~ 2 ~

 新宿の雑踏の中に足を踏み入れた紺野は人の流れに沿って歩き始める。
 いつ来ても猥雑な喧騒が広がっている、と感じられた。
 茹だるような暑さが街を包んでいた。
(やっぱ、地球温暖化って進んでるのかな?)
 などと他愛もない事を考えてしまう。こんな短期間で人が認識できるほど気温が上昇したらとんでもないことになる、と科学者から笑われるような意見だろうが、専門外の人間の認識などそんなものだ。
 待合場所に指定された喫茶店に入ると、窓際の席に彼を呼び出した張本人が座っていた。
「どうも、待たせちゃったようで」
 声をかけると小野寺はにかっ、と笑みを浮かべて手を伸ばす。
「いやいや、急に呼び出してすまなかった」
 とても日本の社会の暗部で戦っている調査員とは信じられないような明るい笑顔だった。
 アイスコーヒーを頼んで、紺野は席に着く。
 小野寺はレモンをたっぷりと絞ったアイスティーをストローで吸い込みながら、窓の外に視線を走らせた。
 紺野もちらり、と視線を向けたものの、特段に変わったものは無い。
「あのサンドイッチマン、中核派の勧誘員だ」
 ぼそり、と小野寺が呟いた。
「え?」
 紺野は思わず聞き返す。
 目の前に座る男は、紺野に向き直って答えた。
「中核派だけじゃない。隠れマルキストや過激派、カルト団体、奴等はどこにでもいる」
 その言葉を呟いた小野寺の顔には何の表情も浮かんでいなかった。
 そう言いながら再び、アイスティーを一口吸い込む。
「お前、感づいているな。一連の自殺、そして事故の件・・・」
 紺野は目の前に座る男の言葉に、やはり、この男も不可解に感じているのだ、と確信を持っていた。
「何が背後にいるのか、気になります」
 慎重に言葉を選んで答えた。
 しかし、その次に聴かされた言葉に、紺野は思わず飛び上がらんほどに驚いてしまった。
「殺された連中、あいつら裏で過激派と繋がってるんだよ」
“殺された!?”
 紺野は小野寺が「殺された」と明言した事に驚愕していた。
「あの教師達、日教組の中でも相当深く北朝鮮に入れ込んでいるグループに属していてな。最近良く起こされている無防備都市条例とか何とかなんて運動を展開しているMDS(民主主義的社会主義運動、「民学同」や「日本共産党親ソ派・日本のこえ」の流れを汲むセクトの大衆組織。民学同は大学紛争当時に東大紛争にも参加した過激派で公安にマークされている)とも関わりを持っていた」
 そして、ニュースキャスターや作家、評論家もまた同様に革マル派や中核派、連合などに深くかかわっている、いや、ある意味でそうした組織が表で動かすための操り人形だった。
 だが、そのような人物が次々に謎の死を遂げていることで、彼らを裏で操っていたり所属していた組織は激しく動揺しているらしい。
 また、公安警察は最近、渋谷などの繁華街で起きていると噂されている乱闘事件についても関心を抱いている、と小野寺は今野に告げていた。
 チーマーや不良グループがめちゃくちゃに叩きのめされ、その後、品行方正になるまで矯正されているのだ。その事は別に問題ではない。だが、その少年達は自分達を叩きのめした相手に対して素直に服従するだろうか。
 何か得体の知れないことが起こっていることに公安警察内部でも非常体制を敷いている様子が小野寺の態度に表れているような気がした。
 だが、流石の公安警察や優秀な刑事たちも魔法という異世界の力と技を用いて、人知を越えた能力を駆使する魔法使いと魔神による作戦によるものだとは想像すらもしていなかったのである。

 鞍馬真影流の道場は、調布市にあった。
 閑静な住宅街の中にある、かなり大きな一軒の家である。
 尤も、古流武術の道場だからある程度の大きさの稽古場が必要なせいかもしれない、などと悦子はぼんやりと考え込んでいた。
 しかし、その立派な御屋敷の雰囲気に負けて踏み込む勇気が出てこない。
 どうしようかと迷っている三人の背後から、不意に声がした。
「何か御用かの?」
 驚いて振りかえった三人の目の前に、いつの間にか一人の老人がたたずんでいた。
 悦子と智子ならともかく、亮は空手で全国大会で入賞した事もある。その亮が完全に背後を取られていたのだ。
 亮はその老人がただ者でない事を瞬時に悟っていた。
 (まるで気配を感じなかった・・・。もしかしてこの老人がこの道場の師範か?)
 それならば納得がいく。
 亮の背後を取れる人間がそうそう居るわけでは無いのだ。
「失礼ですが、ここは鞍馬真影流の道場でしょうか?」
 思いきって尋ねてみた。
 その質問に、老人は微かに眉を動かして微笑む。
「その通りじゃが、この道場に入門したいのかな?」
 最近はちょっとした古流武術ブームで、若者や女性も色々な道場に通っているらしい。
 だが、徹底した実戦主義を取る鞍馬真影流は殆ど知られていない影の武術である。そのような流派に入門したいと思う人間は、よっぽどの武術マニアか変人だろう。
 老人の目から見ても、声をかけてきた少年の才能は惚れぼれする程のものだ。
「いえ、自分達は友人を探しているんです。彼の名は緒方眞と言いますが、この道場に通っていると聞いてやってきました。自分は彼の友人で速見亮です。彼女達は僕達のクラスメートで、小沢悦子さんと岡崎智子さんです」
 その言葉は、老人には意外な響きだった。
 あの孤独な少年に、探そうとしてくれる友人がいたとは。
 だが、その少年は最近姿を現していない。
「眞君の友人か・・・。確かに彼はここの門下生だが、最近は姿を見せておらんのじゃ」
 微かに悲しげな声で老人は言葉を返した。
 その言葉はある意味で予想していた言葉だった。
 亮達はそれほどショックを受けたわけではないが、それでも微かな落胆を感じてしまう。
 しかし老人が続けた言葉は、完全に予想外だった。
「彼のクラスメートがもう一人、ここにいるからの。彼に尋ねてみると何か判るかも知れん。まあ付いて来なさい」
 その老人の後に付いて道場のある屋敷に入った三人は、応接間に通された。
 眞達のクラスメートを呼んで来る、と言って老人は部屋を後にする。
 最初は緊張していたものの、暫く経つとだんだん退屈になってきてしまった。
「ねぇ、ここに来てるって誰なんだろ?」
 悦子が退屈さに耐えられなくなったのか、智子に話し掛けた。
 智子もちょっと考え込んで、首を捻る。
「う~ん、想像も出来ないなぁ。こんなマニアックな道場に通っている奴なんて」
“知ってる?”と智子に視線を投げかけられた亮も肩をすくめて答えるしかなかった。
「マニアックな道場で悪かったな」
 不意に声が響いて、がらっと障子が開けられる。
 入ってきた彼等のクラスメートは、意外な人物だった。
「牧原君・・・?」
 悦子は驚いたように声を出した。牧原英二は確かに彼女達のクラスメートだが、同時に学校一の問題児なのだ。
 別に不良と言うわけではないが、教師からは素行に問題があると好かれてはいない。
 先日事故で死亡した深田も、牧原には手が出せないと言っていたほどである。
「俺も驚いたね。学校一のグラマー美人ちゃんが、あいつを探し回ってるなんてよ」
 その軽薄な言いまわしに悦子はむっとして言葉を返す。
「あたしも驚いたわ。あんたみたいな問題児が礼節を重んじる古流武術なんてね」
「言ってくれるね」
 目の前の美少女が、教師からも避けられている自分に皮肉を言い返してきたことに、英二は少しだけ驚いていた。
 だが、亮や智子はともかくとして、何故、悦子が眞を探しているのだろう。
 確か悦子の親友の高崎里香こそが、眞を最も執拗にいじめている張本人のはずだ。
「でもよ、意外だな。速見や岡崎ならいざ知らず、どうして小沢が眞を探し回ってんだ?」
 言外に、お前に探す資格があるのか、というニュアンスを込めて、英二は悦子に尋ねる。
 その微妙な言いまわしに気付いたのか、悦子はそっと瞳を伏せて答えた。
「ちょっとね。気になった事があるから」
 英二にしてみれば、悦子の行動のほうがかなり“気になる”のだが、取りあえずそれは指摘しない事にした。
 気になる、というよりはむしろ不可解と思える。
 下手をすれば、里香達から裏切り者扱いされかねないだろう。
 それに、眞が悦子の行動をどう思うかも判らない。感謝するよりも反発する可能性のほうが高いかもしれないのだ。
「だけどよ、思い切った事をするよな」
 ぼそっと呟いた英二の言葉の意味が判らなかった。
 不審げな表情をした悦子に、英二がぼそぼそと言葉を続ける。
「いやな、眞の事さ。アイツがいきなり行方をくらましてどっかにエスケープなんてな」
 それはそうだろう。そう悦子は感想を抱く。
 いや、悦子だけでなく智子も亮も同じ感想を持っていた。
 眞は一番おとなしい少年だと思われていたのだ。まさか、いきなり家出をして行方不明になるとは・・・
 だが、英二の次の言葉はその感想を軽く打ち砕いていた。
「ま、アイツらしいって言えばそれまでか。言っとくけどよ、本当の“緒方眞”ってのは、おめーらが知っているような奴じゃない」
「え・・・?」
 智子は思わず聞き返すように呟いてしまう。
 彼女は誰よりも長く眞と付き合いがある。その彼女が知らない“本当の眞”とは一体何なのだろう。
 その疑問を感じたように、英二は独り言のように言葉を紡ぐ。
「本当のアイツはな、化け物さ」
 そう言って、英二は圧し黙ってしまった。
 英二から見れば眞は文字通りの化け物だ。この道場の修練の中で眞と対戦した事があった。その時、英二は鞍馬真影流を習い始めて僅か二週間の眞に完敗したのである。
 英二とて、習い始めてから半年で目録にまで達した才能を持っている。その英二どころか、師範代の先輩でさえ眞には勝てない。
 眞は途轍も無い才能を秘めている。
 英二はそう認めざるを得なかった。
 そして、彼等の師範が眞を見て言った言葉がある。
『眞は鬼じゃよ』
 確かに眞と試合った英二には判る例えだ。
 眞の技は、強いとか優れているとかいうレベルを超えている。相手の動きを驚くほど正確に読み、自らの技を信じがたい巧みさで組み立てていく。その上で、圧倒的に“強い”。
 確かにあの時、師範代の技量は眞のそれを凌駕していた。
 当然だろう。
 十年以上も修行を積み重ねた人間の技が、いくら化け物じみた才能を持っているとはいえ、武術を習い始めて僅かに二週間の人間に劣るはずが無い。
 だが、眞はそれに打ち勝っていた。
 師範代の猛攻の中、ただ単に受けていたはずの眞が、一瞬の間に師範代に一撃を当てていた。そして、その一撃は師範代の心臓をあっけなく止めていたのだ。
 教わったばかりの“寸打”という技である。普通なら習得するのに三年は掛かるという難易度の高い技だが、眞は僅か三日でそのコツを掴んでしまっていた。そして、その一撃を師範代の左胸、ちょうど心臓の場所に打ち込んだのである。
 師範達が蘇生作業を行わなければ、彼はそのまま御墓に直行していただろう。
 その騒動の中、英二と師範は不意に、本当の眞は気の弱い少年ではなく、むしろ師範代の心臓を躊躇無く止めた“鬼”のほうなのではないだろうか、と思ったのだ。
 もし、本当に気が弱いなら武術なんか習おうとは思わないだろうし、ましてや相手の心臓を止めるような事が出来るはずが無い。それに、眞はその後でもいつも通りに道場に稽古に来ていたのだ。その時に英二は、もし眞があの気の弱さを克服したら、とんでもない事になると予感していた。
 もしかしたら、眞はその気の弱さと言う弱点を克服しつつあるのかもしれない。
 ふと英二はそう思った。
「で、牧原君は緒方君の居場所をしってるの?」
 気が付くと悦子が英二をじっと見詰めていた。その宝石のような瞳には何かの決意のような強い意思が伺える。
 だが、英二も知らない事は答えようが無い。
「いや、直接は知らん」
 その英二の答えに、やはり微かな落胆の色が悦子の瞳に現れる。
「あんたね・・・」
 知らないのに勿体ぶらないでよ、と続けようとした智子は、英二の次の言葉に息を飲んだ。
「ただ、奴は最近、渋谷の繁華街をうろうろしているらしいぜ。あと、それと重なる時期に結構な数のチーマーやチンピラがメチャクチャに叩きのめされているらしい」
 一瞬、部屋が静まり返った。
 余りにも現実離れしている話である。
「まさか・・・」
 辛うじてその言葉を口にした悦子に、英二も暗い表情で頷く。
 亮も智子も、驚愕の表情を浮かべたまま、絶句していた。
「俺も、最初聞いたときはなんの冗談だって思った。しかしな、それを可能にする奴、というよりはそれを出来る可能性のある奴がただ一人だけいる」
 一瞬だけ間をおいて、英二は言葉を続ける。
「“鞍馬の鬼”と異名を取る、武術を習い始めて僅か二週間で師範代を病院送りにした天才、緒方眞・・・って化け物さ」
 だが、理由が判らない。
 悦子が不安気な表情で英二に疑問をぶつけた。
「どうしてそんな事をする必要があるの?」
「俺が知るかい」
 英二の答えはそっけないものだった。
 だが、悦子にしてみればそんなにそっけなく済まされてはかなわない。
「あんたね・・・思いっきり心配している人を目の前にして、よくそんな態度が取れるわね!」
 思わずブチ切れそうになってしまう。
 しかし、亮はその英二の態度から、「これ以上は首を突っ込まないほうが良い」という無言のニュアンスを感じていた。
 だが、どうしてなのか判らない。
「牧原・・・お前、何か知ってるだろう」
 思いきって尋ねてみる。
 英二はその質問に微かに表情を変えた。
「知ってても言えんな。・・・知らねえ方が良い事もある」
 そう答えた英二の胸に、微かに苦いものが込み上げてくる。
 だが、悦子はそれでも必死に食い下がろうとした。
「どうしてよ!? お願い、知っていることがあるなら教えて!」
「うるせえっ!!」
 悦子の質問に、思わず英二も怒鳴り返してしまう。
 その鋭い声に、流石に悦子も一瞬、黙りこんでしまった。
 気まずい静寂が応接間に満ちていく。
 ため息を付くように、英二が力無く言葉を漏らした。
「俺も協力出来るならしてやりたいがな・・・。アイツの今の状況は危険すぎる」
 静かに呟く英二の言葉が、冷たく悦子の心に突き刺さった。
 英二は眞が徐々に変わり始めた理由を、ぼそりと語り始める。
「先月の事だけどな、俺は緒方を誘って新宿に遊びに出かけたんだ」
 悦子と智子はじっと英二を見詰めて話を聞いていた。
「まあ、俺はあのクソ真面目な緒方に、何て言うのか楽しみを教えてやろうと思ってな、歌舞伎町や西新宿なんかをぶらぶらしてたんだわ」
 悦子はあのおとなしそうな少年が、いかがわしい繁華街を歩いている姿を想像してしまい、微かに眉をしかめた。彼女にしてみれば、歌舞伎町という名前からは風俗店などのイメージしか沸かないのだ。
 その悦子に構わず、英二はどんどんと言葉を紡ぎだしていく。
「その時に、その、なんだ・・・」
 ちょっと歯切れが悪い言い方に、悦子と智子は微かに不安を覚えた。
「はっきり言いなさいよ!」
 苛立ちを隠しきれない声で、悦子が促す。
「・・・ドラッグ・ストアに行ったんだ」
 悦子は拍子抜けしたような顔で、何を深刻に話してんだか、と溜息を突く。
 だが、智子の表情ははっきりと強張っていた。
「あんた・・・まさか・・・」
「いや、俺達はリーガルしか遊んでいない。金も無いしな」
 亮もその二人のやり取りで、ようやく“ドラッグ・ストア”の意味が理解できた。
 そして、悦子も蒼ざめた顔で英二を睨みつける。
「そう言う意味の“ドラッグ・ストア”な訳ね・・・」
 英二も溜息を突きながら頷いた。
「ああ。まあ、あの界隈ではおとなしい部類なんだがな」
 英二は、別に眞に麻薬を教えこむためにそのような店に連れていったわけではない。少しだけ普段の鬱屈した状況から逃げ出したかっただけである。
 そして、その意味では合法ドラッグを楽しんでいる若者は少なくない。
 だが、その時に彼等に絡んできた馬鹿がいたのである。
 当然のように店中を巻き込んでの大乱闘になった。そして、その大喧嘩の最中に眞がついにキレてしまったのだ。
「あの後の惨状は俺も思い出したくねえな・・・」
 ぼんやりと呟くように言って、言葉を切った。
 悦子達は何も言えずに黙って聞いているしかなかった。
 その後、眞は姿を消したのだ、と英二が締めくくる。
 ただ、英二は東京各地にある裏の世界の勢力図が変わってきている事に眞が何らかの関わりを持っている事を確信に近い疑いを抱いていた。
「・・・これを見て」
 悦子は眞からのメールを英二に見せた。
 それを読み進めていくうちに、英二の表情が徐々に険しくなっていく。
「鏡の裏だと・・・。野郎、本気か?」
 ぼそっと呟いた英二の言葉が、やけに暗く響き渡った。
 悦子と智子は一瞬、顔を見合わせて英二に尋ねる。
「ねえ、それってどう言う・・・」「答えても良いがな、覚悟をした方が良い」
 英二は悦子の疑問を遮って、鋭い目で見詰め返した。
 その狼のような眼差しに、二人は一瞬、背筋に冷たいものを感じてしまう。
「え・・・?」
 反射的に聞き返してしまった。
 だが、英二はそれに答えず、じっと亮を見ていた。その恋人の横顔に目をやった智子は、その視線に息を飲んでしまった。
 亮は微かな笑みを浮かべていた。
 そして、その眼差しはまるで獲物を目の前にした猛禽の如き鋭い光を放っていたのである。
 狼と鷲、悦子と智子の目には、二人の姿がまるで危険な獣のように映っていた。
 英二は亮が彼の好奇心を刺激する程強い事に何処か闘争本能を刺激されている事を自覚していた。そして亮も、彼が今まで感じた事の無い衝動を覚えている事に微かな戸惑いと苛立ちを覚えていたのだ。
 理性ではない、戦士としての本能が戦いを欲している事に気付いて、亮も英二も自らの昂ぶりを抑え込んでいった。
 だが、自分達が納得する為には何時かぶつかり合う必要がある事も理解していた。
 理屈ではない本能がそれを欲しているのだから・・・
 その異様な気配を紛らわせるように、亮は悦子の質問を引き継いで尋ね返す。
「で、鏡の裏ってのは何なんだ?」
 英二も一瞬だけ亮を睨み返し、簡潔に答えた。
「鏡の裏ってのは、要するに世の中の裏っ側の事さ」
「世の中の裏・・・?」
 悦子は、その意味を図りかねたように戸惑いを口にする。
 英二は悦子を一瞬だけ見詰め、不意に目を逸らした。
 その仕草に、悦子は突然不安を覚える。
 だが、英二は不安気な表情を見せた悦子を無視して、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「世の中は綺麗事だけで出来あがってる訳じゃない。それにな、今、俺達が生きているこの世界も本当の所、いいかげんなでっち上げに過ぎねえ・・・」
 そう呟く英二の目には怒りにも似た鋭い光が伺い知れた。
 悦子は、その英二の姿と眞の置かれているであろう状況が、自分の想像を超えた事態である事に今更ながら恐怖を覚えてしまう。しかし、もう引き下がる事は出来なかった。
「さてと、これから不思議の国に眞を探しに行くとするか」
 英二はそう軽口を叩いて、先程までの深刻な様子が嘘のようににやにやと笑みを浮かべる。
 そして、悦子達三人も決意をしたように立ちあがった。
 
 麗子の自宅はとにかく大きい。
 それに、かなり年齢が上の夫は自分の人生の殆ど全てをつぎ込んできた日本舞踊に全ての情熱を注ぎ込んで、麗子のことなど完全に眼中に無い様子だった。
 元々、麗子の結婚生活は両親が日本舞踊の家元の地位を復興すべく今の夫との縁談を進めたものだった。夫も、北条家を盛り立てれば日本舞踊の家元の一つに就くことが出来るのと、北条家の資産が魅力的だったことにより、婿入りを決めたという経緯がある。
 だから、麗子の結婚生活には愛情は無かった。
 生まれて初めて、心から自分を曝け出して、受け入れられる、そして受け入れてあげられる関係を知ってしまった今、もう今後、今の生活を続けていくことができる自信は無かったのだ。
 その少年と結ばれることは無いだろう。
 年齢の違いや立場の違いは余りにも大きすぎる。
 だからせめて、自分の納得の出来る決断をしなければならないと考えていた。
 ところが、今はもう眞の協力者として秘密の基地を自宅の地下に作ることとその運用に力を貸しているのだ。家族を奪われ、孤独の身に追いやられた少年が、それを画策した勢力に対して復讐の戦いを始めたこと、そしてそれは戦後の日本を解放することを目指していることから、麗子はそれに賭けてみようと思っていたのである。
「これは戦争だよ。それに、負ける戦いに意味は無い。どんな手段を使ってでも、勝たなければ意味は無いんだ・・・」
 奇麗事を唱えて、ルールに準じて敗れることよりも反則を用いてでも勝つことが世界では絶対的な意味がある、と眞は麗子に教えていた。
 だから、眞はよく言われている日本の第二次世界大戦に対して『もう二度と過ちは繰り返しません』という言葉を、『もう二度と、負けるという過ちは犯しません。必ず、どんな汚い手段を使ってでも勝ちます』という意味で捉えている。
 必要なら、相手の国の人間をひとり残さず虐殺してでも勝つべきだ、と考えていた。
「そりゃそうだろう。大体、国際法違反の東京大空襲や広島、長崎という市街地に戦略爆撃を行って非戦闘員を何千万と殺している国がお咎めなしで、それをやられた国の後継政府が、それを引き起こしたのは国の責任だ、と突き上げられてるんだぜ?」
 眞はそうした鬱陶しい連中を次々に暗殺している。
 下手に襲撃して殺すのではなく、魔神の持つ暗黒魔法の呪文を用いて病気にして死に追いやっているのだ。
「証拠がなければ相手はどうしようもないからね」
 魔神は異世界の暗黒神の信徒である為、邪悪な神の奇跡を起こすことが出来る。その中には病を起こしたり、肉体を不具にさせたりする呪文も存在するのだ。
 癌や白血病を相手に引き起こしてしまえば、相手は文字通り死への一方通行を進むことになる。幾ら手術をしても、次々にその呪文をかけてやれば、いずれは限界を超えて死ぬことになるのだ。
 そうした方法で、日本中にいる活動家や売国奴を暗殺し始めていた。
 確かに怖ろしい勢いで活動家や革命家などが病死していることでそうした組織や外国の諜報組織などは怪しんでいるのだが、証拠がなく手段も想像できない以上はどうしようもないのだ。

 目に見えない存在が常に情報を探っている、というのは恐るべき戦略的優位性を齎す。
 それを実感しているのは眞自身だった。
 日本の政治の中枢は永田町と霞ヶ関である。国会議事堂で審議され、了承される法案は霞ヶ関の官僚がその筋書きを描いて、永田町の政治家たちの間で根回しが行われ、そして国会の審議にかかって了承されるのだ。
 そのため、眞はまず、永田町と霞ヶ関を掌握する必要を感じていた。
 手段は例によって魔神である。
 眞が使役する“姿なき魔神”ゴードベルは、更に古代語魔法の呪文を付与されてその能力を強化されていた。変身の能力で様々な動物に変身する能力を駆使して、人間では入れない場所にすら侵入でき、そして飛行の魔力で通常なら逃げ場が無い場所からでも脱出が出来る。そして、透視の魔力を駆使して隠れた相手や物を容易く発見して必要であれば暗殺し、資料や物資を盗み出すという工作活動を可能にしていた。
 まさか、このような手段で常に監視されて情報や計画が筒抜けになっているとは誰も気が付いていなかったのである。
 眞の後見人である自民党の重鎮議員の一人、榊原慎一郎は眞が突如、行方を眩まして何かをし始めたことで心配を隠せなかった。だが、眞が榊原に定期的に連絡をしてくる時の口調が妙に明るくなって楽しそうな声になっていることから、余り立ち入ったことを聞くのも問題だろう、と気に留めないようにしていたのである。
 もし、眞が何をしようとして、実行しているのかを知らされていたら、何が何でも止めていたかもしれない。
 しかし、国会の対策や永田町の妖怪どもとの息の詰まるようなiせめjぎ合いを繰り広げている榊原にはこれ以上、眞の行動に注意を払っている余裕は無かったのだ。
 午後から北朝鮮がミサイルを発射したことに対抗して、打ち上げ予定の情報収集衛星に対する予算の交渉があるのだが、外務省のチャイナスクールや文教族、そしてマスメディア上で格好をつけたい議員などがうるさく騒ぎそうなのは目に見えていた。
 既に財務省の担当からも予算を割きすぎではないか、という懸念の声が上がり始めていると聞く。
 やれやれ、と疲れた表情で初老の男は目を瞑った。
 六十歳にしてまだまだ赤ん坊、と評される永田町ではまだ若造とも言える年齢で自民党の重鎮として隠然たる影響力を行使できる榊原はある意味で特別な存在だ。それでも、一歩間違えれば政治的に命を落としかねないような毎日が繰り広げられているのだ。
 だが気になる情報も入ってきていた。
 東京都内でチーマーと呼ばれる不良少年達が抗争を繰り広げているらしい。
 そして同時に朝鮮総連や民潭の内部にも動きがある、との情報が流れてきていた。特に公安警察から上げられてくる北朝鮮内部や朝鮮総連内部の情報の量と精度が桁違いに上がっているのだ。驚くべき事だった。
 それは嬉しい驚きであると同時に、榊原の心に警戒心を引き起こしていた。
 何が一体起こっているのだ・・・
 美味い話には必ず裏がある。それは榊原が人生を通じて学んできた大原則の一つであった。
 
 
 

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