~ 3 ~

「さてと、アイツが言うにゃ、この辺にその手がかりとやらがあるはずだ」
 英二が半分以上呆れたようにぼやく。
 悦子も智子もくたびれきっていた。もうどれくらいの時間が経過したのだろう。
 まさに不思議の世界に紛れ込んだアリスの気持ちをたっぷりと味わっていた。
 頭が半分以上混乱していた。
 裏の世界がこれほどまでに複雑で多様な人間の入り組んだ世界だとは知らなかった。英二でさえも自分が知っていた裏の世界が、実はほんの表面でしかなかった事を思い知らされていたのだ。
 そして何気なく当たりを見まわした瞬間、新宿の雑然とした人ごみの中、不意にその姿が目に入ってきたのである。
「お・・・がた・・・君・・・?」
 悦子が惚けたように呟いた。
 眞だった。
 道路の向こう側の歩道で長身の男と何かを話している。
 あの男が伊達だろうか。
 思わず車道に飛びだそうとしていた。
「悦子!」「な、何考えてんだ!」
 智子が真っ青な顔で悦子を見ている。そして英二はいきなりガード・レールを飛び越えて車道に飛びだそうとした悦子を押し止める事に成功していた。
 その目の前をうるさいホーンを鳴らして中型トラックが走り抜けていく。
「緒方君が!!」
 必死でそれだけ言う事が出来た。
 慌てて智子が道路の向かい側に目を向けると、金髪の少年が長身の男と雑居ビルの中に入っていくところだった。
「あれが?」
 短い問いかけに悦子は頷いて答えた。
 そして振りかえるなり智子は亮に向かって叫んだ。
「亮!」
 コーヒーを注文するために喫茶店で列を作っていた亮は、すぐに飛びだしてきた。
「何だ?」
 その問いかけに英二が答える。
「眞を見つけた。伊達らしい男と一緒だ。向かい側の雑居ビルに入っていった」
「行こう」
 亮はそう答えるなり、智子と悦子を見て唇を噛んだ。
 そして少しだけ声のトーンを落として言った。
「二人はここにいてくれ」
 その言葉に二人ともいきり立った。
「な、何でよ!」「あんた達だけで行く気!?」
 髪を逆立てて怒りを露にする二人の少女を見ながら、しかし、亮と英二はこれ以上二人を深入りさせたくなかった。
 あまりにも危険がありすぎる。
 二人の小年はそれを実感していた。
 しかし、悦子も智子も納得しようとしなかった。
 どれほど説明しても、絶対に引き下がらない二人に溜息をついて、亮と英二は智子と悦子を連れて走り出した。説明して納得してもらう時間など無い。
 信号待ちの時間があまりにも長く感じられる。
 急いで目的の雑居ビルに飛びこんではみたものの、やはりもう眞の姿は何処にも無かった。
 どこか寂しげな静寂に包まれた手狭な空間は、外の世界と隔絶されたような違和感を感じさせる。
 不意にエレベーターが開いて、中年の女性が降りてきた。
 一瞬だけきょとんとし、しかし何事も無かったように悦子達の目の前を通り過ぎようとする。
「あ、あの・・・」
 悦子は声をかけてから考え込んでしまった。この女性が眞の事を知っているはずが無い。
「何?」
 ぼそり、と答えた女性は面倒そうに悦子を見返す。
 だが、続けられた言葉は悦子だけでなく全員に衝撃を与えていた。
「あの男の子の事?」
 悦子は信じられない、といった表情で女性を見詰めていた。ようやく手がかりに辿りついた、そんな想いが込み上げてくる。
 しかし、英二は同時に疑惑を感じていた。
 余りにも出来すぎだ。
 眞を追いかけてビルに飛びこんだ。当然だが、眞は既に姿を消している。そこへ、狙いすましたかのように現れた女性が眞の事を匂わせる発言をした。
 怪しすぎる。
「誰の事ですか?」
 亮がさりげなく聞き返す。
(ナイス!)
 英二は思わず心の中で拍手を送った。
 恐らく亮も同じような疑問を持ったのだろう。だから、逆に目の前の女性が何者なのかを可能な限り探ろうとしているのだ。
「さっき見かけた男の子の事よ」
 女性は面倒そうに呟く。
 再び、亮はさりげなく言葉を返した。
「彼を知っているんですか?」
「見ただけよ」
 女性は短く答える。
「実は、僕達は友人を探しているんです」
「ふうん、大変だわね」
「ええ。東京中を探し回るのは流石に広すぎますからね」
 亮は心底疲れたような声音で言った。
 女性も微かに笑みを浮かべて頷く。
「そうね。東京なんて人ばっかりなんだから」
「そうですよ。もっと楽に見つかると思ってたんですが」
「人なんか、人が居る所にまぎれていると誰にも判んないわよ」
 悦子も流石に亮と英二、智子が何を考えているのか判り始めていた。
 だから、ありったけの演技力を駆使して何とか彼等の芝居に合わせる。要するに何もしなければ良いのだ。
 亮はさらに言葉を重ねていく。
「東京で人が行方不明になってしまったら、長い間かかっても見つけられないんでしょうね」
「本当だわ」
 疲れたように微笑んで、女性は頷く。
「もし、御子さんが行方不明になってしまったら、どうします?」
 英二が不意に質問を挟んだ。
「おい、英二」
 顔をしかめて亮が英二を軽く睨む。失礼だぞ、とその目が言っていた。
 だが、その亮に気が付かないように、女性は答えた。
「子供は居ないから心配しないですむわ」
「あ、済みません」
 英二が間髪入れずに謝罪の言葉を口にする。
「ほんっとに普段からあんたはガサツなんだから」
 智子が心底から情けなさそうに溜息を付いた。
「智子、うるさい」
 英二もうろたえたように答える。が、その言葉に力は無かった。
 そして、呆れたように呟いた。
「まったく、眞の奴もいきなりだからな。先コーにも目ぇ付けられるぞ」
 その英二に、女性が慰めるように微笑みかける。
「その行方不明の亮君のクラスメートも、すぐに見つかるわよ」
 女性の言葉に、英二と亮は頷きあった。
 亮は自分の名前を言っていない。しかし、目の前の女性は明らかに亮の名前を口にしたのだ。
「で、どうして僕の名前を御存知なんですか?」
 顔をしかめた女性はじっと亮を見詰めていた。
 だが、次の瞬間にはふと、表情を柔らげる。
「流石は眞さんが高く評価しているだけあるわね」
 何処と無く40歳前後だろうと思っていた女性の顔は、それに合わせた化粧にも関わらず20代半ば程の若い女性のそれだった。
 声も先ほどまでの疲れた主婦のそれとは違って、艶やかな力強いものに変わっている。身のこなしも弾むような躍動感を帯びる動きになっていた。
 超一流の役者は、表情と声音で見事に役を演じきると言う。
 目の前の女性は化粧と声、そして表情と演技で完全に中年女性に成りすましていたのだ。
 そして、亮と英二は戦慄を感じていた。
 目の前の女性は、恐らく一人一人では勝てない。二人掛かりでも苦戦は免れないだろう。
 信じ難い強さを感じさせる。
 突如、女性は亮達の方へ突っ込んできた。
 亮と英二の二人にさえ、一瞬、身体が霞んで見えたほどの速さだった。
 狙い済ましたかのように亮は鋭い左正拳を女性に叩きこむ。だが、次の瞬間、亮は自分の目を疑っていた。
 いきなり、女性は空中に飛びあがり、亮の閃光の如き一撃をかわしていたのだ。
 空手の大会でも、亮の攻撃をそんなかわし方が出来る人間など居ない。
 しかし、左の拳を突きだした反動を利用し、右の後ろ回し蹴りを放つ。空中なら避ける術など無い、はずだった。
 その女性は信じ難い事に、空中で左脚のかかとを天井の蛍光灯の縁に当て、反動で上半身を浮き上がらせて亮の蹴りを見事に避けていた。
「な・・・!」
 化け物じみた動きに、流石に亮は驚愕の表情を隠せない。
 だが、その瞬間、英二は右手を電光のように真横に振るう。鞍馬真影流の秘技、『飛太刀の飯綱』を放ったのだ。
 本来なら刀を超高速で振るうことにより真空刃を発生させるのだが、英二も眞も無手でそれを放てる。もっとも、眞の技の破壊力は尋常では無いのだが。
 それでも、英二の技も一撃で鉄骨を叩き斬る程の破壊力がある。
 空中で不自然な態勢でいる人間には避ける術の無い一撃。
 その女性は、しかし、それ以上に尋常では無い動きを見せていた。
 右足で天井を蹴り、鮮やかに身を翻して真空刃をかわしていたのだ。
「馬鹿な!」
 英二もその想像を超えた動きを目で追うのがやっとだった。
 その人間離れした動きに、かえって現実感が感じられない。
 真空の刃で蛍光灯が断ち斬られて、細かなガラスの破片が降り注ぐ。リノリウムの天井にもざっくりと不気味な切り口が開いていた。
 だが、それほどの破壊力を発揮する飛太刀の飯綱も、かわされてしまえば意味が無い。
 そして女性は見事に着地し、何事も無かったかのように駆けだす。
「くそっ!」
 いささか品の悪い悪態をついて、亮は女性を追って駆けだした。英二も間髪入れずに亮に続く。
 智子と悦子も一瞬だけ遅れて、慌てて走り出した。
「あの女、『マトリックス』でやれるぜ!」
 英二も流石に冗談で驚愕を紛らわせるしか出来ない。
 まさか、超高速で放たれる不可視の真空刃を、あんなかわし方をされるとは思わなかった。
 眞ならいざ知らず、そんなふざけた事をするような人間が他にいるとは・・・
「なあ、裏の世界ってのはあんな化け物がごろごろしてるのか?」
 半分以上呆れたように亮が尋ねた。
「・・・あんなのが裏の世界の標準だったら俺はおとなしく学校で優等生してるぜ」
 正直な感想だった。
 英二が知る限り、あの女は眞と伊達に匹敵するかもしれない。
 しかし、あの女は「眞さん」と敬語で呼んだ。
 つまり、眞は目の前を走る化け物を凌駕する魔物だということになる。
(眞ほどの化け物じゃなけりゃ、対処のしようがあるさ)
 それだけでない。英二は亮にも感心していた。
 あれほど鮮やかに連続攻撃を放てる、しかも自分の想像を超えた動きを見せる相手に対処できる人間など、そうはいない。
 自分達の後を追いかけてくる智子と悦子が気になったが、目の前を走る手がかりを見失う事は出来なかった。
 階段を全力で掛け上る女性を、文字通り手加減抜きの全速で追いかける。
 しかし、とっくの昔に悦子も智子も息を切らして子供が歩くような速さで階段をよじ上っている。
(ほんっとに、あの二人は化けモンだ・・・)
 あっというまに視界から消えた亮と英二のことを智子は心の中で評した。
 亮はサッカーと空手で全国トップクラスの実力者、英二は裏の世界でも一目置かれる男である。
 この程度の事ではヘバってなどいられないのだろう。
 智子の運動神経は、ある意味で貴重なサンプルだ。100mを23秒もかかってはしる鈍臭さは自分でもイヤになる。
 悦子も体力の無さでは智子を上回る存在だ。
 学校の机も自力で持って運べない。
 毎日机を引きずって運ばれる御陰で教室の床は傷だらけである。
 もう二人は走って追いかける事を諦めていた。

 屋上に飛び出した女は、ちらり、と後ろを振り向く。まだ、二人は自分を追いかけてきていた。
 良い体力をしている、と口の中で呟く。
 虚弱少年が多い最近の若者達の中では例外的だ。それに戦闘力も素晴らしい。あの空手少年の技は自分が知る限りトップクラスだ。そして、もう一人の少年。
 眞と同じ技を使うとは思いもしなかった。
 大気を切り裂いて、その真空刃で相手を斬る技。
 彼女でさえぎりぎりだった。
 眞が彼等に不思議の国を見せたいと考えているのも不思議では無い。そう考えている間に、もう屋上の縁にまで来ていた。
 英二が再び右手を振るう。
 真空刃が女の背後から襲いかかった。しかし、今度は女は軽くバック転をして不可視の刃を避ける。もう亮も英二も女が何をしても驚かない事に決めている。
 全力で前に走っている状態でいきなりバック転で背後に飛ぶなど、人間の運動能力を超えているどころか、肉体の限界を無視しているとしか思えない。
 靭帯や筋肉が断裂していても不思議では無い運動だ。
 着地してくる瞬間を狙って、亮は全力で右拳を叩きこむ。
 大気がうなりを上げるような一撃。
 凄まじい踏み込みに、コンクリートの床にヒビが走っていた。
 だが、その一撃さえも女はあっさりと受け流した。
 右脚を引く事で身体を半身に捌いて右手で亮の拳を流す。
 樫の板さえ打ち抜く一撃とはいえ、横から流されればその威力を完全に削がれてしまう。
 そのまま女は右手を亮の伸びきった右手に絡ませて肘を逆に極めようとする。
 しかし、亮も右脚を踏み込み、何とか相手の右に身体を滑りこませて相手の関節技から逃れる。逆に腕を絡ませあっている状況を利用して鋭いローキックを放つ。
 この状況ならアクロバティックな動きなど出来ない、はずだった。
 それでも、目の前の女は亮の動きを超えていた。
 一瞬、その場で軽く飛び上がる。
 身体を殆ど動かさず、両足を引き上げて亮の下段蹴りをかわした。
「くそっ!」
 それなら、と逆に絡まっている右手を振りまわし、地面に引き倒そうとする。今の態勢なら逆に肩の関節を極められるはずだ。
 だが、その状態でさえ女は信じられない動きをする。
 上半身が崩れた状態で今度は勢い良く飛びあがり、前転しながら横に身体を捻ったのだ。
 そして、空中で腕を外して亮から間合いを取る。
 そこへ英二が閃光のように飛びこんできた。顔面を狙って打ちこまれる正拳を、やはりあっさりとかわす。
 そして、左の回し蹴りを放った。
 英二だから辛うじて受け止められた、と言ってよい。
 軽く左へ飛び、その威力を受け流す。それでも両手にびりびり、と衝撃が残っていた。
 信じられない破壊力だった。
 どちらかというと華奢な目の前の女性が放てるような破壊力では無い。
 それにこの動きは・・・
「テコンドー使いって訳か」
 そして、どちらからとも無く間合いを取った。
 韓国の武術であるテコンドーは、蹴りを主体とした格闘術だ。しかも空手とは違い、柔軟な蹴りのコンビネーションがある。その上で目の前の女はとんでもない破壊力と速さがあるのだ。派手なだけのスポーツ・テコンドーと違い、目の前の女の使うのは恐らく軍等で使われている実戦型だろう。
 亮と英二の二人かかりでさえ振り回されるほどの相手。
 伊達と組んでいる眞を知っているという以上、恐らくは彼等の仲間なのだと考えられた。
 信じ難い程の戦闘能力も、それならば理解できる。
 高校生レベルどころか、プロフェッショナルレベルから見ても亮と英二は一流の実力がある。その二人を軽くあしらう目の前の女は文字通りの化け物だ。
 女に負けるのは癪に触るが、英二も亮も自分の力と相手の力を冷静に評価するセンスがある。
 分別がある、と言ってよい。
 だが、女のほうにもそれほど余裕がある訳ではなかった。
 この二人の高校生は、その年齢に似あわないとんでもない実力がある。彼女は眞や伊達の技を知っているからまだ対処できた。
 それでも、この目の前の二人は戦っている間にもその技と速さに磨きがかかっている。
 最初に廊下で戦った時と、今とでは明らかに技の鋭さ、対処に違いがある。恐るべき素質の持ち主だと言えよう。
 流石にまだ実力の差は歴然としている。
 しかし、これほど急速に技量が成長している二人ならば、手を考えつく可能性がある。眞と伊達の所に連れていくまでは、自分は捕まる訳にはいかないのだ。
 そして、女性は軽く後ろに下がって二人の間合いを外す。
 特に英二に対しては慎重に位置を調整する。
 飯綱と言ったか、大気を切り裂いて真空刃を飛ばす技がある以上、迂闊に間合いを取りきれない。もちろん、流石に飯綱とはいえ数十メートルも到達する事は無い。
 しかし、数メートル程度の距離なら問答無用で対象を切断するだけの破壊力がある。
 眞は十メートル以上の間合いからベンツを一撃で両断した程である。
 目の前の少年の飯綱は眞の技程のものではないにせよ、遠距離攻撃手段があることは脅威だ。取りあえずこの場からは逃げる必要がある。
 そして、彼女は全力で駆け始めた。
 そのまま、縁に到達すると何の躊躇も無く空中に跳躍する。
「なっ!」「わぉ!」
 亮と英二は流石に驚きの声だけしか出せなかった。
 スローモーションのように女は宙を動き、隣のビルに飛び移った。
 足元に横たわる車道を飛び越えて。
 十メートル近い距離をあっさりと飛んで、しかもバランスを崩すことなく平然と立ち去っていく女に、英二も亮ももう言葉さえ出てこなかった。
 暫くの沈黙の後、どちらからとも無く呟きが漏れた。
「・・・冗談だろ」「・・・走り幅跳びの世界記録って9メートルちょっとだったよな」
 あの女は陸上選手とは違い、着地の時にも立ったままで平然と歩き去っていった。助走距離を得られなければ、流石に鞍馬真陰流の俊足を用いても十数メートルもの距離を跳ぶ事は不可能だ。
 テレビなどで見る、何とか9メートルを飛ぶ陸上選手と違い、小さな水溜りか何かをひょい、と飛び越えた、といった様子で、あっさりとそんな距離を跳躍していったのである。
「あれさ、宇宙人だったとか・・・」
「宇宙人がテコンドー使うのか?」
 呆然と立ち尽くしていた二人に、ようやく屋上に辿りついた智子と悦子が尋ねた。
「テコンドー習ってる宇宙人?」「何つまらない冗談言っているのよ・・・」
 息も絶え絶えにへたり込んだ二人を向いて、英二と亮は引き攣った顔で答えた。
「宇宙から来たのか地球製かは知らないけどさ」「あれは本物の化けモンだ・・・」
 
 へとへとになった四人は、英二の親戚が経営しているバーに辿りついていた。
「なあに、あんたたち!?」
 疲れきった表情で入ってきた英二達を見て、英二の叔母は呆れたように言った。
「・・・叔母さん、腹減った・・・」
 心底くたびれきった様子で頼む英二の様子に呆れながらも、叔母は手早く四人分の食事を用意に掛かる。とりあえず適当なスナックを出して、インスタントカレーを暖め始めた。
「カレーで良いでしょ?」
 そう尋ねる英二の叔母に、リクエストなど出来るはずも無い。
「食えるものなら何でもイイ・・・」
 コーラを飲み干して英二はテーブルに突っ伏した。
 全力で戦って、しかも相手に軽くあしらわれた経験など、眞と試合った時以外は無い。眞は次元の違う化け物だと思っていたが、あんな化け物が他にいるとは考えもしなかった。
 亮も疲れ切った表情でちびちびとコーラを飲んでいる。
 空手で全国大会トップクラスの実力者があっさりとあしらわれたのだ。ショックは小さく無い。
 しかも、亮の空手は体捌きや技の組み合わせなどが実戦で用いる事を前提とした実戦空手である。試合用空手とは全く異なるスタイルの技で、試合用のスポーツルールに則って亮はそれだけの成績を収めるだけの実力があるのだ。
 その亮を、あのテコンドー使いは完全に凌駕していた。
 そしてあの異常なまでの運動能力。
 もうさっぱり意味が判らなかった。
 冷静に考えると、あの女性の運動能力は余りにも異常だ。物理的に人間の肉体が耐えられる限界を超えているだろう。
 それなのに、あのテコンドー使いは何の無理をしている様子も無く平然としていた。
 しかし、もう考える気力が無い。
 四人は目の前に出されたカレーを黙々と口に運ぶ。
 だが、空腹が満たされていくと、徐々に様々な考えが浮かび上がってきた。
 圧倒的な戦闘能力を持っていながら、あの女は決して亮達に必要以上の攻撃を仕掛けてこなかった。そして、まるで亮達に見つかって逃げる事が目的であったかのような行動。
 それ以前に、これまでに見て回ってきた裏の世界さえも、まるで亮と英二、そして悦子と智子に何かを伝えようとしている何者かの意志が見え隠れしているような気さえしてくる。
 眞か伊達。
 この二人以外に考えられない。
「なあ、亮」
 英二がぼそり、と呟いた。
「・・・何だ?」
 一呼吸置いてから、亮もぼそり、と返す。
 じっとカレーの乗ったスプーンを眺めながら、英二はぼんやりと言った。
「俺達が居るこの世界、どう思う?」
「・・・さあな」
 二人とも、もうこの世界が何なのか、意味が判らなかった。いや、元々意味など判らなかった、という当たり前の事を改めて思い知らされた気がする。
「強いて言うなら・・・幻想の都って所かな」
「幻想の都・・・ね。洒落た名前だねぇ」
「・・・カレー食いながら言う台詞じゃないけどな」
「・・・言うなよ」
 そして二人とも思わず笑いだしてしまった。
 へろへろの状態で辛うじて機械的にカレーを口に運んでいた悦子と智子は意味が判らない、といった様子でぽかんと、笑い続けている二人を見ていた。
 幻想の都。
 確かに東京を一言で表現するのにこれほど似あう言葉は無いかもしれない。
 香港には魔都、ニューヨークは摩天楼、ロンドンは霧の都、世界に冠たる都市は、それぞれその都市を現すあだ名がある。そして東京は、文字通り幻想の都、と言えるだろう。
 世界第三位の経済の中心、資本主義の世界でアメリカと並ぶ二大経済超大国の首都。しかし、これほど異様な都市も世界に例が無いだろう。
 糖尿病にかかっていてクレジット・カードと携帯電話を持っているホームレス。
 正規の職に突かずにアルバイトだけで生計を立てている多くの若者たち。
 大人達は無気力で、与えられた事以外に何も出来ない。
 若い世代にリーダーシップを渡すまいと必死に権力にしがみつく愚かで醜い老人。
 そのくせ、有り余る金を享楽に浪費し、在日外国人におこぼれを与えつづけながら、国家としては天文学的な借金を背負い込んでいる病的な経済構造。
 全てが何時消え去るかも判らない幻想のような都。
 眞は何かを変えようとしてるのだろうか。
 幻想が現実になるように、眞は何を想っているのだろうか。
 片言の日本語で、一生懸命に働く外国人。
 眞は世界をその目で見てきた人間として、何を感じているのだろう。
 もぞもぞ、とメールをチェックし始めた智子を、呆れたように悦子が見ていた。
 これほど疲れきっていてもメールをチェックしないと落着かないのだろう。
 携帯のボタンをのろのろと押して、メールを確認する。
 いらいらしたように件名を流し読みして、接続を切った。そしてそのまま小型パソコンに接続し、更にチェックを続ける。
 ほとんど焦点を失った目で画面を眺めていた智子は、いきなりがばっと跳ね起きてかちゃかちゃとキーボードを叩いた。
「亮! おがっちゃんからメール!!」
「何!」
 亮と英二、悦子は智子のパソコンの画面にしがみつくようにその文章を眺め始めた。
 
『不思議の国ツアーはどうだった?
 楽しめた事だと思っているよ。
 普段は見れないいろんな事が判ったんじゃないかな。
 それをどう受け止めるかは、みんなの自由。
 
 今のこの世界は狂っていると思わないかな?
 このままの状態が長く続くはずなんて無い。
 とんでもない事が起きてしまう前に、対処する術を身に付けておかないといけない。
 
 東京に住んでいる人間は、本当の意味では“住んで”いない。
 彼等は只、そこに“居る”だけ。
 自力で生きる術なんて知らない。
 自分を生かそうとしている奴なんて、学校にも会社にも殆どいない。
 そんな連中は、裏と影の世界にしか居ない。そこにしか居場所が無いんだよ。
 
 遅かれ早かれ、世界が壊れる時がくる。
 だから、僕はみんなに別の世界を見せてあげたかった。
 
 不思議の世界ツアーはこれで終わり。
 僕も“普通”の世界に戻るから。
 
 とりあえず、あと何日かぶらぶらしたら東京に戻るから、その時にでもまた連絡するよ。
 最近はちょっと忙しかったから、少しだけ落着く場所でぼんやりしてくる。心配はいらないよん。
 ¥(^_^)¥
 
 
 あ、そうそう、Soo Yeon(あのテコンドー女性ね。“すーよん”と発音すると近いかな)が言ってたけど、亮君とマッキーの実力、半端じゃないってさ。自信もってイイよ。彼女はスゴ腕だからね。
 
 じゃあね! (^。^)/~~』
 
 
 メールを読み終わった亮は、ほっと溜息をついた。
 とりあえず、眞は無事でちゃんと帰って来る。やはり全ては眞が画策した事だったのだ。
 何の為か。
 それはこれから考える必要があるだろう、眞が自分達に見せた“不思議の国”の事を。
 だが、今はその探索ツアーが終わった事を考えると、なぜか奇妙な寂しさを覚える。
「・・・なんだか、あっけなかったな」
 ぼんやりと英二が呟いた。
 亮も微かに表情を曇らせて何かを考え込んでいる。
「・・・取りあえず、奴を迎えに行くか」
 その言葉に悦子と智子が驚いたように亮を見た。
「緒方君の場所、知ってるの!?」
 亮は悦子の疑問に微かな笑みを浮かべて答えた。
「ああ。奴のメールに書いてあったからな」
 
 眞は伊達の横顔をちらり、と眺めた。
 闇の帝王とも、魔人とも噂される男だが、眞には別に特別に恐ろしい存在だとは思えなかった。
 伊豆半島の南端、本州で一番の南国だ。
 どこか異国情緒の漂う海岸沿いの道路で眞と伊達は最後の挨拶をしていた。
「さてと、暫くの御別れだ」
「はい」
 伊達の言葉に眞は短く答える。
 その声音にはもう、以前のような迷いや不安の色は無かった。
 透き通るような力強い声に、伊達は満足したように頷く。
 あの家出少女は、結局学校も中退し、アルバイトで生計を立てながらSoo Yeonと共同生活をすることに成った。韓国人であるSoo Yeonは、しかし日本での特別永住権を持っているため、なんら問題は無い。
 それに彼女は眞と伊達に次ぐ実力がある。
 心配は要らないだろう。
 他の仲間たちは全員、世界各国に散っていった。
 来たるべき新世界の為に、彼等は世界各国で暗躍していくことになっている。
「じゃあな」
 伊達は短く挨拶の言葉を残し、そして去っていった。
 残された眞は、しかし、じっと遥かに広がる太平洋を見詰めていた。
 眞は確信していた。
 亮は必ずこの場所に気付く。
 そして智子と英二、そして悦子を連れてくるだろう。
 伊達が去って、10分もしないうちに、聞き慣れた、しかし今は少しだけ懐かしさを感じさせる声が眞の耳に飛びこんできた。
 
「お前、何処に行ってたんだよ!」
 亮の言葉が眞には嬉しかった。
 あれから3日が経っていた。
「ちょっと、旅行に行こうと思ったんだ」
 眞がそう言うと、智子が怒った様に言った。
「あんたね、人騒がせも程があるよっ!」
「ごめん」
「まったくもう・・・」
 だが、とりあえず智子の怒りもそれ程大きくは無かった。
 むしろ・・・
「・・・で、結局の所、学校サボってふらふらとこんなところをうろついていた訳ね?」
「・・・うん」
 悦子はかなり怒っている様子だった。
(なんでこんなに怒られないといけないんだ?)
 眞は少し焦っていた。
「あんたが行方不明になっている間にね、深田君が死んじゃったんだよ!」
「・・・知ってる」
 悦子が眞を睨み付けた。
「知ってたなら、どうして誰にも電話とかしないのよ・・・」
 眞は、しかし睨み付けられても答え様が無かった。
 まさか、自分が魔法と魔神を使って深田を殺したとは言えない。
「誰に電話するのさ?」
 眞が逆に尋ねた。
「速水君に電話しても良かったじゃない、岡崎さんにだって・・・」
「・・・悪かったよ」
 眞は謝った。
 悦子が一瞬、きょとんとする。
「ごめんよ。テレビとかで深田君が死んだって聞いて、皆を困らせているのに電話出来なかったんだ。本当にごめん」
 悦子は暫くあっけにとられていた。が、突如、ぼろぼろと涙を流してしまった。
「・・・ばか、ばか、ばか、ばか。あんたって本当に馬鹿だ!」
 眞は思わず亮を見てしまった。
 渋い顔をしていた亮だったが、突然吹き出す。
「ハハハハハ・・・」
「な、何だよ、亮くん!」
 げらげら笑いながら亮は眞を抱きしめた。
「何でも無い。さあ、帰るぞ!」
 そう言って、眞を引きずりながら駅に向かって歩き始めた。
 自分達が幻想の都で生きていくために・・・



 だが、その組織を作り上げて発展させていく準備がやっと整いつつあったとき、眞が高校の主催した林間学校に出かけ、そのまま行方不明となってしまったのである。
 既に伊達はプロメテウスの活動を広めるために日本を離れ、単身で別の国に離れていた。
 動揺するメンバーを必死でまとめながら、弘樹はただプロメテウスを崩壊させてしまわないため、そして自分達の仲間を護るために必死に駆け回っていたのだ。
 眞の後見人である榊原の力添えが無ければ、とっくの昔にプロメテウスは自滅し、そして彼らの持つ魔法という偉大なる知識と力は日本と世界の闇に巣食う利権団体や組織に食い物にされていただろう。
 しかし、魑魅魍魎の巣食う政治の世界で生き抜いてきた榊原と彼の信頼する盟友達は眞の見出した者達を護り、そして若者達もまた自分達が選んだ道の為に全力で戦い続けてきたのである。
 やがて行方不明になったはずの眞から、異世界フォーセリアに飛ばされてしまった、との連絡が入り、その生存が確認された後には、彼の名代としての弘樹の立場はさらに重要性を増すこととなったのだ。
 そして彼らが初めて具体的な行動を起こしたとき、プロメテウスの後見人である榊原は「ついに日本を解放するための戦争が始まった・・・」と呟いたのである。
 
 
 

~ 4 ~

 
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