~ 3 ~

 理恵の叔母が疾走してから、もう一週間が過ぎようとしていた。
 叔父の容態が悪化し、そしてそのことに叔母が耐えられなくなったのかもしれない。
 理恵も家族も全員で走り回ったのだが、叔母の行方は依然、掴めないままだった。理恵はこの夏休みで一気に成績を伸ばして偏差値を稼いでおく、という当初の目標を断念した。偏差値の数値よりも叔母のほうが大切なのだ。
 その理恵の事を「あいつは受験から落ちこぼれたのさ」「普通にしていないと駄目なのよ。所詮は」などと嘲笑うクラスメートもいた。だが、由紀代はそんなクラスメートのことが逆に哀れに思えていた。人を大切に思えない事がどんなに不幸なことか彼らはそんな事にさえ気づいていない。いや、そんな当たり前のことを教わることが無かったのだ。
 そして「普通」から外れることを極端に恐れる異常な社会の縮図がそこにはある。普通から外れることを人生の破滅と同意義に捉えて、何かに挑戦することを極端に忌避する学生の何と多いことか。そして、その挙句の果てに今日のような経済的な危機に瀕しても何も出来ない大人達がいる。ある意味では当然だろう。失敗をしないことを最大限に心がけて生きてきて、実際に失敗や挫折を知らない人間が官僚となったり、大企業の中核を担う幹部になっているのだ。
 そんな人間に前例の無い事を、今までのやり方で対応できない状況に対して有効な何かが出来るはずが無い。今まで大丈夫だったのだから、と同じ事を繰り返し、今の不況で改革など無理だとあきらめる。しかし、状況が良くなれば彼らは、今上手く行っている方法をどうして変える必要があるのだ、と言うだろう。これではいつまで経っても何かを変えることなど出来はしない。だからこそ、今のような極限の状況が無理やりにでも何かを変える圧力になり得るだろう。
 大企業に就職しても、一瞬でその企業が無くなれば、嫌が応にも何かをリセットしなければならない。それが出来ない人間は心を病み、そして中には自殺するものも出てくる。それは失敗から再挑戦をする、という事が出来ないからではないだろうか。いわゆるエリートに良くあるだろう。有名大学に現役で合格し、そして有名企業にそのまま就職したり、国家公務員になったりして、いわゆる「失敗の無い人生」を送ってきた人間は、結果として非常事態において何も出来ないのだ。そして、それが教師でありマスコミの幹部であったりした場合は自分達の価値観が素晴らしい最良のものだと思いこみ、そして御高説を垂れ流しているのだ。例えそれが如何に世間の常識から外れていても。
 だからこそ、理恵達のクラスメートの中には極端に現状を変えることを恐れる学生がいる。しかし、それでも親の勤めている会社が倒産し、失業したことで学校を退学せざるを得ない者もいるのだ。それでも、近所の花屋で働いてたり、酒屋でアルバイトをして家計を支えているうちに、実際に働くことで学校では学べない何かを学んでいる人もいる。
 そうした「普通から外れた」人間がある程度の数に達したとき、世間は彼らを無視できなくなるだろう。そして多様な生き方を受けいれられる時代が来るのかもしれない。
 他にも積極的に学校を退学、停学して自分のやりたい事をやろうとしている者も何人かいた。理恵と由紀代は、そういったいわゆるドロップ・アウトしたクラスメートとも未だ連絡を取りあっている。
 いずれ、彼らも多彩な社会の一員としての立場を確立し、複雑な社会を構成する原動力になっていく。だから、理恵はそういった繋がりを失いたくは無かった。たとえそれが教師たちから煙たがられても、理恵は自分の考え方を信じたかった。
 理恵の叔母に関する情報が入ってきたのも、そうしたドロップ・アウト組の友人の一人からだった。
 どうやら叔母は自分の信じる宗教のセミナーに参加して、奥多摩の霊場とやらで集団で行われている修行に参加しているらしい。理恵はその話しを聞いてほっと安心すると同時に、不意に悲しみと怒りが込み上げてくるのを感じていた。
 どうして叔母は、いや人は神に頼るのだろうか。
 何とかして叔母を引き戻したかった。神を信じることは間違っていないと思う。むしろ、人々が必要としていることの一つだろう。しかし方法が間違っているような気がしてならない。あのオウム真理教やその他の宗教も、信者はただ神を信じているだけだ。だが、その信仰の仕方が歪んでいる。そして悪意を持ったものが彼らの上に立った場合、マインド・コントロールという方法を用いて異とも簡単に人々の心を操ってしまえるのだ。
 しかも、操られている側は自分が操られているとは思わない。
 だが、その事で全てが許されるわけはない。自分達で信じることを選んだのだ。その自分の選択に対する責任は存在する。
 自由には必ず義務と責任が付随するのだ。何かを信じる自由は、その選んだことに対する義務、自分がそれを選ぶことが出来た自由に対する義務、そして自分が選んだこと、為したことに対する責任が必ず発生することを受けいれなければならない。
 それは自由を護るためには、一時的に自由を制限してでも原則を護る、という事を意味し、そして自分だけの無制限の自由を求めることは他者の自由を侵害する、ということを認識する必要もある。また、自分の思想の自由、言論の自由を主張するためには、例え他人の意見、思想が自分のそれと異なっていても、最低限、その人が、その主張、意見を持てるという自由を侵害してはならないのだ。
 これらの事は学校の教科書には、確かに記載はされている。しかし、それを本当に理解している者は、たとえ教師でもどれほどいるのだろう。理恵の義姉が言った、「日本の統治は国民党の支配より良かったし、日本統治時代に日本が台湾に行った技術移転、教育の確立、インフラの整備があったから今の台湾の繁栄がある」という意見は昔の日本を完全に否定したい日教組系の教師には受け入れ難い意見だろう。だからこそ、そういった意見を黙殺して子供達に「自分の思想」を教え込むのだ。
 これは教育に名を借りた思想偏向ではないだろうか。これは子供達の教育を受ける権利に対する重大な侵犯であり、基本的人権を蹂躙する犯罪である。
 理恵はその事をお兄ちゃんと義姉から教わっていた。台湾人の義姉は、ほんの数十年前まであった国民党による思想統制や軍事独裁政権による強権的政治を実際に経験している。そして、台湾には中国の共産党独裁政権から脱出してきた中国本土からの移民も少なくは無い。基本的人権と民主的自由を護ることがどれほど大事なことなのかを経験として知っているのだ。
 中国では信仰を持つことは法律に違反する、とさえされる。法輪功が邪教集団として弾圧されるのも、自分達以外の勢力集団を決して認めない中国共産党のエゴに過ぎないだろう。革命、という暴力行為によって権力を得た共産党は、同じように暴力によって自らが放逐されることを極度に恐れている。結果として厳しい弾圧でそのような可能性があるというだけで、そのような集団に参加する人々、例えそれが自分の信じる神に対する祈りを行う自由を認めて欲しいというささやかな願いを持つだけの普通の人や未払いの賃金を支払うように抗議する当たり前の権利の行使を行っている人々、を警察権力で暴力的に抑え込む、という愚行を繰り返させている。それが何を切掛けにして暴発するか、誰にも判らないだろう。
 理恵は日本も今、静かに改変が進んでいるのではないだろうか、と考えていた。誰もが同じような意見を持ち、そして同じような生活をして、旧ソビエト連邦の官僚にさえ「世界で最も完成された社会主義国家」とさえ言われた国が、違う意見、異なる価値観で彩られる多様な社会に変化しようとしているのだ。
 今、そのようなプロセスが進んでいる。不況による否応の無い状況の変化、そしてインターネットの普及による一人ひとりの考えが公の情報となってぶつかり合う、という相互的な情報発信により、今までのような一方的な情報の受信だけでない、高度な情報社会が構築されつつあるといっても良いだろう。
 今まではマスメディアにほぼ独占され、彼らによってのみ提供されてきた「情報」を自分達で直接手に入れられるようになってきたのだ。
 人がそれぞれで情報を手にいれて、相互に、しかも大規模なコミュニケーションが取れるようになった時、世界は一変する。
 現に、ほんの十年程前に旧ソ連とその周辺国家は、国家システムの崩壊さえ引き起こしたのだ。あの瞬間まで、一体誰が「国家の崩壊」など想像出来たのだろうか。だが、それは起こった。
 人々が当たり前の権利を、生活を求めるとき、それは国家という巨大な枠組さえ揺るがすことがあるのだ。
 学校では習わない事、そして普通の生活をしている大人と接しているだけでは得られない事を、理恵は学んでいた。理恵の叔母を宗教から引き離す事も、正直言って理恵には叔母の権利を阻害する事にならないか、叔母が宗教を信じることで救われているのなら、それを取り上げることは許されるのか、という疑念を常に抱いている。
 だが、叔母の家族、自分の家族の事を考えるなら、叔母の今の行動は自分を含めた叔母の家族や親類に多大な影響を与えている。だからこそ、それを落ち着いて話し合う機会が欲しかった。
 
 奥多摩に黒々と広がる森がある。
 恵美はまた、恒例となりつつある森巡りにやってきていた。
 多摩地区には高尾山や、幾つもの霊場や深い森がある。恵美はそれらの強い力と触れるのが好きだった。木々の精霊達との触れあいが、恵美の普段は隠さざるを得ない能力を解き放ってくれる。
 そして、理恵自身も癒されるのだ。
 都会の汚れた空気と水、アスファルトとコンクリートに覆われた死んでいく大地は恵美を傷つけ、疲れさせていた。だから、恵美は都市から逃げるように暇があると深い木々の茂る森へとやってくるようになった。
 新学期が始まって、都会に閉じ込められたら、と考えると憂鬱になる。
 だが、恵美はやはり東京から完全に逃げ出すわけにもいかない、とも考えていた。何よりも家族や美由紀達がいる。それは恵美にとって他に替え難い絆だった。だからこそ、恵美は何とか都会での生活と自分の能力を上手く適合させようと努力していた。
 それでも、理恵の心が自然に帰る事を渇望しているのだ。
 鉄とコンクリートの構造物の中では得られない潤いを恵美は必要としていた。
 そう思い、ただ足の赴くまま森の中をさまよっているときに、恵美はその女性と出会ったのだ。
 
「あの・・・どうしたんですか?」
 不意に倉持京子は声を掛けられて、飛び上がらんばかりに驚いていた。まさか、こんな山奥で誰かに声を掛けられるなどとは想像さえしていなかった。
 恐る恐る振り返って、そしてそこに若い女性が立っていることに更に驚いてしまう。
 どう考えてもこんな山奥にいるとは思えない不似合いな女性だった。まだ、少女という年齢から幾らも離れていないだろう。そんな若い女性が何故、目の前にいるのだろうか。
 少しだけ警戒しながら言葉を返す。
「大した事じゃないのよ」
 神に祈りを捧げに来た、とは言えなかった。もしそんな事を口に出せば、酷く驚かれて嫌悪の目で見られるだろう。もう半分以上諦めたとはいえ、真剣に神に祈る、という事が一般にはかなり異常な事なのだと思う。
 人が逆らえない運命に少しでも変化を願うのは、人として自然なことではないだろうか。人の力の及ばない運命を紡いでいるのが神なら、神に祈って愛する人の運命を少しでも変えたいと思うのは不自然で唾棄すべき事なのだろうか。
 しかし、家族でさえ神に祈りを捧げようという真摯な想いを拒絶する。
 京子はその事に傷つき疲れていた。
 愛する夫の命は、癌と言う名の怪物に蝕まれていた。人の英知を以ってしても、その魔物はひるむ事さえなく、夫の命を少しずつ奪い続けているのだ。京子は人の無力さを思い知らされていた。だからこそ彼女は神に祈りを捧げたのだ。
 その神に裏切られたなら、もう他には為す術は無いだろう。
 だからこそ、京子は自分の命をも差し出す覚悟で神に祈りを捧げ続けていた。
 目の前の女性は、何処か神秘的な雰囲気を身に纏ってそこにたたずんでいる。何故か京子はその女性に惹き付けられている自分に気がついた。
 この人なら、打ち明けられるかもしれない・・・
 そんな想いが何故か込み上げてきた。京子の目の前の女性は、自分の事を受け入れてもらえそうな包容力を感じさせているのだ。魂から神に祈りを捧げている人の持つ荘厳ささえ纏っている女性に、京子は自分の心を打ち明けたかった。
 その想いを、しかし警戒心が圧し留める。
 だが、目の前の女性から京子に話しかけてきた。
 その声はどこか優しい新緑の香りがするような気がした。
「何か、お困りのことがあるんですか?」
 
 恵美は目の前の女性が何故か思い詰めたような眼差しで自分を一瞬見詰めた事に、少しだけ驚いていた。そしてその眼差しが警戒の色に打ち消され、恐る恐る、といった様子で自分との距離を図ろうとしている事にも気がついた。
 以前ならこれほど人の心や感情に敏感なことは無かった。だが、あの夜以降、恵美は驚くほど人の感情に敏感になっていた。自然の力を感じるように、人の感情の動きが色付きの臭いを嗅ぐように敏感に感じられるほどだった。
 だから、恵美には目の前の女性が何か思い詰めるような何かを心に抱いていて、そしてそれに対して強い想いと願いを持っていることを感じ取っていた。そして、それだけでなく自分に対する警戒心も・・・
 女性が自分に対して心を閉ざしてしまう前に、何も考えずに声を掛けていた。
「何か、お困りのことがあるんですか?」
 恵美の言葉に、その女性が凍りついたように動きを止めていた。
 唇が微かに震えていた。何かを言いたそうに口を開きかけて、そして唇を噛んで言葉を飲み込んでしまう。
 不意に木々のざわめきが止み、一瞬、静寂が辺りを支配していた。遠くで清流が奏でる柔らかい水音と、小鳥のさえずりが僅かにその静寂を揺り動かす。
 恵美は困ったように微笑んで、もう一度尋ねてみた。
「あの・・・もし違っていたらごめんなさい。なにか、思い悩んでいることがありそうに思ったので」
 女性の瞳は内心の動揺を隠すこともできないように揺れている。たっぷり十秒ほどして、女性は口を開いた。
「私・・・祈っていたんです」
 そして再び静寂が辺りを包んだ。
 恵美は優しく微笑んで、女性に近づいていった。女性は少し怯えたように口元を震わせていたが、恵美を拒絶することも無くじっと近づいてくる彼女を見詰めていた。
 そのまま恵美は手を伸ばせば届くほどの距離まで近づいて、恵美はにっこりと笑いかけた。
「祈りって、神様にですか?」
 京子はその言葉に心底から驚愕していた。その質問を、露骨な好奇心や嫌悪感からでない形で問いかけられたことは初めてだった。目の前の女の子も、何かの神様を信じているのかもしれない・・・。そう京子は考えていた。
「ええ。こういった自然の中だと、神様をもっと身近に感じられるような気がして」
 思わずそう答えるしかなかった。目の前の女性の声はあくまでも自然で、ごまかしや偽りを言うことなどできなかったのだ。そして、京子は思いきって尋ね返してみた。
貴女あなたも何かの神様を信じていらっしゃるの?」
 その質問に、恵美はちょっと困ったように首を振って言葉を返す。
「いえ・・・。神様を信じる、というよりも自然をもっと身近に感じていたいんです」
 京子は予想外の答えに驚いてしまった。いわゆる環境保護団体の人なのだろうか。しかし、目の前の若い女の子には、その種の熱狂など一筋たりとも見えない。何処までも自然で、当たり前のようにそこにいる、といった様子なのだ。
 ふと、恵美は自分が名前も名乗っていなかったことに気が付いていた。
「あ、名前を言ってなかったですね。私は坂東恵美と言います。都内の大学に通っている大学生です」
 名前を聞いたことで、京子もどこか安心していた。そして、自分も名乗り返す。
「私は倉持京子。ただの主婦です。ちょっとした宝石のデザインをしていますが」
 お互いに名前を教えあったことで、また少しだけ距離が近づいたような気がした。お互いに何か大いなるものを信じている、という認識が安心を産み出しているようだった。
 暫く二人は他愛も無いおしゃべりを続けながら渓流のほとりに向かって歩いていった。二人を包み込む緑の世界はあくまでも深く、薄暗い空間は濃厚な原始の生命力を感じさせている。
 恵美はその緑の力を全身に受けながら、自分の感覚が研ぎ済まされていくことを感じていた。そして、一緒に森を歩く女性の心に強い悲しみと苦しみがあることに気が付いていた。
 それが何なのかは判らない。しかし軽々しく尋ねてはいけない事だと、本能的に気付いていた。しかし、その苦しみが癒されることを心底から願う。少しでも京子の苦しみを理解してあげたいと思っていた。
 二人は適当な渓流のほとりの岩場に腰をかけてお喋りを続ける。
 京子はぽつり、ぽつりと自分の夫の身に降りかかった事、その愛する夫に対して無力な自分、現代医学では治せないその死の病が癒されることを願って神に祈り始めた事、そして結果として生まれてしまった家族や周囲の人達との摩擦、などを恵美に打ち明けていった。そんな京子を恵美は優しく見つめている。
 不意に恵美は京子の力になってあげたい、という衝動が自分の心に沸き起こってきたことを覚えていた。自分には力があることを自覚している。癒しの力があることを・・・
 
 その夜、恵美は京子に連れられ、彼女の夫の入院している病院を訪れていた。
 病院には独特の雰囲気がある。人の死が日常生活から巧みに隠蔽され、切り離された現代社会において、一般市民が『死』と関わり合う、ほぼ唯一の場所と言ってよい。当然の事ではあるが、治る病気や怪我だけではない。その少なくない『死』の放つ臭いが病院のそこかしこに染み付いている気がする。
 流石に恵美は、その独特の空気に圧倒されていた。
 森の中と違い、薬品の刺激臭と死臭が恵美の感覚を不快に刺激してくる。その冥界の如く冷たい空気が恵美を不安にさせていた。
 かつてはこのような印象を覚えたことは無かった。
 しかし、恵美は能力が覚醒した後、病院だけでなく、様々な近代的な施設でこのような不快感や違和感を覚えるようになっていた。それは彼女の中の魂が自然の理によらない文明や科学技術に対する拒絶しているような感覚だった。
 眉をひそめた恵美を京子は不安げに見つめた。その京子を安心させるように、恵美はそっと微笑んで、京子の夫が眠っている病室の扉を開く。
 本来なら見舞いのできる時間ではなかったのだが、この病院の看護婦達は京子のことを黙認してくれている。やはり、癌という死の病に取り付かれた夫を、必死になって救おうとする京子を冷たく拒絶できないのであろう。
 恵美は、その京子の夫の姿を見て、微かに心が痛むのを感じていた。
 
-この人、もう病院の治療では助からないわ・・・
 
 ぐったりと簡単なパイプベッドに横たわる、その壮年の男性からは、本来感じられるはずの生命力の躍動がまるで感じられなかった。それどころか、その生命力は余りにも弱々しく、いつ消えてしまっても不思議ではなかった。
「・・・主人は、助かりますか?」
 京子は、押し黙ったまま一言も言葉を発しない恵美に、恐る恐る言葉をかける。その言葉からは、京子の隠し切れない不安と怯えが感じられた。
 心の底から、必死に搾り出したような声で尋ねられた恵美は、しかし、微かに微笑んで答えた。
「助かりますよ」
 あっさりと返されたその言葉に、京子は一瞬、言葉を失っていた。
 近代医学でさえ治療することのできなかった死の病を、目の前の若い女性はあっさりと「治せる」と言い切ったのだ。京子は信じられない思いで、恵美を見つめてしまった。
 恵美は、京子にそっと微笑みかける。
「ここではご主人を癒すことはできません。もし、できれば郊外の森にでもお連れできませんか?」
 その問いかけに、京子は少し困惑した。今、彼女の夫は消耗しきっている。病院から連れ出すのは医者も反対するだろう。もし、その指定された場所に移動するまでの間に、万が一の事が起こったら・・・
 もちろん、恵美はその京子の不安は完全に承知していた。
「大丈夫ですよ。外にお連れできる程度に体力を回復させることは、今からでも出来ます。ですから、京子さんには必ず、ご主人を自然の中にお連れして来て欲しいんです」
 恵美はそういって、水晶のネックレスをそっと取り出した。この水晶には“森の生命力”を少しだけ封じてある。その力を使えば、完全に癒すことは出来なくても、ある程度だけならば京子の夫を回復させることは可能だった。
「それじゃ、今からご主人に『力』を使います。これで、かなり回復させられますが、完全に癒すためには、自然の中で完全な形で力を使わないといけないことは覚えていてください。」
 京子はその恵美の言葉に頷くしかなかった。
 もう、すでに一度、恵美の持つ癒しの力を見せてもらっているのだ。その言葉を信じる以外に無い。おそらく、このことが知れたら他の信者から背教者として厳しく追及されるに違いない。
 しかし、人一人癒せない神よりも、異能の力を持つ一人の女性に縋りたいのだ。
 その京子の想いを知ってか知らずか、恵美はその水晶に封じた森の生命力を解放し、静かに寝息を立てている初老の男性に、その癒しの力を注ぎ込んでいった。
 
 
 

第一章 胎動 ~ The Beginning ~
No.4

 
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