力を振るう相手には、さすがに攻略の方法を思いつかないのだろうか。
 あろうことか、あのメディアを買収した青年実業家にその膨大な資本を提供しているのは、昨年、新潟や北海道で発見された大規模油田を所有する企業だった。この企業には日本の保守政治家や旧家などが関わりを持っていると噂され、真正面から衝突するには些か分が悪い相手なのだ。
 それに加え、今、中国も朝鮮半島も混乱の真っ只中にある。
 突如、首都である北京が謎の菌の森に飲み込まれ、そして数メートルから最大で10メートルを超えるという冗談と思いたくなるような巨大な昆虫に襲われた北京は既に人間の都市ではなくなってしまっているのだ。そして1500万人を超える人口はその信じがたい大きさの昆虫に襲われて夥しい死傷者を出している。
 また中国本土は巨大昆虫だけでなく、巨大化した危険な動物や怪物などが徘徊するこの世の地獄のような世界となりつつあったのだ。
 ロシアも同様で、こちらも異様な怪物に襲われて甚大な被害が出ている。
 そのため、その政治的、軍事的な後ろ盾を失ってしまった北朝鮮はすでに国家自体が崩壊の瀬戸際となっていた。
 朝鮮半島も不気味な怪物が跳梁し、人々にも被害が多く出ている。怪物自体の数は多くないのだが、中国で北京を始めとして幾つかの都市が怪物じみた巨大な昆虫に襲われ、そして謎の菌樹に飲み込まれた、というニュースが人々の不安を煽っていたのだ。
 特に朝鮮半島は大陸とも地続きで、韓国も渤海を挟んで対岸にある。
 いつ、その怪物や巨大生物に襲われるかわからない状況で、人々は迫りくる恐怖に震えていた。
 当然の事ながら、四方を完全に海囲まれて隔離されている日本は世界でも極めて数少ない安全な地域の一つであり、多くの人々が中国や朝鮮半島から脱出しようとしていたのだが、海にもまた危険な生物が人間を待ち構えていたのだ。
 その話を聞いたとき、この老人はやりきれない悲しみに胸が詰まるような想いを覚えていた。
 日本でも怪物が現れた、人が襲われた、という話はあっても、それでも被害の規模で言えば信じられないほど小さな程度で済んでいる。
 それに、日本でしか流通していない不思議な技術で作られたお守りや道具が日本人の被害を押さえ込むのに役に立っていると思われていた。
 特に目に見えない防御壁を生み出す、とされている魔法の護符のおかげで怪物に襲われた人が無傷で逃げることに成功した、という人も少なくないのだ。そのため、これは日本の政府が極秘に生み出した対怪物用の装備なのではないか、という噂が世界中で囁かれていた。しかし、柴田を始めとして内閣の閣僚さえこの話を聞いたことが無いことから、荒唐無稽な陰謀論の一つだとして否定する以外に無かった。
 しかし、この安全な日本に対して韓国や北朝鮮、中国の臨時政府が難民の受け入れを迫っていたのだが、日本政府は国土が狭いために不可能である、ときっぱりと拒絶していたのだ。ある韓国政府の高官が柴田に対し、「今まで日本に対して過去のことを言えば何でも受け入れてきたのに、何故、今になって日本はこれほど強く我々を拒絶するのだ?」と問いかけてきたほどである。
 幼少の頃から在日朝鮮人の社会と触れ合い、親しんできたこの老人にしてみれば、日本政府の拒絶は余りにも冷たい仕打ちのように感じられていたのだ。
「やはり、何とかしなければならんな・・・」
 そう呟いて老人は椅子から立ち上がった。
 柴田も続いて立ち上がる。これからこの老人が何をしようとするのかは容易に想像ができた。
 自民党の中にもこの教団からの資金援助や票の取り纏めで基盤を固めているものも少なくない。そうした議員達に働きかけて、今の政府の強硬姿勢を軌道修正させる考えだろう。
「柴田君。これから暫く、厳しい駆け引きが行われることになるが、日本とアジア諸国との融和のためにも死力を尽くしてもらいたい」
 その言葉に強い覚悟の想いがこめられているのを感じ、柴田は緊張を覚えていた。
 廊下に出ていく名誉会長に付き従うように、柴田も部屋を出る。そして、二人は黙ったまま歩く。
 名誉会長の秘書も影のように付き従っていた。
 そして玄関ホールに出るため、階段に向かって歩いていく。普段から健康維持のために歩くことを心がけている、と知っている二人は極自然に老人の後ろに付き従って歩いていたが、ふと視界の隅に何かが動いたように見え、思わず視線を向けていた。
 それは白いスカートの様にも見える。ほっそりとした手のようなものも見える気がする。
 だが、それはそんな場所にあるはずが無かった。
 それは窓の外に佇んでいるように見えたのだが、その窓は二階の窓であり、しかも建物の外には立っていられるような取っ掛かりや足場になるようなものもない。
 思わず二人は見入ってしまった。あれは一体何なのだろうか。
 そして老人から目を離してしまった瞬間の事だった。
 名誉会長はその階段に一歩踏み出し、そして次の段に歩を進めようとした。だが、その左足は途中で何かに躓いてその動きを遮られてしまった。完全にバランスを崩してしまった老人は一瞬、自分の左足が階段から生えている様に見えた青白い手に掴まれているのを見たが、どうすることもできずに自分の体が重力に引かれるまま落ちていくことを感じていた。とっさに手を伸ばして階段の取っ手につかまろうとしたが、ほんの僅かな差でその指先は虚しく宙を掴んでいただけだった。
「わあっ!」
 年老いた名誉会長の悲鳴を聞いた柴田と秘書が我に返って視線を向けたが、そこには既に老人の姿は無かった。慌てて周りを見回し、そして階段の下からどさっ、という鈍い音が鳴り響いたことに、何が起こったのかを悟っていた。
 階段の下には老人が倒れ、警備員が大慌てで駆け寄っていく。そして、周囲では事態を理解できていない信者や来客が突然階段から転がり落ちてきた老人の姿を呆然と眺めていた。
「め、名誉会長!」
 秘書の悲痛な叫びでその老人が一体誰なのかを悟った信者たちは突然起こった悲劇に悲鳴を上げて老人の元に殺到していく。
 だが、その老人が既に事切れていることは明白だった。
 頭がありえない方向に捻じ曲がり、ぴくり、とも動かない肉体がその全てを物語っていた。
 
『教団の名誉会長、謎の転落死!』『内部抗争による勢力争いの結果か!?』『疑惑に包まれた教団本部の対応!』
 そんな見出しの週刊誌が飛ぶように売れていた。
 先日のある宗教団体の名誉会長の突然の転落死事故で、各メディアは我を争うように熱気に満ちた報道を繰り返しているのだ。突然の教団最高指導者の事故死で、教団は混乱の最中に陥っていた。そして、羽柴はその転落死した教団の故名誉会長と最後に会談し、その上、その現場に居合わせて転落死した老人の真後ろを歩いていた、ということから疑惑の視線を向けられ、政治的に窮地に立たされていたのだ。
 この大混乱は外務省にも大きな動揺を引き起こしていた。
 外務省には『大鳳会』という、その教団の信者からなる内部組織がある。もちろん、公の組織ではないのだが、その300人以上の信者によって構成されたその会はロシア、中国、中南米、アフリカなど重要な外交案件に関わっていているという。(http://www.toride.org/study/t110.htm)(http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H13/1307/130725souka-invader.html
 また、教団の事務総長から外務省の官房長に手紙を出して教団の幹部が外遊する際の便宜を図ることを依頼するなど、省の私物化が進んでいたのだ。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html)(http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_008.htm
 しかし、それであるが故に絶対の存在であった教団の名誉会長が突然、階段から転落死した、という事態を受けて、彼等は思考停止状態に陥ってしまったのである。そのタイミングを見計らって、保守派は徹底的に教団と関連する官僚の不祥事や、外務省なの『大鳳会』の問題などを繰り返しメディアで報道して、その勢力を削いでいったのだ。
 流石にここ数週間で幾つかの政治的影響力を振るう組織や教団の最高幹部たちが不審な事故死を続けたことに疑惑の声が上がったのだが、証拠を得ることができずに純粋な事故死だとして処理されていた。
「流石にこれ以上の動きは危険ですね」
 誠が榊原に微かな笑みを浮かべながら言った。
 彼は自らの使い魔を操り、この一連の事件を起こし続けていたのである。まっとうなやり方では時間が掛かりすぎる上に権力の中枢部に巣食う敵を排除するのは非常に難しい。そして、いまの激しく変わり始めた時代の変化の最中に、そんな悠長なことをやっている訳にもいかないのだ。
 そのため、彼等はあえて強硬手段を用いていた。
 上層部を潰されたこれらの組織は既に分裂の兆しを見せている。その動向に注意を払っていれば放っておいても問題はないだろう。
「まあ、これで敵対勢力の大きな基盤を潰すことができたからな。まあ、良しとしよう」
 榊原は満足げに頷いていた。
 既に党内の売国奴は佐藤を含めて魔法生物で支配下に置くか、誠の支配の能力で制御下においてある。榊原自身は戦争に参加した経験は無いものの、戦前に生まれて、その祖父や父に厳しく育てられた男である。また、荒木誠も、プロメテウス達も今の軟弱な若者ではない、場合によっては殺し合いさえも躊躇しない強さを持っている。
 理念だけの平和主義者は、貧しい隣国の暴力に蹂躙されるだけだ、ということを肌身で知っている者たちである。
「国を、そして自分達の歴史ある民族を他国に売り払おうとしたり、密かに侵入して国と民族を乗っ取ろうとした愚か者に与える結果としては些か甘すぎる対応だと思いますが、今は時間のほうが大切ですからね・・・」
 冗談抜きにこの優しげな若者は、敵に対して一切、感情などを見せずにどんな残酷なことをもやってのけるのだ。
 そして榊原もこの一連の闘争が、国家の存亡を掛けた見えない戦争である、と自覚していた。
 彼等に休息の時間はない。
 今も様々な作戦が同時に進行しているのである。
 眞が開発したルークワームを仕掛けられた“エージェント”達が様々な場所に潜り込んでいる。彼らは知らず知らずのうちにコントロールされて、プロメテウスが行動をする際の巧みな隠れ蓑として役立つように運命付けられていた。
 
 夜の闇の中、釜山港から数隻の漁船が出港していく。
 中国や各地で怪物が暴れまわっている、という話を聞き、そして韓国自体でも不気味な子鬼やおぞましい化け物が現れて実際に襲われて被害を受けた、という話を聞いても、自分達の仕事の手を止めるわけには行かなかった。
 今日もニュースで航空写真に写された巨大な海蛇のような怪物がこの近海をゆったりと泳いでいる写真を見て血の気が失せたのだが、それでも漁をしないと稼ぎがなくなってしまう。政府が緊急事態であることを考慮して、海軍の軍艦を同行させることを発表していたのだが、どう考えてもそんな巨大な軍艦が一緒にいれば漁どころではなくなってしまう。
 それに海軍の戦艦が日本や中国、ロシアなどの領海に近づいたら、へたをすると戦争になりかねない。
 漁業組合が強く抗議した結果、海上警察の警備艇が同行することで決着が図られることになった。
 特に日本は急速に右傾化して民族主義を唱え始めている。まかり間違って韓国と日本の間で戦争など起ころうものなら、彼等漁師の水揚げした魚は何処に売ればいいのかわからない。上物の魚介類は日本の業者が高値で買ってくれるのだが、もし、日本との取引が停止させられたなら、韓国内で売りさばくしかなくなる。そうなると供給過剰になって値崩れは避けられないだろう。
 ソウルからくる民族主義の若者たちは「日帝打倒!」と叫んで戦争を始めたほうが良い、などと言っているが、そんなことになれば被害を受けるのは自分達だということをまるで考えていない。
 漁師の使う漁船のエンジンは日本製だし、魚群探知機も日本製だ。
 韓国製も無いわけではないのだが、すぐに壊れる上に性能も悪い。
 何よりも笑ってしまいたくなるのは、そんな反日を叫ぶ若者たちが持つデジタル・カメラやビデオはキャノンやSONYなどの日本のメーカーのもの、そしてノートパソコンはSONYの薄型軽量のものばかり持っている。
 その上でホンダやトヨタに乗ってくるのだから呆れて物が言えない。
 もっとも、それを馬鹿にしようものならインターネットで何を書かれるかわからないし、新聞やテレビも彼等が土下座をして謝罪するまで非難の嵐を繰り返すだろう。そうなれば懇意にしている取引先も逃げてしまう。
 結局、口に出しても損をするだけだ。
 だが、今までのように日本の排他的経済水域や割り当てられた領域外に出て漁をすることは難しくなる。外交部からも不用意なことをして日本政府を刺激した場合、責任を持てない、と通告されている。
 先日も漁に出た際、日本の巡視船が巡回しているのを見て、ぞっとしたことを思い出していた。
 今年の夏、日本の巡視船はついに、北朝鮮からの不審な侵入船を執拗に追跡し、無数の銃弾を浴びせかけて撃沈したのである。これに対して北朝鮮当局は一応、抗議のようなことを外交官から伝えたのであるが、その口調には戸惑いと不安が感じられていた。
 そのため彼等韓国の漁師たちは余り冒険的なことは控えよう、という申し合わせをしていたのだ。
 素晴らしい漁場である独島(日本名:竹島)の近海は、まさに魚の宝庫である。
 しかし、日本もまたこの島の領有を言い続けている。何がきっかけになって日本海軍がこの島の奪回を試みるか判らない、と男達は不安を感じながら遠くに見えるであろう、その二つの島を想像していた。
 だが、その想像は不意に響いたゴンッ、という鈍い音と振動で遮られてしまう。
「何だ!?」
 急に不安を覚えて男達は周囲を見回した。
 だが、夜の闇の中では何も見えない。トーチ・ライトをかざして船縁から海の中を覗き込んだ。もし、流木か何かがぶつかって船体に穴でも開いていたら大変なことになる。
 しかし、船の周囲にはなにも傷や穴などは見えなかった。
 一体なんだったのだ・・・?
 そう疑問に思った男が顔を上げて仲間の方を向く。
「何の音だったんだ?」
「さあな。どうせリッター缶でもぶち当たったんじゃないのか?」
 仲間の漁師も首をかしげていた。
 その瞬間、海からするする、と伸びてきた巨大な何かがその漁師の首にひょい、と絡み付いて、男を海の中に引きずり込んでしまった。
 一瞬、何が起こったか理解できなかった。
「おいっ!」
 誰かの声が響いて、反射的にその声のほうを向く。同じ船に乗り込んでいた少し若い漁師が、彼の方を指差して何かを叫んでいた。と、それを見た瞬間、彼の首にも何かぬめぬめしたものが凄まじい力で絡み付いてきた。
 圧倒的な力で首を締め上げられて声が出せなかった。そして物凄い力で後ろに引き寄せられ、あっけなく船縁を越えた男の身体は冷たい海の中に引きずり込まれていった。
 
 今泉総理大臣はそっと榊原から差し出されたメモを見て微かに眉をしかめる。
 そこには何枚かのプリントアウトに、「韓国大統領が厳しく日本批判」「日本との厳しい外交戦争もありうるだろう」などと刺激的な文言が並んでいたのだ。
 日本の総理大臣として今泉は靖国神社に参拝することを公約とし、そしてそれを実行していた。それは彼を支持してくれた遺族会などに対する礼儀、という意味もある。また、島根県にある竹島の領有に関する問題も日韓両国の間に横たわっていた。
 この小さな島は日韓双方が領有を主張し、そして現在は韓国が武力で日本側の船舶の接近を排除している、という状況だった。
 もともと、この島は日本が領有を主張し、また、ラスク書簡などによりアメリカを始めとして国際社会も日本の領土であると認めている。しかし、韓国はその主張自体が無効であるとし、古来よりの朝鮮の領土であるとの理由で1952年(昭和27年)1月18日に韓国大統領・李承晩(イ・スンマン)によって設定された李承晩ラインにより韓国側は韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したのだ。そして韓国籍以外の全ての船舶、主には日本籍の漁船は韓国側による臨検・拿捕の対象となり、銃撃される事態まで起こったのである。
 国際法上の慣例を無視した措置として日米側は強く抗議したが、このラインの廃止は1965年(昭和40年)の日韓漁業協定の成立まで待たなくてはならなかった。協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。この李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えたのである。(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/李承晩ライン
 日本側のメディアは日韓関係が拗れることを恐れ、ほとんど島根県の地元住民の意思を無視するようにあえて報道することなく過ごしてきたのであるが、それに痺れを切らした島根県は独自に「竹島の日」を制定し、その領有権が日本にあることを大体的にアピールしたのだ。
 その結果、韓国側は激しい反応を見せて日本に対する強い批判を連日報道していたのである。
 今泉は暫く俯いて考え込み、そして榊原に向き直った。
「もし、日本と韓国が正面から対峙した場合、どう動くかな?」
 榊原は横に控える青年に一瞬、視線を向ける。
 その青年は日本の首相と与党の重鎮の視線を受けながらもまるで動じる様子さえ見せずにこっくりと頷いた。
 その翌日、立ち並ぶ政治記者たちは内閣官房長官である安藤からどのような言葉が発せられるのかを緊張と期待の浮かんだ表情で待ち構えていた。
 数十名の日本人記者に加えて、当の韓国からは朝鮮日報や中央日報などの記者や、それ以外にもAP通信やタス通信などの記者たちが日本側の反応を伝えるために、内閣のスポークスマンである官房長官がどのような言葉を発するのか、息を呑んで待ち構えていた。
 だが、その場に張り詰めた糸が切れるような緊張感が無かったのはある意味で日本が極端な反応をするはずが無い、という気楽な予感があったためだろうか。そもそも、日本は第二次世界大戦後、もう60年以上も戦争を行わず、そして憲法九条により武力による紛争の解決を禁じているのだ。記者たちも頭の中では「日本の官房長官が韓国の大統領の発言に対して遺憾の意を述べた」という見出しを当たり前のように考えていた。
 だが、静かに、しかし緊張感を帯びた声で安藤が述べた言葉に記者たちは一瞬、我が耳を疑っていた。
「先日の韓国大統領の発言は我が国に対する宣戦布告の意図ありと認識し、厳しく対応をする」
 そして安藤は外国為替法を改正し、また迅速に有事法制を制定して対応をすることを発表、それを受けて韓国の株式市場は一気に大暴落を起こしていた。そもそも韓国の民製品や最先端製品は日本から中核部品を輸入して、それを最終製品に加工して輸出をするものが大半を占める。そのため、貿易黒字の7割以上を日本からの部品購入費として朝貢的に使用している。つまり日本からの部品の輸入が禁止された場合、経済に致命的な影響を受けてしまうのだ。
 またハードカレンシーである円に対して韓国のウォンは国際的な信用がまだ低く、韓国企業の対外的な支払いをドルもしくは円ベースで行わなくてはならないため、経済的に危機的な状況に陥りつつあったのである。
 朝鮮総連や民潭(在日本大韓民国民団:http://ja.wikipedia.org/wiki/在日本大韓民国民団)は「日本帝国主義が復活するのか!」と激しい非難を行ったのだが、逆に日本政府は関連団体への強制捜査や固定資産税の減免処置の停止など、厳しい処置を取り始めていた。
 尤も、韓国内部でもこれほどの厳しい対抗処置が取られると予測していなかったのか、完全に混乱状態に陥ってしまっていたのだ。元々外交部は現実的な対応を続けていたために、日本を刺激しすぎるのは問題だと常に青瓦台(韓国の大統領府)に進言していたのだが、今回の声明ではそのことから大統領から何ら相談を受けることなく、一方的に「外交戦争」を宣言するのをテレビの放送を見ながら知った、という状況だったのだ。
 『宣戦とは戦闘状態に突入した(する)ことを公式に宣言すること。つまり宣戦布告とは、特に自国民や中立国に対し、特定の相手国と戦争状態に入ることを広く知らしめること』である。そのため、韓国大統領によるこのような発言はすなわち日本に対する宣戦布告としての要件を満たしてしまうのだ。
 日本と韓国の双方に対して同盟関係を持つ米国は、しかし、本国自体が怪物との戦いで疲弊しつつある現状から双方に対して不介入、との立場を非公式に伝えてきていた。また、中国は政府自体が消滅し、既に国家としての体を成していなかった上に、ロシアも同じように身動きが取れない事態となっていた。そのため、周辺国からの介入はまったく期待することが出来なかったのである。
 また朝鮮半島が有事に陥った場合、韓国軍の戦時統帥権は自動的に米軍に移行するため軍事的には完全に身動きが取れなくなってしまうのだ。もし、これで韓国軍が独自に動いた場合、それを理由に米韓相互防衛条約を破棄する理由にさえなる。
「まったく以って、この非常時に面倒な事態を引き起こしてくれたものだ!」
 ジョン・グリーン合衆国大統領は忌々しげに小さく呟いた。もちろん、それは同盟国であり極秘裏に魔法技術を供給してくれている日本に対してではなく、あの役立たずの大陸の盲腸国家に対してであった。
 そもそも経済的に完全にアメリカと日本に依存しているという鵜飼いの鵜のような自国の経済構造も、地政学的な周辺の大国の力の均衡を考えずに身勝手に振舞う傍迷惑な言動といい、Koreanという奴は基本的に空気が読めない奴だ、とホワイトハウスのテーブルに着席した全員がうんざりした表情でメモを眺めていた。
 当然の事ながら、日本の今泉首相や榊原はこの事態に対しても、きちんとアメリカに対して日本の立場と行動プランを通知し、水面下での行動や戦争遂行時の予測される事態などを慎重に摺り合わせてきている。
 あの頭のおかしい人権派弁護士が大統領に就任した時点で、このような事態が起こりうることはある程度予測できていた。
 合衆国としてはこの事態を上手く生かして、日本を憲法九条の呪縛から解き放ち、同盟国としてこの怪物の徘徊する世界から人類を救うために共に立ち上がりたいところなのだ。
 そのために、この馬鹿馬鹿しい問題を早急に解決させたかったのである。
 韓国側からは米韓相互防衛条約に基づいて共同で日本に対抗するように要請が来ていたが、大統領はそれを完全に黙殺していた。そして、日本が経済的に韓国を封鎖していくのを黙認していたのである。
 
 
 

~ 1 ~

 
 本来なら「竹島(韓国は独島“Doku-to”と呼称し、領有権を主張している)」と表記すべきですが、このシーンにおいては韓国側の漁師の視点で記述してあるため、あえてこのように表記しています。
 
 
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