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 それが一体いつから始まっていたのか、今となっては知る術など無かった。
 判っている事実は、西暦2000年の夏休みに、東京にある聖陵学園高等部の生徒達が夏休みを利用した林間学校に出かけたまま行方不明になってしまったという事と、それと前後して各地に不可解な事件が起こり始めたという事実だった。
 だが、この二つの一見関係の無い出来事を結びつけて考えるものは誰もいなかった。
 あの2000年の夏、日本全国はおろか、全世界的な規模で不思議な現象が起こっていたのである。
 テレビには彼らが行方不明になった奥多摩の森の中で人魂が発生している、という話しがワイドショーに流れていたが、すぐに生徒達の親からのクレームでお茶を濁したように立ち消えとなっていた。また、富士の樹海で妖怪を見た、という話しも広まり、妖怪ツアーなる企画もあったのだが、すぐに廃れていった。
 他にも様々な都市伝説アーバンレジェンドが生まれては消え、何時の間にか一年が過ぎようとしていた。
 都内の大学に通う北原祐司達が、日頃の暇を持て余して富士の樹海ツアーを計画したのも、ほんのちょっとの思い付きだったと言ってよい。たまたまテレビに流れていた、ワイドショーの怪奇現象特集を見て思いだしただけである。
 そして、同じように暇を持て余しているだろう友人達に声を掛けて見たところ、全員がその話しに乗ってきたのだ。
 富士の樹海はもともと自殺の名所として知られている。そこに今のような噂が広まっているのだ。面白くならない訳が無いではないか。
 かくして富士の樹海怪奇ツアーなる悪趣味なイベントが企画されたのである。
 そして八月の最初の金曜日。
 北原祐司、奥村和彦、湯川健一、祐司の恋人の武内美由紀、美由紀のクラスメートである坂東恵美の五人が出発した。
 
 鬱蒼とした森は何処か異質な気配に包まれ、そこが人里とは違う「異界」という様相を露にしている。
 一瞬だけ祐司は不安を覚えていた。何故か自分達が人間の世界を離れて、別の世界へと足を踏み入れようとしているような気がしたのだ。
「・・・さて、行くか」
 不安を振りきるように口にして、祐司は一歩踏み出した。美由紀は不安を訴えて引き返したかったのだが、恋人が進み始めてしまったため、慌てて後を追うしかなかった。
 和彦も健一も反射的に歩き始め、恵美は渋々ながらも付いて行った。
(絶対に後でとっちめてやるんだから!)
 内心の恐怖を御魔化すかのように美由紀は恋人に対する文句を心の中で呟きつづける。それは祐司を止めなかった和彦と健一にも向けられ、恵美に対してはひたすら謝罪の念だった。
(まったく、この男共はいつまで経ってもガキなんだから!・・・ごめんね、恵美、こんな馬鹿に付き合わせちゃって。帰ったら渋谷のヴィレッツェで美味しいイタリアン、ご馳走するからさ。・・・もちろん祐司のおごりで)
 最初こそ恐る恐る歩き出した五人だったが、三十分も経たない内に辺りの光景を楽しむ余裕が出てきていた。
 何だ、結局はお話しか・・・。
 現実に起こった高校生消失事件を思いだして、かなり恐怖を感じていたのだが、やはりそのような異常事態はそうそう起こらないのだ、と思い直して、逆に自分達が無様に怯えていた事を隠すように普段以上にはしゃぎ始める。
「やっぱ、しょせんは噂だったのね」
「ま、マスコミってのは話題を作ることが仕事だからな」
「ホントホント。視聴率のためなら嘘でも何でもでっち上げますってさ」
 昨今のマスコミ不信をネタにして言いたい放題だった。
 だが、それも仕方が無いのだろう。実際に特に日本のマスコミは話題をセンセーショナルな方向に持って行きがちだからだ。また、ほんの些細なことをいかにも重大事件のように報道する、正義という言葉を軽々しく使うなど、かえって薄っぺらさと胡散臭さを振りまいている。
 インターネットの普及により、逆に普通の一般人が自分達の持っている意見や考え方が逆にマスメディアのそれと乖離していることを知り、マスコミ不信が相当深刻に広がっているのだが、当のマスメディア自身はそれを知ってか知らずか、相変わらずの綺麗事や品の無いスキャンダルを垂れ流しにしているのだ。
 学校の退屈な授業やバイト先の愚痴ったり、祐司たちは様々な噂話に話題を変えて、都会では味わえない原始の自然を楽しんでいた。
 当初の企画であった幽霊ツアーでなくても、これだけの大自然を満喫できるのであれば企画をした甲斐がある。
 元々、本当に幽霊を見たかったわけではなく、ただ単に「幽霊が見れるかもしれない」というスリルを楽しみたかっただけなのだ。その当てが外れてがっかりしたというよりも、内心では本当の幽霊を見ずに済みそうだ、と安堵を覚えながら、このゴージャスな大自然を満喫できるちょっとした秘境ツアーとなったこの小旅行を楽しんでいた。
 とはいえ、夜になるまでにテントを張らなくてはいけない。祐司達はキャンプ用のガイドブックを眺めながら、適当な場所にテントを設置しようとしていた。
 しかし、所詮は素人の集団である。ようやくテントを張り終えた時は、もうたっぷりと日が暮れていた。
 キャンプ用のライトで明かりを維持していたことにもようやく気が付いたほどだった。そして、男三人がテントを設置している間に、美由紀と恵美は晩ご飯を用意していた。只のレトルト・カレーではあったが。
「なんだよ、手作りカレーじゃねえんだ」
「作ってもらったのに偉そうなこと言わないでよ!」「ほんとほんと! キッチンが無いところで料理するのは大変なんだからね!」
 二人ともキッチンがあったところで満足な料理も出来ないのだが、まあそれはこの状況では何の意味も無い事だ。
 しかし、食べ慣れたレトルトカレーとはいえ一日たっぷりと歩いた後では味は格段に美味かった。
 そして、即興で準備したキャンプ・ファイアーを囲み、取りとめもないおしゃべりをしている内にいよいよ睡魔の誘惑に勝てなくなった。満腹感と疲れ、そして当初あった恐怖が緩んで、張りつめていた緊張が緩んだのだろう。
 這いずるようにテントに潜りこみ、五人は寝袋を開く気力すらなく眠り込んでいった。
「ちゃんと虫よけスプレー撒いて・・・」
 誰かがそんな事を言っていたが、誰も実行するものなどいなかった。
 
 深く茂った木々の枝葉の隙間から、青白い月が淡い光を下界に投げかけていた。
 それは余りにも幻想的な光景。
 深い闇の中で、しかし木々の生命の気配と力だけが満ちている。遠くから微かに何かの動物の声が聞こえた。しかし、普段なら夜通しでも聞こえてくる車の音や都会のざわめきが全く無い闇の世界は、何処か不安と不思議な解放感をもたらしているのだ。
 恵美はその神秘的な光に映しだされた森を眺めていた。余りにも美しく、そして恐ろしい光景。人がまだ都市に護られて生活する以前では、このような世界で生きていたのだろうか、と思う。だが、都会の喧騒に慣れた現代人は、人工の明かりが無い自然の中にはもう戻れないのかもしれない。
 そう思うと不意に悲しみが胸に込みあげて来た。
 カエリタイ・・・
 恵美は自分の脳裏に不意に浮かんだその言葉に驚いていた。どこに帰るというのだ。自分の帰る家は東京の世田谷区にある父と母がいるあの家ではないか。
 しかし、恵美の心には「帰りたい」という想いが止めど無く沸きあがってくる。
 そして不意に気が付いた。
 あの時、ちょうどそれはあの高校生達が行方不明になった夜、恵美は不思議な何かを感じたのだ。それは何か違和感を伴った浮遊感。そしてそれ以来、しばしば不思議な既視感を感じることがあった。
 たしかに初めて来たはずの店なのに、何処に何があるのかを覚えていた。家でも母や姉と会話をしていて、突然、その内容を全て知っている事に気が付いた事もある。一度だけ姉に「ねえ、もしかして今、こう続けようとしたでしょ? 『あたし、どうせ行くならスペインよ。だってマドリードに私の友達がいるから』」と聞いてみたことがあった。
 その瞬間、姉はぎょっと凍りついて、恐る恐る尋ね返してきたのだ。
『・・・ねえ・・・あたし、恵美に友達がマドリードにいるって言ったっけ・・・?』
 そう確かに無かった。
 その姉の友達の事など恵美は今まで聞いたことが無いし、知ってさえいなかった。だが、姉と確かに何処かで同じ会話をしたことがある気がしたのだ。慌てて二人で調べてみると、そういった現象は『既視感』という事だという事を突き止めたのだ。まあ、それなりに科学的な根拠があると判ってほっとした事を覚えている。
 それからはかなり頻繁に不思議なことが身の回りで起こっていた。
 特に、部屋にある観用植物の成長がとてつもなく早くなっているのだ。しかも、今まではどうやっても咲かなかったブーゲンビリアの花がいきなり満開になったりもした。蔦系の植物も、もう恵美の部屋が亜熱帯の小空間であるかのように覆い茂っている。
 何故か恵美は自分が植物の世話をしていると、植物達が嬉しがっているような気がするのだ。
 以前は良く聞いていたロックも、部屋の植物があまり好きそうではないと思ったからクラシックやジャズを聞くようになった。その恵美の変化を、友人や家族は不思議に思っている様子だったが、大学入試を経て環境などが変わったからだろう、と勝手に納得していた。
 だが、恵美自身は周囲の人間が余りにも植物に無関心なことが不思議だった。もっとも、だから木々の潤いが少ない都会でも平気でいられるのだろう。それが判る程度には恵美は大人だった。
 植物のことが判るとは言っても、べつに自然保護運動に傾倒する気も無い。ほとんどの自然保護運動はあくまでも人間から見て、の自然だから。恵美ほど植物のことが判って、木々と会話しながら自然を愛している訳ではない、という事は知っているのだ。
 風に揺らされている木々のざわめきが、何故か懐かしい声に思える。
 カエリタイ・・・
 再び、切ない想いが込み上げてきた。
 富士の樹海は、余りにも深く巨大な原生林だった。その中に満ちる森の生命力は、恵美にはまるで女神の愛情とさえ思えるほど偉大で優しく、そして圧倒的な力強さを感じさせるものだった。
 人はそれを畏怖と呼ぶのかもしれない。あるいは恐怖なのだろうか。
 しかし、木々と心を通わせることの出来る恵美にとって、森は自分の家族とさえ思える存在だった。
 その静寂は不意に破られていた。
 突如、近くの梢がガサガサ、と揺れたのだ。
 びくり、と肩を震わせて恵美はその音のした辺りを見つめる。何かいるのだろうか。恐怖が恵美の心を満たしていく。
 じっと耳を済まし、何がいるのかを確かめようとした。
 不思議な事だったが、恐怖以上に何が起こっているのかを確かめようという気持ちが強まっていた。その梢が「怖がらないで。この子は安全だから」と言っていると恵美には感じられたから。
 何がいるのかは判らない。だが、木がそう伝えてくるのなら信じてみる気になっていた。
 暫くじっと息を殺してその梢を見つめていると、やがて一匹の狸が現れた。だが、様子がおかしい。どうやら怪我をしている様子だった。
 
 この子を治してあげて・・・
 
 木が恵美の心にそう語りかけてきた。
 だが、恵美はその木の願いに戸惑い、思わず尋ね返してしまう。
 
 治す・・・? どうやって・・・
 
 自分にはそのような力があるのだろうか。恵美は木と心を通わせることが出来る自分の能力が普通の能力ではないことを自覚していたし、その事を決して表には出さないように心がけてきた。
 例え、既視感デジャヴュを覚えても、誰にも言わないようにしている。もし、それが噂になったりしたら、と思うとぞっとする。
 マスコミにいいように扱われ、そして生活も勉強もめちゃめちゃにされてしまうだろう。
 しかし、目の前の小さな命を無視することは出来なかった。意を決して、傷つき怯えている狸に近づく。一瞬だけ狸は警戒したように恵美を睨みつけたが、すぐに力を使い果たしたようにぐったりと横たわってしまった。その生命力が徐々に弱まっていくのが恵美にははっきりと判る。
 どうすれば木が言ったように治せるのか判らない。それでも、何かに突き動かされるように恵美は狸に手をかざした。森の小さな生命はもう何もする力が無いように身じろぎさえしない。その毛並みは激しく乱れ、そしてかなり酷い出血をしていた。
 何が原因でこれほどの怪我をしたのだろうか。
 恵美の決意を理解したように、木々が恵美に語りかけてきた。
 
 森の力を受けとめて・・・そうしたら、それをその子にあげるの・・・・・・怖がらないで・・・あなたの部屋の子供達にしてあげるみたいに・・・
 
 恵美はゆっくりと目を閉じた。森の力を少しでも感じ取れるように。
 そして・・・
 それは突如、起こった。一瞬、恵美の意識が鮮やかな緑の光に包み込まれていた。何処か恍惚感を伴った、荘厳な空間。森の持つ生命力なのだろうか。恵美は確かにその瞬間、森の生命と繋がっていた。
 圧倒的な力を知り、恵美の心は踊った。
 それは恵美が望んでいた瞬間だったのだろうか。自分の部屋にある観用植物の世話をしている時、逆に植物達に力と優しさを与えられていたような気がしていた。
 そして、それをもっと知りたい、その力に触れたい、と思っていた。
今、恵美は確かにその力とことわりの中にいた。いや、理ではない。あるのはただ無限の生命力だった。森は命を育み、そして与え、受けとめ、そして還していく。恵美はその力を少しだけ借りた。そして自分が癒したいと思う小さな命へゆっくりと導いていった。
その信じ難い瞬間は、実際にはほんの一瞬の事だったのだろう。
気が付くと恵美の目の前の狸は驚いたように立ちあがり、きょろきょろと周りを見まわしてさっさと掛け出していった。
 恵美は呆然としたまま、今起こったこと、そして今自分が何をしたのかにやっと気が付いたように自分の手を見つめる。自分にあのような力があったのか。いや、あれは自分の力ではない。森の生命力を、ほんの少しだけ分け与えてもらって、そしてそれをあの小さな命に注いだに過ぎない。
 
 そうだよ・・・森の命を忘れないで・・・そうすればいつでも一緒だよ・・・
 
 木々が優しく語りかけてくる。森は優しく、そして厳しく全ての命あるものにその力をぶつけてくる。
 そして恵美は不意に自分がさっきよりもずっと良く森が見えることに気づいた。いや、森だけではない。岩も、風もそれぞれの命を持っていることがはっきりと判るのだ。
 え・・・
 一瞬、恵美は恐慌をきたしそうになった。自分がどうなってしまったのか判らなかった。
 
 大丈夫・・・怖がらないで・・・あなたは自然の声がわかるようになっただけ・・・ようやく出会えた・・・
 
 半分以上パニックを起こしていた恵美の心に、先程までよりもはっきりと木々の声が流れ込んできた。その声を聞いているうちに恵美は再び落ち着きを取り戻していった。
「え~み、あんた何処に行ったのよ~!」
 不意に遠くから美由紀が呼ぶ声がした。
 ふと腕時計を見るともう一時間以上も経っている。やっば~・・・、と恵美は内心冷や汗をかきながら慌てて返事を返す。
「美由紀~、ごめ~ん、すぐそっちに行く!」
「・・・早く帰って来なさ~いッ!!!」
 案の定、かなり険しい声で美由紀が怒鳴り返してきた。恵美は心の中で「騒がしくてごめんなさい」と謝って、テントに向かって駆け出す。
 
 またね・・・
 
 木々は優しく恵美に語りかけてきた。
 小走しりで駆けてくる恵美の姿に、何か美由紀は違和感を覚えていた。どこがどう違うという具体的なものではないのだが、印象と言うか、雰囲気と言うか、何かが違っているのだ。
 それに、普段の恵美は怖がりで夜中に森の中、ましてや怪奇スポットとして名高い富士の樹海を出歩くようなタイプではない。だが、今の恵美はまるでそうすることが当たり前であるかのように森の中を走ってくるのだ。その瞬間、美由紀は気付いた。今は夜だ。幾ら月明かりがあるとはいえ、足元などまともに判るはずが無い。現に美由紀には恵美が白いシャツを着ているから辛うじて判るのだ。だが、恵美はそれがまるで見えているかのように何の苦も無く走ってくる!
 きっと、長い時間、外にいたから目が慣れているのよ・・・
 美由紀はそう考えた。そうでなければ説明が付かない。
 だが、恵美にははっきりと夜の世界が見えていた。あの森の生命力に触れた瞬間、彼女の中で何かが目覚めたのかもしれない。以前よりもはっきりと木々の声が聞こえ、風や大地の声も判る。
 そしてその力に触れることも・・・
 恵美はこれから自分がどうなっていくのか判らない。ただ、一つだけ確かなことは、彼女が何かに向けて一歩を踏み出し、そしてもう後に戻れなくなったこと、だった。
 
 美由紀はあの富士の樹海怪奇ツアーに行ってから、恵美の雰囲気が変わったことをずっと意識していた。時々、心ここにあらず、といった様子でぼんやりとしている時もあれば、驚くほど敏感に人の感情に反応したりする。中学生の頃からずっと恵美を知っているが、今の恵美は自分の知らない「恵美」だった。
 それが美由紀の心を不安にさせていた。
 ずっと友達だからね・・・
 まだ子供の世界しか知らないときに交わした小さな約束。だが、美由紀はそれをずっと信じていた。
 就職してお互いに忙しくなっても、結婚して子供が出来ても、ずっと理解しあえる友達同士。だから、自分が祐司と付きあい始めたとき、恵美との時間が減ってしまうことを少しだけ恐れた。それでも美由紀は恵美との時間を少しでも作りたかったし、あまり良い顔をしなかった祐司も説得して恵美と三人、時には祐司の友達も一緒で遊ぶようにしていた。
 最近はようやくそんな関係に慣れて、祐司の友達の一人である和彦が恵美に関心を寄せていることもあって、これからもずっとこの良い関係を続けていけると信じていたのだ。
 それなのに・・・
 何かが少しずつ狂い始めていることに気付いてしまった。いや、既に変わり始めていたことにようやく気が付いただけなのだろうか。その単純な事実が美由紀の心を苛立たせている。
 それに、恵美は最近、環境や文化学などに興味を示しているのだ。
 変なことに興味を持たないと良いんだけど・・・
 美由紀は恵美が変な宗教や環境運動に参加してしまわないのか、と不安でならない。その手の胡散臭い活動でどれほどの人間が身を滅ぼしたのだろう。
 過激な行動で有名なとある環境保護団体は、既にどこか政治的な色合いを帯びている。
「ねえ・・・いつか人間は自然に帰りたくならないのかなぁ」
 恵美が不意に口にした言葉に、美由紀は心臓が凍りつきそうな衝撃を感じたことを覚えていた。これから大学でのキャンパスライフをエンジョイし、そして卒業して、出来れば無事に就職。その後で結婚をして・・・、そう考えていた。それ以外の人生など、想像することも出来ない。
 昨今の就職難も、きっと自分達が卒業するまでには良くなっていると期待していた。
 祐司は卒業してきちんと就職、そして自分は祐司と結婚して、普通の人生を送ると信じていた。いや、それ以外の人生があるなど考えもしなかった。
 リストラも人員削減も、大学生の自分達には関係が無い。きっと大人達が解決してくれるし、それはそもそも大人の側の問題だ。
 それに自分達に一体何が出来るのだ?
 美由紀は何に疑問も無くそう考えていた。だが、恵美は少しずつ美由紀とは違う道を歩み始めたような気がしてならない。あの怪奇ツアーの夜、彼女に何があったのか、幾ら尋ねてみても恵美は困ったような表情で「口では説明しづらいのよ・・・。美由紀に隠し事する訳じゃないんだけど」と繰り返すばかりだ。美由紀はその恵美の不可解な態度に苛立ち、そしてその美由紀の苛立ちは仲間の間にも微かな不協和音を生み出しつつあった。
 だが、この夏休みに入ってから、恵美はよく一人で行動するようになってしまった。日本の秘境ともいえる屋久島に出かけたり、本当に自然に帰ろうとしているかのような行動を繰り返している。
 そしてそれが美由紀を困惑させ、怯えさせていたのだ。
 恵美だけではなかった。
 彼女のように、自然との触れあいを求める人が何と増えたことだろうか。彼らの多くは観用植物を育てていたり、中には会社を辞めて山奥で在宅の仕事をしたり、自給自足の生活をはじめた者達さえいるのだ。
 それも日本だけではない。世界規模で静かに人々が変わり始めているという予兆があった。
 だが、美由紀には出来ない。その自然へと帰る生き方は彼女の慣れ親しんだ都市生活とは違いすぎる。
 だから、美由紀は別れの予感を感じていた。自分達がずっといた普通の日常との別れを。
 そしてその小さな出来事、そうワイドショーが一時だけ騒いで静かに消えていった東京の上野公園で見たことも無い新種の花が見つかった、という不可思議なニュースが美由紀の心になぜか不思議な印象を残していたのだ。
 
 
 

第一章 胎動 ~ The Beginning ~
No.2

 
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