~ 4 ~

 美由紀は恵美の目をまっすぐ見ながらも、その動揺を隠せずにじっと彼女の瞳を見つめていた。
「・・・どうしても、行くの?」
 その美由紀の問いに恵美はこっくりと頷く。
 判っていた。
 恵美はもう都会で生きていくことが難しくなっている事を、美由紀は心の何処かで自覚していた。自給自足で生きる事を目指す自然主義者達も多くが自然の中に帰り始めていたのだ。
 そして恵美は自分にもその時が来たのだと親友に語っていた。
 クーラーの人工的な冷気も、電気の齎す快適な暮らしも、恵美の心は違和感しか感じない。
 だから、自分が自分でいられるように、自然に帰るのだと。
「でも、また会えるわ」
 にっこりと恵美は微笑む。
 決して人との交わりを断ってしまいたいと願っているわけではないのだ。だが、これから歩もうとする道は、おそらく都会での生活を当たり前とする人々とは大きく異なる生き方になる。
 だから、恵美は思い切って都会から離れた山奥に移る事を考えていた。
 それは大きな決断になるだろう。彼女にとっても、そして社会にとっても、である。
 人は異端を嫌う。
 自らが普通、と認識する以外の存在に対して人がどれほど残酷な振る舞いをするか、歴史がそれを証明していた。だからこそ人は社会を構成して、自らの集団を維持しようとする。もし、その異端が極少数なら、それを変わり者の集団として放っておける。だが、それがある程度の数を得て一つの集団を作り出したとき、人は警戒心を抱く。そしてその異端者を弾圧しないように法律を作って自らを律しているのだ。逆を言えば、人は自らそのような制約を課さなければ、何をするかわかったものではない、という証明であろうか。
 それを知っているからこそ、美由紀は恵美との別れを何処かで自覚していた。
 自らが変われない限り、再び親友と再会する事はできない。
 だが、美由紀には自信がなかった。
 自分は変われるのだろうか。“普通”と言われる生き方以外の方法を見出したものを、受け入れる勇気があるのだろうか。
 小さな公園のベンチで色々な事を語り合い、そして別れる時、二人はぎゅっと抱きしめあった。
「約束だよね。また会えるって・・・」
 恵美の問いかけは、美由紀にとって辛く、怖い問いかけだった。
 
-私との友情を想うなら、変わる事を怖がらないで・・・
 
 未だ、美由紀にはその恵美の想いに答える自信はなかった。
 それを知っているからこそ、恵美は美由紀に答えを求めなかった。
 
 麗子はいつものように地下室に備えられている魔法装置に向かっていた。
「それで、今回は何が必要なの?」
『うん。必要になったのは大きめのサーバーの本体。ソフトは要らないよ。OSはこっちで用意できるし、データベースはMySQLとPostgreSQLをベースにして独自に改良した奴をインストールする予定だから』
「ふうん。良くわからないけど、性能はこの紙に書いてあるのでいいのね?」
『それでOKだよ。あ、そうだ。あと、ついでにあいつらにメッセージを送っといて。ようやく安定した通信回線が開きそうだって』
「わかったわ」
『・・・何時もありがとう』
 その声の主の表情を想像してみて、そして麗子はくすっと微笑む。
 あの不器用でぎこちない笑顔しか出来なかった少年が、どのような表情で「ありがとう」と言える様になったのか、見てみたい気がした。
 もう一年以上も会っていない。
 だが、今は全く違う異世界にいる少年は、それでも魔法という驚異の力を使って自分に接触を試みてくれた。それだけで麗子は心が満たされるのを実感していたのだ。
 彼と力を分かち合った仲間達は、その任務の性質上、このような連絡役としては適さない。
 人には適材適所という言葉がある。
 共に戦場に立つことの出来ないもどかしさはある。が、少なくともそれは自分の役目ではない。
 自分を険しい視線で見つめ返してきた韓国人の女性の顔を思い出す。
 だが、麗子こそ彼女に嫉妬していた。
 命の掛かった場で、自分の愛する人の為に共に戦うことのできる彼女を羨ましく思う。
 それでも、自分は武力や特殊能力を持っているわけではないが、北条家という旧家を継ぎ、そしてその経済力と企業力という力を持っている。
 その力は決して無力ではない。
 だからこそ、自分に出来る事を全力で行うのだ。
 それは異世界で想像を絶する困難と闘っている少年が望むことだから。その少年は決して、愚かな仲間同士での争いを望まないだろう。
「・・・さてと、忙しくなるわね」
 自分に気合を入れるように呟き、通信の終わった魔法装置をちらり、と見る。
 そして銀色の携帯電話を取り出す。
 この携帯電話は、しかし魔法技術の結晶であり通常の携帯電話ではない。
 数度のコール音の後で相手が出た。
 
「ええ。判りました。しかし、何時も助かります。・・・ええ、ありがとうございました。それではまた」
 簡単に答えて弘樹は携帯電話をしまう。
「何だって?」
 武斗が面白げな表情で弘樹に尋ねる。
 水蓮のほうをちら、と見たが別段に関心無さ気に紅茶を飲んでいた。だが、気配だけ弘樹の方に集中させている。当然のことだが電話の相手が誰かくらい気が付いている以上、一体何のことなのか関心が湧かないはずは無い。
 そもそも、水蓮はあらゆる意味で麗子に対して重大な関心を持っているのは全員が知っていることだった。
 これだけの規模で組織を運用する以上、莫大な資金が必要になる。それを理解して活動に必要な支援をしてくれる、という意味では得難い存在だ。しかし、女という立場で考えれば複雑な感情を抱かざるを得ない。
 ましてや麗子は日本でも有数の旧家の後継者であり、かなりの政治力も持っている。そして眞自身、彼の祖父はこの国の政治家の中でも中核を担う存在の一人であり、緒方家自身も表にこそ出ていないが日本の政治や経済に対して隠然たる影響力を持つ存在だ。一介の留学生に過ぎない自分とは大きく違う存在だと水蓮は自覚していた。
 そのことが彼女の心に不安を齎している。
 眞自身はそのような事は気にもしないだろう。そもそも人を国籍や人種で差別するような人間だったら、『人類』を運命から解放する、などというとんでもない夢を抱いたりもしない。彼が中国共産党政府やアメリカ合衆国政府の行動を警戒するのは、彼らが軍事的覇権を主眼とした外交を主に展開することが多いからであって、別にその国に住む人間を嫌っているわけではない。それどころか眞は米国や中国などにも個人的な友人がいるし、“改変”によって人的被害が拡大しないようにそれらの国にも自分達のような“プロメテウス”を送り込んでいるほどだ。
 だが、彼を取り巻く政治家達や官僚には国粋主義者の影や共産主義者の亡霊が見え隠れする。眞はその事を嫌いながらも、しかし、人の意思を強制的に捻じ曲げることや、思想によって差別を受ける事は眞自身の考えに反する、という見方から、彼らを排除する事をしていないのだ。
 ただ、眞自身の抱く夢を実現する事を妨害する相手は実力で叩く、という手段も放棄していない。
 所詮、人の行いだ。
 どうしても矛盾が出るし、納得しない人間も、賛同しない者もいる。だからこそ、お互いの理念がぶつかり合うことも避けられない。
 それが現実であった。
 その上で近年、保守主義や右派勢力が伸張してきたこともある。ある意味では中国共産党政府は調子に乗り過ぎていた、と言ってよい。リベラル色の強い新聞をはじめとするマスメディアは中国共産党政府の事を考慮する余り、一切の中国政府非難を避けて黙殺してきた、ということも、インターネットの急速な普及でマスコミが行ってきた情報統制が一気に崩壊した結果、かえって日本国内で対中国強硬派や保守主義が強まってきたことと無関係ではない。
 いやむしろ、今まで黙殺され封印されてきたサイレント・マジョリティが一般の目に触れるようになってきたと言ったほうがよいだろう。メディア・リテラシーなどのメディア批判が公然と行われるようになった結果、世論のオピニオン・リーダーを自認してきたマスメディア自身の歪みやその偽善性が一気に噴出してきたのである。その結果、国民のかなりの割合が改憲に対して否定的ではなくなり、また、憲法九条の改正にさえ肯定的な意見を堂々と主張するようになってきたのだ。
 その事については水蓮は韓国人という立場から、複雑な心境ではある。
 そもそも、韓国では国定教科書を用いて学生を教育し、その教科書では大日本帝国軍の蛮行がこれでもか、これでもか、というくらいに記述されている。彼女自身、日本に来てホームステイしている家族に親切にされても、最初は『日本人がこんなに親切なはずは無い』と混乱したほどだ。
 だが、一緒に生活していた日本人の家族とは未だに付き合いを続けているほど親密になっている。特にその一家の高校生の娘とは、姉妹のような間柄だ。
 だからこそ、一部の政治家やマスメディアが馬鹿馬鹿しい騒動を引き起こす事を苦々しく思っているのだ。
 1998年11月の江沢民・中国国家主席(当時)が執拗な日本批判を繰り返した結果、逆に日本人の間に中国に対する嫌悪感が広まってしまったことが一例だろう。そもそも水蓮は中国のことが好きではない。いや、多くの韓国人は中国人に対して良い感情を抱いていないだろう。
 そして外国人犯罪で中国からの不法滞在者による凶悪犯罪の報道を見て、水蓮は中国人の印象を益々悪くしてしまっていた。
 一度、水蓮は眞に東京都知事や政治家の靖国神社参拝についても聞いてみたことがある。
 眞の答えは、「で、何が問題なんだ?」だった。
 逆に第二次世界大戦後、日本が平和主義じゃなかった事を証明してみるように聞かれて、水蓮は困ったことがある。そして如何に、自分が日本の事を知らないかを思い知らされていたのだ。
 だが、問題は日本人自身が強烈な反中意識を持ち始めていることだった。
 水蓮自身はほとんど関心を持っていない。逆に、日本人の間で韓国ブームが広がり、韓国人自身もインターネットを通じて日本文化、特に音楽や漫画、アニメなどを知って、日本に対する好意的な感情が広がってきていることが嬉しかった。
 しかし、眞自身はそうした熱狂的な対立感情に対して警戒心を抱いるのだ。
 それでも日本という国の安全保障を考える事をせざるを得ない以上、自衛隊と日本国政府の計画する強力な防御システムの構築に対して協力を進めていた。
 それに対する中国政府の猛反発が予測されるため、完成が近づくまで当たり障りの無い情報だけを提供するようにし、「民間が開発した技術を用いて新規構築する」という状況まで用意していた。
 国家として開発すると面倒なため、一民間企業の開発した驚異的な技術を用いての緊急構築、というイレギュラーな手段を考案したのである。
 魔術を応用した統合戦略兵装の開発と装備だった。
 例えば現在運用されているイージス艦などに魔法による偵察・索敵・情報管制システムを導入したり、強力な防御システムを構築すれば、恐るべき防衛能力を得ることが出来る。そして、大都市部を協力に防御する魔力結界を発生する魔法装置を稼動させれば、文字通り核攻撃にさえ平然と耐えうるほどの防衛能力となる。また、TMDシステム*にも魔法技術を応用した場合、非常に高精度な迎撃システムを構築することも可能なのだ。
 それらに対して明白な、ある意味では過剰ともいえる反応を示す中国政府の真意は、自国の武力による威嚇と軍事的圧力を無効化されることに対する恐怖と不安があるからであり、日本が海外侵攻を再び企もうと画策している、というのはその本心を隠すオブラートに過ぎない。そう言っておけば日本の世論、というよりは反日のマスメディアや新聞が勝手に騒いで日本の国策を潰してくれる、と見込んでのことである。
 だからこそ、インターネットの普及で日本の“本当の”世論が当たり前のように一般人同士で語られるようになってきたのは中国共産党にとっては大きな誤算だっただろうし、マスメディアにとっても手痛い打撃だったといえるだろう。
 そもそも、日本のマスメディアはその流通している情報を統制している、という意味では国家による情報統制よりも性質が悪かったといえるだろう。そして、一部の教育界が子供達に対して異常なまでの反体制教育を施しているのも悪質だった。しかし、インターネットが普及し、国民自身の声が直接、交換されるようになるまでマスメディアによるこのような実態が暴かれなかったという点でかつて、日本が“国民の知る権利を護る”はずのメディアによって如何に情報統制がなされてきたかを明白に物語っていると言える。
 眞が、そして彼ら“プロメテウス”が警戒しているのは、実はその反動であった。
 そのために、過剰なまでの魔法技術の供与を制限し、極一部の魔法技術のみを実用化する方向で落ち着いていたのだ。
 
 ロバートは私室でぼんやりとこれからの展望を考えていた。
 あの恐るべき技術を持った存在は、一体何者なのか。そしてそれがどのように世界の軍事力に影響を及ぼすのか、などと想像し、恐怖を禁じることが出来なかった。
 破壊不可能な鋼鉄で作られた戦車や戦艦、もし、それがジェラルミンなどにも応用可能な技術だったとすれば、破壊不可能な航空機による戦闘が展開されることになる。それが米軍のものならともかく、米軍がその技術を持たず、そして敵対する国家がそれを手にしていたとしたら・・・
 悪夢だった。
 戦闘にすらならないだろう。
 だが、それを米軍だけが独占できたなら。絶対の力を元に世界中で独裁者や独裁政権の圧政に苦しむ無辜の民に民主主義と自由を齎す神からの恩寵となるだろう。
 ある意味では愛国的なアメリカ人として、そして星条旗に忠誠を誓う軍人として至極当たり前の考えがロバートの頭にあった。
 そのロバートの姿をじっと見つめる視線があった事に、彼は気付いていなかった。
 もっとも、魔力を見通す目を持たない彼には、その視線に気付いたところでなんともしようが無かっただろうが・・・
 室温が異常に下がっていることに初老の准将は気付く。
「Hum, the air condition must be broken…」
 エアコンのスイッチを切るために立ち上がろうとした。
 信じ難いほどの冷気がゆったりとした室内を満たしていた。窓が白く曇ってさえいる。いや、吐く息さえ白かった。
「W,What a hell is this!!!」
 ロバートは恐怖を抑えながら罵倒の言葉を口にする。もっとも、何に対しての罵倒なのか、彼自身にも考えは無かったが。
 不意に振り返って背後を見た。別に何を意識したわけでもない。
 背後という自分の目で見えない場所を見ておきたかった、という本能的な反射に過ぎない、はずだった。だが、その振り返ろうとした視線が何かを捉えてしまった。
 自分以外の何者もいないはずの空間。
 だが、その視界の隅に何かを見てしまったのだ。
 慌てて視線を戻しても、そこには何もいない。
 不気味な沈黙が歴戦の軍人であるロバートの心に重圧を与えていた。拳銃を取り出し、安全装置を解除する。銃弾が通用しないかもしれない、という考えは頭の中から除外した。そんな事を考えたなら手の打ちようが無い。
(くそったれっ!、ハリウッド・ムービーじゃ無いんだぞっ!)
 心の中で毒づきながら、その言葉で己を叱咤する。
 中腰になって両手で拳銃をしっかりと構え、油断無く辺りの様子を探った。何も見えない。だが、確実に何者かがこの部屋に潜んでいる。
 ロバートはもはや疑っていなかった。
 何者かが彼を狙って・・・・・いる。
 じりじり、と焼け付くような緊張が部屋を満たしていた。背後を取られないように壁際に移動する。壁をすり抜けたりぶち抜いてくるような状況は考慮しなかった。そもそも、そんな事が出来る相手なら拳銃など何の役にも立たないだろう。
 だから、ロバートは可能な限り自分が対応できる状況を考えて行動していた。非常ベルのスイッチを押していたが、作動したかどうかは怪しい。普段どおりならものの数十秒で護衛兵たちが駆けつけているはずだが、物音一つさえしていない。
 その異常な緊張は、しかし、時間にして僅かなものだったのだろう。
 そして、次の瞬間・・・
 不意に部屋の照明が落ちた。
 
 新宿の夜は馬鹿馬鹿しいほどの騒ぎに満ちている。
 いつもの事だが、水蓮はこの猥雑とした雰囲気がどうしても好きになれない。眞と知り合ったきっかけの出来事を思い出すと不愉快な気分が募ってきた。
 だが、それでも自分の背負う責任を放棄することなど出来なかった。
 麗子からコンタクトを受け、そして異世界にいる眞から直接聞かされた話は途方も無いものだったのだ。そして、それに対応できるのは彼らプロメテウス以外にいないことも。
 弘樹の運転するSUVの後部座席でぼんやりと窓の外を流れるイルミネーションを見ていた。眞の居場所が判ったのは喜ばしいことだった。だが、それはある意味では絶望的な事実を水蓮に突き付けていた。
 異世界。
 その言葉が持つ意味の大きさを、今、彼女は思い知らされていた。
 眞が麗子にだけ連絡を取ることが出来た理由。それは麗子の家に眞が創造した魔法装置があり、そして辛うじてその装置を用いて連絡を取ることが可能だったため、だった。
 流石に魔法技術により作られた魔法携帯電話でも、世界を隔てては通信など出来ない。
 麗子の家にある魔法装置とて自由に通信が出来るわけではない。極めて限られたタイミング、そして通信時間の間でのみ、その通信が可能になるのだ。それも、音声だけ、である。
 それでも、水蓮は麗子に嫉妬していた。
 一番最初に、眞からの連絡が届くのが彼女の元へ、なのだ。
 そっと目を瞑り、考えをこれからの事態の推移へと集中させる。
 動揺しているのだ。突如、待ち望んでいた人からの連絡が入り、思わず女としての感情が弾けそうになってしまった、だたそれだけだ。
(大丈夫・・・私は大丈夫・・・)
 眞の齎してくれた情報をゆっくりと噛み締めるように思い出す。
 自分達がそれに向かい合わなくてはならない。
 眞はそれを“夢魔ノクターン”と呼んでいた。
 彼らが世界を超えることとなってしまったあの事故。
 そう、眞ははっきりとその事を“事故”と呼んでいた。その異世界を転移してしまうほどの途轍もない事故によって、フォーセリア世界とこの世界以外にも幾つかの世界へと繋がる“隙間”が出来てしまったのだ。そして、その“隙間”から侵入する“もの”がいるのだ。それが“夢魔ノクターン”である。
 もっとも、眞とてその全ての情報を掴みきっているわけではない。
 彼らが何なのか、そして、彼らの目的は何なのか。
 わかっていないことが多すぎた。
 唯一つ判っていること、それは、彼らは人間を捕食すること、だった。
 
「これを飲んだら、もう元には戻れなくなる。それでもいいの?」
 少し迷ったような声で目の前の少年が確認するように尋ねてきた。
 北朝鮮の武装工作員を躊躇無く斬り殺せる戦士が、迷ったような眼差しで自分を見つめてくることで、水蓮は心の何処かでその少年に愛おしさを感じている自分に驚いていた。
 隣の部屋では、親友の銀寿が深い「忘却の眠り」についている。魔法、という未知の力を説明され、それが悪魔を信仰することで得られる邪悪な力ではないことに少しだけ安堵し、しかし、水蓮はそれでも神の教えにより、魔法に対する反射的な嫌悪感を抑えきれない自分に苛立ちを覚えていた。
 信仰を棄てる、と決意しても、生まれたときからクリスチャンとして育てられてきた価値観はそう簡単には消えない。
 眞の差し出した液体は、不思議な色をしたお酒だった。
 付与魔術を基礎とし、拡大魔術やその他の魔術の業を用いて生み出した秘薬、である。これは“覚醒の酒”と名付けられた特殊な魔法薬であり、その効果は人の持つ様々な能力を引き出し、使えるようにする、という驚異的な効果があった。
 眞の説明によると、人の精神は混沌とした領域を持っているらしい。そして、人はその未知の領域にある力を、無意識のうちに抑制してしまっているのだ。
 その力を解放し、そして人の意思により使いこなせるようにする。
 眞はその計画を“ヘルメス計画”と呼んでいた。
 いずれ、人は新たな環境に進出していく。そのときに、人が現在のままで対応できるかどうかもわからない。ましてや、今の環境に固執しようとする人類は、いずれ滅びの危機を迎えるだろう。その危機に対応し、そして自らの力で己の運命を切り開くことが出来る者を育て上げる、それが眞の考えだった。
 だが、それはある意味では神の定めた運命に対する反逆でもあった。
 その事実が、幼い頃から神の教えを学び、クリスチャンとして生きてきた水蓮に激しい葛藤を与えていたのだ。眞はその事を知っていたからこそ、彼女にエリキサーを与える事を躊躇していた。
 李水蓮という女性が真面目で物事を真剣に考える性格をしているが故に、文字通り、世界観を変えてしまうほどのインパクトは彼女の精神を崩壊させてしまう危険さえあるのだ。
 今はまだ彼女と彼女の親友の銀寿を北朝鮮マフィアから救い出したときの興奮が残っているからまだしも、それが落ち着いたときにどのような反動が出るかわからない。その事を眞は危惧していた。一時の気の迷いで信仰を破壊するような行動をとった場合、特に熱心な信者はどんな行動を取るか、眞の想像を超えている。組織を危険に晒すような真似は可能な限り避けなくてはならなかった。
 だが、水蓮にしてみれば自分が悲壮な想いで決意した決断を認めてくれない、という苛立ちを感じさせるのだ。
「構いません。これでも、きちんと考えて決めたんです」
 幾度と無く繰り返された問答だった。
 あなたの人生観さえも変えてしまうんだよ。そう、眞に何度も確認された。
 確かに今は神経が昂ぶっているのが自分でもわかる。そして、眞がそれを心配してくれているのも理解できた。彼が今、傍に居てくれるのはあのような異常な経験をした水蓮達が興奮したままでいるのは良くない、という判断によるものだ。それは多分に眞の仲間や組織の事を心配した行動であろうが、それでも自分の事を心配してくれてもいる、という自惚れもしたくなる。でなければ例の魔法を使って彼女の記憶を操作してしまえばいい。
 それをしないのは、目の前の少年が自分の事を案じてくれているからだと思う。それは眞に心惹かれてしまった水蓮にとって心地良い満足感であり、喜びであった。
 だからこそ、自分を彼の世界に連れて行って欲しかった。
 眞の住む世界に、自分も飛び込んでいきたかったのだ。
 目の前の少年の悩みはわかる。自分が同じ立場だったら、当然のように迷うだろう。だから、自分の決意を受け入れてもらう事を望んだ。
「・・・もう、これくらいで良いでしょう?」
 水蓮は決心して立ち上がった。ガラス製のコーヒーテーブルを回り、眞の目の前に座り込む。
「水蓮・・・」
 眞は目の前の女性の瞳に決意の輝きが浮かんでいるのを見て、自分も決断する必要がある事を悟っていた。エリキサーを与え、そして彼女をプロメテウスとして覚醒させる事、である。
「・・・わかった。君に“覚醒の酒”をあげるよ」
 その言葉に水蓮はほっと肩の力が抜けるのを感じていた。
「・・・ありがとう」
 漸く認めてもらえた。そんな想いが心の中に沸き起こってくる。
 だが、ほっと息が抜けると同時に不安を覚えていた。
 まるっきり新しい人生がこれから開かれることになる。それが困難に満ちた、決して普通の人生でない事は明白だった。
 それでも、彼女にとっては眞に付いていく事の方が重要なのだ。
 だから、勇気が欲しかった。
 そう願い、水蓮は思い切って眞に尋ねた。
「正直に言います。私、怖いです。自分がどんな風になるのか、これからどんな事が起こるのか」
 眞はじっと水蓮の瞳を見つめて聞いていた。
「でも、あなたと一緒の世界にいきたい。ただの我侭を言っているのは承知しています。それでも、このまま離れてしまうのが嫌なんです。あなたの理想に共感して、プロメテウスになるわけじゃありません。だけど、あなたの追いかける夢を一緒になって追いかけたい・・・」
「水蓮・・・」
 眞は絶句していた。
 理想を共に追うのではなく、一人の女として自分と一緒にいたい、というのは想像していなかった。もっとも、そんな生々しい選択を高校生の眞に想定しろ、という方が無茶である。水蓮とて同じである。まだ二十一歳という年齢で、そんな事を決断するとは今まで想像さえしたことが無い。
「だから、私に勇気をください・・・。ずっと、あなたの傍で戦える勇気と絆をください・・・」
 そのまま、水蓮はそっと目を閉じる。
 一瞬の間を感じ、そして次の瞬間、眞の唇がそっと重ねられた事を感じていた。
 そして、水蓮はその夜、プロメテウスとして覚醒した。
 
 
 

第三章 侵略者~ Invader ~
No.1

 
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