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 ジジジ・・・
 生活感のカケラも無い狭いマンションの一室で蛍光灯が退屈な音を辺りに振りまいていた。
 だが、その部屋でじっと車座になって座っている若い男女は、そんなつまらない事を考える余裕が無さそうな様子で一人の青年を見つめていた。
 一見、平凡そうに見えるその男は、しかし見ている者が少し注意しただけでその様子が余りにも異常なことに気が付いただろう。その青年は確かにコンピュータに向かっているのだ。
 しかし、彼の手はキーボードにじっと置かれたままぴくりとも動かない。いや、手だけではない。
 男の体は呼吸以外の動作を完全に止めてしまったかのようだった。
 黒ぶち眼鏡の奥の虚ろな目は現実を何も映していないかのように陶酔の色を浮かべている。だが、その若者は正気を失っているわけではないことを、その部屋にいる全員が知っていた。
 いや、完全に動きをとめているとさえ思える男は、しかし聞き取りづらい声で時折何かを呟いている。
 部屋の中にいる男女は、しかしその異様とも言える若者の様子を気にすることも無く、じっと変化を待っていた。
「・・・そう・・・・・・パ・・・スワード・・・堅・・・な・・・」
 若者の目の前に置かれたノートパソコンの液晶画面には信じがたい速度で文字が現れては消えていく。およそ手で操作することが不可能な操作を、手を触れただけの状態で行っているかのように見える。
 一人の女性が苛立たしげに呟いた。
「もう一時間になるわ。ログオンしていられる限界よ」
 彼女は腕時計にちらりと目を落とし、正確に時間を図り続けている。これ以上の作業は危険だった。それでも、若者はいつのもように現実に帰ってくる様子が見えない。
 もう一人の茶髪の若者が微かに表情を曇らせた。
 コンピュータの前に座っている若者は、いつもなら必ずタイムリミットの5分前には"ログオフ"してくるはずだ。
 それをできない理由があるのか、それとも・・・
 不意に携帯電話の甲高い音が響いた。
 『ドラえもん』のテーマソング、といういささか緊張感に欠ける音色である。だが、一瞬にして部屋にいる全員に緊張が疾る。
 若い女性、というよりも少女と言ったほうが良い、が携帯に応答した。
「はい。"エンジェル"です・・・・・・判りました。・・・じゃあ」
 簡潔に答えて、携帯を切った。
「何だって?」
 茶髪の若い男が緊張を孕んだ声で尋ねる。電話に応えた茶髪の少女も、同じように緊張を帯びた声で答えた。
「"シーマン"から。連中、こっちに向かっているそうよ。大体10人だって」
「・・・殺すわけにもいかんしな」
 早くしろ、とでも言いたげに眼鏡の青年を見た。彼が"ログオフ"するまでは動けない。
「仕方ないわね。私が何とかするわ」
 そう言って髪の長い女性が立ちあがった。
 不安げに"エンジェル"と名乗った茶髪の少女が女性を見上げる。
「気を付けてね」
 その言葉に、任せといて、とでも言うようにウィンクを残してドアをくぐり抜けた。
 残された若者達も機敏な動作で機材を片付け始める。
「"ニケア"が時間を作ってくれる。さっさとずらかるぞ!」
 茶髪の青年がてきぱきと指示をして脱出準備をはじめた。
 あっと言う間に眼鏡の若者が触れているノートパソコンを除いて、数台のノートブック型パソコン、ネットワーク機器、携帯型プリンターなどがバッグに詰められた。そして残っているのが眼鏡の若者と彼のノートパソコンだけとなった。
「早くしろ!」
 苛立たしげに黒ずくめの少年が言う。
 目の前の若者は既にログオフの作業に取り掛かっているらしい。
「・・・よし・・・タスク・・・切断・・・OK・・・・・・ルート・・・解除・・・成功・・・」
 マンションの階段では"ニケア"と"シーマン"が頑張っているのだろう。だが、相手を殺さずに10人もの戦いのプロを足止めするのは、幾ら彼らでも厳しいはずだ。
能力タレントさえ使えれば!」
 少年は唸るように声を洩らす。
 その少年を、まるで弟を見るように茶髪の青年は優しくなだめる。
「俺達の能力は文字通りの切り札だ。伊達さんと眞くんが戻るまで、出来る限り手の内を晒したくは無い」
「・・・判ってます」
 少年は必死に感情を抑えて返答する。
「・・・眞くんは、いずれこの世界に帰ってくる」
 疲れた声が響いた。その声の主である、つい先ほどまで虚ろな表情だった眼鏡の男がぼんやりとした様子ながらも、その目をしばたかせていた。
 だが、その言葉には強い自信が感じられる。
 "この世界"
 微かな疑問が浮かび上がった。不思議な言いまわしだった。
 一瞬、茶髪の青年はその言葉の意味を尋ねてみたい衝動に駆られたが、今は安全圏に脱出することが再優先だった。
 ログオフを完了した以上、眼鏡の青年は安全に移動できる状態となっている。
 そして、黒ずくめの少年は指示を待つこともなく、その能力タレントを発動させていた。
 軽く意識を集中させ、少年は自らの影に感覚を流し込む。
 精神により編み出された糸が足元の床に張り付いた影に広がっていった。少年はその影からさらに感覚の糸を伸ばしていく。
 彼の知覚は影の裏側の世界に到達していた。ねっとりと広がる影の世界は、どこか壊れたミラーハウスを連想させる世界だ。だが、少年の能力はこの影の世界をあたりまえの世界として捉えることが出来る。
 数秒も経たないうちに彼は別の影に感覚の糸を滑りこませていた。
「・・・よし、ガイドを確立した!」
 その瞬間、少年の影がぶわり、と膨れ上がって部屋にいる全員を包み込んでいく。だが、その異様な現象がさも当たり前であるかのように誰も悲鳴ひとつあげなかった。
 影はぷるぷる、と震えて自らの変化が落ち着くまで呼吸を整えるかの如く、その場に留まっている。その表面はどこかポリエステルの生地を思わせる異質な感じと、しかし、同じく鮫肌を思わせる生物的な印象を兼ね揃えていた。
 そして次の瞬間、彼らを飲み込んだ影はぐにゃり、と空気が抜けた風船のように形を失い、やがてそのまま消えていった。
 後には、最初から誰もいなかったかのような無人の部屋だけが残されていた。
 
「良くもまあ、二人とも無事に帰ってきたもんだな」
 呆れたような、感心したような声に“二ケア”と“シーマン”が微かに不敵な笑みを浮かべた。
「そりゃあ、俺たちはあの化け物相手に鍛えられましたからね」
 そう言うなり、シーマン-滝本晃一はコーラをくいっと飲んで、ひょい、とごみ箱に投げる。綺麗な弧を描いて、赤いアルミ缶は丸いスチールのごみ箱に吸い込まれて、軽い音を響かせた。
「ま、あん時の“二ケア”の怒った姿は、中々見物だったですけど」
 意味ありげに黒髪の女性を見て、晃一はからかうように手のひらをひらひらと振る。その言葉に二ケアはふん、と鼻で笑い、そっぽを向いた。
「人のことを売女ばいた呼ばわりするような男には、少しキツイお仕置きが必要じゃない」
 その言葉に茶髪の青年は困ったような苦笑いを浮かべた。
 この少しばかり潔癖で気の強い女が、そういった「下品」な言い方をした男に、どのような「お仕置き」をしたのか、正直、自分では体験はしたくない。
「・・・そんなに凄かった?」
 まだ、あどけなさの残る少女-“エンジェル”と呼ばれていた-が、晃一に尋ねる。直接、二ケアに尋ねても、きっと答えてくれないからだ。
「ま・・・、あの男達、二度と使い物にならないかもな」
 人事ながら、男として可哀想になる。二ケアの、人の胴体ほどある鉄骨さえ、へし曲げる蹴りを、股間に受けて無事でいられたら、そいつは人間ではないだろう。
「・・・手加減したわよ、ちゃんと」
 言い訳するように、二ケアは呟く。彼女-本名を李水蓮イ・スーヨンという韓国人-は、優れたテコンドーの使い手だ。本来、スポーツとしてのテコンドーでは、腰より下を蹴ることは反則になってしまうが、彼女は実践の技術としてテコンドーを使う。当然、ロー・キックや様々な“実践的”な蹴り方に習熟している。
 その上で、彼女は“能力タレント”を身に付けているのだ。
 まともな人間では相手にならないだろう。彼女の能力の恐ろしさは、見るだけでも血の気が凍る。おそらく、戦闘能力では水蓮はこのメンバーの中でもナンバー・ワンだろう。
 だが、彼らに“能力タレント”を与えた者は、彼らの想像を絶する能力を持っている。
「いずれにしても、君達が無事で何よりだ」
 深く、落ち着いた声が響く。自然に全員が視線を向けていた。
 グレーのスーツを自然に着こなした壮年の男性が、ゆっくりとコーヒーカップを口元に運んで、一口すする。そして、ほっと息を吐きながら、言葉を続けた。
「君達の能力は貴重だ。そして、それ以上に君達自身も得がたい人材でもある」
 そう言いながら、ゆっくりと全員を見回す。
「感謝している。君達の提供してくれている、その『力』は世界を変える可能性さえあるのだ。我々は、君達との接触で大きな力を得たからね」
「いえ。それは我々のリーダーのお陰でもあるし、彼の願いでもありますから」
 茶髪の青年は、男性に答えていた。
 そう、それは『彼』の意思だった。彼らのような『力』を持った仲間を作り、そして強力なグループに育て上げる、という願い。
「あの『異変』が起こったことで、世界に変化が現れ始めている。アメリカはもちろんのこと、中国やロシア、他の国もいろいろと嗅ぎ回っているからな」
 だからこそ、彼らは様々な手段で行動しているのだ。この世界的なハイテク企業に接触したのもその一環であった。この世界に誇るハイテク企業には、あまり知られていないが「サイキック研究室」という部署がある。世界でも最先端のテクノロジーを誇る企業に、そのような研究を行う部署があることが余りにも不釣合いに思えるだろうが、しかし、逆に不可思議な現象、科学で説明できない現象を単純に切り捨てる訳にも行かない、というのも真実ではある。
 例えば、エザキダイオードなどに代表される半導体のトンネル効果、という現象がある。これはエネルギーのポテンシャル限界を超えて、電子が『通り抜け』てしまう、という現象だ。これは現在の科学でも説明の出来ない現象である。しかし、そのような現象があるからこそ、コンピュータも、半導体レーザーも存在する。CDやDVDもこの原理を応用して作られたものであり、科学で説明できないから非科学的な迷信に過ぎない、と斬って捨てられないのが現代の科学であり、技術である。そして、そのような「不可解な何か」を研究して成り立つ現代技術で世界をリードする企業が、公式には表明しないにしても「不思議な力」に興味を示しても、それは当然とも言えただろう。
「我々も非常に興味深い、有意義なデータを得ているからね」
 まだ若い技術者が満足気に答えた。
 彼らエンジニアにとっては、これらの新しい未知の力や現象を研究できることは、ある意味では本能的な喜びを覚えるものなのだろう。例え、それが決して平和目的で使われるものではないにしても・・・
 
 上野公園からさほど離れていない廃ビルの一室から、12人もの若者が惨殺死体となって発見された事件は、余りにもセンセーショナルなニュースとなって世間に広まっていた。
 TVでは連日、ワイドショーでこの“チーマー狩り”に関する報道を、どこか面白おかしく脚色して報道していた。一部のコメンテーター達は、チーマーと呼ばれる若者達が全て悪いわけではない、という主張を始め、そのように若者達を無軌道に放置している社会や政治に問題がある、といつものように論点をすり替え、自分達の本当の目的である政治批判を繰り広げていた。そしてその事に胡散臭さを感じている視聴者の意見や、インターネット上の掲示板などの書き込みに対して、黙殺を続けていた。
 そのインターネット上の大部分の意見は、そのような事件に対して、チーマーと呼ばれるような無軌道な若者達の自業自得、というものであり、場合によっては自分達も彼らに対して自衛や報復を行うことを考える、というものであった。あまりにも加害者に対して寛容な現在の司法システムや一部のマスコミ、人権派弁護士や進歩的文化人などに対して、市民が直接の意見を発し始めていたのだ。
 そして、その事に対して非常な危機感を抱いているのが警察であった。
「しかし、この誰が『チーマー狩り』なんてセンセーショナルな名前を付けたのか知らんが、一般市民にまでこんな過激な意見が飛び交い始めているなんてな・・・」
 呆れたような、しかし何か不気味なものを見てしまったような警戒を帯びた声で紺野恭介はぼそり、と呟いた。紺野は警視庁刑事部に勤め始めて五年ほどになるが、このような不気味な緊張感を覚えたことは今回が初めてだった。
 彼自身、確かに一部の無軌道な若者達による目に余る犯罪はよく知っている。しかし、それを警察の手によらない、市民が自衛の為に報復行動を行う、という事に非常な警戒と苛立ちを押さえきれなかった。無軌道な報復行動は、もちろん犯罪であるが、それ以上に警察の存在を無視されているような寂しささえ感じてしまうのだ。
 それはこの国の国民が余りにも長い間、平和や人権を極端に重視し、反面、自衛や治安などの、いわゆる社会の暗部を考えてこなかった反動なのだろうか。一部の教師、マスコミは人権と平和のみを考え、逆に治安に対する問題や加害者に対する被害者の保護を余りにもないがしろにしてきた、という事実がある。諸外国の敵対勢力が侵略や攻撃を仕掛けてきた場合に対する対応を考えることは、その該当国を刺激して危険だから、考えることは止めましょう、という幼児思考のまま半世紀以上が経っていた。その極端な一国平和主義、人権理想主義に対する強烈な反動もあるのだろうか。紺野自身も日頃感じていた苛立ちが、確かに目の前の事件となって現れてきたことを自覚していた。
 だが、これほど凶悪な報復犯罪は今までに例が無かった。しかも、チーマー達を射出型の網で捕らえ、抵抗や攻撃を封じてから滅多打ちにして惨殺する、という手口がマスコミによってスッパ抜かれ、似たような手口で模倣する報復殺人が連鎖反応的に起こる可能性があった。東京全体に不気味な緊張感が漂い始めたことを、誰もが感じ始めていたのである。
「紺野、ちょっと来てくれ」
 新聞に目を通して、チーマー狩りの概要がどの程度報道されているのかを調べていた紺野に、工藤が声を掛けた。視線を向けた紺野の目に、手招きをしている工藤の姿が映る。
 工藤は紺野よりも3年先輩の刑事である。同じ高校を卒業している、ということもあり、まるで兄のように付き合いをしてくれる頼もしい先輩だった。
「お前、どう思う?」
 新聞の記事を指差しながら、工藤はぼそり、と尋ねてきた。もちろん、例のチーマー狩りのことだ。確かに残忍な事件ではあるが、それでも昨今の凶悪な犯罪の中では凶悪すぎるほどの事件ではない。問題なのはそれは連鎖反応を起こし始めそうな不気味な予感が漂い始めていることだった。
「やはり、これは深刻な事態になりそうな気がするんですよ」
 紺野は、素直に自分の考えを口にした。その言葉に工藤は頷き、じっと紺野の目を見据える。
「そうだな。しかし、何でだろう。確かにこういった連中はすることは無茶苦茶だし、道理の上でも許されないことをする。だけどな、何で一般市民がこんな連中を、こんなやり方で手に掛ける必要があるんだ・・・」
 それは紺野自身の疑問でもあった。確かに、マスコミの論調などを見ると、未だに少年犯罪などでは加害者の未成年の若者を保護することを最優先し、加害者が行ったことを問題提起されると、それをさせたのが社会であり、親であり、教育であるかのように報じている。その論調に対していわゆる普通の市民の間に不満や苛立ちが溜まってきているのは容易に推測できた。
 しかし、それでもこの残酷な手口には未だに引っ掛かるものがあるのだ。
 最初に網で捕えて抵抗を封じ、一方的に惨殺するやりくちは、昨今の凶悪な犯罪の加害者が『残酷な行為』を行うことが目的であるのとは対照的に、明確に『殺すこと』を目的にしている殺人である点だ。この被害者の若者達は、ここ一年ほど起こっていた連続婦女暴行殺人事件の容疑者である可能性が非常に高いとされている。
 だが、彼らはターゲットの女性を嬲って殺すことを楽しんでいた。つまり、自分達の快楽の為に獲物を傷つけ、暴行を加えて殺害することを楽しんでいたのだ。歪んだ目的ではあるが、自分達の快楽の為に行うという意味ではあくまでも残酷な快楽殺人でしかない。
 ところが、この若者達を殺害した手口は、純粋に彼らを「処分」することを目的とした行為のように思われる。これはある意味では単純な快楽殺人と違い、危険な意味合いを帯びていた。
 つまり、ある程度の組織力を持った集団が、ある明確な目的の為に行った処分である。それは取りも直さず、そのような組織が日本のどこかにひっそりと息づいていることを暗示しているのだ。
 紺野は暗い予感が胸に広がっていくことを自覚していた。このような『私刑』がまかり通るような世の中になってしまっては、日本という法治国家の根源さえ揺るぎかねないだろう。しかし、一部ではあるが被害者の若者のような、本来なら厳重に処罰されなくてはならない人間が未成年であるという理由だけで保護され、そしてろくに罪を償わずにのうのうと暮らしていることに憤りを覚え、今回のような事件を認めるような風潮があることも事実ではあった。警察の内部にさえ、表立っては出さないものの、今回の事件に対して共感を抱くような雰囲気が漂っているような気配さえあるのだ。
 それは警察の内部に溜まった、言わば怨念ともいえる感情だった。当たり前の幸せを傷つけ、奪い、壊しておきながら未成年であるというだけの理由でろくに処罰されない“若者”に対する憤りであり、被害者やその遺族、家族に対する共感であり、そして自分たち自身に対する怒りと自責の念であった。
 紺野自身、未成年者の犯罪で傷つき、そして自ら命を断った少女を知っている。そして、自分が何も出来なかったという無力感は今も彼を責め続けていた。
 弁護士も、評論家も、事あるごとに「それでも彼らは厚生をして立派に立ち直る可能性がある。復讐の念でその未来を奪っても良いのか」という理想論を展開する。だが、重犯罪を犯した未成年者の再犯率は非常に高いのだ。それは社会がそれを受け入れられない、そのような人物を警戒をする、という当たり前の結果であり、それを責めることが本来、理不尽である。
 もし、自分の妹が勤める会社に重犯罪を犯した人間が就職して来た場合、紺野は彼女の身の回りを警戒するだろう。あるいは会社を辞めることを勧めるかもしれない。そして、それが発覚した場合、その会社は社会的な信用を大きく損なうことになるだろう。人は、自分が犯した罪は、一生背負い続けなければならないのである。その信用と信頼を再び取り戻す為には大きな努力と自身の変化が必要である。だからこそ、多くの安易に犯罪に走った若者達はその努力を行うことよりも、再び安易な犯罪の道を歩むことになる。
 人権を声高に唱える愚か者は、その現実を非難し、若者達から厚生の機会を奪っていると訴えるが、安易に社会復帰が許されるなら、それはさらに安易に犯罪を犯すことが出来る、という風潮を生み出すだけだろう。それが判っているからこそ、矛盾する現実と理想の狭間で、紺野達のように実際に動く必要がある者達は苦しみながら、決断を下しているのだ。
「あ、紺野さん、外線1番にお電話です」
 不意に電話を告げられ、自分の考えに集中しかけていた紺野は我に返った。
 
 理恵はぼんやりとした意識の中で、何か甘い香りを感じていた。
・・・なんだろう、とっても美味しそうな香り・・・
 大好きなホット・チョコレートのような香りではなく、フルーツ・ティーのようなどこか大人びた芳香に、理恵はちょっとだけときめきを感じる。その甘い芳香に誘われるように理恵はそっと目を覚ました。
 そこは、どこかホテルの一室を連想させる部屋だった。
 清潔な白を基調として、木目調の家具が嫌味で無いようにさり気無く配置されている。飾ってある絵は、何処かは判らないがヨーロッパ調の石畳の街並みを描いた上品なものだった。
 飾り棚には小さな鉢植えが幾つか並べられて、心地良い緑が目に止まる。SONYのスレテオからは落ち着いたジャズが、理恵の目を覚まさない程度に微かに流れていた。ベッドの脇のサイド・テーブルには封の切られていないミネラル・ウォーターのボトルとグラスが用意されている。その脇にはメモが一枚置かれていて、携帯電話の番号が残されていた。
 部屋の様子は、しかしどこか女性的で、それも理恵たちのような少女のそれではなく、幾らか年上の女性の部屋のような印象がある。
 おそらく、理恵を救い出した少年が手配したのだろう。心憎いまでの気遣いだった。
 不意に伸び上がろうとして、自分が来ているのが若者達に襲われたときの洋服ではなく、パジャマに着替えさせられていることに気が付いた。
 まさかとは思うが、あの少年に着替えさせられたのではないだろうか、と理恵は一瞬だけ不安になる。反射的に自分の股間を確かめてみたが、別に痛みや違和感は無く、何かされた訳でもなさそうだ。
 理恵の洋服はきちんと畳まれて、ソファに置かれていた。
「気が付いた?」
 遠くから声が掛けられる。どこか、微かに外国の訛りがあったが、綺麗な響きの声。柔らかな大人の女性の声に、理恵はちょっと驚きながら返事をした。
「あ、はい。・・・ここは何処ですか?」
 その声に答えるように、一人の女性が姿を現わす。
 理恵は思わず目を奪われてしまった。
 目の前に現れたのは、グラビア・モデルか女優か、というような素晴らしい美女だった。すらりとした長身に、長い艶やかな髪。切れ長の双眸は、しかし、優しく理恵を見つめていた。
 トレイにフルーツ・ティーを入れたポットを載せて、テーブルにそっと置く仕草も、優雅だった。
「ここは私の部屋よ。ずいぶんと荒っぽい方法で眠らせてしまったから、ちょっと寝起きが心配だったの。気分とか、悪くは無いわね?」
「はい。気分とかは大丈夫です」
 微かにどぎまぎしながら、理恵は答えた。
 恥ずかしげにしている理恵に、美女は優しく微笑んで手招きする。
「じゃあ、こっちにいらっしゃい。丁度、フルーツ・ティーをれたところだから」
 理恵はベッドから起き上がり、勧められるままにテーブルに着いた。
 パジャマ姿なのが少し恥ずかしい。
「あ、そうそう。あなたを着替えさせたのは私ともう一人の女の子だから安心して。あなたをいきなり気絶させた彼はノータッチだから」
 そう言って女性は笑う。
「あの・・・」
 理恵は恥ずかしげに俯いてしまった。幾ら同姓とはいえ、肌を見られてしまったのはかなり恥ずかしい。そんな理恵を優しく見つめて、女性は理恵のカップにお茶を注いだ。
 果実の甘い香りがふんわりと理恵の鼻腔を刺激する。
「どうぞ」
 優しく勧められて、理恵は一口、そっとお茶を含む。砂糖のしつこい甘さではない、果実のさらりとした甘さで味付けられたお茶が、理恵の心にも暖かく染み入ってくるようだった。
「美味しい・・・」
 その理恵の感想に満足したように女性が微笑んだ。
「そうそう、まだ名乗ってもいなかったわね。私の名前は李水蓮イ・スーヨン。何者なのかは、今はちょっと説明できないけど、貴方に危害を加えるつもりは無いから、安心して」
 不思議な言い回しだった。
 そもそも、理恵があの若者達に襲われたときに現れた少年のことも知っている様子だし、しかもあの時のあの男達は明らかに訓練をされた戦闘能力を持った集団だった。ならば、この目の前の女性とあの男達は一体何者なのだろうか。
 不安げな表情を浮かべた理恵に、困ったような恵美を浮かべて水蓮は話し掛ける。
「何から話したらいいのかしら・・・。ちょっと難しい話が入ってくるし、私の一存で話しても良いものかどうか、ちょっと微妙なんだけど」
 そう言って水蓮が語り始めた内容は、理恵を驚かせて余りあるものだった。
「まず、今回の接触はある意味ではアクシデントだったの。本当なら、もう少し時間を掛けてゆっくりとコンタクトを取るはずだったんだけど・・・」
 それは理恵があの魔法のお店で魔術書を手にしたことから始まっていた。
 あの魔術書は、本物の魔術の効果があり、記されている方法で訓練を積むことで実際に魔術が使えるようになる教本であること、そしてそれは素質を持った人間でなければ魔術を身に付けられないということ、その魔術は彼らの組織が開発した特殊な技術である事、であった。正確に言えば、彼らが魔術を開発したのではなく、魔力を操る、魔術という技術を編み出した、という事である。
 魔術とは、意志の力で生み出した局地的な事象を、現実の世界に実際に起こす、という驚異的な技術であり、力であった。直接的な物理現象やそれに類する事象であり、概念的な事象は起こせない、という制限がある。
 要するに、炎を放ったり、突風を巻き起こしたりすることは出来るが、例えば願ったが為にいきなり無意味にお金が湧いて出てくるようなものではないのだ。商売繁盛の護符として生み出される魔術の効果も、「人を惹きつけ易く」し、「居心地をよくする」効果により、“結果的に”商売繁盛、という目的が叶えられることになる。
 それはある意味では理恵の予想というか、考えていた魔術に対するイメージと共通するものがある。理恵の兄の言っていた、「世界は人の心によって紡がれている」という言葉が不思議に重なってきた。目の前の女性も魔法を使うのだろうか、という疑問が不意に沸き起こってくる。
 そんな理恵の疑問に答えるように、水蓮は微笑みかける。
「私たちは皆、魔法使いなの。もっとも、それを意識して行えるかどうか、『魔術』として使いこなせるかどうかは別だけど。そして私は、もちろん、『魔術』を使えるわ」
 
 
 

第二章 覚醒 ~ Awake ~
No.2

 
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