~ 3 ~

「紺野、ちょっといいか」
 紺野は突然、彼の上司である岡本警部補から呼び止められた。
「はい。何でしょうか?」
「ちょっと、こっちに来い」
 岡本は今野を会議室に招いた。
 珍しいことだ、と紺野は不思議に感じていた。廊下では話せないような事なのだろうか。
「お前、例のチーマー狩りの一件、追いかけてるそうだな」
 紺野は岡本の言葉に頷いていた。
「はい。それが?」
「・・・そうか。この一件、あまり深入りはするなよ」
 岡本の言葉に、一瞬、紺野は顔が引き攣るのを自覚していた。如何に不条理な暴行殺人を繰り返していたとはいえ、法に反する私刑同然に殺された人間を放っておけ、というのだろうか。
「誤解するな。手を引けとは言っていない。だがな、お前が工藤と動いたときに感じた感覚、おそらく、間違っていない・・・」
 静かに岡本が語った言葉は、紺野に心臓を掴まれたかのような衝撃を与えていた。
 つまり、この日本に何らかの力を持つ強力な影の組織が存在する・・・
 それを岡本が、言葉を濁しながら認めたのだ。
「岡本警部補・・・」
「・・・俺も、同じような経験がある」
 そう言って、不意に窓に向かった。
「警部補・・・それは一体・・・」
 岡本は振り返りもせずにぼそり、と尋ねる。
「紺野。お前、この件に関して、真実を知りたいか?」
 意外な質問だった。
 まさか、既に上層部はこの一件に関して真相を知っているのか!?
 疑念が紺野の心に沸き起こってきた。
「お前の疑問もわかる。・・・この一件、お前が想像している以上に深い闇が関わってる。俺に言えるのはそれだけだ」
 そう言って、岡本はポケットから一枚のメモを取り出して、紺野に差し出した。
「岡本警部補?」
 そのメモには、携帯電話の番号が書かれていた。
「真実に近づきたければ、連絡をしてみろ。ただし、一度踏み込んだら、もはや元には戻れんぞ。心しておけ・・・」
 そう言って、岡本は再び紺野に背を向け、窓の外をじっと見る。
 紺野は何も言えずに、一瞬だけ考え、そして、敬礼を返した。
「岡本警部補、ありがとうございます。紺野刑事、これより警部補に頂きました情報に当たってみます」
「・・・行ってこい」
 岡本は振り返らずに答えた。
 その肩が微かに震えているのを見て、紺野は闇の世界へと続く扉に手をかけた事を自覚していた。
 踵を返し、そして、会議室のドアのノブに手をかける。
(これが・・・その闇の世界への扉、なのかもな・・・)
 一瞬だけ躊躇い、しかし、思い切って扉を開けた。
 その眼差しにはもう迷いは無く、闇の奥に息づく真実を見つめるための強い意志だけがあった。
 扉が閉まった後、岡本は一息だけ溜息をつく。
「紺野・・・死ぬなよ・・・」
 そう言って、彼は携帯電話を取り出した。そして、慣れた手つきでキーを押す。
 数度の呼び出し音の後で、相手が出たのがわかった。
「岡本です。・・・はい。その通りです。・・・うちの紺野です。・・・判りました。・・・よろしくお願いします」
 簡単な会話を返した後、岡本は通話切断のボタンを押した。
 全身に冷たい汗が吹き出ていた。
 
 紺野は自分の車に乗って、エンジンをスタートさせた。
 そのまま携帯電話で岡本に貰ったメモに書かれていた番号をプッシュする。
 プルル、プルル・・・、と数度の呼び出し音の後で、不意に相手が出た。
「紺野さんですね」
 若い男の声だった。
 一瞬、息を呑んだ。何故、電話をしたのが彼だと判ったのだろう。
 だが、あらかじめこの番号にかけてくるのが紺野以外にありえない、と判っていれば当然だった。
 今野はとっさにそう判断していた。
 この番号は携帯電話の番号だ。
 おそらく、プリペイドの携帯電話のものだろう。ならば、この今野によるコンタクトのためだけに準備されていてもおかしくは無い。
「そうです。岡本のほうからこの番号に電話をするように言われまして」
「私も岡本さんから、貴方が電話をしてくるように聞いています」
 一体、この声の主と岡本とどのような繋がりがあるのだろう。
 様々な疑問が胸に沸き起こってくる。
 だが、焦ることは無い。慎重に、自分で見出していけばいいのだ。
「さて、どうしましょう。本来ならこちらから窺うべきなのですが・・・」
 男の声が、しかし、さほど困った様子も無く尋ねてきた。
 紺野は少しだけ考えて答える。
「いえ、自分の方から窺いましょう」
「・・・それでは、JR新宿駅の西口にあるドトール・コーヒーに来ていただけますか?」
「判りました。それでは、JR新宿駅西口のドトール・コーヒーで・・・」
 紺野が電話を切ろうとした瞬間、男が一言だけ呼びかけてきた。
「紺野さん、気を付けて下さい。この国に潜む闇は、余りにも静かに、そして何処にでも存在します。当たり前すぎるほど当たり前に・・・」
 そう言って、通話は切れた。
・・・何のことだ。
 紺野は不安を覚えながら、車を発進させた。
 
 恵美は夜の森を歩くのが好きになっている自分に驚きを覚えていた。
 あれほど怖かった夜の闇が、精霊の力を使えるようになってからは、何の不安も心配も無くいられるのだ。
 夜の闇も驚くほど明るく見通せるし、精霊の力は非常に強力な力にもなる。暴力は嫌いだったが、恵美は既に森の精霊王とも意思を通わせることが出来る。
 彼女たち自然崇拝者は多くの者が精霊を操れるため、自然の森の中だけでも純粋な自給自足の生活も行えるのだ。もし、可能なら世界各地にいる昔ながらの伝統的な生活を続ける先住民達にも、この精霊と心を通わせ、その力を操る技を教えてあげたかった。彼らならば、同じように精霊の力と上手く付き合えるだろう。
 そんな事をぼんやりと考えながら歩いていた恵美は、不意に何か不思議な精霊力を感じた。
「え?」
 何なのだろう。
 強い精霊力だ。
 その力に呼び寄せられるように恵美は飛ぶように駆け出していた。
 森の木々が喜びを唄っていた。
“森の友達が来たんだよ・・・” “怖くなんか無いんだよ・・・” “いっぱい遊べるからね・・・”
 誰と遊ぶんだろう? それに森の友達って?
 恵美は不思議に思いながらもその力の源に向けて走っていった。
 どれほど走ったのだろう、そこには一本の不思議な樹があった。
 強い力を感じる。
 見たことも無い不思議な樹だった。それに、どれほど長い年月、そこに居たのだろうか、その大きさはこの森でも最大の樹だろう。
 しかし、こんな樹があったら、もう既に発見されているはずだ。
 暖かく、そして力強い偉大な力を漲らせた樹は、何故か“女王”という言葉を恵美に連想させていた。
 その樹は樹木の精霊力だけでなく、不思議な事に生命の精霊力も湛えていたのだ。
 枝からは沢山の果実が生っていた。
 その果実は幾つかの色があり、一番多いのは鮮やかなオレンジ色をしている。そのオレンジ色の果実は一番大きいもので直径30cm近くもあった。
 次に大きい実はこげ茶色のもので、ソフトボールくらいの大きさだった。
 オレンジ色の実は淡い光を放っていて、ぼんやりと辺りを照らしていた。まるで、光の精霊の力を使っているかのように・・・
 その中の一つが規則正しく明滅していた。
 まるで心臓の鼓動のように、とくん、とくん、と脈打つように光が増減する。
“もうすぐだよ・・・”
 不意に樹の声が聞こえた。
 その声にあわせたかのように、規則正しく明滅していた光が一瞬だけ激しく輝き、そして光の脈動が止まった。
 そして・・・
 大きな実がゆっくりと割れ、その中から小さな手が現れた。まるで人形のような小さな手。左手に続いて、右手も木の実の割れ目から現れ、ゆっくりとその割れ目を押し広げていく。
 やがて、可愛らしい子供の頭がひょっこりと現れ、背伸びをするように木の実からその小さな子供は這い出してきた。栗色の髪はべっとりと濡れたままで、驚いた事に背中にはまるで蝶の羽を連想させる翼が、これもまるで羽化したばかりの蝶のように皺々のままで丸まっていた。
 恵美は驚きに声も出なかった。
 その小さな子供は、体長が僅かに30cmほどで、いわゆる“妖精”というべき姿をしていた。
“怖がらないでね・・・この子は新しい森のお友達だからね・・・”
 木々が恵美に語りかけてきた。
 だが、最初から恵美はこの森の小さな妖精を恐れていなかった。
 その羽は徐々に伸び始めて、ゆっくりと広がり始めていた。
 月明かりと不思議な樹の光に照らされたその光景は余りにも幻想的で、恵美はまるで夢でも見ているのか、とぼんやり考えていた。
 だが、不意にその幻想的な時間は打ち破られた。
“気をつけて・・・お願い・・・その子を護ってあげて・・・”
 恵美はその樹の声を聞いて緊張していた。
 そして、暫くして何かがさがさ、と複数の何かが茂みを掻き分けてやって来る気配を感じた。その不快な物音は徐々に近づいて、がさり、と首を覗かせる。
 思わず恵美は悲鳴を上げそうになるのを辛うじて飲み込んだ。
 褐色の醜い顔だった。
 不潔な牙が口元から覗き、濁った眼がじっと恵美を見ていた。
(か、怪物だわ・・・)
 恐怖が喉元にこみ上げてくる。
 確かに精霊の力は強力な武器として仕えるが、恵美は戦う、という事に関しては丸っきりの素人だ。だが、それでも恵美は逃げようとは思わなかった。
 もし、自分が逃げればあの小さな妖精はどうなるのだろうか・・・
 小さな命を目の前にして、恵美は母性本能とも思える感情に突き動かされていた。
 5、6匹の怪物だった。
 自分の力で生き物を殺める事に本能的な嫌悪感が込み上げてくる。しかし、目の前の、生まれたばかりの小さな命と明確な敵意をその目に宿した相手とでは、どちらを選ぶかは自然にわかる。
 恵美とて既に森の王の力を借りることが出来るほどの能力を持っていた。
 だが、それでも彼女には戦いとは何かさえ判っていない。余りにも状況は不利だった。
 それが判っているのだろう。
 奇怪な外見の怪物は邪悪な喜びを表情にして恵美の方に近づこうとする。
光の精霊よ、あの怪物を撃って!
 素早く恵美は光の精霊を召還して怪物を撃っていた。
 光の精霊は、電光の如き速さで一体の怪物に直撃し、そして閃光と共に弾ける。思いがけず強力な一撃を受け、一体の怪物はそのまま昏倒していた。
 魔法による一撃で仲間が倒され、怪物は一瞬だけ動揺した。しかし、そのまま逆上したかのように怒りの声を上げて恵美の方に駆け寄ろうとする。
 幾ら強い力を持っていても、恵美一人では余りにも不利だった。
 死の恐怖が恵美の心を締め付けてくる。
 一体、もう一体、恵美はひたすら光の精霊で怪物を撃ち続けた。だが、戦いの経験など無い恵美は激しく消耗し、そして力を込めきれずに放った光の精霊は、一体の怪物を倒せずに傷を負わせただけに終わった。
(しまった・・・)
 恵美は自分の不覚を悟り、死の予感が胸に満ちてきたのを自覚する。
 動かなくなった右手をそのままに、左手に小剣を構えた怪物はじりじり、と近寄ってきた。もう恵美には精霊の力を使う気力も無く、不快な疲労感が頭を満たしていた。
(ごめんね・・・美由紀・・・)
 不意に美由紀の事を思い出していた。
 きっと、美由紀は怒るだろう。私を止められなかった自分に対して・・・
 振り上げられた剣をかわせたのは、ある意味では奇跡的だった。逆腕で振り回された怪物の剣は、ろくに狙いも定められずにふらつくような軌跡を描いていた。
 だが、それでも戦いの技など知らない恵美にとっては十分すぎるほどの脅威だった。
 辛うじて一撃を交わした恵美だったが、次の一撃を避けきれずに、太腿を切り裂かれてしまった。
 鋭い痛みに悲鳴を上げて恵美は倒れこむ。
 不意に静寂が訪れた。
 疲労で霞む視界に醜い怪物の姿が見える。表情はわからないが、おそらく怒りと残酷な殺戮の喜びを浮かべているのかもしれない。
 少し離れたところから、同じ怪物なのだろうか、ガサガサ、と物音を立てて近づいてくる気配がした。
 不思議なことだったが、死の恐怖は感じなかった。
 死という事を実感していなかったのかもしれない。
 あの小さな妖精は無事に飛べるようになったのだろうか。恵美は不意にそんな事を考えていた。
 そう、精霊の力を武器にして戦ったのは、あの小さな妖精を護りたかった為だ。首を曲げ、あの妖精の姿を見ようとして、恵美は自分に剣を突きたてようとしている怪物の姿を見た。
 その瞬間、恵美はその怪物が動きを止めた事に気がついた。と、同時に凄まじいまでの威圧感にも気付く。
 目の前の醜い怪物など問題にならないほどの圧倒的な力。
 必死になって視線を巡らせ、その気配の主を探す。そして、恵美はそこに巨大な一頭の狼の姿に気付いた。
 だが、その大きさは尋常ではない。体長は、恵美よりも遥かに巨大だった。
 美しい銀色の体毛。
 そしてその眼はサファイアのような深い青。
 巨大な狼は威厳に満ちた歩みでゆっくりと恵美の方に向かってきた。
 醜い子鬼は怯えたように後ずさる。
 その怪物が踵を返して逃げようとしたその瞬間、銀狼は子鬼の首に牙を突きたてていた。
「え・・・」
 見ることさえ出来ないほどの、正に電光の如き動きだった。
 遥かに離れていたはずの銀狼は、恵美が瞬きさえ出来ないほどの一瞬に、子鬼を屠っていたのだ。
 そのまま巨大な銀狼は恵美の方に向かって歩いてきた。
 自分を食べるのだろうか・・・
 恵美はぼんやりとそんな事を考える。
 だが、目の前の美しい獣には先ほどの子鬼のような邪悪な雰囲気は感じなかった。
 深く青い眼には明らかに高い知性が感じられた。
 近づこうとしていたらしい物音はその凄まじい気配を感じたのか、どうやら逃げ出したようだ。
 恵美は起き上がろうとした。だが、怪物に切り裂かれた左足に激痛を感じて悲鳴を上げて倒れこんでしまう。出血はそれほどでもない様子だったが、怪我らしい怪我などした事の無い彼女には耐えがたい苦痛のように感じられた。
 癒しの力を使おうとしても気力が足りない。
 銀狼はじっと恵美を見ていたが、やがて不思議な言葉で何かを呟き始めた。
(え・・・何・・・?)
 恵美は驚いて目の前の巨大な銀狼を見つめる。
 不思議な響きの、まるで古代の詩を吟じているかのような呪文の詠唱が銀色の狼の口から唱えられていた。
 恵美達が精霊と交信するときに使う言葉ではない。そしてその詠唱が終わったとき、恵美は不意に強い力を感じた。
 その途轍もない力に恵美は圧倒され、驚愕する。
 一瞬の後、恵美の傷は跡形も無く消えていた。
「・・・そんな」
 驚いた恵美は思わず銀狼を見上げる。巨大な獣は、しかし何も言わずにじっと恵美を見つめていた。
 そして僅かな時間の後、ゆっくりと視線を上げて、あの妖精の樹を示した。はっ、と恵美は小さな妖精の事を思い出し、そして慌てて立ち上がる。
 礼を言うために振り返った恵美の視界に、しかし、もうあの銀狼はいなかった。
 呆然としている恵美の目の前で新たに生まれたのであろう小さな妖精たちが軽やかに舞っていた。
 
 西新宿は相変わらず混雑していた。
 夏の日差しが紺野に苛々するほどの不快感を与えてくる。近くの立体駐車場に車を停めたものの、駅前のドトール・コーヒーにやってくるまでにシャツは汗でベトベトになってしまった。
 涼しい店内に入ってアイス・コーヒーを一口飲んで、ようやく生き返ったような気がする。
 さて、どんな奴がやってくるんだ・・・
 そんな事を考えていると、不意に声を掛けられた。
「紺野さん」
 その少年の声に振り返ると、そこにはこの間、話を聞いた少年達が立っていた。
「お、君達か」
 少年達からはあの刺々しい雰囲気はなく、どこか表情も穏やかになっているような気がする。紺野、という大人に真剣になって向き合ってもらった、という事実が彼らの心の飢えを僅かでも満たす事になったのだろうか。
「あれから、何か新しいことって判ったんですか?」
 一人の少年が紺野に尋ねかけてきた。だが、捜査の進展状況を外部に漏らすわけにもいかない。
「まあ、ぼちぼちと進んでいるけどね。まだまだ情報収集の段階だ」
 情報を知らせることが出来ない、などと言ってせっかく開きかけている彼らの心を傷つけるような真似はしたくなかった。だから、紺野は嘘では無いが支障が出ない程度のことをあっさりと告げていた。
「君達の話はずいぶんと参考になってるよ。本当に感謝してる」
 だが、これ以上の事は口に出来なかった。捜査上の秘密を漏洩することも出来ないし、これ以上彼らにこの件に関しては深入りさせたくは無い。
 岡本の言葉が紺野の心に深く響いていた。
 下手をすると彼らさえも巻き込みかねない・・・
「また話を聞くことがあったら連絡させてもらってもいいかな?」
「ああ、いつでも大丈夫だよ!」「紺野さんは俺達の事を信じてくれたしさ!」
 紺野の言葉に少年達は嬉しそうに言葉を返してくる。自分達が大人の役に立っている、という想いがあるのだろう。
 だからこそ、紺野は彼らの身の安全を案じていたのだ。
 挫折と苦しみを知り、そして傷つきながらも人を信じる喜びを知った少年達はきっと素晴らしい大人になるだろう。
 そう思っていた紺野に、別の声が掛けられた。
「紺野さん、ですね?」
 声の方を向くと、そこには若い男が立っていた。
 これと言った印象のない、役人のような感じの男だった。
 その男はちらり、と少年達を見て、紺野に視線を戻す。男の仕草から、どうやらこの少年達は歓迎されていないようだ、と感じた紺野は少年達に声をかけた。
「君達、申し訳ないけど、今日は彼との約束があってね・・・」
 その紺野の言葉に少年達は頷いて、「判ったよ。それじゃあ、また・・・」と言って店から出て行った。
 少年達を見送って、男は紺野の横を示して尋ねる。
「よろしいですか?」
「あ、ああ・・・どうぞ。申し訳ない、気がつかなくて」
 男は紺野の言葉に微笑んで答えた。
「構いませんよ」
 そう言って、男はウェイトレスにコーヒーを頼む。
 少しの間、沈黙が訪れた。
 運ばれてきたコーヒーを一口だけ飲み、男は唐突に話し始めた。
「紺野さんは、刑事になられてから何年になりますか?」
「え・・・?」
 突然の質問に紺野は一瞬、答えに詰まる。
「五年、ですね」
 その答えに男は不思議な表情を浮かべた。微笑むような、悲しむような何とも言えない表情だった。
「五年・・・。色々なことがあったと思いますよ」
 その言葉に紺野は不意に様々な事を思い出してしまった。
 様々な世の中の矛盾。人がどれほど残酷になり得るのか、ありとあらゆる種類の人間の『罪』を見せ付けられた時間でもあった。
 一人の少女の自殺を調査していた紺野は、それが彼女の学校で行われていた男女の交際をコントロールする“委員会”の制裁で暴行を受け、それを苦にしての自殺である事を知った。だが、事態の発覚を恐れた学校側や教育委員会の意向により事態の公表は行われず、結果としてうやむやのままで終わってしまった。
 その影には文部省の大物官僚や関連する族議員、教育委員会の幹部やそしてあろうことかマスコミの上層部の影さえあったのだ。
(そういえば、あの少年はどうしているのだろう・・・)
 不意に思い出した。
 燃えるような黄金の髪と蒼と紫の不思議な瞳をした少年。
 少女が弟のように可愛がっていたという少年は、絶望と憎しみをその瞳に宿したまま、じっと紺野を見つめていた。
『どうして・・・貴方は法を犯したものを捕まえないのですか・・・』
 その視線が無言の訴えをぶつけてきていた。
 捜査の打ち切りを告げた紺野に対して、少年はやり場の無い怒りを一瞬だけ見せて、そのまま氷のような無表情な瞳に戻った。
 紺野はその瞬間、少年に見限られたような無力感を感じていた。
 それから一年後、不可解な死が関係していた者達を襲っていた。
 ある官僚は自宅の浴槽で心臓麻痺を起こしているのを家人に発見され、関連を噂されていた国会議員は交通事故で死亡した。マスコミの幹部は不祥事を暴かれて山中で首を吊っているのを発見され、教育委員会の幹部達も悉く何らかの形で死を遂げていた。
 また、実行犯と噂されている高校生や大学生達も、同じように僅か一年間でほぼ全員、死んでいるのだ・・・
 紺野は慄然とした。
 まさか、この一連の“死”にも『彼ら』は関係しているのか!
 目の前の男は静かに口を開いた。
「紺野さん。あなたは今の世の中をどのように思っていますか?」
「・・・どういう意味だ?」
 男は再びコーヒーを口にする。
「文字通りの意味です。失礼をしましたが、貴方の事を少し調べさせてもらいました。中々に優秀な活動をされている」
 紺野の心に警戒が鳴り響いた。
 目の前の男は、どれほどの情報を知っているのだ・・・
「貴方はこの世の中をどう思っていますか?」
 再び、男は同じ質問を口にした。
 紺野は思わず、自分が普段感じている事をぶちまけてしまった。
「・・・この世の中、か。正直言って、良くわからん。些細なことですぐに人が死んで、当たり前のようなことが護られていない。金や権力を持った奴等はどれだけイカれた事をしても俺達の手から逃れることもできる」
 その言葉に、男は静かに頷いた。
「日本という国は、どこかおかしいと思いませんか?」
「え?」
「誰もが経済的な繁栄だけを追いかけている。しかし、我々が伝統的に持っていた美徳や価値観は軽んじられ、ある面では否定されるための目標にされてしまった。アメリカ合衆国という人工国家が、僅か二十五人のメンバー、しかも憲法の専門家が誰一人としていない、たった四人の弁護士だけが居ただけの素人の集団が一週間で作った暫定憲法を金科玉条のように大事にし、あたかも永遠に変えてはいけないかのように固執する。御存知ですか? かつて、共産党は日本独自の憲法制定を党是にしていたのですよ」
 今の日本の憲法だけでない。
 ジェンダーフリー、という言葉自体、日本の官僚が産み出した和製英語であるが、その根源は国連の「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」(The Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women)がその根拠となっている。
 内閣府国民生活局所管の「家族とライフスタイルに関する研究会」報告書(平成十三年六月二十二日)によれば、「これからの夫婦関係は「『経済的依存関係』から独立の所得を前提とした『精神的依存関係』へ」変化することが望ましい」、とする。必然的に「独立した所得」を得られない専業主婦は「撲滅」すべき存在と位置付けられ、報告書は、専業主婦を優遇する税制や社会保障制度を廃止せよと提言している。既に日本国政府は提言通り、配偶者特別控除を一部廃止したのだ。
 つまり、家庭の崩壊と“金銭的価値だけが唯一の価値”とする共産主義への思想だ。しかも、フェミニズムを標榜する者達は、自分以外の考えを一切認めない。
 世の中には“専業主婦”でいたい女性もいるし、男と同等に働かなくてもいい、という考えの持ち主もいる。だが、フェミニストはこうした「自分とは違う意見」を決して認めず、攻撃し撲滅する対象にする。この思想の根底にあるのは経済的価値と労働力だけが唯一の価値基準とする共産主義であり、それと相容れない伝統や文化は破壊する対象となるのだ。
 当然、家族の価値などは一顧だにされず、むしろ家族、という社会単位の崩壊さえ積極的に推し進めるだろう。その一つの手段として小学生の頃から教えられる行き過ぎるほどの性教育であり、結果としてセックスに対する道徳を失ったフリーセックス社会の到来さえ目標にしているとも考えられるほどだ。(参照:「正論」平成17年5月号
 その究極の目標は日本に限らない国家統治システムの破壊と世界共産主義化であろう。そもそも、男女平等、という言葉さえも「何を基準にしての平等なのか」という前提が無い。
 また、それを選ばない自由を許さない思想の強制は、結局のところ全体主義に帰結し、その結果は火を見るよりも明らかだ。
 現在、世界中で保守的な回帰が始まっているのは行き過ぎた改革への反省と反発だろう。
 特にアメリカ合衆国では1970年代から90年代にかけて推し進められ過ぎた個人主義への問題と反省から保守的な考え方の若者が多く生まれている。
 また、宗教的な保守派も飛躍的な支持を伸ばし、多くの人間が伝統への復帰を願い始めていた。
「・・・そう・・・だったのか・・・」
 紺野は激しいショックを受けていた。
 余りにも激しく動き始めた時代に、彼は気がついてさえ居なかったことに恐怖を覚えていたのだ。
 当然の事ながら、政治家や官僚、財界人の中にもこれらの考え方は広まっているだろう。
 特に、近年では財界からは海外の有事の際に日本の自衛隊が活動できるようにして欲しい、という要望が強い。また、シーレーンの確保も極めて重要な国家戦略的意味があるため、財界から要望の多い事案の一つだった。
 中国共産党政府からは反発が予測されるが、そもそも、日本企業の進出とそれによる雇用が無ければ政情不安になるのは中国であって日本ではない。
 安い労働コスト、という意味では他のアジアの国や東欧諸国が労働市場として存在しており、給料水準の高騰が激しい中国はむしろ、あまりメリットが無くなってきているのが現状だった。特にトヨタやホンダなどはむしろ、東欧諸国に生産拠点を築いており、中国にはあまり力を入れていない。
 世界企業としてはリスク分散を考慮するのは当然であり、万が一中国本土で日本企業締め出しがあったとしても重要な打撃を受けにくいように計画をするのは厳しい国際情勢の中で生存競争を強いられる国際企業の当然とも言える常識だろう。
「さて、世間話はこれくらいにして、今起こっている現実から話しましょうか」
 そして、男は静かに語り始めた。
 
 東京大学医学部の解剖室は独特の空気に満ちている。
 ここは東京23区内で犯罪による疑いがある死体が搬入され、司法解剖が行われる大学の一つである。よく誤解されていることだが、日本には体系的な検死制度は無い。テレビのドラマやマンガ等で監察医が事件を解決しているストーリーがあるが、現実にはそのような事は日本では殆どあり得ない。
 どのように司法解剖が行われているかというと、刑事訴訟法や医師法、戸籍法、死体解剖保存法、検視規則・死体取扱規則、食品衛生法・検疫法などの個別の法律を組み合わせて実施されているのだ。明治以来、刑事訴訟法229により、本来ならば検察庁により検死が行われる事になっているのだが、現実には司法警察員による代行検死が行われている。検死義務の責任は死体解剖保存法などにより行政機関の責任を定めているのだが、現時点では責任の所在は明らかになっていない。
 また、検視官コロナー監察医Medical Examinerという職種は日本には存在しない。実際の検死は検察庁(代行検死により事実上警察が代行)と大学法医学教室により行われているのだ。
 警察医の堤はテレビなどで良く出てくる法医学関係の物語を見るたびに苦笑をもらしてしまう。
 実際の司法解剖の現場にはブラウン管に映し出されるような華やかさなど無い。
 不慮の死を遂げた、あるいは誰かに命を奪われたものがどのように死に至ったのか、その原因を探るための静かな作業だけがそこにはある。
 彼らが扱う死体は、確かにかつて生きた人間だったにも関わらず、堤達警察医や法医病理医など、検死を担当する医師は淡々とその作業をこなすだけだ。人によってはそれを冷たいとも人間性が無いとも言うだろうが、現実問題として一々感情移入などしていたら医師や警察官は三日と持たずに発狂するだろう。
 そんな事をとりとめも無く考えながら、堤はチーマー狩り事件の被害者の少年達から摘出した異常な大きさの未知の腫瘍に関するデータを並べた。
 見たことも無い組織構成をした異様な大きさの腫瘍だった。こんな大きさの腫瘍が、それこそ脊髄に喰らい込むような形で体内に存在しているなど、聞いたことも無い。医学的な常識から考えれば、この少年達のように普通に生活するどころか、とっくの昔に病院送りか下手をすると葬儀屋のお世話になっているはずだ。しかも脊髄にしっかりと接合している事を考えると、身動きが自由に出来た事自体、堤の理解を超えている。
 どう考えてもこの異物の正体がつかめなかった。
 しかし、不意に視線をその腫瘍の標本に眼を向けた堤が気が付いた事が一つだけあった。そのホルマリン漬けにされていたはずの腫瘍のサンプルが跡形も無く消え失せていたのだ。
 冷たい汗が堤の背中に吹き出てきた。
(そんな馬鹿な! あの腫瘍は何処に行ったんだ!)
 動くはずは無い。あれには筋肉などついていない。しかも、彼が先ほど、つい5分ほど前に観察したばかりなのだ。誰かが勝手に持ち出すことも無い。この部屋には堤しか居ないのだ!
 胃を掴まれたような不快感が喉に込みあがってくる。
 ぴた、ぴた、ぴた・・・
 何か濡れたものが動くような物音が何処かから聞こえてきた。
 堤はそれが何なのか、考えたくも無かった。余りにもそれはおぞましく、恐ろしい想像だった。
 不意に部屋の照明が落とされた。
「な・・・」
 辛うじて悲鳴を飲み込み、堤は後ずさる。声を上げてはいけない。本能的にそう考えていた。
 不気味な静寂が研究室を満たしていた。
 ただ、ぴた、ぴた、ぴた・・・、と不快な物音だけが動き回っている。
 その余りの生々しい音が異様な現実感を実感させていた。
(な、何なんだ!?)
 逃げなければ・・・
 堤は出来るだけ物音を立てないように、ゆっくりと後ずさり始める。だが、立ち上がろうとしたとき、椅子がゴトリ、と音を立ててしまった。
 その微かなはずの音は、しかし、この不気味なまでの緊張感に満ちた空間には余りにも大きなものと感じられた。一瞬にして室内にぴん、と緊張感が満ちる。
 しまった・・・
 堤の胸に後悔の念が鋭い刃のように突き立った。
・・・ぴた、ぴた、ぴた・・・
 一瞬だけ粘着質の物音が止み、そして再び動き出す。
 がちゃり
 はっと堤は扉に眼を向けた。
 その瞬間、何かがノブから離れ、暗闇の中に消えていくのが見えた。信じたくは無かったが、それはピンク色の触手か何かのような気がした。
「・・・ひ・・・」
 必死に悲鳴を押し殺し、堤は何とかこの場から逃げ出すためにじりじりと動こうとする。そして、不意に思い至った。
 あいつは、今、鍵をかけたんじゃないのか・・・
 もう堤の理性は恐怖のあまり、崩壊する寸前だった。
 信じがたいことだったが、この部屋でうごめいている存在には知性がある。いや、それだけではない。ドアノブに鍵をかければドアは開かなくなる、という“知識”も持っているのだ!
 その事実に気がついた瞬間、堤は絶叫を上げて駆け出していた。
 必死にドアに向かって駆け出そうとした瞬間、堤は何かに脚を取られて激しく転倒した。
「ぅわあああぁぁぁっっっ!!!」
 それでも立ち上がろうとした堤は、自分の右足がいきなり後ろに引かれて再び顔を床に叩きつけてしまう。眼の奥に火花が散っているような気がした。だが、次の瞬間、自分がその何かに捉えられたのだと知り、めちゃくちゃな悲鳴を上げて逃げ出そうと暴れる。だが彼の身体、180cm近い長身の男性の身体は信じがたいほどの力でゆっくりと後ろに引きずられていった。
 そして新たな触手が次々と堤の手足に絡みつき、哀れな犠牲者の身動きを完全に封じていく。
 生々しいピンク色をした肉は、その信じがたい力で堤の肉体の自由を完全に奪っていた。
 手足の自由を完全に封じられた堤は最後に自由になった口で助けを求めようとした。だが、その動きを待っていたかのように堤の口に何かがずるり、と侵入する。
 何故か甘いような不思議な味がした。
 一瞬だけ胃が引き連れたような嘔吐感を感じたものの、その不快な感覚はすぐに消え去り、何故か奇妙な浮遊感が堤の意識を満たしていった。
・・・これは・・・麻酔・・・なの・・・か・・・
 もう口の中の感覚どころか、全身の感覚が失われていた。
 目の前が不思議な色彩の世界に感じられ、不気味な、しかし懐かしいようなサイケデリックな極彩色の光景が堤の見た最後の光景となった。
 
 
 

第三章 侵略者~ Invader ~
No.4

 
 参考資料
 
 事件関連用語の基礎知識
 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/kisotisiki.htm
 
 山口大学医学部法医学教室
 トピックス2:日本の検死制度への大きな誤解
 http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~legal/topix02.htm
 
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