~ 1 ~

「あんたね~、あの緒方に惚れてた訳?」
 里香が呆れながら親友の悦子に尋ねる。
 遊びに行こう、と誘ってみたところ、行方不明の緒方眞を探しているから、との理由で断ってきたのだ。申し訳なさそうにする悦子に対して、里香はからかい半分で聞いてみたのだった。
 そして話を聞いているうちに少し興味を抱いていたのである。
 あの無気力無関心を絵に描いたような少年が、アンティークに興味を持っていて、しかも古武術を習っている、というのは知らない情報だった。
 それならば、何かをきっかけにしてあの無愛想極まりないクラスメートが少しでもマシな人付き合いを出来るようになる事を期待してみたくもなる。
 尤も、それは悦子に任せておくべきだろう、というだけの分別も付いている。アレだけ執拗に嫌がらせをしていた里香が掌を返すのは余りにもずうずうしいだろう。
 少し寂しい気がするが、もし、これでクラスの雰囲気がちょっとでもよくなるなら嬉しい話だ。
 深田剛が謎の事故死を遂げてから、学校では何か異様な雰囲気に包まれている。
 眞が失踪して、その直後に深田が事故死したことで担任の高科葉子は胃に穴が開きそうな毎日を送っているらしい。
 眞が失踪した直後、直ちに教育委員会から事情説明を求める連絡があり、緊急職員会議が開かれたのだ。その場で葉子は退職願を出す覚悟を決めたのだが、眞の後見人の一人である自民党の議員から「眞の事は心配しなくてもいい」との連絡があり、葉子の首は皮一枚で繋がっていたのだ。
 その直後に深田が事故死したのであるが、これは不可抗力の事故ということで葉子の責任には繋がっていない。
 ただ、極短期間の間に一人の生徒が失踪し、そして別の生徒が事故死するという重大事件が相次いだことから葉子には“くれぐれも”注意を怠らないように、との頼みが学長から為されていた。
 そういう事情で、今、葉子はかなり精神的にもピリピリしているのだ。
 それは同じく葉子が顧問を務める英文学部に所属している里香も肌身で感じていた事だった。
 区議を務める深田の父は激しく動揺して、学校に怒鳴り込んできたものの警察側の現場検証で純粋な事故であることが確定し、そして検視の結果、遺体からアルコール反応が検出されたことからビールか何かを飲んだ後で酔っ払って車道に飛び出したのだろう、という鑑定結果が出たことからしぶしぶ引き下がっていたのだ。
 深田の威を借りて我が物顔で学校を徘徊していた不良グループは、その深田の死に恐れをなしてすっかり萎縮しきってしまっている。
 そんな中で、普段ならヒステリックに大騒ぎをするはずのマスメディアが不気味なほど冷静で控えめな報道だけに留めていることの不自然さを見抜いているものは殆どいなかった。
 
 葉子はくたくたになって自分のマンションに辿り着いていた。
 学校では葉子のクラスの件は、まるで腫れ物に触るような扱いで教職員全員が異様なまでの緊張感を帯びているのだ。職員室では誰かがボールペンを落とす音にさえ飛び上がらんばかりの形相で全員が顔を向けるほどだ。
 そんな緊張感の中、葉子に対してはわざわざ自民党の大物議員自らが電話をしてきて「心配は要らないから、平常心で務めていなさい」と伝えてきたのだ。
 こんな不気味なことは無い。
 眞の立場やその重要性を知れば知るほど、本来なら一番強力に圧力を掛けてくるはずの存在から葉子を庇うような動きが見え隠れするのだ。深田の一件で、父親を黙らせたのもこの方向かららしい。
 教育委員会からもお咎めなし、という通達が来ている上に、それを面白おかしく報道しようとした週刊誌の記者からも「この件はニュース性が低いのでベタ記事扱いにします」という味気もそっけもない手紙が届いたのだ。
 何が周囲で起こっているのか判らないまま、聖陵学園の教師達は憔悴しきっていた。
 葉子は特にその問題のクラスの担任であることから針の筵に座らされているような有様だったのである。
 玄関でそのままへたり込みそうになりながら、葉子は自分を叱咤してリビングルームに辿り着いた。商社の重役である父親が自分が教師になって独り暮らしをすると告げたときに買ってくれたものだ。安いアパートでは心配だというのが理由だったが、その父の心遣いが嬉しかった。
 電話機を見ると何件かの留守番電話が記録されている。
 一件目は母からだった。
『もしもし葉子ちゃん。お母さんです・・・』
 クラスで起こっていることを心配して、葉子が理不尽な目に遭っていないかを心配する母の声に涙が出そうになってしまった。母親にこんな心配をさせてしまうなど・・・
 二件目は妹の芳枝からだった。
 同じように姉の事を心配して、いつでもいいから連絡が欲しい、とメッセージを残してくれていたのだ。そして次は父親からだった。
 忙しい父は滅多に電話をしてこないのだが、それでも流石に今回のことでは電話をしてきていた。
 ぎこちないながらも愛情の篭った父親の声についに葉子は涙を流してしまった。
「お父さん、お母さん、芳枝・・・。本当にごめんなさい・・・」
 自分の力がどれ程無力なのか、嫌というほど思い知らされていた。
 だが、その次のメッセージに葉子は飛び上がらんばかりに驚いてしまった。
「先生、僕です。緒方です」
 目を見開いて電話機にかじりついていた。
「心配をさせてしまって、本当に申し訳ありません。ちょっと事情があって学校をサボっていますが、来週には戻ります。別にトラブルに巻き込まれているわけではありませんし、面倒を見てくれている榊原のおじさんや弁護士の方とも連絡を取っています」
 理由があって、自分が行方不明になっているのを伏せておいて欲しいという手配をしたことが却って、葉子たちに心配と不用意な重圧を与えてしまった、と電話の声は詫びていた。
 いずれにしても、このトラブルメーカーは無事であり、後見人である榊原代議士にも連絡を取っているという事から問題は無いだろう。
 必要があれば、この留守電のメッセージを学校に持っていって教師達に聞かせれば、自分が無事でいることを証明できるだろう、と告げてメッセージは終わった。
 最期に、「本当に、先生にはご迷惑をおかけして申し訳ありません」との声を最期に、電話が切られていた。
 番号を確認すると、どうやらその番号は隠されているようだった。
 とにかく眞が無事で、来週には学校に戻るといっているので一安心である。
 だがそれでも謎は残る。
 どうして眞は急に失踪し、そして深田は何が原因で事故死をしたのだろう。
 頭が混乱してきた葉子はとにかく、眞が帰ってきてから考えようと気分を切り替えていた。

 伊達と眞の二人は自分達が動かす勢力を作り出すために様々な活動を始めていた。
 とにかく、強大な敵を相手にするには組織的な力も必要になる。そう考えた伊達と眞は自分達が自由に動かせて、尚且つ絶対の信頼と忠誠で結ばれた強固な組織を作り出すために動き始めたのである。
 その結果が渋谷や新宿などでのチーマー狩りだった。
 チーマーなどの無軌道に暴走する少年たちは、その鬱憤や慢性的な苛立ちから制御の効かない暴走をしてしまいがちだ。
 そうした少年達に喧嘩を吹っかけては完膚なきまでに叩きのめし、自分達が逆立ちしても敵わない相手であることを本能に叩き込んでしまうのだ。その次に軍隊式の訓練とマインド・コントロールで秩序だった動きが出来る強靭な部隊を創り出していったのである。
「ナンバー35、37、41。機材を片付けろ。ナンバー22と51はブリーフィング・ルームに来い。残りは通常の配置でオペレーションに復帰せよ!」
「了解しました!」「直ちに伺います!」「了解!」
 直立不動の姿勢になり、はっきりとした口調で返答を返す若者たちは、つい数週間前まで無秩序に暴れまわっていたチーマーだとは信じられないほど整然とした行動を取っていた。
 もっとも、ここに至るまで何回半殺しの目に合わされたか数えたくも無いだろう。
 ちょっとでも口答えをしたり、だらだらとした行動を取ったものは文字通り息をするのさえ辛く感じられるほどの過酷な「教育メニュー」を命じられたのだ。
 その上で徹底的に彼らの肥大化した自尊心を破壊するための理不尽な命令などを実行させ、既に彼らは自分達が只の部隊の一員であることを完全に理解している。
 チーマーに限らず、最近の若者は異常に自尊心が大きな者が少なくない。
 幼い頃から何不自由無い生活を行ってきた結果、自分ひとりでは何一つとして出来ないにも関わらず、異常に肥大化した自尊心の塊になってしまっているのだ。そのため、伊達と眞は彼らの自尊心をまず、完全に否定して自分達が何者でも無いことを徹底的に自覚させたのだ。
 殆どの若者は自分達の自尊心を否定されて発狂したかのように逆上した後で、その暴力さえも簡単に封じ込まれてしまったことを自覚させられて完全におびえ切った子供に退行してしまったのである。そうして異常な自意識を完全に否定した後で、各人をナンバー分けして名前ではなくナンバーで若者たちを呼び、そして命令を下したのだ。
 時にはいきなり、「その場で腕立て伏せ300回」というような意味の無い命令さえも実行させ、反論したり命令に従わないものは容赦なく鉄拳制裁を食らわせた結果、どんな命令でも言われたことを忠実に実行する兵士が育ちつつあったのである。
 それ以外にも眞はこれは、と目を付けたコンピュータのプログラマーやエンジニアたちをスカウトして、強力な技術部隊を編成したり、いわゆる『軍』を創り出すための活動を全力で行っていた。
 そのために必要な莫大な資金は、ハイテク・バブルに浮かれるアメリカの証券市場などで捻出し、巧みな資金洗浄を行ったうえで運用している。魔法を使って情報を得られる眞はかなり有利なやり方で運用できるために、莫大な利益を短期間に生み出していたのだ。
 既にチーマーだった少年たちは眞と伊達には逆らおうなどとは考えさえもしていない。圧倒的な力の違いを見せ付けられ、逆らうことや逃げ出すことさえ無意味だと思い知らされているのだ。
 それには眞の持つ古代語魔法の呪文の力と、それによって生み出された魔法の道具の力も大きい。
 眞も伊達も、拡大魔術の呪文とそれを肉体に付与する付与魔術の呪文を用いて特殊な能力を身につけている。そうした能力を駆使して、絶対の支配者としての立場を確立しているのだ。
 特に<飛行>の呪文や幾つかの呪文の効果を永続化して常に身に纏っている為、いつでも自由に幾つかの呪文効果を使うことができた。
 しかし、彼らにはまだ決定的に欠けているものがあった。それは魔法や特殊な能力を活用し、組織を運営することが出来る幹部の存在である。幾ら兵隊の数を揃えたとしても、その兵隊を現地で適正に運用できる指揮官が居なければ宝の持ち腐れだ。
 しかも古代語魔法は取得するのに恐ろしく時間と手間が掛かる。
 そのため、この組織を運営するのに必要な人材の育成に困難が予測されたのだ。
 それは眞と伊達自身が感じていた単独行動の限界を如実に物語っていた。
 強大な魔神の部隊を操っても、所詮、出来ることには限界がある。それを打破するためには実際に現実世界で彼らの指揮に従って動く仲間と組織が必要になるのだ。
「不味いな・・・」
 伊達が顔をしかめて呟く。
 確かに眞の魔法の能力を見て彼は大きな可能性を感じたのだが、如何せん眞一人では出来ることにも限界がある。兵隊の数が多くてもそれを的確に動かすことが出来る司令塔が居ないことに大きな行き詰まりを感じていた。
「魔法を使うことが出来る人材の育成は簡単じゃない」
 だが、時間は限られている・・・
 伊達はその言葉を口に出さなかった。
 眞はその伊達の横顔をじっと見つめている。
 彼らのいる部屋には、もう一つの人影があった。しかし、その大きさは驚くほど小さなものだった。
 いや、小さい、などというものではない。
 その人影は僅か30cmほどの大きさしかなかったのだ。
 嘗て東南アジアに住んでいたといわれているピグミー族や矮人症(ドワーフ症)の人間でさえ、このようなサイズではないはずだ。しかも、その人影は何も問題を感じないようにせっせとテーブルの上を片付けたり、眞の創り出した魔法の宝物を弄ったりしている。
 それはホムンクルス、という魔法で作られた生命体だった。
 眞の知る古代語魔法には人工の生命体を創り出す、という創造魔術の知識があった。それによって眞は数体のホムンクルスを創り出していたのだ。そして、極初歩的とはいえ古代語魔法を使う能力を与え、眞たちの補佐をするように命じていたのである。
 これだけでも眞の魔法を使う負担は大きく減る。
 こうした魔法の工芸品は単に使うだけでも上位古代語の知識を必要とするものも少なくない。本来、古代語魔法を使う魔術師が使うことを前提としているため、魔法を知らない人間が使うことなど想定さえもしていないのだ。
 だが、そんな魔法の宝物を使うためだけに眞の時間を浪費するわけにもいかないため、最低必要限の上位古代語の知識を与えたホムンクルスを作成し、彼らに魔法の宝物を操らせることでそうした問題を解決することを試みたのである。
 だが、その試みは完全には成功していなかった。
 確かに魔法の宝物を動作させることは出来るのだが、今度はそれを実際に運用し、現場でその情報や効果を運用できなくなってしまったのだ。やむを得ず、眞達は魔法の宝物を用いて得られた情報を無線を通じて送ることで何とか部隊の運用を行えるようにしたのである。
 また、比較的簡単に造りだせる『通話の護符』という魔法の宝物を用いて携帯電話やその他の無線技術に依存しない通信手段を確保していた。現代の携帯電話を用いるなど、相手に傍受してくださいと言っているようなものである。
 そうした装備の開発と訓練を重ねることで只の街の不良少年だった者達は次第に精強な兵士へと鍛えられていったのである。
 その傍ら、眞は具現魔術、という古代語魔法ではない魔術体系を開発していた。
 現代社会にも魔術、と称するものが存在していることは良く知られている。
 中世ヨーロッパの魔術だけでなく、日本にも陰陽道や密教呪術などがあり、安倍清明などに代表される呪術師の名は誰しもが聞いたことがあるだろう。
 そうした術は実際にはその効果を具体的に確かめることが出来ないため、しばしば科学者などによって批判される対象となっている。
 だが、眞は古代語魔法に死霊魔術があることに着目し、古代語魔法を補助としながら様々な術や基本原理を解き明かしていったのだ。
 基本的な使い魔の創造方法はこのように行う。
 訓練を受けた術者は、まず、一体、もしくは数体の霊を捕らえる、もしくは召還することから始める。
 この眞の編み出した魔法感覚の訓練は古代語魔法の補助をもってして確立した方法であり、非常に高い精度で魔法的な感覚を覚醒させることが出来るのだ。
 魔力を引き出すために魔法の紋章を精神に“焼付け”て、より容易く魔術の力を発動できるようにするのである。
 この時に用いる呪文は、呪歌と同様に上位古代語を織り交ぜた呪文であるが、本格的な古代語魔法ほどの強烈な効果を持たない代わりに誰でもその効果を発動させられる、という簡単なものだった。
 その呪文を繰り返し唱えることで次第に術者の精神に魔法回路が生成されていくのだ。
 この魔法回路が完成したものは、スプーンを捻じ曲げるなどのちょっとした超常現象なら魔術を用いなくても行えるようになる。その訓練期間は数ヶ月ほどかかるのだが、それでも古代語魔法を零から取得するよりも遥かに早く魔法を身に付けることができるのだ。
 そうして霊を捕らえたり召還した術者は、次にその支配した霊を“成長”させることになる。
 自然のままで捕らえた霊は、まず具現魔術師の役には立たない。
 人に不快感を与えたり、写真に写らせて心霊写真だと騒がせる程度のことが精々である。
 そのため、術者は捕らえた霊に霊的エネルギーや他の下級霊などを“喰わせて”成長させてやらなければならないのだ。下級霊を喰わせるといっても、現実世界で言えば人間が牛や豚を食べるのと同じで、取り立てて特別なことは無い。また、霊は時間が経つにつれて自然に崩壊し、壊れていくため、その断片などが漂っている場合がある。
 それを支配した霊に喰わせることでその霊の力を大きく成長させていくのだ。
 そして術者が満足するまで成長した霊を、本格的な“使い魔”にする作業がある。
 これは姿を持たない不安定な霊に、術者が姿形を与え、そしてその鋳型にあわせた能力や力を定めることで強い力を振るうことが出来る使い魔にすることが出来るのだ。
 この“転写”の作業を完了し、初めて強い力を持つ使い魔が誕生する。
 眞自身、魔術書『ゲーティア』からヒントを得て、ソロモンの72柱の悪魔の中から数体の悪魔を使い魔として“転写”し、使役しているのだ。それらの“悪魔”は恐るべき力を持っており、ある意味では上位魔神さえ凌駕するかもしれない、と眞自身考えているほどだった。
 そうした魔術を数人の優秀な人材に教授し、眞と伊達は彼らを幹部として組織を運用することを計画していたのだ。

 薄暗い部屋の中で、数人の人影が静かに深呼吸を繰り返していく。
 様々な意味で異様な光景ではあったが、それをしている等の本人たちは至って真面目で真剣であった。若者達はその明かりの乏しい空間の中で、しかし確かに自分達の感覚が研ぎ澄まされて、何かを感じ始めていることを自覚していた。
 抑揚の無い淡々とした声で低く響く旋律のチャントを謳いあげながら、その不思議な響きが自分の精神を覚醒させていく感覚を半分瞑想状態の意識の中で感じ取っていた。
 そのチャントはこの世の何処の国のものでも無い不思議な言葉で綴られて、何処か異国の詩を吟じるような響きがあった。
 眞はその光景を見ながら、全員の状態を注意深く観察していた。
 それは眞が編み出した魔法の詩であった。
 この魔法の詩は異世界の魔法の言葉である上位古代語で編されていて、詩自体に魔法の力がある。その魔法の力は謳う者の精神を解き放ち、魔法の感覚を覚醒させていく、という効果があるのだ。
 眞が見出した魔術を身に付けるために極めて重要な意味を持つ訓練として、若者達はこの魔法の詩を吟じていた。
「はい、そこまで」
 不意に発した眞の声で全員が我に帰ったように魔法の詩の詠唱を終える。
 現代の宗教や伝統的な魔女術などでも自らの意識をトランス状態に導いていくために単調な旋律の詩を歌いながら瞑想を行う場合がある。その場合も、余りにも長時間、瞑想に耽ってしまわないように監視者が注意を払う必要があるのだ。
 ましてや、眞の生み出したこの魔法の歌の場合、上位古代語という非常に強力な魔法の言葉の力を持っているため、必ず監視者が練習者たちの状態を見て、状況を判断してやる必要があった。
 その状態を自分自身でコントロールできるような人間など、眞以外にはいないだろう。
 眞はその超人的な精神力と特殊な才能があったために自己コントロールが出来たのである。
 トランス状態からいきなり現実の感覚に戻ってきた若者達は夢から覚めたようなぼんやりとした眼差しで空中を眺めていたが、やがて一人ずつ我を取り戻していった。
「どう思う、眞?」
 長身の男が眞に尋ねる。
 それは、新しい修行に進む段階に達したかどうか、という問いかけであった。
 伊達の問いに戸惑いの表情を浮かべる。
 初めて目にする眞の困惑した顔に伊達は微かな不安を覚えていた。
(やはりまだ連中には荷が重いか・・・)
 その伊達の心を読んだかのように、眞は慎重に考えながら言葉を返す。
「今の彼らには、まだ次の段階に進んでそれを完成させられるかどうか、正直言って慎重になるべきだと思います」
 そもそも、眞が異世界の古代語の魔術を身につけ、さらにはこの世界に伝わる魔術をより具体的な方法で実現可能な形に完成させた、という事自体が歴史に名を残すほどの大偉業なのである。それをそう容易く他人にやって見せろ、というのは無理や無茶というレベルではなく自殺行為に等しいだろう。
 だが、次の眞の言葉は伊達の予想を超えたものだった。
「ですが、魔術の取得に万全の準備はありません。虎穴に入らずんば虎児を得ず、とも言います。少なくとも、今の彼らにはそれを成功させられるだけの可能性と実力は備わってきていますから、やらせてみましょう」
 ヘタをすると今までの修練が徒労になる可能性さえもあるが、しかし、これで具現魔術を取得して使い魔の能力を操れる術者を誕生させられれば、それは大きな前進になる。
 少なくとも、眞以外に伊達は具現魔術を体得するのに成功しているのだ。
 その力の持つ意味と価値を考えた場合、リスクを犯してでも挑戦させる価値はあるといえるだろう。
 過酷な試練になることを予測して、伊達は自分達が鍛え上げている若者たちの成功を心から祈っていた。

 眞は自分が初めて具現魔術を完成させた瞬間のことを思い出して思わず苦笑してしまう。
 その日、手に開いた魔術書を見ることもせず、眞は呆然と目の前に具現化したはずの使い魔の姿を眺めていた。
 自分の予測では目の前には自分が思い描いた姿の使い魔が実体化しているはずだった。しかし、目の前にぼんやりと浮かんでいる姿はどう見ても彼がイメージして転写しようとしていた悪魔の姿とは程遠い、まん丸の直径1メートルほどの光の球である。
 少なくとも自分の考えたとおりのプロセスで使い魔の実体化を行ったはずだ。
 魔法回路という無意識の中に焼き付けた、集合的無意識の力と意識の接点を通じて引き出した魔力を通じて召還した霊を捕らえた眞は、それに膨大な気や浮遊霊、崩壊しかかった霊的なフィラメントを与えて強大な霊体へと成長させた後、その霊体を実体化させるために悪魔のイメージを転写し、その象徴とする力を引き出させるために『転写』という最終作業を行ったのだ。
 だが、目の前に浮かぶ光の玉は転写しようとしていた“悪魔”どころか、ぼー、と浮かんでいるだけで何の力も感じないのだ。
 動かすことは出来るので、命令を理解する知能はあると考えられるのだが、試しに念動力で物を動かさせようとしても、まるで何も出来ない。
 そして思い至ることがあった。
 転写をしようとした瞬間に眞は、どの悪魔を転写するのか迷っていたのだ。そのため、複数の悪魔の姿を意識してしまい、なおかつそれを一つにするために集中力を殺いでしまっていたのである。
「失敗だ・・・」
 やれやれ、数週間にも及ぶ時間と労力を無駄にしてしまった。そう思った眞は急に疲れを覚えてへたり込んでしまった。
 確かに具現魔術という試み自体が世界初の使い魔の実体化をさせる大魔術なのだ。
 かつてアレイスター・クロウリーという稀代の大魔術師と呼ばれる人物が友人の病を癒すためにソロモンの72柱の悪魔の一つである『ブエル』という悪魔を実体化させたといわれている。しかし、それでさえ実体化させた悪魔を永続化させることなどできずに、役目を終えた悪魔ブエルはさっさとこの世界から消えてしまったのだ。
 眞が試みていることは、それを遥かに凌駕する「悪魔や天使、精霊や魔神などを使役する使い魔に転写し、その力を自由自在に行使させる」という途方も無い魔術なのだ。
 もし眞の考えが正しいなら上位古代語の呪歌により覚醒され、無意識の中に魔法回路を形成した術者はより強力に、そして具体的に霊を支配し、使えるようになるはずだった。そしてそれは眞自身で成功させている。
 しかし、その使役させている霊を強力に成長させた上で具体的な姿と力を定めて具現化させる、という段階で失敗してしまったのである。
 もし成功していたとしたら、術者の魔法回路を通じて集合的無意識のレベルの膨大な力や霊的に高次元の影響力を行使できる使い魔として使役することが可能だったはずであり、眞も少し滅入ってしまったのだ。
 とはいえ、人類史上初めての試みでいきなり成功を収められる筈も無いだろう。
(やれやれ、またやり直しだな・・・)
 ぼんやりと考えながら眞は遅くなった晩御飯を食べるためにキッチンへと向かっていった。
 普段ならそれなりの物を料理して食べるのだが、今日だけはレトルトのカレーで我慢することにしていた。もう疲れきっていて料理をするのも億劫なのだ。
 沸騰したお湯の中にカレーのパックを浸して白いご飯を皿に膳そう。そしてカレーの袋を引き上げようとして手を滑らせてしまった。
「アチッ!、・・・っつ、しまったなぁ・・・」
 指先から滑り落ちたカレーのパックは見事に熱いお湯の中に再びダイブして、眞の右手に盛大に熱湯を引っ掛けてしまっていた。
 赤く腫れた右手がじんじんと痛みを訴えてくる。
 自分の迂闊さに呆れ半分怒り半分で火傷をしてしまった右手を冷たい水に浸しながら、思わず自分が具現化に失敗して役に立たない光の球に変えてしまった使い魔を恨めしげに眺めた。
「あ~あ、お前がもしブエルだったら、こんな火傷なんか一発で治せるのに・・・」
 そう眞が呟いた瞬間、光の球が揺らいで渦を描くように回転し始める。
(え!?)
 更に回転する速度を増して、遂には光の渦巻きのようになった光の球は、次の瞬間、全く別の姿を取っていた。巨大な鬣をもつ顔を中心に、車輪のような五本の蹄のついた脚を持つ魔人の姿。まさに、『ソロモンの小さな鍵』に記されている癒しの力を司る悪魔『ブエル』の姿そのものだった。
 驚きのあまり、眞は思わず口をぽかんと開けたままその姿を変えた使い魔をじっと見つめてしまっていた。
「なんで・・・さっきまで、ただの光の球だったのに・・・」
 我に返った眞は、とりあえずこの使い魔が自分の火傷を癒せるかどうかを試してみることにする。
 水から引き上げた右手はまだひりひりと痛みを訴えていた。眞はそのまま自分の使い魔に命じて火傷を治すように命じる。
「俺の火傷を治せ」
 その言葉に応じて五本の蹄を持つ悪魔は鷹揚に頷いた。そして次の瞬間、強い力が眞の右手を包み込み、そして一瞬にして痛みが消え去っていた。
 紛れも無く癒しの力だった。
 手を握ったり開いたりして、もう既に痛みを全く感じないことを確認した眞は、赤くなった皮膚も完全に元通りに戻っていることを認識していたのである。
(やった!・・・あれは失敗じゃなかったんだ・・・)
 かけこむようにカレーライスを食べた眞は、自分が実体化させた悪魔を調べるべく部屋に駆け戻った。
 そしてそれから一週間以上も費やして調べた結果、この使い魔は予め転写できるように記憶させた悪魔や天使、精霊などの任意の姿を具現化させ、その力を振るうことが出来るという能力を持っていることが判ったのだ。
 その能力は一日に一度しか使えないものの、その記憶させた姿と能力は何度でも使うことが出来る、という途轍もない能力である。ただ、一度特定の使い魔の姿を取った場合は24時間の間、その姿から他の使い魔の姿を取ることが出来ず、しかも、一度具現化した姿は次の72時間の間は再び具現化できない、という制限がある。
 そうした制限を考慮しても、ほぼあらゆる悪魔や天使、精霊を具現化し、その能力を行使できるようになる、というのは素晴らしい力であった。
 ただ、その後、数体の使い魔を具現化した眞であったが、この特殊な能力を持つ使い魔を再び創り出すことは出来なかったのである。ある意味では本当に偶然の産物なのかもしれなかった。
 しかしその能力の価値の高さを考えるとヘタに研究対象にしてしまうことも躊躇われたため、眞は『アカーシャ』と名付けたその使い魔を運用することにしたのである。
 もう既にアカーシャにはソロモンの72柱の悪魔だけでなく、様々な魔術書に記述されている悪魔や天使、堕天使などの姿と能力を記憶させて、必要に応じてその力を引き出せるようにしていた。
 この研究成果を資料として纏めて、眞たちはこの具現魔術の訓練体系とその運用をノウハウとして蓄積していったのである。
 それはマスメディアや様々な政府機関、民間組織に浸透して潜んでいる過激派などの『細胞』と対峙するために必要な能力であった。日本は法治国家であり、高度な警察力を持っているため、そうした政治力や民間団体としての圧力を身に付けた組織に対抗するためには、正面からの正攻法では膨大な労力と時間が必要になり、しかも危険さえある。
 またそうした組織はマインド・コントロールの技術や経済力、そして裏の暴力などをも活用してくるため、まともに対抗するのは至難の業であった。だからこそ、眞と伊達は魔法という彼らには知る術さえない力と技術をフル活用しようとしていたのだ。

 一人の若い男が早足で街の中を歩いていた。
 紺野恭介は最近起こっている不可解な事故や自殺に、何か引っかかるものを感じていたのである。確かに一つ一つは疑いの余地の無い事故や紛れも無い自殺だと断定できるのだが、それがこうも立て続けに起こるだろうか。
 事故も、運転手の説明によれば青信号を通り抜けようとした瞬間、被害者は彼の車を見ていないかのように道路に飛び出して車に惹かれてしまったのだという。確かに交差点に設置されている監視カメラや周囲の目撃者の証言からもそれらは完全に証明されている。
 ビルから飛び降りた者も、一人でビルの屋上に上っていくのが監視カメラによって確認され、そして不審な者が周囲にいた痕跡なども無かった。首を吊った自殺者は自宅の居間で首を吊っており、完全に施錠された家の中で自分から首を吊ったことは解剖の結果、明らかになっている。
 不審な点は無かった。
 唯一点を除いて。
 それは、彼らに自殺をする動機がまったく見当たらないことだった。
 教師達は、ある意味では最も安定した職業の一つである公務員であり、報道番組のアナウンサーやキャスターは高給取りの職業だ。そうした番組などにコメンテーターとして招かれていた作家や評論家も恵まれた環境にあり、政治家にいたっては言わずもがなであろう。
 そうした人々だけでなく、社会のあちこちで不可解な『死』が発生しているのだ。
 そう考えながら、紺野は不意に一つの共通点を見出していた。
「まさか・・・」
 死んだ教師達は日教組に所属していて、熱心な活動を行っていたとの調査結果がある。そして、ニュースキャスターはアナウンサー達は、いわゆる日本政府に対して強い批判を行うことで有名な報道局の、代表的な報道番組の担当であり、また、評論家や作家はそうした番組によく登場していた。
 そして、政治家達は労組と深い繋がりを持っており、その労組は中核派の隠れ蓑として公安当局がマークしていた組織の一つなのだ。
 そう考えた紺野は、全身の血が凍りつきそうな恐怖を感じていた。
(調べてみなければ・・・)
 もし、紺野の勘が正しければ、これは何か途轍もないことが背後で進行している可能性があるのだ。
 青い顔をして部屋に飛び込んで、一心不乱に資料を読み漁る紺野の様子を、同僚達は奇妙な目で見つめていた。
 だが、紺野は調べれば調べるほど、自分が感じた違和感が確固たるものに変わっていくのを自覚していた。
(これは自殺や事故なんかじゃない! れっきとした殺人事件だ・・・。しかし、どうやって・・・)
 紺野は確信を抱いていた。
 この不可解に連鎖している自殺や事故は、巧妙に仕組まれた大量殺人である。
 証拠は・・・無い。
 ただ、本能的に違和感を感じているのだ。
 しかし、これほどまでに物的証拠も状況証拠も残さずに、これだけの大量殺人をひっそりと、しかし着実に実効できるなど、恐るべき実力をもつ組織だといえるだろう。
 そう、紺野はこの背後に潜んでいるのは組織だと考えていた。
 個人でこんな事をやってのけるのは不可能だ。
 
 プルルル・・・
 
 不意に携帯が鳴った。
 紺野はその相手の名前を見て微かに眉をiひそjめた。
「はい、紺野です」
『よう、久しぶりだな』
 電話の相手がにこやかに話しかけてくる。その人懐っこい響きのある声に微かな警戒心を抱きながら、紺野は挨拶を返す。
「久しぶりですね、小野寺さん」
 小野寺は公安に所属する捜査員であり、特に中核派を追うスペシャリストだった。
 しかし、その小野寺が何故、紺野に電話をかけてくるのか・・・
 二人の間には決して親しみなど存在していない。
 ある意味では捜査課と公安は犬猿の仲だとも言えるだろう。しかし、お互いに相手を知っているからこそ、紺野と小野寺の間では情報を流しあったりするなどの協力体制を敷く場合も少なくはない。
 それでも紺野は決して公安当局に心を許すことはなかった。
 そもそも、公安-公安警察は国家に対する犯罪や脅威、すなわち公共の安全に対する犯罪を捜査し、秩序を維持するための活動を行うという特殊な任務を帯びた警察組織であり、その目的と性格から完全に紺野たち、いわゆる市民犯罪を捜査する一般の警察とは指揮系統さえ異なる。
 完全な機密体勢を維持するためか、公安以外の部署や組織と情報を共有することや活動を行うこともなく、当然のことながらその他の部門、特に紺野の属する捜査課とは折り合いが悪いのだ。
『ちょっと出てこれるか?』
 その言葉に紺野は戸惑った。
 おそらく暗に協力を要請しているのだろう、という事は推測できる。しかし、一体何の事件なのだろうか。
 こうしたイレギュラーな接触は今までに無かった。
 普通は、ある事件を追いかける途中で接触が図られる、というのが常だったのだ。
『すまんが、こいつはマル秘の件でな』
 その言葉に紺野は、小野寺が公式の捜査で動いているのではない、という確信を得ていた。そして、それが自分が調査を始めた件に関係しているのかもしれない、と推測していた。
 
 
 

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