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 大韓民国民潭の鄭団長は次々に寄せられる報告に困惑を隠せずにいた。
 とにかく、謎の失踪者が頻発し、それと平行して夥しい在日韓国人たちが韓国に帰国し始めているのだ。その理由が、「日本にいるよりも本国に帰って祖国に貢献したい」という理由であり、引き止める理由など無いため、大量の民潭員が脱退していくのを指を咥えてみているほかなかったのだ。朝鮮総連も同様の様子で、万景峰号を経由して北朝鮮に帰国していく人間が膨大な数に上って、日本の報道各社も困惑しながら報道している状態だった。
 日本政府が圧力を加えて追い出しているのだろうか、と思ったのだが、幾ら調べてもそのような様子もなく、自分達から帰国をしているのだ。そうした事情から韓国側としても拒否が出来ずに、受け入れをせざるを得なかったのだ。
 日本政府の発行している特別永住許可に関しても、再入国申請を行わずに出国した場合はそれが取り消されて、日本に再入国が出来なくなるのだが、それもせずにただ一方的に日本から韓国、北朝鮮へ向かっているのだ。
 ここ一週間で既に一万人以上もの韓国籍の在日韓国人が日本から去って韓国へと移り住んでしまった。
 そんなことが続けば、あと数年も絶たない内に在日韓国人、在日朝鮮人が日本から全ていなくなってしまうだろう。
 そうなってしまったら彼ら民潭や朝鮮総連の影響力はまるで無いものとなってしまう。
 合法非合法を問わない有形無形の圧力を加えていたからこそ、在日特権とさえ揶揄されるほどの優遇処置を日本政府から引き出していたのだが、それが無くなれば唯の外国人になってしまう。
 そんなことは受け入れがたい事だった。
 パチンコ利権や消費者金融からの利益を受けている放送業界や政治家、警察官僚たちからも直接的な表現は避けているものの、事態の内容を説明して、こうした利権の将来への影響に対しても問い合わせが相次いでいるのだ。
 正に胃に穴が開きそうな事態に、鄭団長は頭を抱えていたのである。
 その背後で行われている異世界の魔術を用いた恐るべき作戦の事を知ったなら、彼は泣き叫んで許しを請うただろう。それが叶えられる事は決して無かっただろうが・・・。
 その姿をじっと見ている影があったことに 男は気付いていなかった。

 創価学会の幹部は困惑した表情で支部活動の報告書を読んでいた。
 其処には膨大な数の在日朝鮮人や在日韓国人が日本から去って韓国や北朝鮮に移動している、という報告が出されていたのだ。当然の事だったが学会の構成員達も例外ではなく、今週に入ってから既に五百名以上の学会員が韓国や北朝鮮に移り住んで行ったのだ。
 日本に帰化した元在日の者達も、日本国籍を放棄して原籍回復を申請し、本国へと帰り始めているのだ。由々しき事態であった。
 このままではその総数を減らした在日朝鮮人や在日韓国人の社会的な影響力が著しく低下してしまう。そんな事になれば今の在日の社会は完全に変わってしまう。尤も、その時には彼らは全て朝鮮半島に帰ってしまっているかもしれないが・・・
 この異常事態に、彼ら在日朝鮮人たちに協力的な良心的日本人―反体制と赤化革命を目指す共産主義活動家達からも、何が起こっているのかを問い合わせる連絡が来ている。
 公明党の幹部からも選挙への影響を危惧する声があがってきていた。
 その支持母体である創価学会は多くの構成員が在日朝鮮人・韓国人である。また帰化した者も少なくないため、組織立って選挙戦を行えば相当な影響力を行使できるのだ。
 その基盤である構成員や現場指揮を担う在日や帰化人が次々に韓国や北朝鮮に帰ってしまっているのではお話にならない。もし選挙で役に立たないとなれば与党の立場にいることも不可能になるし、自民党の暴走に対するお目付け役という役も担えなくなるのだ。
 じわじわと真綿で首を締め上げられるような不安が付きまとっていたのである。
 その報告書を読みながらどう報告したものかと思案をめぐらせていたとき、不意にドアがノックされた。
「金城君、入るよ」
 彼の直属の上司だった。
 立ち上がって上司を迎え入れる。男は疲れた表情で金城に向かって会釈を返してきた。
「今回の事態なんだが、何か掴めたかね?」
 労いの言葉もそこそこに、上司は金城に尋ねてくる。よほど切羽詰った状況になっている様子だった。
「はい、調査を進めておりますが、芳しくはありません・・・」
 力無い金城の言葉に上司もむっつりと黙り込んでしまう。
「あの戦前回帰派の狸どもの仕業に決まっているのだ!」
 苛立たしげに声を荒げる。だが、証拠が無い事を問い詰めるわけにもいかない。
 学会や朝鮮総連、民潭の圧力を駆使して事態を打開しようにも、その肝心の組織の力の源である在日朝鮮人や在日韓国人、帰化人たちが組織を離れてこの国を去っているのだ。どうしようもない。
「聞きましたところ、統一教会のほうでも同じことが起こっているそうです」
 その言葉に上司は興味深げに視線を向けてくる。
 もし、金城の言葉が本当なら、これは想像していた以上に深刻な事態だった。
 最初は統一教会側、即ち勝共連合側が仕掛けた創価学会への工作かと思っていたが、どうやら事態はそれよりも遥かに大きなもののようだ。昔の勝共連合は対北朝鮮の反共組織という大きな役割を担っていたが、冷戦の終結に伴って彼らは北朝鮮に接近し、今では北朝鮮指導部との友好関係まで築いているほどだ。
 そしてその勝共連合の人脈は日本の政治家とも繋がっており、民主党の澤田などの大物議員も少なくは無い。そうした勢力をも巻き込んで、有無を言わさずに在日朝鮮人たちを送り返しているのだとすれば、それは大問題だった。
 日本をフリーハンドにすれば、何をしでかすか判らない・・・
 そんな恐怖が彼ら在日朝鮮人の間にはあるのだ。
 とにかく、組織を固めてこれ以上の帰還者を出さないようにすることが最優先だった。
 しかし、その彼らの中には既に、彼らの敵がその魔の手を伸ばしていたのである。

「ということで、皆さんは何か変わった事がありましたら直ちに地区の担当者への連絡を行ってください」
 学会の地方幹部の男が本部からの指示を会員に伝えていた。
 ざわざわと学会員達は不安げな表情でお互いに視線を向け合っている。無理も無い、と幹部の男は考えていた。
 得体の知れない事態が起こって、在日の韓国人や朝鮮人が一斉に半島に帰り始めているのだ。その中には日本で大きなビジネスを成功させた裕福な者も少なくなかった。
 莫大な資産をあっさりと処分して、そして言葉も良く判らない、外国にも等しい自分の“母国”に帰っていくのは、どう考えても不可解だった。
 ともあれ、今は組織がこれ以上ガタガタになるのを防がなくてはならない。
 帰国すると言い出した人間に対して丁寧に説得をして、それを懇意させなければならないのだ。また、そういうことを言い出したり考えたりしないように全員に重ねて通達を出している。
 その通達を真面目に聞いている会員達を見て、男は安心していた。
 少なくとも、この地区からは脱落者は出ないだろう。
 だが、彼はその集会をじっと見詰めている存在に気付いていなかった。
 姿無きその存在は、その集会の一部始終をつぶさに観察して、その様子を主に伝え続けていたのだ。
 魔神ゴードベルは、彼の主である眞の命令でこのような集会に潜り込んでいるのだ。目的は一つ。彼の主に力を行使させる機会を与えるためであった。
 眞は東京にあるホテルの一室からその様子を見ていた。
 支配者たる彼はその支配して使役している魔神を通じて、その魔神たちの見る光景を見て、そして聞くことが出来るのだ。
 そして魔神支配の指輪に封じている魔神マリグドライの能力である幻影の力は“視界の範囲内に居る”相手に対して効果を発揮するのだ。即ち、彼はゴードベルを通じてその視界内の者に幻影の攻撃を仕掛けることが出来るのである。
 その集会で指示を通達している男は、何時の間にか全員がシーンと静まり返っていることに気付いていた。
「もしもし、皆さん、どうかされましたか?」
 何度か呼びかけても何の反応も返ってこない。
 ぞっとするような気持ちで、何が起こっているのかを必死に把握しようとしていた。
 とんとん、と肩を叩かれた気がする。
 振り返ってみると、其処には一人の男が立っていた。
 誰だ・・・?
 そう思って全身の血の気が引くのが自分でも判った。
 目の前に立っている男は、かつての学会員であり、脱退しようとした男だった。何度も説得したにも拘らず、学会から退会しようとしたため、やむなく仏罰を加えねばならなかったのだ。
 全ては仏道のため、と信じていた。
 しかし・・・
「あんたは人を殺したんだ」
 はっきりと響く声で死んだはずの男が言葉を放つ。
 幹部の心にその言葉は嫌が応にも広がっていく。仏道のため、と自分に言い聞かせてきた言葉が剥がれ落ちていくような気がした。
「全ては仏門のため・・・。そんな言葉で自分のしたことをごまかすことは許されない。その手で私の首を絞めたじゃないか」
 そう言って首を見せてくる。
 男の首にははっきりと手形が付いていた。
「ヒッ!・・・」
 恐怖に幹部の声が引き攣ったような響きになる。
 必死になって念仏を唱え始めていた。
「南無妙法蓮華経・・・」
「そんなんじゃ、おまえ自身の心を偽ることは出来ない」
 声が頭の中に直接響いてくる。
『仏の名を騙って、人を殺めし者・・・汝、地獄へと落ちるべし・・・』
 別の声が響いてくる。
 振り返って悲鳴をあげていた。
 其処には二人の巨漢が立っていたのだ。だが、その頭はそれぞれ牙を生やした馬と牛のそれであり、その二つの異形の影が幹部の男をじっと見詰めていた。
 仏教で語られる鬼の中に、そのようなものがいる。
(まさか、まさか、そんなことは無い・・・。本当のわけが無い・・・)
 必死になって否定しようとしても、目の前の異形の存在と死んだはずの男は口々に責め立ててくるのだ。
『お前は仏の道を騙って罪を犯した・・・』『人を殺めたのだ・・・』「私の首を絞めて窒息させた男が、自らは救われたいと願うのか?・・・」
 生臭い息が男に吹きかけられて、馬の目が男の目を覗き込む。
 もう恐怖の余り、意識が薄れ掛けていた。
「た、助けてくれ・・・」
 必死にそう搾り出した声に、殺してしまった男が冷たく声をかける。
「お前はそう願った私に何をした?」
 そして男の意識は暗い闇の中に引きずり込まれていった。
 男の表情は、他の信者達が見せている呆然と宙を見詰める表情と同じだった。
 
 朴安仁はiパク・アンインjはけたたましく文句を捲し立てている朝鮮総連の男に内心で呆れ返りながらも、愛想良く頷いて相槌を打っていた。
「何が起こっているのか、未だに判らんのか!?」
 その男、李成男iイ・ソンナムjは近頃急激に起こり始めた在日朝鮮人や韓国人の自主帰還運動に対して、本国からそれを徹底的に調査するように厳しく言われているのだ、と早口に喋り続ける。北朝鮮の内部では在日朝鮮人が急激に、しかも無視できない規模で本国に帰還し始めたことで大問題に発展していたのだ。
 そもそも、完全に閉ざされた世界である北朝鮮において、在日朝鮮人を経由した貿易や在日朝鮮人からの親族への送金が数少ない外貨獲得手段の中でも非常に大きな割合を占めている。
 その送る資金の元になるのは日本政府から支給されている生活保護であり、パチンコやサラ金などで大儲けをした資本からの拠出であった。実際に、日本の頭上を飛び越えて発射されたテポドンもこのパチンコ利益からの資金拠出が主な開発費用であったとも言われていた。
 しかし、その金蔓が退去して本国に帰ってしまっては、北は資金的に干上がってしまう。
 何とかしてそれを食い止めなければならないのであるが、北に帰るな、と指示を出したとき、あろうことか集団で南に国籍を移して、大韓民国に“帰って”しまったのだ。
 日本政府が動いている様子がまるで無い上に、政府や官僚達も事態を把握するために慌しく動いているという状況から、この動きは日本の反動政府の妄動ではないらしい。だとすれば、南の策動か、とも思ったのだが、南側でも蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているとの報告もあった。
 まるで何がなんだか判らない、と怒鳴り散らす李の姿を見ながら、朴は眞の持つ魔力の恐ろしさを改めて思い知らされていた。
 あの少年は、あろうことか魔神の力を行使して在日朝鮮人や在日韓国人の精神を支配して自分の命令に従うようにしてしまい、集団で朝鮮半島に送り返しているのだ。その上で、その中の何人もの人間に魔神ガランザンを忍び込ませて、内部の情報を直接把握すると同時に、それを中心とした遠隔指揮系統をも確立させているのだ。つまり、半島には既に数万人規模の、眞の命令でなんでもする工作員が送り込まれているのとまるっきり同じ意味があるのだ。
 姿無き魔神や魂の魔神などを操って、既に北と南の内部情報は彼の元に筒抜けになっている。その上で、そうした魔神によって支配されたり乗っ取られたりした役所や政府機能の一部は彼の思い通りの行動をするようにさえなっている。
 個人が国家を相手に乗っ取りを仕掛けて、それを成功させてしまうなどと誰が想像できるだろうか。
 あの殴り込みをかけられた日から朴は眞の配下となり、彼と伊達の手足となって対北朝鮮、対韓国の情報工作のために動いている。
 そしてあの二人の美しい乙女の事を思った。
 水蓮は眞の為に戦うことを選んで、今は異世界の魔術やそれによって生み出された魔法の秘薬、工芸品などを使いこなすための厳しい訓練に明け暮れている。そして銀寿は直接戦うのではなく、彼らを陰から支えていた。
 当然の事ながら、朴は彼女達には嫌われている。
 無理も無いと思うし、今更和解しようとも考えていない。何も知らなかった純粋な娘を拉致して、同じように拉致してきた眞の仲間と共に北朝鮮に連れ去ろうとして眞と伊達に返り討ちに遭ったのだ。
 そうした事情から特に水蓮には徹底的に嫌われていた。
 だから彼らは影の実行部隊としての役目に徹している。

 葉子は眞からの伝言をテープにコピーして校長に聞かせていた。その録音の内容と声が眞本人のものである事を何度も何度も確認してきた校長に対して葉子は自信を持って「はい。この声は緒方君のものに間違いありません」と断言していた。
 その自信たっぷりの葉子の判断に、校長は胸を撫で下ろしたように表情を和らげる。
 深田剛の事故死で相当なプレッシャーを受けていた校長と教頭は眞が無事である事を知らされて地獄で仏を見たような気持ちになっているに違いなかった。
 ただ、深田の件で相当大きな失点になったともっぱらの噂である。正直なところ、再就職にかなり影響がありそうだ、との話も聞こえていた。
 それは葉子自身も同様で、クラスの中から謎の事故死をした少年がいて、十日以上も失踪している少年もいる、ということで葉子の指導能力に疑問があるとの話もちらほらと聞こえてくるのだ。
(勝手に言ってればいいわよ!)
 もう開き直った葉子は、その噂話を聞き流して平然としていた。
 深田に対して何も出来なかったのは教職員全体の問題であるし、失踪した本人は留守番電話のメッセージで、学校関係の問題ではなく個人的な用件だという事を繰り返し伝えてきている。
 その上で自民党の代議士である榊原の秘書から直接の電話で全てこちらで処理をするので、高科先生はご心配なさらないでください、と言われていた。
 正直、えらいことになってしまった、と思ってしまうのだが、その行方を眩ました張本人の立場を考えれば、まだ穏便に事を進めている方だろう。唯一、左巻きの社会科教師や音楽教師達のような日教組に傾倒している教師達が政治家の教育現場への干渉が云々と騒ぎ立てていたが、それも大きな問題になっていない。
 教室でも生徒達はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
 最初は里香たちのグループが眞を追い込んだのでは、という話が出ていたものの、それは眞本人の伝言により彼の個人的な事情だと説明されて沈静化はしている。
 眞の友達である智子や亮が悦子と一緒に走り回っている事や、里香も直接は動いていないもののその三人のサポートをしている事から、クラスメート達は頭をひねって、一体何が起こっているのかと噂話を繰り広げていたのだ。
「俺達が良く入り浸っていたフォーラムにも、あいつは姿を見せていないぜ」
 加藤良樹が眼鏡を弄りながら悦子に答えた。
 このゲームオタクの少年は眞の数少ない友人の一人で、ゲームに一緒に没頭しているのはクラスメートなら誰でも知っている事だった。その良樹も眞の行方を知らない、というのであればゲームに関連したことではないようだ。
 まさか、眞がこの現実世界を舞台にした巨大な政治戦略ゲームを展開しているとは、この場にいる誰も想像すら出来なかったのである。

 榊原は自分の机に置いた水晶球をモチーフにした彫像を眺めてほくそ笑んでいた。
 眞から贈られたこの彫像は、実用的な価値として戦略スパイ衛星よりも価値がある代物だ。
 これによって榊原たち自民党保守本流派は自由自在に必要な情報を得る事が出来るようになったのだ。
 極秘裏に榊原は彼の盟友にそれを見せたところ、全員が腰を抜かさんばかりに驚き、そしてそれを入手した経緯を聞かされた者達は、その眞の行動力と成し遂げた事に口をあんぐりさせて言葉を失っていた。
 そして直ちにそれを効率よく運用するための組織を編成して、実践運用を開始し始めていたのだ。
 人間が目で見て観察するのには限界がある。
 その為、この水晶球を自動的に動かしてそれを超高解像度のビデオで撮影したり、写真として撮影する装置を開発して機械的に記録が出来るようにした。それを解析して必要な情報を取り出すためのソフトウェアやデータベースなども同時に開発し、スパイ衛星を運用しているのと同じように常に情報をモニタリングできるような運用が始められていたのだ。
 眞に頼んで、既にこの水晶球の彫像を二十四個、設置して地球上の如何なる場所も一時間毎に撮影できるようになっている。これはアメリカ合衆国が運用しているといわれているスパイ衛星の運用と同等かそれ以上だった。しかも、スパイ衛星を打ち上げているわけではないので衛星の存在を察知される心配もなければ運用コストも圧倒的に安い、という絶大なメリットがある。しかも天候や時間帯に左右されないのだ。
 また、それとは独立して同じような物見の水晶球の像を使ってピンポイントに情報を取り出すための体制も整えられて、彼ら保守派の持つ情報戦略を大きく高めていたのだ。
 眞が、一歩間違えれば命を落としかねない危険な儀式を行って異界の魔術を身に着けてしまった事は榊原にとって胸の痛い事実ではあるが、その事が彼らにとって極めて大きな武器を生み出したのも事実であった。
 そしてその眞も独自の組織を構築して日本を蝕む闇と戦い始めていたのだ。

 対北朝鮮を最大の目標とする公安警察外事部捜査二課の課長、本間芳次は手元に届けられた資料を見ながら思わず溜息をついていた。
 この情報は彼ら公安の外事が喉から手が出るほど欲しい、しかし、今までは決して手に入らなかった情報だった。
 北朝鮮の対外工作機関である統一戦線が朝鮮総連の幹部に指示を出してきた原文である。恐らく、廃棄する予定だった書類をそのまま持ち出してきたのだろう。
 この書類の持つ価値と意味は、手にしている本間自身が怖ろしくなるほどのものがある。
 だが、あの少年はどうやってこのようなものを持ち出すことが出来たのだろうか・・・
 疑念が本間の心に浮かび上がる。
 あのiゼロjと名乗った少年の姿を思い出す。
 黒いシャツに黒いジーンズ、おまけに洒落た革靴の色まで黒だった。そんな黒尽くめの少年はサングラス越しの視線で本間の目をじっと射抜いていた。
「貴方に面白い資料を差し上げましょう」
 そう言って差し出された封筒の内容を見て、本間は全身が凍りついたような気がしていた。
 対北朝鮮のスペシャリストとして彼は当然のように朝鮮語を自由に読み書きできる。その内容を見ているうちに、この資料が統一戦線のしてきた過去の対日情報工作の総括資料、そして続く資料が今後の展開に関する計画書であることを悟った本間は、その意味を計りかねて混乱をきたしていたのである。
 これ程の資料を平然と提供する、という申し出に警戒が頭の中で鳴り響いていた。
 一体、何を求めているのだろう。
「貴方に求めているのは、我が国に対する忠誠心と歴史に殉ずる愛国心です」
 本間の心を読んだように少年が言葉を発した。
 笑い出しそうな言葉に、本間は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を見せてしまった。
「もし、貴方がこの国に対する忠誠心を示して、正しい対応をするのならば、更に価値の高い資料を今後とも提供しましょう。必要があるならば彼らに対する工作を行うこともiやぶさjかではありません」
「君は何者なんだ? これは一体、どういうつもりで持ち出された資料なのだ?」
 言外に、まかり間違えれば窃盗になるぞ、という警告を込めて本間は言葉を返す。
 くすり、と微笑を浮かべて少年は本間に応えた。
「私の名はiゼロj。この国を憂い、そして戦後の亡霊からこの国を解放するための戦いを率いる者」
 余りにも芝居がかった台詞に、本間は険悪な視線で睨みつける。
 戦後の亡霊から日本を解放する、という言葉の意味がどれ程のものか判っているのだろうか。
 敗戦国である日本に科せられた枷はそれほどまでに重く、厳しいものなのだ。
 GHQの方針で弱体化させられた警察の力が及ばないのをいいことに、朝鮮進駐軍を名乗って狼藉の限りを尽くした朝鮮人や、戦後に入り込んだ各国の情報組織の根は日本中に巣食っているのだ。その上で押さえられていた赤化革命を目指す共産主義者が市民団体と名乗って策謀することさえスパイ防止法案を持たない日本では手が出せないのだ。
「別に大した問題ではありませんよ」
 微笑みながら平然と応える少年に、思わず怒鳴り返しそうになるのを必死に押さえ込んだ。だが、次の瞬間にその少年の言葉を聞いて驚愕に目を見開いていた。
「この資料は朝鮮総連の幹部に持ち出させたもの。貴方も気付かれたと思いますが、これは偽造されたものではない本物の資料です」
 何だと・・・。
 自分の想像を超えた言葉に、本間は全身から冷たい汗が噴き出してくるのを感じていた。
 この喫茶店の中の空気が数度、冷え込んだような気がする。
(じょ、冗談じゃない・・・)
 これ以上深入りすると取り返しが付かなくなる、と本間の頭の中で警戒音が鳴り響いていた。
 少年の言葉が本当だとすれば、この少年は既に、少なくとも朝鮮総連の一部と統一戦線の内部に独自のスパイ網を築き上げていることになる。
「どうしますか?」
 本間は恐怖に頬を引き攣らせながら虚ろな目で少年を見ていた。
 もう判っていた。彼に逃げる場所はなく、そして拒否をする力は無いのだ。
「・・・拒否する権利は、俺には無いんだろう?」
 虚ろな声で本間は少年に尋ねていた。
「ありますよ、もちろん。もし、協力できないというのならば私は二度と貴方の前には姿を現さない。そして、貴方の邪魔もしません」
 あっけない言葉に本間は拍子抜けした表情で少年の顔を見詰める。
「脅迫して仲間になって頂く事に意味はありません。自らの意思で、この日本の為に戦っていただける方のみ、我々の仲間として迎え入れたいと考えています」
 脅迫された程度で意思を変えるような者は、同じように脅迫されれば裏切るだろう、と少年は言葉を続けた。
 男の心は揺れていた。
 いや、激しい嵐が吹き荒れていた、と言っても良かった。
 公安警察の外事専門家として海外勢力、特に北朝鮮の対日工作に直面している日常を繰り広げている本間にとって、彼らの図々しいまでの行動に憤慨しながらもそれをみすみす見てみぬ振りをしなければならない政治的な対応を繰り返している現状に胸を掻き毟らんばかりの苛立ちを覚えているのは誰よりも感じている感情なのだ。
 もし、少年に協力するのならば、少しは救いになるだろうか。
(まるで悪魔との契約だな・・・)
 そう思いながらも本間に抗いがたい誘惑が目の前にあるのだ。
 俺は・・・日本を愛している・・・
 出世のため、そして組織を護るために抑えてきた感情が本間の胸の中で暴れる竜のようにのたうっていた。
「判った。協力しよう。俺も、愛国者の端くれのつもりだからな・・・」
 その日から本間の元には夥しい情報が届けられる事となった。
 それは同時に彼ら公安警察がその謎の組織『プロメテウス』に対して、公安警察内部の情報をも差し出すことに繋がったのだが、本間が提供する事はなくとも彼らはそれを易々と手に入れることが出来ただろう。
 どうやら何人かの公安警察の幹部級の連中もプロメテウスに協力する事を誓ったらしい。
 ある意味で当然の事だといえる。
 例外はあるものの、公安警察や自衛隊の人間ほど愛国心を持つものはいない。そうした人間が、日本を蝕んで甘い汁を吸い上げようとする寄生虫のような連中に対して憤りを感じていない訳は無かった。
 だからこそ、立場が違うとはいえども自らの職責として日本に対する愛国者である自衛隊の人間が絡むこのプロメテウスの仲間となる事を決意したのだ。
 
 
 

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