~ 2 ~

 そう、私はあの日から『魔法使い』になった。
 只の留学生から、世界を『改変』する為の戦士になることを決意した瞬間から。
 いえ、世界を『運命』という名の残酷な芝居から解放する『救世主』の為に戦う女神二ケアとなることを選んだ・・・
 
 水蓮スーヨンは彼女の運命を変えた、いや、正確に言えば運命を変えることを選んだ、その日の事を思い出していた。
 ある意味で不愉快な、そして人間の醜さを初めて自覚した日。そして人の素晴らしさを思い知らされた日。初めて目にした『魔術』は、水蓮の心に焼き付いてしまった。
 あの日、水蓮は同じように韓国から留学してきていた友人から電話を受けたのだ。
 困ったことが起きたので、助けてほしい、と。
 
 新宿にあるどこか猥雑な雰囲気を、水蓮は好きになれなかった。だからこそ、あまり近寄りたくも無かったし、ましてや歌舞伎町のような如何わしい印象しか受けない界隈になど足を踏み入れたことも無かった。だが、いきなり友人から相談を打ち明けられて、来るように言われたらそれを拒絶することも出来なかった。
 確かにテコンドーも習ってはいたし、はっきりいってそこらの男に襲い掛かられても対処できる程度には実力はある。しかし、それでも女一人でこのような怪しげな場所を歩き回るのは不安があった。
 それにしても、不注意なトラブルを避けるように十分に注意してきた友人が、何故このような場所に呼び出すような事態に陥っているのだろうか。水蓮の友人も真面目な学生であり、一部の留学生にいるような風俗関連の店で働くような真似をする女性ではない。そもそも、水蓮自身も、彼女の友人も真面目なクリスチャンであり、どちらかと言えば韓国の伝統的な躾で育ってきた彼女達は親の信頼を裏切るようなことは出来ないような性格をしている。
 だからこそ、余計に心配になったのだ。
『弟が困った事になったの・・・』
 今にも泣き出しそうな彼女の声が水蓮を焦らせていた。
 友人から連絡を受けてやってきたビルは、いかにも怪しい雰囲気満点である。嫌な予感がする。もしかして、その友人は大変な目にあっているのではないだろうか・・・
 特に、在日韓国人と在日朝鮮人の間では、微妙な緊張と協力関係がある。元々、異国に住んでいる同胞である、という意識からか、助け合うこともままあるが、それぞれの母国の政治体制の違いからか、犬猿の仲とも言える対立を生み出す場合もあった。
 ビルの階段を上り、教えられた部屋番号のドアの前に立った水蓮は、一瞬だけ躊躇した。
 もしかしたら、このドアが運命の分かれ道かもしれない・・・
 不安が心を満たしていた。
 良く聞く話である。性的な欲望の捌け口にするために若い女性を拉致して暴行を加えたり、そのまま性風俗の店に売り飛ばされている、などというおぞましい話は、噂としては聞いたことがあるが、それが本当かどうか確かめようとも思ったことは無い。だが、もしかしたら自分の身に現実にこれから降りかかることかもしれない、という恐怖が水蓮の心に沸き起こってきていた。
 だが、ここで立ち止まっていても、友人を救うことは出来ない。
 意を決して水蓮はドアをノックした。
「誰だ?」
 強い訛りのある口調で、中から男が尋ねてきた。
「李水蓮と言います。友人からの連絡でここに来るように言われました」
 水蓮の言葉に、ドアに掛けられていた鍵が開き、一人の男が顔を出す。背の低い、やけに目つきの悪い男だった。きょろきょろと彼女の背後やあたりの様子をうかがい、誰もいないことを確かめてから、「入れ」と一言だけ言葉を発した。男に促され、水蓮は思い切ってドアを潜り抜ける。
 静まり返った部屋の中には数人の男が、ソファに腰掛けて雑談をしていた。そして、若い女性が一人だけ椅子に腰掛けていた。
銀寿ウンジュ!」
 水蓮は思わず駆け寄ろうとする。しかし、その彼女の前に男が立ちはだかった。
「ちょっと待ちな、お嬢ちゃん。最初に話をしようや」
 そう言って男は水蓮に、ソファに腰掛けるように促す。逆らうことも出来ずに、水蓮はソファに腰掛けた。目の前の、どう見てもまっとうな人間に見えない男達に囲まれて、本能的な恐怖と不安に震えが止められない。
「・・・どういう状況なんですか?」
 声が震えるのを必至に抑えて、水蓮は男に尋ね返した。
「そこのお嬢ちゃんの弟さんがな、ちょっとうちらの若い衆と問題を起こしてくれてな・・・」
 男の話した内容は、衝撃的なものだった。
 何でも銀寿の弟がこのやくざな男の女に手を出した、という話であった。そのため、面子を潰された男が銀寿の弟に落とし前を付けさせる為に、彼を拉致し、ついでに銀寿もさらってきた、という状況である。
「この間抜けの姉ちゃんは、弟に似合わずに別嬪だからな、お姉ちゃんのほうに弟の代わりに落とし前をつけてもらう事にしたんだ」
 そして、やくざの一人が銀寿と中の良い水蓮を見かけたことがあり、彼女もこの際、手中にしようと罠を仕掛けてきたというのだ。
 その勝手な言葉に水蓮は怒りを覚えていた。
「まあ、お嬢ちゃん達は親分が一番最初にお楽しみになってから、俺達が可愛がってやるからな」
 下卑た笑みを浮かべながら、男達が水蓮の身体を嘗め回すように見回した。その余りにもおぞましい視線に水蓮は吐き気さえ覚えていた。
「まだ金先生とは連絡が付かないのか!」
 この連中の中では仕切り役なのであろう、若い男が下っ端らしい若者を怒鳴りつける。まだ少年とも思えるような若い男はぺこぺこと頭を下げながら、ごにょごにょと言い訳をした。
「あの、電話にも出られませんし、秘書の白さんにも連絡が付かなくて・・・」
「バカヤロウ!じゃあ、てめえがさっさと走って連絡とって来い!・・・ったく、気が効かねえ野郎だ」
 仕切り役の男に怒鳴られ、若者は弾かれたようにドアに向かった。
「そうだ、ついでにあの日本人のガキの事も聞いて来い。何時、本国に連れて行くのか、誰が繋ぎ役になるのか、こっちに連絡が一切来てねえからな、何にも出来ねえって言っとけ!」
 まったく、偉大なる首領様にお渡しする貴重なお土産を用意しておいたってのに、なんだってこうも役に立たねえ連中ばっかなんだ・・・。男の呟きに水蓮は驚愕を覚えていた。
 この男達は北朝鮮の工作員なのだろうか。北朝鮮の関係者以外には「偉大なる首領様」などという言い回しは使わないだろう。
 その事実にぞっとした。どうやらこの男達は朝鮮マフィアにカモフラージュした北朝鮮工作員のようだ。そして、日本人の少年を拉致して北朝鮮に送ることになっているようだ。そのような男達に捕えられたことが今更ながら冷たい恐怖となって水蓮の心に圧し掛かってきた。
 ましてやそのような卑劣な男達に辱めを受けるくらいなら、いっそ死んだほうが、とさえ考える。だが、一人娘が異国で命を失ったとなると、実家で自分のことを心配している父や母がどれほど悲しむだろう。そう考えると、絶望に心が引き裂かれそうになる。
 心の底から、神に救いを願っていた。
 主よ、私たちに救いを御使わし下さいませ!
 生まれたときからクリスチャンとして育てられてきた水蓮だが、今までの人生で無かったほど、必至に祈りを捧げる。そして、その祈りは意外な形で叶えられた。
 使いっ走りを命じられた少年がドアに手を掛けた瞬間、一瞬、銀色の光が閃く。水蓮の目には、一瞬のそのきらめきが、鉄製の頑丈な扉だけでなく、少年の身体をも横切っていたように見えた。
 その少年にとっては、苦痛を感じなかったのはある意味で幸いだっただろう。十文字に閃いた銀色の輝きの後で、少年は動きを止めていた。
「ん?何やってんだお前。さっさと・・・」
“行けっていっただろう!”、と続けられるはずだった仕切り役の罵声は、驚愕にかわった。動きを止めた少年の身体は、ゆっくりと腰からずれていき、そしてさらに右肩から左腰にかけて、袈裟懸けに分断していった。真っ二つに断ち斬られた少年の上半身が、ぼとり、と床に落ちた後も暫く下半身は、何が起こったのかわかっていないかのように立ち尽くしていた。だが、それも十秒程度で力を失ったかのようにがくり、と膝を折り曲げて横倒しに倒れる。どこか荒唐無稽なホラー映画を見ているとさえ思えるような、非常識な光景に水蓮も友人も男達さえも、身動き一つ出来なかった。
 突如、ガンッ!と、どこか軽い音が響いて、断ち斬られた扉が開く。
 鍵が掛けられているドアノブの部分を切り離すように十字に切断された鋼鉄製の扉が、まるでおもちゃの家の扉を開くかのようにあっさりと開いた。どれほど頑丈な錠前と鋼鉄製の扉でも、錠前部分を切断されては開くことを妨げることは出来ない。ある意味では当たり前すぎる事実だが、どんなことをすれば、あれほど分厚い鋼鉄製の扉を、一瞬で十字に斬れるというのだろう。
「あれ?伊達さん、誰か予定外の女がいるんですけど」
 気持ち良い、透き通るような声が響く。
 水蓮はその姿を見て、まるで天使だろうか、とふと場違いな感想を抱いてしまった。黒いジャケットに黒いジーンズ、という、黒ずくめの格好をした少年だった。そして燃えるような金色の髪と信じられないほどに整った顔。日本人、というよりはオリエンタルな異国人、というような印象を受けてしまう程、人間離れした美しさだった。それ以上に、水蓮の心に印象を残していたのは、その瞳であった。深く澄んだ蒼い右眼と鮮やかに輝く紫の左眼。至高の宝石を連想させるその瞳に惹かれている事を、水蓮はぼんやりと自覚していた。
 日本刀を手にしている事実から、目の前の少年とも言える年齢の人物が、朝鮮マフィアの使いっ走りの若者もろとも、鋼鉄製のドアを一刀両断にしたとしか考えられない。だが、その少年には水蓮が目の前の朝鮮マフィアや歌舞伎町周辺を徘徊している不良学生のような下卑た雰囲気は微塵も無かった。
 一人の若者の命を断ち切っておきながら、しかし何事も無かったかのように平然としている。それは揺ぎ無い意思を以って、『死』をもたらす死神以外にはそのような表情はし得ないはずだ。あるいは『死』を司り、最後の審判の時に堕落した人間と悪魔に死の裁きを下す大天使であるか・・・
 凍りついた時間をかき消すかのように、銀寿の悲鳴が響き渡った。
「何だ、てめえら!」「あいつらをぶっ殺せ!」
 銀寿の悲鳴で我に返ったように、朝鮮マフィア-北朝鮮工作員たちがいきり立ったように目の前の若者に襲いかかる。だが、少年はまるで気にしていないかのように平然と構えていた。そして、手に獲物を構えた男達が少年に武器を振り下ろした瞬間、再び銀色の閃光が疾走する。次の瞬間、三人の大柄な男達は動きを止め、そのまま先程の若者のように身体を断ち斬られて、単なる肉隗に変った。
「眞、あんまり景気良くたたき斬るな。聞きたい事がある」
 伊達、と呼ばれた青年が金髪の少年に声をかける。
 そのとき、もう一人の男が水蓮の首筋にナイフを押し付けた。
「てめえら、この女を助けにきたってわけか。へへ、そうだったら武器を捨てな。じゃなきゃ・・・」
 またも男の言葉は途中で途切れた。
 眞という名で呼ばれた少年が、いきなり手にした日本刀を真横に薙ぎ払ったのである。水蓮は一瞬、少年が何をしたのか理解できなかった。実際に水蓮と男からは5メートルは離れているのだ。そんな距離から日本刀で斬れるはずが無い。そう水蓮は考えたが、彼女の首筋にナイフを突きつけていた男は、沈黙したまま何も言葉を話さなかった。どうしたのか、と視線を向けようとしたときに、少年が口を開く。
「お姉さん、見ないほうがいいよ。きっと寝覚めが悪くなるから」
・・・なんて言い方をするのよ。
 そう思ったが、忠告に従っておくことにした。もっとも、既に5人もの人間を目の前で斬り捌いておきながら言われても・・・、などと自分でも非常識な感想を抱いてしまう。辱めを受けるかもしれない、という恐怖と嫌悪が、いきなり現れた男達によって、その恐怖の根源があっさりと取り除かれてしまったのだ。あまりの状況の展開に、おそらく水蓮の心が付いて行っていないのだろう。だが、銀寿は逆に、長時間、男達に捕らわれていたせいで、ある意味で状況に慣れていたのかもしれない。そこへ、その状況を突き崩す存在が現れ、自分に脅威を与えていた存在を目の前で惨殺したのである。言わば、性的な脅威から死の恐怖へ、一気に精神が飛んでしまったのだ。
 だからこそ、銀寿は完全にパニック状態に陥ってしまっていた。
 少年は何も無いように水蓮に近づき、そして彼女の首筋に突きつけられたままとなっていた銀色の刃をそっと外す。そして、にこっ、と微笑みかけた。
「心配は要らない。ちょっとだけ待ってて」
 何人もの人間を斬り殺した人物とは思えないほど、優しく落ち着いた声だった。そして、不意に水蓮から視線を外し、銀寿に同じようにナイフを突きつけている男に視線を向ける。
 そして・・・
 次の瞬間、水蓮の全身が凍りついた。少年の全身から凄まじい気が放たれたのだ。
 息が出来なかった。
 まるで、深い海の底にいきなり引きずり込まれたような、そして目の前に抜き身の刃を突きつけられているような、恐るべき剣気に、水蓮は全身の肌が総毛立つのを抑えられなかった。とてつもない重圧に、男達も全く身動きが出来ない様子で、完全に動きを止めていた。
 その先程までの少年の印象とのあまりのギャップに、水蓮はまるで現実感を感じることが出来ない。少年はそっと彼女を促して椅子から立ち上がらせた。もうマフィアの男達は迂闊に飛びかかるようなことは出来ない様子だった。何よりも、目の前の少年は訓練された工作員をあっさりと死体に変えたほどの使い手である。その途轍も無い重圧と剣気は、厳しい訓練と実戦を重ねてきたであろう北朝鮮の工作員を完全に沈黙させている。その上で、伊達という男は銃を構えていた。その伊達という男は、少年の放つ凄まじいまでの剣気の中で、平然としている。
 水蓮は、伊達という男が危険なオーラを身に纏っているように感じていた。たった二人で平然と朝鮮マフィアの事務所に殴りこみ、そして平然と不敵な笑みを浮かべている。その男がゆっくりと口を開いた。
「さてと、本題だ。ここに一人、日本人の高校生がいるだろう。連れて来い」
 絶対の威圧、というものがあるなら、まさにこの男の放つ言葉こそが、それだろう。朝鮮マフィア-北朝鮮の潜入特殊工作員が感じた、その重圧は彼らの母国でさえ感じたことがないような恐怖と戦慄を伴うものだった。
 北朝鮮の軍で訓練を積んだとき、さまざまな場所で経た実戦、そのいずれでも経験したことのない、純粋な恐怖。それがたった二人の男-しかもそのうちの一人はまだ子供とさえいえるような年齢だ-から放たれている。この平和な日本、ある意味では阿呆とさえいえるような能天気な“平和主義”国家の国民が、このような異常な殺気を放てるものなのか。韓国情報部や日本国の情報部、公安、米国のCIAなど、各国の情報部と軍部に戦慄を以って厳戒態勢を取らせている北朝鮮の特殊潜入工作員たちが、僅か二人の男にあっさりと死体に変えられ、そして身動きひとつ取れない状況に追い込まれているのだ。彼らの母国では、確かに死と粛清の恐怖が日常である。しかし、それは誰かに政治的に貶められないか、誰かが自分について適当なことを密告しないか、などという見えない恐怖である。だが、目の前の男たちの放つ恐怖は違う。純粋な恐怖と暴力。それが圧倒的な力となって工作員たちを打ちのめしていた。
 しかし、それほどの力を持つ男達ではあっても、軍として正規の訓練を受けた工作員が不意を討たれずに、逆に不意を突く形で急襲すれば、太刀打ちはできないはずだ。だが、その淡い期待も少年の言葉に完全に打ち砕かれていた。
「言っとくけど、誰も救援になんか来ないよ」
 少年が言った言葉を、その場にいた誰もすぐには理解できなかった。伊達が少年の言葉を簡潔に説明する。
「お前らがそのお嬢さんたちにちょっかいをかけてる間に、こいつが全員叩っ斬っちまった、って事さ。そんなつまらん事に時間をかけてたおかげで、余分に人を殺すことになっちまったからな、今のこいつはかなり機嫌が悪いぜ」
 そう言いながら伊達が少年をちらり、と見た。
 眞、と呼ばれた少年は相変わらず綺麗な無表情のままだったが、その目には抑え切れない怒りが宿っているのを、水蓮は感じていた。
-何故、この男の子はこんなに怒ってるの?
 水蓮は一瞬、疑問を覚えていた。彼の仲間を、この卑劣な工作員たちが拉致しようとしたからだろうか。それとも、何かほかの理由があるのか。だが、水蓮にとってはそんなことなどどうでもよかった。彼女と友人の危機が救われたのだ。今はそれだけで十分だった。
 伊達と呼ばれた男の言葉を推測すると、おそらく彼らはこの殴り込みの前に北朝鮮工作員を操っている本部とでも呼ぶべき場所に殴り込みをかけていたのだろう。そして、その場所に目的である彼らの仲間がいなかったため、この場所に来た、という事になる。
 ある意味では、この工作員たちが変な色気を出したが為に水蓮たちは、目の前の男達による仲間の救出劇によって同時に救われたことになる。理由はともあれ、人生の危機から救われる、という事には異論はもちろん無い。そして、このような状況を招いた愚か者に対して同情も何も無かった。
 ただ、一つだけ、目の前で人をばたばたと切り殺されるような状況を目にして、親友の銀寿がどうにかなってしまわないか、という事だけが心配だった。
「もう一度だけ言うぜ。さっさとお前らが誘拐してきた高校生を連れて来い」
 伊達の言葉に険悪なものが混じり始めていた。
 だが、工作員達は戸惑ったように身動きさえしなかった。内心で、彼らは完全におびえていたのだ。“偉大なる首領様”に対して、世界を覆しかねない程の意味を持つ存在に対する貴重な情報とその力の断片を身につけた貴重な人物を手に入れた、と報告したばかりなのだ。その情報に上層部は狂喜し、直ちにその情報と人物を本国に送るように、との指示があったのである。もし、その情報も人物もいずれも本国に送り届けることができなければ、母国で暮らしている家族にさえ、どのような過酷な処罰が待っているかわからない。たとえ、自分たちが殺されたとしても、任務を完遂する必要があるのだ。
「伊達さん、埒が明かないですよ。こいつらは結局、自分たちの事しか考えてない。トシにも家族がいるし、俺たちみたいな仲間がいるってことを考えずに、偉大なる首領様だかなんだか知らないけど、そのくそ馬鹿に怯えて自分勝手なことばっかり考えてる」
 眞は一瞬だけ溜息をついた。
 だが、その声には伊達に勝るとも劣らぬ剣呑な色が混じり始めていた。思わず水蓮は“いけない!”と反射的に恐怖を覚えてしまう。この少年は、おそらく何の躊躇も無くこの場にいる全員を斬り殺すだろう。そして、眞はぼそり、と呟いた。
「どいつもこいつも、くだらない妄想ばっかり考えやがって・・・」
 え・・・?
 不意に眞の口から漏れた言葉に、水蓮は戸惑っていた。誰に対する言葉だったのだろう。だが、確かにその少年の言葉は、目の前の男たちに対してではなく、そして彼らの母国を支配している男に対する言葉でも無いような気がした。
 その声に水蓮は、彼の今までのような透き通るような揺ぎ無い強さではなく、何かに苦しみ、傷ついた心の叫びのようなものを感じ取っていた。だが、どのようなことを経験すれば、まだ高校生くらいの年齢の少年がそのような言葉を言えるのだろう。自分が高校生の頃は、人生の楽しみや将来の夢を友人と語り合っていた。世界にはこのような闇が広がっていることなど想像もできずに、単なる映画やドラマの中の話だと漠然と思っていた。
「これが最後だ。あと一回だけ聞いてやる。さっさとトシを連れてこい。さもないと、お前たちだけじゃない。家族、親戚類縁、全部ひっくるめて叩き斬る。朴安仁、とか言ったな。北朝鮮、特殊工作部隊の高級将校にして体外機密工作部隊長。たしか、あんたの娘は平壌の金日成大学の2年生だろう」
 眞という少年が口にした言葉は、水蓮の想像を超えていた。どのようにして、この二人の男たちは北朝鮮の秘密工作員の家族情報まで入手できたのだろう。それが真実であることを告げるように、特殊工作員の隊長らしい男は一瞬にして蒼ざめていた。この男の情報が正確に知られているのなら、おそらくこの場にいる工作員全員の情報は知られているだろう。そして、それが可能ならば、親戚類縁をひっくるめて全員殺害する、という目の前の二人の男達の言葉には明らかに真実味がある。
 それに、北朝鮮特殊潜入工作員の本部を突き止めた情報収集力、それを工作員たちに気付かせない程の手並み、その本部を急襲して工作員を全滅させた実力。どれをとっても途轍もない実力があるだろう。その上で、その工作員たちの本部にまだ仲間が送り届けられていない、という事実を確認するや否や、瞬く間にここを調べ上げて襲撃をかけたのだ。
「ほ、本気か!?国には十万を超える特殊部隊がいるんだぞ!」
 朴と本名を暴かれた男が悲鳴のような声を上げた。
 しかし、眞は冷たい視線を向けてあっさりと答える。
「その十万が死体に変わらないうちに、さっさと俺たちの仲間を返せ。そん時は十万どころか、平壌が死体の街になるだけだぜ。新種の天然痘兵器のワクチンなんぞ、平壌の生物兵器研究所にもないだろう」
 そう。近年の洗練された生物兵器は遺伝子工学の発展にも関連して、恐るべき破壊力を発揮する。そして、貧者の核兵器とも呼ばれる生物兵器は核兵器と違い民間団体でさえ開発、入手が可能なのだ。だが、目の前の男たちはテロリストなのだろうか。そうでもなければ生物兵器を持っている、などとほのめかす理由が無い。
 奇妙な沈黙が漂っていた。
 どこか遠くから都会の喧騒が聞こえてくるような気がした。このビルの外では当たり前の日常が広がっているのだろう。いや、このビルの中でさえ、ほかの部屋ではいつもと変わらない普通の時間が流れているに違いない。
 そんな当たり前のことに水蓮は、今、この瞬間に目の前で繰り広げられている出来事の異常さを改めて理解していた。
「・・・一つ聞きたい」
 その沈黙を打ち破るかのように朴がぼそり、と言葉を発した。むせ返るような血の臭いの中で、全員の感覚が麻痺したかのようにじっとしている。
「どうやって我々の情報を手に入れたのだ。それと何処まで知っている?」
「意味の無い質問だな。情報の入手経路なんぞ教える馬鹿が何処にいる。知られたらそいつを消すだけだ。で、そうなったらお前の母国の偉大なる首領様は遠慮なくお前たちの家族の粛清を命じるだろうよ。結局、知ったところでろくな目にはあわないだけだ」
 伊達が小馬鹿にしたように答えた。目の前の北朝鮮の男たちに目には動揺の色がはっきりと浮かび上がっていた。
 そして、その混乱が徐々に広がり始めたときに、眞がぼそり、と言葉を発した。
「今、俺たちに降伏するなら命は助けてやる。家族を北から脱出させる事を望むなら、手を貸してやろう。好きなほうを選べ」
 眞の言葉に、北朝鮮の男たちは激しく動揺するのが水蓮にはわかった。だが、正直言って気持ちのいい取引ではない。少なくとも、彼女にとって嫌悪すべき男たちであり、彼女や銀寿の身に何をしようとしたかを考えるとおぞましさに吐き気さえする。
 その水蓮の気持ちを察したかのように、少年がちらり、と彼女に視線を向けた。その眼に再び、いかなるものにも揺るがない鋼の意思と透き通るような気高い輝きが戻っているのを悟り、水蓮は目の前の男たちに対する関心を失っていた。
 ある意味では強烈に魅せられたといっていい。
 野生の獣のような危険と生命力、そして神話の世界の住人のような穢れない強さ。そのひ弱な現代の若者に根本的に欠けているものを目の前の少年は宿している。触れれば斬れるような男の危険な香りと、純粋な少年としての美しさ。その矛盾する二つの強烈な色彩は、少年に神秘的な印象さえ与えていたのだ。
「・・・た、頼む。家族を助けてくれ。投降する」
 朴の悲痛な色の混じった声に、その場にいた男たちはほっと息をつく。一瞬で戦場の緊張感が緩み、伊達と眞を除いた全員がどんよりとした疲労感に包まれていった。やがて、一人の男が別の高校生が連れてきた。
「伊達さん、眞さん!」
 おそらく抵抗した際に殴られたのだろう、左頬には痣があったが、別にほかには怪我をしている様子は無かった。貴重な力を持った存在だ。うかつなことは出来なかったのだろう。その少年の様子に眞は初めて微かな笑顔を浮かべた。
「トシ、わりぃ。遅くなった」
「眞さん、平気っす。・・・でも、えらく派手にやったもんですね」
 部屋中に散らばる人体の断片を見て、気持ち悪げに顔をしかめる少年に、しかし、水蓮は呆れていたような感想を覚えていた。
(一体、この子達の親はどんな教育をしたのかしら。こんな悲惨な現場で何とも思っていないような振る舞いをするなんて。やっぱり日本の教育は少し変なのかしら。それともゲームにのめり込むから、こんな風に育ってしまうのかしら・・・)
 そんなことをぼんやりと考えている水蓮も、自分があまりにも衝撃的な現場を眼にしていながら、冷静な判断力を持っていることを不思議に思っていた。それか、あまりにも現実離れした状況を眼にして、恐怖心さえ麻痺してしまったのかもしれない。
 伊達は朴を促して全員の武装を解除させていた。そして、今後、いかにして彼らの家族を北朝鮮から脱出させるのか、そしてこの襲撃で死んだ工作員のことを露見させずに処理をするのか、を説明していた。
 その話をぼんやりと聞きながら、水蓮はぼんやりとソファに座り込んでいた。眞は水蓮と同じように椅子にへたり込んでいた銀寿をそっと立ち上がらせ、水蓮の座るソファに連れてくる。彼女は完全に平常心を失って、虚ろな眼でぼんやりと視線を空中に漂わせていた。その親友の姿を見て、思わず水蓮は泣き出しそうになってしまった。
 ひょっとすると銀寿は精神がおかしくなってしまったのかもしれない・・・
 不意に目の前の男たちに対して怒りがこみ上げてきた。勝手な理由で彼女たちを拉致してきた工作員たち、その男たちを平然と斬殺して何事も無かったかのように取引を進めている伊達と眞。あまりにも身勝手な男たちに対する憤りが彼女の心から溢れ出しそうになってきた。
「あなたの友達だけど、俺が何とかする」
 眞が申し訳なさそうに水蓮に話しかけてきた。だが、水蓮は怒りを爆発させそうになってしまう。どうやって「何とか」するのだろう。
「いい加減な事を・・・」言わないで!、と叫びそうになって、水蓮は息を呑んだ。眞が何かを呟いて右手の人差し指で何かの紋様を空中に描いた次の瞬間、彼の手に奇妙に捻じ曲がった木製の杖が現れたのだ。彼はそんな杖など持っていなかった。だが、彼は不思議な言葉を呟いて、その手に杖を出現させたのだ。何のトリックも使っていない。そもそも、そんなトリックなど使う必要も無い。
 少年が異国の詩でも吟じるような不思議な響きの言葉を唱えた瞬間、空中からひょい、と現れた杖は、いかにも現代的な少年が持つにはあまりにも不似合いな、“魔法使いの杖”といったような印象があった。捻じ曲がったその杖には不思議な文字が彫り込まれて、文字には凝った事に金箔のような加工がされている。そして、赤ちゃんの拳ほどもある大振りの宝石が一つだけ埋め込まれていた。その宝石は美しく輝くオパールのようだが、その内部から青白い輝きを放っているのだ。
 そして、少年は不思議な言葉を唱えながら杖で空中に複雑な紋様を描いていく。
 もし、水蓮がその少年の唱える言葉が“上位古代語”と呼ばれる異世界の言葉であり、魔法という神秘の力を行使するときに用いる“力ある言葉”なのだと知っていたら、その少年の唱える呪文の意味が判っただろう。しかし、水蓮はただの留学生であり、何もそのようなことなど知らなかった。ただ、彼女は熱心なクリスチャンであったが為に、彼が魔法を使おうとしているのは何となく理解できた。
 韓国や台湾、中国の都市部でさえも、まだまだ古い伝統の占いや呪術は生きている。いや、世界中の国々で未だに魔術や占いは信じられ、人々はそれに多かれ少なかれ頼って生きている。
 ましてや熱心なクリスチャンである水蓮は教会の牧師や修道女たちに「現代のように悪魔や魔術を迷信だと考えるのは危険である。悪魔はそのように人々に、自分たちが明確に存在しないことを信じ込ませて、知られないうちに彼らの支配力を人々に受け入れさせていくのだ」と教えられていた。
 だからこそ、反射的な警戒心と嫌悪感が彼女の心に沸き起こっていた。だが、銀寿を癒せるのは目の前の魔術を使おうとしている少年だけだということを、本能的に理解していた。それは彼女にとっては恐ろしい破戒であることも。
 魔術を使って癒されることは、神の教えに背くだけでなく、悪魔の力に自分たちを委ねることになる。そう水蓮は感じていた。だが、それでも彼女は少年を止めることは出来なかった。
 彼女にとっては親友を失うことは何よりも辛いことだったから。
 やがて少年の魔術は完成し、その手に掲げた杖をそっと銀寿の額に押し当てる。その瞬間、虚ろだった彼女の眼が正気の輝きを取り戻し、そのまま力が抜けたようにかくり、とソファに崩れ落ちた。
 慌てて水蓮が銀寿を抱き起こそうとしたが、眞はそれを優しく止める。
「待って。今、彼女を眠らせた。彼女が眼を覚ましたら、今ここで起こった出来事は夢だった、とした覚えていない。一晩は目が覚めないから、そっとしておいた方がいいよ」
 その眞の言葉に水蓮はほっと力を抜いた。
 
 窓の外を都会のイルミネーションが流れていく。
 歩道には会社帰りであろうスーツを着た男たちや、小奇麗なファッションに身を固めた若い女性、まだ学生であろう若い少年や少女たち、ほかにもありとあらゆる種類の人々が思いのままに歩みを進めていた。普段は気にも留めていない、人々のざわめきや車のエンジン音が、何故か普段の日常を強く意識させる。
 伊達の操るAccordは流れるように夜の都会を横切っていく。その後部座席で水蓮は助手席に座る眞をそっと見ていた。穏やかな寝息を立てて眠っている銀寿を起こしてしまわないように、伊達は出来る限り静かな道を選んで車を走らせているようだった。
 眞は携帯電話で誰かと話し続けている。
 彼は銀寿を眠らせた後で、同じように魔法を用いてトシと呼ばれた少年を何処かに瞬間移動させていた。もはや水蓮は彼や彼の仲間の用いる『魔法』に驚きを覚えることは無かった。そして、罪悪感を覚えることも・・・
 彼女は心の中で先ほどまでの自分と決別をしていた。魔術を受け入れてしまった以上、彼女はもはや自分の信仰を貫くことは考えていなかった。主と信仰が彼女と親友の危機には何も救いにならず、魔術を操る戦士が現実に彼女たちの危機を打ち破り、そして親友の心を癒したのだ。
 それを受け入れた以上、水蓮はもはやクリスチャンとしての信仰を棄てる決意を固めていた。そっと親友の肩を抱きしめながら、彼女は黄金の髪をした少年を後ろからそっと見つめる。その少年の純粋さ、そしていざという時には自らの手を血で穢すことを躊躇わない男として、戦士としての強さに確かに心惹かれていた。
(馬鹿だわ・・・)
 自分の年齢を考えて、その事実に自分でも呆れる。銀寿の弟よりもまだ年下の少年なのだ。だが、女性としての危機、そして死を目の前に見せ付けられた恐怖で、水蓮は極限の精神状態に追い込まれていた。その瞬間に、それを超越した存在が目の前に現れ、言葉を交わし、自分たちを救い出したのだ。彼女の心に、その魔法戦士はあまりにも強い印象を与えてしまっていた。
 水蓮の心に焼きついてしまったと言っていい。
 冬山で遭難した男女が、一晩の危機を乗り越えた後で急速に関係が変わることがある。それは危険な状況が、人の心理に生存本能と同時に種族維持本能を瞬間的に掻き立てることにより、一気に恋愛感情を引き起こしてしまうのだ。
 確かに心理学で解析すれば、そのように説明は出来るだろう。だが、水蓮にとってはそのようなものは所詮ただの理屈だ。人の心がそうなる以上、それはもはや運命だと信じる以外に無い。それに、経緯はどうであれ自分の身と生命の危険を救い出してくれた存在だ。ならば自分の魂がその存在を求めているのだろう。
 暫く走った後、伊達は銀寿の住むマンションの駐車場に車を止めた。
「さて、お嬢ちゃんたちとはここでお別れだ。うかつにヤバイ連中と揉め事を起こさないように、その眠り姫の弟に言っときな」
 伊達がぶっきらぼうに別れの挨拶を告げる。
 銀寿の弟は後から自力で帰ってくることになっている。だから、水蓮が銀寿を部屋に送り届けてやる必要があった。そして、今ここで車を降りたら、彼らはまた自分と違う世界に去っていってしまうだろう。
 一瞬の躊躇があったが、水蓮は車を降りた。彼女のポーチを残したまま。
 銀寿を支えながら車から降りる。
「おい!」
 伊達が声を少しだけ荒げた。水蓮はにこり、と笑って答える。
「彼女を部屋まで送って、戻ってきます。待っててください」
 唖然とする伊達を残したまま、水蓮は銀寿を背負おうとした。流石によろけそうになる。しかし、不意に手が差し伸べられ、水蓮を支えていた。そして、彼女にはその手を差し伸べた人物が誰なのかわかっていた。
「伊達さん、先に帰ってていいですよ。すぐに戻ります」
「・・・判った。あんまりうろつきまわるなよ」
 眞の言葉に一瞬だけ伊達は考え込み、そして何か考え付いたように微かに頷きながら答えた。
 この少年は伊達に相当信頼されているようだ。それは伊達と二人だけであの危険な襲撃を行ったことでもわかる。
 そのまま伊達は車を発進させた。銀色の車体が滑り出すように動き、そして闇に消えていくのを見届け、眞は水蓮を促してマンションに向かって歩き出した。
 
 それが私の『魔法使い』との出会いだった。
 
 
 

第二章 覚醒 ~ Awake ~
No.3

 
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