~ 1 ~

 爽やかに教室を駆け抜ける風はもう初夏の雰囲気を帯びている。
 どこにでもある教室の光景に悦子は高校生活初めての夏休みが近づいていることで期待に胸を膨らませていた。親友の里香と一緒にプールに行ったり、カラオケや旅行など、やりたい事はいくらでもあるのだ。
 そして出来るなら素敵な彼氏を見つけて、充実した高校生活を送りたい。
 ふと窓の外からグラウンドを見ると、体育の授業でサッカーをしていた。
 一人の少年が素晴らしいフットワークでスライディングを避けた後、見事なドリブルで切り込んでいく。あっという間にゴール近くまで走りこんで、あっさりとシュートを決めた。
 サッカー部の速水亮。
 悦子と同じ新入生ながら既にサッカー部でレギュラーを決めている。それどころか彼は中学生のときに全国大会を2回制覇し、既に将来のJリーグのスター選手になるだろう、と噂されていた。
 そう考えながら、ふと後ろの席を見ると岡崎智子がふんわりと微笑を浮かべながら校庭を見ている。きっと亮を見ているのだろう。
 未だに彼女がサッカー部のヒーローである速水亮の恋人だとは信じられない。
 野暮ったい眼鏡をかけて、ファッションのセンスも無いオタク系少女の智子と爽やかな甘いマスクとすらりとした長身の亮がカップルだと誰も想像だにしていなかった。
「おー、おがっちゃん。風邪治ったん?」
 ・・・喋り方にしてから色気もへったくれもない。
 と思いながら、その言葉を掛けた相手が久しぶりに学校にやってきた事に気が付いて思わず視線を向けてしまう。
 燃えるような黄金の髪。亮と較べても見劣りしないほどのすらりとした身長と、美しく整った顔。
 絵画から現れたような美しい少年だった。
「ん・・・治った。これ、例の」
 モデルや俳優が裸足で逃げ出すような美貌をした少年は無愛想極まりない返事を返し、CDを智子に渡すとそのまま何も言わずに自分の席に着く。智子もひょい、と肩をすくめて少年の背中を見送っていた。
 神秘的な蒼と紫の瞳には、今は何の感情も浮かんでいなかった。
 先週、学校帰りの電車の中で見たぞっとするような怒りと憎しみの炎は、まるでそれが幻だったのかと思うほど完全に消えうせている。その代わりに微かに感じられるのは諦めの感情なのだろうか。どこか退屈そうに本を読んでいる姿は絵画に描かれた人物のように生気を感じさせなかった。
「あー、もうイライラする・・・」
 声を潜めて里香が呟いた。
 何故か、里香は眞のことを嫌っている。それこそ、執拗に攻撃を繰り返すほど・・・
 先週までは実際に、里香を中心としたグループで酷い嫌がらせを続けていた。それがぱったりと止んだのは悦子が電車の中で見た眞のぞっとするような怒りの視線と、その直後に都内の別の高校で起こった、虐められた少年による報復殺人の報道が原因だった。
 少なくとも、それが落ち着くまでは眞に対して虐めを仕掛けることはなさそうだった。
 それに、この数日学校を休んでいた少年の身に纏う雰囲気が何処と無く変わった気がする。何と言うのか、オーラが変わった気がするのだ。どう言葉にしていいのか悦子自身も良くわからないのだが。
 何よりも夏休みを目前にしてそわそわと活気付いているクラスの雰囲気に飲み込まれて、次の瞬間にはもう眞の事は頭の中から消えてしまっていた。

 気だるげな眼差しで、眞はぼんやりと窓の外を見ていた。
 面白くも無い授業を聞いていても、眞の心には何の感慨も浮かんでこない。だが、日本の蒸し暑い夏を思い起こさせる初夏の陽気が眞の心の中にある懐かしくも哀しい光景を呼び起こしていた。
 鬱蒼と繁った熱帯雨林。
 見たことの無い鳥が密林の上空を飛んでいき、泥濘をガタガタと揺れていくトラックの荷台にひしめき合うように乗り合った様々な国からやってきた人たち。
 眞の隣に寄り添うように座って微笑みかけてくる小麦色の肌の少女。
 まるで夢物語のような現実から離れた世界。
 だが、その幸せな時間はあっけなく壊れてしまった。
 玩具の立てるような軽い音は、しかし、その弾き出した小さな鉛の塊に人の肉体を粉砕するのに十分すぎるほどの破壊力を与えていた。
 その光景が思い出されようとした瞬間、眞の心は過去の光景を遮断する。
 これ以上、想いにのめりこんでしまったら、何をしでかすか判らない。
 それに・・・
 そんな事をしても、彼女は還って来ないのだから・・・
 絶望が眞の心を澱んだ汚水のように蝕んでいた。
 全てがどうでも良かった。
 生きている事、それは眞にとって唯の苦痛でしかなく、全てが疎ましいだけだった。
 その眞の退廃的な心を敏感に察知しているのか、クラスメートの女の子は執拗に眞に苛立ちをぶつけてくる。だが、それも鬱陶しいと想う事すらなく、眞は完全に無視していたのだ。それが益々その少女の癇に障るのか、苛立ちは益々加速していくようだった。
 担任の女教師が心配そうにしてはいても、どうしても腫れ物に触るような対応になるのは仕方が無いだろう。
 この出来の良すぎる問題児を扱うには担任の女教師は若すぎる。
 綺麗な、しかし生命感を感じさせない横顔を見ながら、高科葉子は心の中で頭を抱えたくなっていた。
 問題行動を起こすわけではないのだが、これほどまでに無気力で何にも関心を向けようとしない少年だと指導の仕様も無い。かといって放っておくのも問題だった。
 他の教師や校長、教頭からもくれぐれも慎重に対応するように、と耳にたこが出来るほど聞かされている。その理由を聞いて血の気が引いたのだが、今更担当するクラスを変えてもらうことも出来ない。
 理解できているのは、万が一のことがあったら彼女のiくびjでは足りないどころか、下手をすると東京都の教育委員会も無傷では済まないだろう。何らかの理由をつけて何人か堀の向こうに送り込まれるだけで済んだら僥倖だ。
 それどころか、同じクラスには深田剛という少年もいる。
 これが文字通りの札付きの不良少年だった。
 彼の父親は東京都の都議であり、その影響力の強さから学校内でも誰も口出しが出来ないのだ。その為、教師たちも同じように腫れ物に触れるような扱いをせざるを得ない。
 とんでもないクラスだった。
(撚りにも拠って、何であたしのクラスなのよ~!)
 泣きたくなる。
 それに追い討ちを掛けるように、社会化の教師は眞を親の仇を見るような目で見て、陰湿な嫌がらせを繰り返しているとの噂が流れているのだ。社会化の教師は相当に左側に偏向した人物であるため、政治家、特に自民党の重鎮の一人だった故緒方副総理の孫息子という眞は思想的な敵の孫息子とでも呼ぶべき存在なのだろう。
 別に教育の理想に燃えて英語教師になったわけではなく、英語を教えるのが好きだったという理由だけで教師になった葉子には荷が重いクラスなのは目に見えていた。
 それでも投げ出す事の出来ない生真面目な自分の性格を恨めしく思いながら、笑顔を浮かべて教科書を読む葉子の姿からはどこからもそのような悩みは感じられなかった。

 悦子はのんびりとお風呂に浸かりながら始まったばかりの高校生活の事をぼんやりと考えていた。
 高校に入って彼氏が出来て、素敵な高校生活が送れたらいいな、とつい数ヶ月前まで考えていたのだが、現実には高校に入ってからも中々上手いようにはいかない。
「あたしって、思ってたよりもブスなのかな・・・」
 まあ、担任の高科葉子ほどではないにしても、それなりに悪くないと思ってるのだが、どうも男には縁が無い。
 時間が解決する問題だと思いたいのだが、クラスの男子も中々ぱっとしない連中だし・・・
 そう思うと少し悲しくなってくる。
 都内でも有数の進学校だけに、ガリ勉型が多いのは仕方が無いのだろうか。
 スポーツマンの速水亮は早々に岡崎智子とくっついてしまったし、何人かのスマートな感じの男にはとっくの昔に彼女が出来ている。
 唯一、ルックスが良くてスポーツを軽々とこなすような男は例の緒方眞だけだ。だが、あの醒めきった無表情と人を拒絶する無愛想さは隣にいるだけでも空気が重く冷えてきそうだ。
 オタク系ながらも智子や、亮が友達付きあいしているのが信じられない。
 スポーツをやって、明るく笑えば全校レベルの人気者になりそうなものなのだが、本人はそんなものを全く気にしないで吹雪の真っ只中にぽつねんといるのだ。
 一度だけ見た信じられないシーンが目に焼きついている。
 体育のクラスで行われたサッカーのミニゲーム。
 ボールをパスされた眞が気だるそうにドリブルを始めた瞬間、背後から猛烈なスライディングでボールをカットしようとした体育会系の男子がいた。反則なのだが、思いっきり眞をひっくり返らせようとしたのだろうか。
 だが、眞はその背後から迫ってきたクラスメートのスライディングを、まるで後ろに目が付いているかのように軽く跳んで避けて、そのまま一瞬でディフェンダーを掻い潜ってシュートを放った。ゴールポストを外れるか、と思われた瞬間、そのボールは鋭くカーブをして見事にゴールネットに突き刺さっていた。
 しかし、眞は感心なさげに呆然とするクラスメートに背を向けて自分の位置に戻っていったのだ。
 あのときの動きは、亮の動きに匹敵するか、それを上回るほどのものだったように思う。
 考えれば考えるほど悦子の頭の中には疑問がわいてくるのだ。
「良くわかんないな・・・」
 独り呟く。
 思った以上に大きく浴室の中に木霊して、悦子は自分でも驚いていた。
 それに親友の里香が眞に対してだけ向ける敵意が何故なのか理解できなかった。普段の、そして今までの彼女は一度として人にこれ程の敵意を向けて当り散らした事など無かったのだ。
 本人にそれとなく尋ねてみても、困惑した様子で「だって、妙にイライラするのよ・・・」と本人も制御できない自分の感情に戸惑いと不安を抱いている様子だった。
「悦子、ご飯が出来たわよ!」
 母の呼ぶ声が聞こえた。
 ずいぶんと長い間、お風呂に浸かってしまっていたようだった。
「今出る~!」
 そう言い返して、悦子は湯船から身体を引き上げた。

 亮は眞が武術を習い始めた、と聞いてほっとする気持ちと同時に不安が心に湧いてくるのを感じていた。
 何をするにしても関心を示さない眞が何かに興味を持って打ち込み始めたのはいい。だが、それが武術である事に亮は心配を感じてしまうのだ。
 普段、クラスメートに虐められている事から自分の身を護るために武術を学ぼうとしているのだったら、それは最悪の結果を招きかねない。眞自信だけでなく、クラスメートも傷つけて取り返しの付かない事になることも考えられた。
 最悪、亮はその間に割ってはいる事も考えなくてはならない。
 だが、本当にそれは可能なのだろうか?
 あのサッカーの授業の日、一瞬だけ見せた信じられない眞の動き。
 もし、あの動きをそのまま武術の体術に反映させられるなら、亮は戦って勝てる自信は無かった。
 何度か眞の部屋に遊びに行ったことがあるが、いつも感じるのはひんやりとした生活感の無い空間だけが印象に残っている。良く出来た映画のセットのような、無造作に置かれた雑誌さえ、もしかしたら誰かがわざとそのように演出しているのでは、と思うようにさえなるのだ。
 眞が身に纏う人を寄せ付けないオーラは冷たく他人を拒絶し、そのためか、誰にでも優しく接する亮の妹も眞の事を避けていた。
 それ以来、眞は二度と亮の家には立ち寄ろうとしなかった。
 亮は父親から眞の身に何が起こったのかを聞かされて、その事に完全に言葉を失っていた。亮の父親は眞の父親と同級生であり、それなりに仲の良い友人だった。いや、今でもその友情は変わらないだろう。
 だが、眞の家庭は些か複雑なものだったのだ。
 祖父は当時の自民党におけるナンバー3、副総理をも務めた緒方麟太郎という大人物である。戦前から脈々と日本の政界の中心にいた名門であり、その一人娘と結婚した眞の父親は怖ろしく窮屈な生活を余儀なくされていたらしい。
 そうした政治的な世界を嫌って考古学の研究に情熱を捧げていた眞の父親が、そんな人物を父親に持つ美咲と結婚したのはある意味では皮肉であり、同時に悲劇の始まりでもあった。
 麟太郎は初孫の、そして結果として唯一の孫となってしまった眞を自らの後継者にすることを望んだのだが、眞の父親の敬介はそれを嫌って緒方家には近寄ろうとしなかったのである。だが、その敬介自身が実の父親が戦後に皇籍離脱を余儀なくされた旧宮家の人物だったのだ。
 そのような煩わしい関係から離れて、独りで気楽な研究活動を望んでいた敬介にとっては、その血筋を利用しようとするかのような義父の考えは嫌悪の対象にしかならなかったのだろう。
 そうしたiまつりごとjから少しでも遠く離れようとしたのか、敬介は幼い眞を連れてよく海外の遺跡の発掘作業や調査に出かけていた。
 だが、数年前に訪れたコスタリカで悲劇は起こった。
 反政府共産ゲリラに襲われた調査隊は眞を除いて全滅。
 しかし、不思議な事にその襲ったはずのゲリラも逃げ出した様子が無く、また、そのリーダーである国際指名手配をされていた男はフル装填された銃軽機関を手にしながら無抵抗でi・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・j眉間を打ち抜かれて死亡し、一人たりとも脱出した痕跡が無いにも拘らず、残りのゲリラは死体すら残っていなかったのである。
 そんな過酷な経験をしてしまった少年の心がどれ程傷ついて、心を閉ざしてしまったのか想像する事さえ出来なかった。追い討ちを掛けるように緒方麟太郎も検査のために訪れた病院で急死したのだが、それにも深い疑念が見え隠れしていたのである。
 正直なところ、いい加減にしてくれ、と亮自身が頭にくるほどの出来事が眞の身の回りには多すぎたのだ。
 独りで全てを抱え込んでしまったような眞の姿が余りにも不憫に思えてならなかった。
 亮自身は眞がどのような背景を背負っていようが気にしない。元々そんな事を気にするような性格ではないのだが、世の中は彼のような性格の人間ばかりではない。
 日教組の活動に熱心な社会科の教師などは、執拗に眞に対して陰湿な嫌がらせを繰り返していたのだ。
 何時の日か、眞がそんな煩わしい事から開放されることを願いながら、亮はそれが余りにも儚い願いだと思い知らされていた。

 かさ・・・
 軽い頁を繰る音が部屋に響いた。
・・・魔神を召還し、使役せし時は魔力の場に留意せし。魔力によって拘束されぬ魔神が解き放たれんと画策せし場合、それに対し異なる魔力によって干渉をせんとすると召還されし魔神自身の崩壊のみならず場の崩壊をも誘発せし事あり。なるほどね。召還の瞬間は特に魔神が安定する直前だから、不用意に刺激を与えるなって事か」
 眞は異界の言葉で書かれた書物を丹念に読みながら、一言々々確認するように読み上げる。
 不意にあの日、アンティークショップで見つけた異界の魔法書のことを思い出す。
 いつもの習慣で通いなれたアンティークショップに飛び込んだその日、少年は積み上げられた本の中に奇妙に好奇心をそそられる一冊の古書を見つけていた。
 ぱっと見たところ、何処の言葉なのかさっぱりわからない言葉で表題が書かれている。英語でもなければフランス語や少しだけ知っているスペイン語でもない。それどころか書かれている文字はアルファベットのような文字でもなかった。
(何だろう?ヘブライ語とかアラビア語なのかな?)
 そう思いながら手にした瞬間、眞は自分の目を疑っていた。
 一瞬、ぐにゃり、と文字が変形したと思った瞬間、その文字が日本語に変わったのだ。慌ててその本をテーブルに置いたところ、その文字は再び元の意味不明の言葉に戻っていた。
 きょろきょろ、と周囲を見渡し、オーナーの老人が見ていないことを確認して、思い切って再びその本に手を伸ばす。
「やっぱり、錯覚じゃなかった・・・」
 驚きながら眞はその本のタイトルが変化していくのを見つめていた。
 そしてその表題を読んで、思わず驚きの声を上げそうになってしまった。何とか声を押さえ込み、ほっと一息をついて眞はその表題を読み返す。
『魔神を統べる者の書』
 間違いなくその表題にはそう記されていた。
 少しの間、本を手にしていた眞はやがて、意を決したように厚い古ぼけた革表紙を開く。その中でもはやり、眞の目に留まった瞬間に自分の役目を思い出したかのように文字が形を変えて日本語に変わっていく。
(これって、本物の魔法書じゃないのか!?)
 RPGなどもやり込んでいる眞だったが、まさか本物の魔法書があるなどとは信じられなかった。しかし、どう考えても今の科学技術でこのようなものを作り出すことなど出来ない。
 最初の数ページだけ読んでみたところ、この本の著者は大真面目に異世界のことについて論じている。
(凄い!この本、幾らだろう?)
 いつもなら背表紙の裏に値段のシールが張られているはずなのだが、この本には値段が張られていなかった。変化する文字といい、この古ぼけた装丁といい、もしかすると恐ろしく値の張るものかもしれない。
 そう思いながら、眞は店のオーナーに訪ねる。
「すいません、この本ですけど、幾らなんですか?」
「どれどれ」
 眞は一瞬だけ本を手渡すのを躊躇していた。
 オーナーが、この本の文字が変化するのを見たらびっくりしてとんでもない値段を言ってくるかもしれない。
 しかし、オーナーは白い軍手に包まれた手で本を受け取りながら首をひねるだけだった。
「はは、うっかり値札を付けるのを忘れてしまったようだよ。そうだな、この本は・・・2千円でどうだい?」
 その言葉に眞は驚いてしまった。
 こんな豪華な装丁の本がたったの二千円?
 しかも、オーナーには文字が変化して見えないのだろうか?
 だがオーナーの微笑みはそれが冗談でないことを物語っている。二千円なら今もっている小遣いでも十分に変える値段だ。
 眞は躊躇無く返事をしていた。
「それじゃ、買います」
 財布から千円札を2枚取り出して、オーナーに手渡す。店の主人がキャッシャーにそのお金を入れて領収書を書いているのを眞はどきどきしながら見ていた。
 もし、オーナーの気が変わって売ってくれない、となったらどうしよう。
 しかし、眞のその不安はあっけなく安堵に変わっていた。
 主人が領収書を眞に手渡して、微笑みかけてくる。
「はい、それじゃこれが領収書だよ。また何か欲しいものがあったらおいで」
「ありがとうございます。それじゃ、また」
 眞は思わず駆け出して店から飛び出しそうになるのを必死で堪えながら扉を開く。後ろ手に扉を閉じるのがこれほど緊張したことなど今までに一度も無かった。
 家に帰った眞はじっとその本を読み進むうちに、次第にその本が本物の魔術書であることを理解し始めていた。と同時に得たいの知れない不気味さが心を満たしていった。
 突然、コードレスの電話が鳴り響く。
 驚いて飛び上がりそうになってしまった。
 荒くなった息を落ち着けながら映し出された番号を見ると、そこには亮の家の番号が映し出されていた。
「もしもし」
「おう、眞か」
 気軽に話しかけてくる亮の明るい声に少しだけ癒されながら、眞は少しの間だけおしゃべりを楽しむ。
 少しだけ気が楽になった眞はその不気味な本を本棚にしまいこんでいた。
 とはいえ、その不気味な本を上手く使いこなせれば途轍もない力になるだろう。
 そう考えると捨ててしまう気にもなれない。踏ん切りがつかないまま、眞はその本を眺めていたのだ。
 魔神、という異界の怪物を召還して使役する事が本当に倫理的にも正しい事なのかどうか、という悩みもある。そんな事を悶々と考えながら、眞はその魔術書を少し読み進めては本棚にしまう、という事を繰り返していた。
 だが、眞に禁断の行いを実行させてしまう出来事が起こっていた。

 それから数日後、帰りの電車に乗り込んだ瞬間、眞は気が滅入るのを実感していた。
 よりにもよってクラスメイトの高崎里香が親友の小沢悦子と共にけたたましく喋っていたのである。里香は眞に対して執拗に嫌がらせを仕掛けてくる張本人だった。しかも何故か他のクラスメートにはあっけらかんとして振舞うせいか、妙にクラスメート全員に人気がある。
 口数が少なく、人付き合いが苦手な眞とは正反対のタイプだった。
 その為なのだろうか、眞に対して辛辣な言葉を平気で投げつけてくる。
 結果として眞はクラスメートの中で浮いた存在となってしまい、さらには陰湿な虐めの対象にもなってしまったのだ。
 自分の殻に閉じこもるように賑やかな二人の少女に背を向け、窓の外に街に目を向ける。電車から降りて隣の列車に移ろうとしたのだが、帰宅ラッシュの時間帯にそんな事が出来るはずがない。
 あっという間に電車の中に閉じ込められた眞は出来るだけ二人と無関係になろうと心を閉ざしていく。
「あーあ、ついてない。よりにもよって緒方の近くにいる羽目になるなんて!」
 そんな眞の意図を踏みにじるかのような高く通る声が響いた。
 吐き捨てるような里香の辛辣な一言に思わず肩がぴくり、と動いてしまう。
 だが、何も言わずにじっと心を閉ざしている眞に里香の可憐な口から次々に眞を罵り、蔑む言葉が投げつけられていた。
 その言葉を聞き流しているうちに徐々に眞の心の中に灼熱の感情が沸き起こっていく。
 怒りが眞の心を満たそうとしたその瞬間、眞の心の中で懐かしい、そして悲しい声が響き渡った。
『マドカ!だめっ!!』
 透き通るような、愛情に満ちた声が怒りに燃え上がり始めていた少年の心を急速に冷やしていく。
 誰よりも大切な、しかし、もう二度と会うことが出来ない少女の面影が心を過ぎていった。怒りに変わって眞の心に深い悲しみと絶望感が広がっていく。もうクラスメートの罵りの言葉は眞の耳には届いていなかった。
 静かに心を閉ざした眞は、もう周囲の雑音に関心さえ見せずにじっと窓の外を流れる街の光景に視線を向けていた。
 夕焼けに照らされた街の光景がどこか現実感を失った映画のシーンのように見える。
 深い真紅の輝きに照らし出された光景は何故か血に染まった世界を連想させていた。
 
 
 

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