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「ま、これは酒、と名前がついているけど実際にはアルコール飲料じゃない。もっとアブないもんだ」
笑いながら眞が差し出した虹色の光を放つ透明な液体を目の前にして、流石に顔色が悪くならない人間は居ないだろう。 これを飲む直前、流石の伊達ですら冷や汗をかいてしまったほどだ。 しかも、これの効果たるや、酔っ払うのではなく強制的に魔法的な能力を覚醒させて現実の能力として引き出すのだと言われて引かなかったものは居ない。 にこやかに微笑みながらじっと自分達を見ている眞を心の底で「この悪魔め!」「お前は絶対にマッド・サイエンティストだろ!」とあらん限りの言葉で罵りながら、男達はその異様な輝きを放つ不気味な飲み物が注がれたグラスをじっと見つめていた。 誰一人として手を伸ばそうとしないのは、少なくとも勇気の無さからではない、と伊達は心の底から彼らに同情していた。 確かにこの魔法の秘薬によって得られる能力は素晴らしいものだ。 だが、ある意味では文字通り、「人間辞めますか?」になるアブない薬に手を出すのはまともな人間の考えることではない。 冗談抜きでX-メンになりかねないような代物を平然と勧める眞の精神構造を理解しようとして、若者たちは諦めていた。そんな常識人としての感性を持っている人間なら異界から魔神を呼び出して魔法を身に付けようなどとは考えないだろう。 とんでもない人物と係わり合いを持ってしまった自分の運命を呪いながら、一人一人、死にそうな表情でグラスに手を伸ばしていく。 「遺書は用意しておいたか?」 その冗談にもならない伊達の言葉に流石に殺意を覚えて睨み返す若者たちの気迫に、伊達は苦笑いを浮かべるしかなかった。 後でプロメテウスと名付けられたこの秘密組織の幹部となった一人はこう語っている。 「あれは極彩色の地獄だった・・・」 その言葉はこの異様な飲み物を飲んだ全員の感想だっただろう。たった一人、それを創り出した人物を除いて。 恐怖に駆られる前に一気飲みでその魔法の薬を飲み干した若者たちが死体のように転がっているのを見て、伊達の心に微かに哀れみの気持ちが湧いていた。 (あれは強烈だったからな・・・) よくも気が狂わなかったものだと思う。 この魔法の薬は、具現魔術と同じように魔法回路を飲んだ人間の精神の中に刻み込み、そして魔力の発現である特殊な能力を引き出すのだ。しかも、その能力は本人の無意識レベルでの感情や衝動、魂のアーキタイプなどに影響されるものであり、これが覚醒する途中で、この魔法の薬を飲んだものは深層心理や魂の純粋な欲望、感情、衝動などと向き合わなくてはならない。 それは時としてどんな拷問よりも残酷な場合がある。 いや、自らの無意識の中に秘められたそうした剥き出しの“想い”を見せ付けられる、ということは誰にとっても恐怖であり苦痛だろう。 だがそれは< 弘樹が< 彼の身に付けた この能力は弘樹の手に一冊の魔術書を実体化させ、その中に転写された能力や技能を使えるようになる。また、弘樹はこの本に眞の支配した下位魔神の古代語魔法の技能を転写しているため、古代語魔法さえも使えるのだ。 今はまだ眞よりも数段低いレベルでしか呪文を行使できないものの、それでも眞や眞の創り出したホムンクルス以外に古代語魔法を唱えることが出来る人間がいることは極めて大きな意味がある。 そうした事から弘樹には眞や伊達に次ぐ、プロメテウスの指揮官としての役割が自然に期待されていたのは自然なことであった。 あの“アカーシャ”を具現化させる唯一のヒントは、「そういや、俺があれを具現化させようとした時に、ちょっと迷ってどれにしようか集中し切れなかったんだよな」という眞の言葉である。考えられるのは、眞が一つの悪魔の姿に集中しきれずに複数の具現化したい対象を同時にイメージしてしまったことから、それが重なり合ってあのような特殊な使い魔が出来てしまったのだろう。 そうとは言え、それを実現するのは想像を絶する集中力とイメージ力、そして複数の霊を実体化させらられるレベルでの視覚化とそれを同時に客観的に見るだけの精神力など、通常では考えられないほどのプロセスが必要になると考えられた。 その為、弘樹はそれを幾つかの魔術的な秘術を応用して行おうとしていたのだ。チベット仏教には“タルパ”と呼ばれる奥義がある。半ば実体化するレベルまで強力に視覚化した幻影を操って高位次元の精神と対面し、更なる悟りを開くための秘術とされているものだった。また、西洋魔術の中にも守護精霊の作成とその使役方法などがあり、同様に強力な視覚化を行ってその守護精霊を自律して動くようにまで実体化させるものもある。 弘樹はそうした様々な技術を用いて、眞の生み出した“アカーシャ”を再現する試みを考えていたのだ。 「さて、これに成功したらまずは修行の第一ステージクリア、だ」 眞がどこか面白そうな口調で弘樹に向かって話しかけた。 だが彼自身も、弘樹が“アカーシャ”の具現化に成功したら相当に大きな組織の力の強化に直結する、と考えていたのだ。 少なくとも弘樹が様々なバリエーションの使い魔を操ることが出来るなら組織の運営にも柔軟性が出る上に、少ない戦力を効果的に活用できる。 口に出しては言わないものの、伊達も弘樹がアカーシャを操れるようになることを期待している部分が感じられた。 それは弘樹にとって少なからぬプレッシャーになっていたが、同時に彼らの期待の大きさを考えると嬉しくもある。少なくとも無能に期待するほどこの二人はお人好しではない。 「大丈夫か?」 伊達がそっけなく尋ねる。 余り関心が無いような口調だったが、少なくともこの場にいる人間は彼が弘樹に必要以上の重圧を与えてしまわない様に慎重に言葉を選んでいることを理解していた。 「やります」 弘樹は腹を括って伊達に向き直る。 いよいよ、具現魔術の真の力と向き直る時がやってきた。 それはある意味で長く待ち望んでいた瞬間だった。 彼はこの日本の気だるく退廃的な物質の豊かさに浸りながらあえて目の前の危機から目を背け続けている人々に激しい苛立ちを覚えていたのだ。 弘樹自身もかつてはそんな流されるだけの人生を送る一人だった。 しかし、彼と家族が巻き込まれたある事件を境に、弘樹はこの日本を覆う空気を変えたいと願うようになっていたのである。 それは悲惨な事件だった。 ある宗教に熱心だった彼の姉とその夫が、その宗教のあり方に疑問を抱いて脱退を試みたところ、あろう事かその宗教団体の信者達に弘樹の家族諸共拉致され、惨殺されてしまったのだ。 弘樹自身はたまたま、外出していたために被害を免れたのだが、一瞬にして家族全員を奪われてしまった彼は、あまりの衝撃に一年近くも心を閉ざしてしまったのである。 そして、ようやく心の傷から立ち直った後、警察の捜査やマスコミの報道などが、その宗教団体に対して妙に及び腰なのに疑問を抱いて調べた結果、日本の報道機関にあるタブーに触れている、という事を知ったのだ。 そのタブーは、宗教団体、特に政治的にも経済的にも大きな力を持つ宗教組織であり、在日朝鮮人や韓国の組織が非常に大きく関係している、いわば二重にタブーだったのである。 弘樹はそのことに苛立ちと怒りを覚えていたのだが、如何せん、一人では何もする事が出来なかったのだ。 だが、自暴自棄になっていた弘樹はある出会いをした。 東京の街中で浴びるように酒を飲んでいた弘樹は、突然、知らない声に呼びかけられたのだ。 「お前は何もせずにただ泣き寝入りするだけなのか?」 その言葉は弘樹の胸を鋭く抉ってくる。 だが、単なる一人の大学生に何が出来るというのだ・・・ 自分の無力さを嘲笑われた気がして、弘樹は怒鳴り返していた。 「お前に何が判る! それに、お前に何が出来るんだ!」 振り返った弘樹の目に一人の男が映っていた。いや、その男の影にもう一人の少年が目立たないように佇んでいる。 弘樹は思わず息を呑んでしまった。 それほどまでに目の前の男は異様な雰囲気を放っていたのだ。 ― 魔王 思わずそんな言葉が弘樹の混濁した意識の中に浮かび上がっていた。 「判るさ。俺もお前と同じような目に遭ってるからな。こいつもそうだ」 そう言いながら、目の前の長身の男は後ろに立っている黄金の髪の少年に視線を向けた。 少年は微かにさえも表情を変えずに、そのサングラスの奥からじっと弘樹を見つめている。 「力が欲しいんだろう?」 男が静かに問いかける。 そう、弘樹は力を望んでいた。この理不尽な現実を、不条理な理由で家族を奪った奴らを滅ぼせる力を与えてくれるなら、彼は魂さえも喜んで差し出していただろう。 ごく普通に生きていた家族の生活を踏みにじり、そして闇の組織の奥底で平然と暮らしている奴らを地獄の底に叩き込んでやりたかった。 だが・・・ 「・・・あんたがそんな力を持っているのか?」 弘樹は冷たく言葉を返した。 そんな力があるとは信じられなかった。相手は日本のマスメディアや財界だけでなく、政界や教育界にまで巣食っている化け物なのだ。 「力、か。ただ奴らを殺すだけなら簡単だ。今でも十分にその力はある」 平然と男は返事を返した。 と同時に男は右手を出す。 握手でも求めてくるのか、と訝しげに思った瞬間、弘樹は驚愕に包まれていた。 確かに男の手には何もなかったはずだ。だが、一瞬にして大振りな銃が彼の手に握られていたのだ。しかも、この大勢の客がいるのに、誰一人として驚きの声ひとつあげていない。 そう思った瞬間、弘樹は違和感を感じていた。 そう言えば、先ほどから誰一人として彼らに注意を払っていない。それどころか、バーテンダーも三人がまるでその場にいることを知らないかのように、まるで関心を払っていないのだ。 「気が付いたようだね」 少年が初めて、面白そうな感情を帯びた声で呟く。 もしかして、これはこの少年がやっているのだろうか。 「伊達さん、合格です」 少年が長身の男に言葉を掛ける。 何が“合格”なんだ? 訳が判らない事態に、弘樹はますます混乱していた。 「そうか。ようやく、『計画』を進められる、という訳だな」 「はい。後は彼が覚醒できるかどうか、ですが」 「まあ、大丈夫だろう。少なくともここまで泥酔した状態でもまともな判断力を維持しているからな」 その伊達の答えにひょい、と肩をすくめて少年が首を傾げる。 そしてポケットから小さなドロップを取り出した。 「ありがちだけど。この赤い薬は来生さんに『力』を与えてくれる薬です。力を望んで、僕らに協力してくれるならこの薬を飲んでください。青い薬は睡眠薬。力を望まない、そして今の生活を続けたいならこちらを選んでください。今の話も、僕らのこともすべて忘れて、さっきまでの生活に戻ります」 ひょっとすると、力を望んで戦うほうが辛い生活かもしれませんよ。そう付け加えて、少年は右手に赤い薬を、そして左手に青い薬を乗せて弘樹に差し出した。 弘樹は躊躇いもせずに赤い薬を少年から引っ手繰るように取る。 「・・・本当に良いんだな?」 長身の男が、確認するように問いかけてきた。 悪魔との契約かもしれんな・・・。そんなことを心の何処かで考えながら、しかし、弘樹は赤い薬を口の中に放り込み、そして噛み砕く。 何処か甘いような味が口の中に広がって、弘樹はそれをごくり、と飲み込んだ。 これで本当に力が得られるのか・・・? そう思いながら弘樹は長身の青年と黄金の髪の少年を見つめる。 暫くは何も起こらないように思えた。 からかわれたのかも知れない。 そんな不安と、うかつにも信じてしまった自分の愚かさに怒りがこみ上げてくる。と、その瞬間、視界が異様なきらめきを帯び始めてきた。 「な、何なんだ!?」 悲鳴を上げて立ち上がろうとした弘樹だったが、自分の尻がすでにストールと溶け合って一つになっている。そしてついた手がカウンターにずぶずぶ、と溶け込んでしまった。 「始まったな」 男の声が何処か遠くから聞こえるような気がする。 もう視界は極彩色の光の渦に満たされていた。 その光の渦に飲まれ、弘樹は意識を失っていった。 弘樹は気が付くと、暗い世界の中に佇んでいた。 何もないただの闇だけが広がる世界だった。 自分が立っているのか、それとも宙に浮かんでいるのかさえも判らない。何一つとして音も無く、一つも光の無い世界。 (俺は死んだのか・・・?) 死んだのなら、まあ、別に構わない。 ただ、家族をすべて奪った奴等に復讐も出来ず、そして自暴自棄のままで命を落としたのだけが悔やまれる。どうせ命を捨てるのならば、あの連中の幹部の一人とでも刺し違えればよかった、と他人事のように考えていた。 どうして俺は何も出来なかったのだろう。 力が無かったのだろうか。 だが、力があっただけではあの強大な組織に立ち向かうことなど出来なかっただろう。 なら資金力なのか? 資金力は相手のほうが遥かにある。たとえ宝くじに当たったところで、そんなものなど焼け石に水ほどの役にも立たないだろう。 結局は無力なのだろうか。 そう思いながら、しかし、あの男と少年はあっさりと「奴らを殺すだけなら簡単だ」と言い放ったことを思い出していた。確かに、人の注意を完全に阻害し、何も無いところから銃を取り出せることが出来るなら、一人ずつでも相手を始末できる。 だが、それだけだろうか。 いくら何でも、幹部や中枢部の人間が次々に殺されたりしたら警戒されるだろう。 とするなら、あの二人はどうやって、「簡単に奴らを殺す」のだろうか? 『殺すだけなら一人ずつ殺らなくても、纏めて始末すればいい』 声が響いた。 一体どうやって? 弘樹の心に反応するように、声が平然と答える。 『簡単さ。人に気取られないように出来るなら、やつらの拠点にもぐりこめばいい。食事に青酸カリを混ぜ込むなり、泊り込んだホテルに放火してやれば纏めてお陀仏。しかも実行方法が判らなければ奴等は勝手に疑心暗鬼に陥って自滅するようにもなる』 だが、それだけでは不十分だ、と声が答えた。 『奴等はすでにこの国に根を張っている。だから、土の上に出てきた草を幾ら刈っても無駄だ。根もろとも始末しなければならない』 その為に力と金、そして組織力に加えて、彼らの力があるのだ。 ならば、俺もその力が欲しい! 弘樹は痛切に『力』を願っていた。 『なら、お前の心の中の欲望と衝動と向き合えばいい』 不意にその言葉を掛けてきた存在が姿を現した。 あの長身の男かとばかり思っていた相手は、何処か見覚えのある子供だった。 そしてその顔に思い至った瞬間、弘樹は恐怖のあまり絶叫していた。 それは紛れも無い弘樹自身だったのだ。 「うわあああああぁぁぁーーーっっっ!!!、く、来るなぁっ!、来ないでくれえっ!」 しかし、右を向いても左に向き直っても、視界の中には必ず幼い子供のままの自分がいて、無邪気に微笑みかけてくるのだ。 弘樹はいつの間にか全力で駆け出していた。 そして気が付くと弘樹は何処か古ぼけた廃屋のような屋敷の中に佇んでいた。 「こ、此処はどこだ・・・」 震えを押さえきれない声で、弘樹は一人呟く。 古い道具や家具などが雑然と置かれた部屋を、弘樹は呆然と眺めていた。 『世界は“認識”によって成り立っている』 不意に声が響いた。 弘樹と同じ顔をした少年が古いソファに腰掛けたまま、弘樹に言葉を掛けていた。 『この宇宙は、誰かに認識されなければ存在していないのと同じだ。なぜならば、そこに存在していることを認識されないことは、存在しているかいないかの違いの持つ意味を持たないことを意味する』 つまり、りんごが机に乗っかっているのか、それとも乗っていないのか、それを観測するものがいなければ、まるでそのことに意味はない、ということだ。 そう少年は呟く。 観測者という存在には虫やバクテリア、カビなどの存在も含まれる。そう少年は続けた。なぜならば彼らは意識する、しないに関わらず、りんごという存在を認識し、それを自らの栄養源とし、そして自己増殖のための要素の中に還元していくのだ。 それは紛れも無く『りんご』を“認識”する行為に他ならない。 だが、それとこの部屋の間に何が関係があるのだ。 弘樹の疑問を知っているかのように、少年は呟いた。 『この部屋はまさしく、“認識されない”存在に他ならない』 誰も知らないからこそ、存在することに意味を持たなかったものが其処には降り積もっている。 『好きなものを持って帰るといい。それはお前の心が望むものだからだ』 少年が呟いた。 「・・・何故だ?」 弘樹が疑問を口にする。 なぜ、“認識されなかった存在”を持って帰るのだ? その問いかけに少年は微笑んで答える 『何故ならば、この部屋はお前の心の中にあるのだから。いや、お前 - 来生弘樹、という存在に成れなかった“あるべき可能性”の名残だからだ』 その瞬間、弘樹は認識していた。 この部屋は、弘樹の心に連なる可能性の連鎖の欠片が集まって出来たものなのだ。 量子力学の世界では、世界は無数に並列する量子の確立の集約だという。 僅かずつに違う世界が無数に連なり、そして最終的にはまったく異なる世界までもが並列世界として存在しているのだというのが、最新の量子力学の科学的な考え方なのだ。 ならば、この部屋はその量子論的確立の齎した場の集合体だと考えれば納得が出来る。 それがこのような風景に見えるのは、弘樹が自らの“認識”を以ってそう捉えているに他ならないのだ。 そのように考えると、この部屋から不気味さが感じられなくなる。 弘樹は(現金なものだな、我ながら・・・)と一人呆れたように考えていた。 しかし、この世界の中で自分が見出したものがあるとするならば、それは今の弘樹自身の属する世界とは異なる法則を具現するものになるだろう。 (!!!、そうか、これが彼らの言っていた『力』なのか!) そう思った瞬間、視界がぐにゃり、と歪みはじめる。 『早く選べ!』 幼い弘樹の声が飛んだと、思った瞬間、弘樹の視界は再び闇に包まれていく。 完全に闇に包まれそうになったその瞬間、弘樹は無我夢中で何かを掴んだ気がした。 |