~ 2 ~
まだ周囲は薄暗かった。
空が淡く輝きを取り戻していくその時間に起きているのは農夫ぐらいのものだろう。 そんな中、一人の若い娘が祈りを捧げていた。 彼女は信じていた。 夜が開け、そして光り輝く昼の世界が始まる瞬間こそファリス神に祈りを捧げるのに相応しい時間であると。 「偉大なる光の神、ファリス神よ・・・どうか貴方様の偉大なるお力であの方を御守りください・・・」 それはフォーセリアの光の神の主神たるファリスに願うには些か問題があったかもしれない。 彼女が願っているのは異世界よりこのフォーセリアに現れた少年であり、そしてファリスを信奉する騎士団を討ち破った張本人の守護なのだから。 だが、ルーシディティにはファリス以外に祈りを捧げる相手は居なかった。 魔法の宝物に封じられていた炎の精霊王を打ち破り、その反動でこのフォーセリアから消滅した眞は、彼の生み出した『フレイア』によって遥か遠い世界に落ちた事が確認された。 だが、その救助作業は遅々として進んでいなかったのだ。 特に此処まで遠く離れた世界に救助の手を伸ばすというのは今の彼らには手に余るほどの困難である事が智子から聞かされている。それを諦めずに試行錯誤を繰り返しているのが現状なのだ。 静かな夜明けを見ていると、今の騒乱や各地で起こっている不穏な兆しがまるで現実ではないように思える。だが、それは唯の錯覚だ。 今も世界のどこかで人が死にゆき、そして悲しみの涙は世界から途切れる事が無い。 世界はどうして悲しみで満たされているのだろうか。 その瞬間、ルーシディティの脳裏に優しい、全てを包み込むような暖かい声が響き渡った。 “だが、世界にはその悲しみを憂うもの達がいる・・・” そして彼女の視界が光で満たされていく。 “悲しみを知らなければ人は幸せが何かを知る事は無いだろう・・・” “光は真実を照らし出し、そして人は光の中でこそ幸せを見出せる・・・” だが、その光景が急速に色褪せていく。 何時の間にか世界は冷ややかな光景に変化していた。 疲れ切った人々が力無く俯き、そして家畜たちも草を食む事無くやせ衰えている。悲しい世界だった。誰もが疲れて苛立ち、しかし無力と絶望に打ちひしがれているにも拘らず、お互いが目に入らないかのように手を差し伸べあおうともしない。 “もし世界が偽りに満ちてしまえば人々は真実を見失い、何を信じてよいのかをも見失うであろう・・・” そして疲れて色褪せた世界はルーシディティをも包み込んでいた。 悲しかった。 何よりも、信じる事のできない偽りに満ちてしまった世界が怖ろしかった。 光に向かって祈りを捧げる。天にある、しかし遥かに遠い光に届くように、ルーシディティは必死に祈った。 やがて彼女の祈りは小さな光となって周囲を照らし始める。だがまだ小さすぎた。 ふと気が付くとあちこちで小さな光が灯り始めていた。 少しずつ光が増えていく。だが、それに気付いた空虚な何かがその光を消し去ろうと覆いかぶさってしまう。 そんな中で一つの光はその空虚な影に消される事無く、それを切り裂いていた。 小さな光は巨大で虚ろな影に果敢に立ち向かい、その光を以って影を打ち消していく。やがて、無数の光が集い、巨大な光の剣となってその影を切り裂いていった。 “光を見出すのだ・・・” “虚ろな影、偽りの光を打ち破る真実の光を求めよ・・・” ルーシディティの視界は闇に閉ざされていた。 それは当然の事だろう。彼女は最初から目を瞑っていたのだから。 だが、あの『視た』光景は余りにも圧倒的な存在感で彼女の心に響いていた。 「あれは、まさか・・・啓示・・・なのですね」 ファリスよ、感謝いたします。そう呟いてルーシディティは立ち上がった。 神がその啓示を下されたと言う事は、その危機がすぐ傍にまで迫っていると言う意味だろう。 示された光を見出さなければならない。 啓示を受けた事を告げると、目の前の美しい女性は目を見開いて見詰め返してきた。 無理も無いだろう。 神の僕ならぬ魔術師には神から啓示を受ける、ということの意味が良く判らないのかもしれない。 だがそれは流石にこのファールヴァルト王立魔術学院の高導師にしてファールヴァルト魔術兵団第三位の地位にいる魔女だけはある。すぐに表情を引き締めて手配を始めていた。 正直言って羨ましいと思わないわけではない。 銀の魔女、の異名は伊達ではないのだ。まだ二十歳を過ぎたばかりの若さでありながら、その天賦の才はこのファールヴァルトにおいて最高の魔術師の一人としての力を実現させている。 そしてこの美貌の魔女は鋼の将軍の第二夫人としての地位をも得ているのだ。 女として嫉妬を覚えないわけではないのだが、それはそれとして分けて考える事が出来る程度にはルーシディティにも分別というものがあった。 眞がこの事態において関与できない以上、最も頼りになるのはルエラである。 このファールヴァルトにおける政治的な影響力、魔術の実力、そして活用可能なリソースを考慮した場合、彼女以外には相談ができないのだ。 眞の救助作業を進めながら同時にオルフォードの裏切りに対しての対応など、ありとあらゆる問題を処理している彼女にさらに難問を与えてしまう事になるが、手を拱いて傍観する事が許されない事態だった。 それはルエラにしても同様で、かなりいけ好かない女ではあるが少なくとも眞が信頼して重い役目を任せているだけの人物であるし、彼女がいなければあの運命の告知者を名乗る神の声を聞き、眞が生存している事を検出する事は不可能だった。 だがそうは判っていても気持ちの切り替えは簡単ではない。 事実、ルーシディティとルエラが面と向かって話をするのはルーシディティがファールヴァルトに囚われてから二度目でしかない。しかも最初のときは王都で事情聴取のために尋問を行った時だけだ。 個人的な場で面と向かって話をするのは今回が初めてだった。 意外な事にファールヴァルト王女であるユーフェミアのほうがルエラよりもルーシディティには親しみを込めた対応をしているほどだ。 ユーフェミアにしてみればルーシディティはあのアノス騎士団にある意味で騙されて従軍してきたようなもので、その彼らが壊滅したことでファールヴァルトに虜囚の身になっているというような立場だ。 既にアノスからは全面勝利に近い講和を得ている上に法王による公式な謝罪と莫大な賠償が為されている上にファールヴァルト側には殆ど被害が無かった事で感情的にも比較的冷静になれるのだ。 勝者は敗者に対して寛大になる、という感情からかもしれない。 いずれにしてもルーシディティの立場は微妙なものがあるのだ。 「・・・話はわかりました。でも、それだけでは何をしていいのか判らないわね。具体的にどのようなことが起こって、そしてそれに対してどのようなアクションを起こす必要があるのかが判明するまでは動けないわ」 ルエラの返答はある意味では組織を預かるものとして当たり前の言葉だ。 いや、それどころか相当踏み込んだ回答をしている。 具体的な動きとしてその啓示が何を意味するのかを見極めるまで動きが取れない、という言葉には二つの意味が込められていた。 一つはルーシディティに与えられた“啓示”の指し示す具体的な内容を突き止めれば正式に組織を動かす事ができる、という事。そしてもう一つはその解明に協力する事ができる、という意味である。 証拠を伴わない話に此処まで具体的な動きを回答する、というのはルエラが決してルーシディティの言葉を軽んじていない証拠だった。ファリスの高司祭級の神聖魔法を唱えられる神官であるルーシディティが嘘をつくはずが無い、という確信があるからこその判断だった。 ルエラはD.E.L.を立ち上げて智子を呼びだす。 『智子、また厄介ごとが起こりそうだわ』 『なによ、今度は』 通常の音声会話に変換してルーシディティにも聞こえるようにする。 ルーシディティはD.E.L.のネットワークには属していない。それは彼女がまだファールヴァルト王国に正式に属していない、言わば眞の個人的な客人であるからだった。 もっと正確に言えばルーシディティ達、元アノスの従軍修道女はファールヴァルト軍の戦争捕虜という立場である。しかし政治的な理由から彼女達はファリス神殿より破門され、未だに帰属が未定な宙ぶらりんの状態に置かれているのだ。 彼女達の帰還を認めればファールヴァルトとの講和条約で宣言した異端一派による暴走による不幸な軍事衝突、という前提が微妙な解釈になるためアノスのファリス大神殿は彼女達の名誉回復と帰属回復を認めていない。しかし、彼女達が捕らえられた時点ではアノスの騎士団に従軍して越境してきたという明白な事実があるためにファールヴァルトとしても戦争捕虜としての立場を変更できないでいるのだ。 頭の痛い問題である。 しかしそれに真面目に取り組んでいるのはファールヴァルトの政府の美点であろう。これがロマールならば彼女達は観賞用奴隷として闇市に並べられていたはずだ。 そうした点でルエラは眞の事を腹立たしく思う事もある。 何を好き好んで侵略者の女をここまで庇い立てするのか、とも思う。オランの貴族の家に生まれた彼女にしてみればユーミーリアの現代的な考え方は正直言って理解しづらい点もあるのだ。 そんな微妙な関係を考慮しても、ルーシディティの立場は非常に複雑なものだった。 『ルーシディティがファリスの啓示を受けたわ』 『はぁ?』 『啓示と言うのはね・・・』 『いや、啓示が何なのかは知ってるわよ。でも、それが何か重大な問題なの?』 智子にしてみれば今は他の何かに気を取られたくない、というのが本音なのだろう。 しかし、こればかりは智子にも協力してもらわなければならない。 『具体的な話はルーシディティから聞いて』 そう言ってルエラはルーシディティを促す。 ルーシディティは頷いて話を始めた。 「ファリスの啓示の指し示す内容ですが、この世界に虚ろな支配が訪れようとしている、との意味に取れました。そして私はそれに関して一つだけ知っている事があります」 続けて語られたルーシディティの話を聞いて、流石に二人の顔色が変わっていった。 「・・・恐らく、そのファリス神の指し示した虚ろな支配、というのは“偽りの神”の復活とそれによるこの世界の支配であると考えられると思います」 そのルーシディティの話を聞いてルエラも智子も言葉を失っていた。 『何というか、ねぇ・・・。その偽りの神とやらを復活させないように全力で頑張るしかないわけじゃん』 智子があきれ返ったように言葉を返す。 『大体ね、眞だったらこう言うよ。“全知全能とかいう神の癖にこんな切羽詰った状況まで放っておくんじゃない”』 その言葉にルエラも全力で同意をしたかった。 だが、その状況に直面しているのは彼女達自身なのだ。 アミは考え込みながら情報ターミナルを操作しているシンの姿を見つめていた。 その素晴らしく整った顔は、とても生きている人だとは信じられない。まるで、絵画や彫像がそのまま芸術の神によって命を吹き込まれたかのようだった。 切ない想いがこみ上げてくる。 彼は何処から来て、そして何処に帰っていくのだろう。そして、それは何時なのだろうか・・・ シンが永遠に此処にいることは出来ない、という事くらいアミにも判っている。 判っているからこそ辛かった。 そしてシンがあの怪物と少なからぬ関係があることは推測できていた。 あの怪物はガーディアン・システムを物ともせずに人を簡単に殺すことが出来るような相手だ。そしてシンの持つ光の剣もまた、ガーディアン・システムを貫いて中の人を殺傷することが出来るほどの兵器だった。 其れほどまでのテクノロジーが、全く別の系統で存在して、それが同時に現れるとは考えにくい。 ならば、シンとあの怪物のもつテクノロジーは同一の文明の産物であり、彼らはどちらも、同じ文明圏からやってきた存在だと考えることが出来るだろう。 だからこそ、シンはこれ程の拘りを見せているのだ。 それがアミの心を不安にさせている。 後になって思い返してみれば、この時既に彼女は別れを予感していたのだろう、と考えることがあった。 それは少年が去ってしまった後で、懐かしい思い出と共に実感することだった。 「で、あなた達、何処までいったのよ?」 ニヤニヤと思わせぶりな笑顔で見詰められて、アミは一瞬何のことか判らずにきょとん、と友人の顔を見返す。そして、その質問の意味を悟って、見る見るうちに顔が真っ赤に染まってしまった。 「そ、そんな・・・あたし達、そんな関係じゃないし・・・」 焦って舌が回らなかった。 まさか、自分がそんな関係を持っているように思われるとは考えたことも無かった。 そのアミの様子を面白げに見詰めながら、友人達は面白げに視線を交わす。二人がすっく、と立ち上がってアミの左右に座った。 「ななななな、何を始めるの!?」 焦りまくっているアミに対して、スプーンをマイク替わりにずいっと突き出す。 「アミさん、黙秘権は三回まで認められています」 「は、はい!!!???」 「質問には明確に答えてください」 尋問ゲームが開始されていた。 「貴方の名前を教えてください」 アミは泣きそうな顔で困り果てていた。まさか、こんな事になろうとは・・・ 外は暑い日差しがじりじりと照りつけていて、肝心のシンは図書館に出かけている。あの少年ほど図太い神経で堂々と答えることの出来ないアミは、尋問ゲームの格好の餌食だった。 日が暮れるまでたっぷりと友人の玩具になったアミは、ぐったりとしながらテーブルに突っ伏していた。その背中を優しくとんとん、と叩きながら友人達はけらけらと笑い転げている。 「あー面白かった。アミってば、本当にこれ苦手なんだよね~」 「も~、知ってるんだら手加減してくれたっていいじゃない・・・」 疲れ切った声で文句を言うアミをひょいっと抱きしめて、頭を撫で撫でする。友人のつけているコロンの香りが優しくアミの鼻腔を擽っていた。 「・・・いつもあたしを子ども扱いするんだから」 アミは照れくさそうに文句を言う。 でもその友人との優しいじゃれあいの瞬間が大好きだった。 『ん~、それじゃ迎えにいくから待ってて』 たっぷりと遊びすぎて時間を少々過ごしてしまった後で、シンからの通信が入ってきた。やはり心配させてしまったようだ。 大丈夫だと言ったものの、あの殺人鬼の存在が気になってしまう。当然のようにシンが迎えに来て、そして全員をエスコートしてくれる事になっていた。 (ふ~ん、中々ポイント高いじゃない!)(ルックス良し、そしてこの紳士の礼儀と危険だからって遠くから駆けつけてくれる騎士振り。申し分ないわね~) 友人達の興味津々の視線に、アミは焦りまくっていた。 もし変なことを言い出したらどうしよう、と心配するアミを見ながら、シンはきょとん、としている。何処か似たもの同士ね、と友人達は妙に納得した表情で頷いていた。 近場に住んでいるアミの友人から送り届けて、そして最後に残った友人を送り届けるために三人でてくてくと歩いていく。 地上数百メートルはある公園広場を横切って、増築を進めているオフィスビルを見ていた。 流石にこれだけ歩いていると汗もかくし喉も渇いてくる。 「ちょっと待ってて。俺が何か飲み物を買ってくるから」 流石にこんな公園の、人の大勢いる場所は安全だろう。そう考えてシンは二人をベンチに座らせてジュースを買いに走っていった。 その後姿をまぶしそうに見詰めるアミを見て、本当にこの子はあの人を好きなんだな、と友人は驚いたように見詰める。何時の間にこの子はこんな大人の表情をするようになったのだろうか。 恋は人を大人にする、と思う。 人を思いやる気持ち、人に気持ちが通じないもどかしさ、想いがすれ違う苦しみ・・・ そんなものを知って、人は大人になっていく。 頭のいい、ちょっと幼い部分の残っている少女が、何時の間にか大人びた表情を見せるようになったことで、友人は驚き、嬉しさと同時に寂しさを感じてもいた。 (いかんな~、こんな事を考えてしまうなんて、まるで娘を嫁にやるお父さんのようじゃ・・・) 変なことを考えてしまった少女は、頭をぽこぽこと叩いて気持ちを切り返そうとする。その友人の方を振り向いたアミは、その背後に立っている影を見て恐怖に凍り付いていた。 其れが何かを悟った瞬間、力の限りの絶叫を上げる。 その人影は、巨大な男だった。 そう、ライブラリ・ネットワーク・ニュースで流れているあの殺人鬼の姿そのものだった。 シンはアミの悲鳴を聞いて、反射的に振り返っていた。 その視界の中であの追い求めていた巨大な男の影が自分が護らねばならない少女達に迫っていく。 周りの人間は恐慌をきたして逃げ惑うだけで、二人の少女には何の注意も払っていない。 二人はガーディアン・システムの張り巡らせる障壁を最大出力にして何とかその手に囚われないように逃げようとしていた。だが、男は信じられないような動きを見せて、二人を逃さないようにじりじりと追い込んでいく。 其処は作業の終わった工事現場だった。 「役にたたねえ連中だ!」 少女二人の危機にも、自分の事だけを考えて逃げ惑うだけの人々に苛立ちながら、シンは全力で二人のもとに走っていった。 亮は切り立った崖の上で座禅を組んで瞑想に耽っていた。 あの鞍馬真陰流の継承者達の持つ異常な能力を会得したいと願っていたのだ。 眞や英二の発揮する人間とは思えない反応速度と凄まじい瞬発力。 鞍馬真影流はその長い歴史の中で、人間を恐るべき殺人マシーンに変貌させてしまう驚異的な修練方法を確立しているのだという。その秘密の一つが『瞬息』という方法だと聞いた覚えがある。 要するに、意識的に火事場の馬鹿力を発動する、という冗談のような方法だった。 だが、それを可能にするからこそ彼ら鞍馬真陰流の使い手達は撃ち込まれた銃弾すら剣で叩き斬り、大気を切り裂いて真空派を飛ばして離れた敵を切り倒す、という人間離れした真似をやってのけるのだ。 門外不出の秘儀なのだろうが、どうしてもそれを知りたかった。 「眞、その『瞬息』てのはどうやるんだ?」 ダメ元で聞いてみたところ、珍しく眞が考え込んでしまった。 暫くの間考え込んで、漸く眞が口を開いた。 「直接具体的なことを教えるのは師範から禁じられてるから出来ないけど、それが何なのかを教えることは出来るよ」 少し心配げな声で亮に答える。 だが、それを知らない事には眞や英二には太刀打ちできない。だから亮は強く頼み込んでいた。 「頼む、それを教えてくれ」 自分が超えたい、と思っている相手に尋ねるのは面白くないが、相手は千年以上のキャリアを積み重ねて継承してきた化け物のような相手だ。それくらいのハンデは受け入れろ、と気持ちを切り替える。 「ん~、そうだね。じゃ、とりあえず気の防御は出来るね?」 眞は不意に変な事を聞いてくる。 気の防御、要するに硬気孔のように気を高めて身に纏い、鎧のように防御力を高めるという技法だ。 それがあの化け物じみた身体能力に関係してくるのだろうか? 「出来るが、それがどうした?」 そう言った瞬間、亮は凄まじい衝撃を胸に感じて真後ろに吹っ飛ばされていた。 息が詰まり、世界がスローモーションのように見える。やたらとゆっくり風景が前に向かって流れていくのが異様だった。 視界の中に右手を突き出した眞の姿が見える。 つまり、亮は眞の寸打をまともに受けて吹っ飛ばされているのだ。 (野郎、何考えてやがる!?) 混乱したまま地面に落ちた。反射的に受身を取った瞬間、時間の流れが正常なものに戻っていた。 「てめえ、何てことしやがる!」 飛び起きた亮に眞が涼しげな微笑を向けた。 「亮、今の感覚だよ」 その言葉を聞いて亮は鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。 次の瞬間、眞の言葉の意味を悟って、亮は表情を変えた。 まさか、鞍馬真陰流の使い手は、あの感覚を自由に引き出して、あの時間感覚の中で普通に動けるのか! ぞっとする感覚が背筋を走り抜けていた。 世界をあんなスローモーションで感じられる中で自分だけが普通の時間の中で動くように動けるなら、どんな攻撃にも対応できるし、どんな相手でも叩きのめせるだろう。 (こいつら、絶対に頭がおかしいに違いないぜ・・・) 亮は歴代の鞍馬真陰流の継承者達の頭の中身を理解しようとして諦めた。 どう考えてもまともな人間の発想ではない。 しかも、そんな時間感覚の中で普通の時間感覚として身体を動かそうとした場合、とんでもない動きに筋肉や靭帯、骨などが耐えられないだろう。それを克服するためにいわゆる硬気孔のような技法を取り入れて、肉体を強化してそれに耐えられるようにしてしまったのだ。 (一体、どの馬鹿野郎がこんなアブねー技術をこんな危険人物達に残しやがったんだ・・・) ともあれ、そんな頭のねじが飛んだような体術を可能にしたおかげで鞍馬真陰流の使い手達は化け物じみた身体能力だけでなく、プロレスラーでさえ軽くひねり潰せるような力を発動できてしまうのだ。 それどころか、眞や英二たちにしてみれば野生の猛獣のような力でさえ十分に押さえ込めるようなものになってしまうらしい。 怒り狂った虎を子猫をぶっ飛ばすようにあしらえるような化け物を相手に喧嘩をしようと思うほうが間違っている。 だが、その方法を何とか身に着けて、そんな連中と戦いたいと思う亮もいい加減その仲間入りをしようとしていることに、本人は気が付いていなかった。 しかし、どのようにすればあの感覚を掴めるのだ・・・ 亮はその途方も無い奥義の実体に、頭を抱え込んでしまった。 あの日、眞を追いかけて東京中を走り回っていた日の出来事を思い出す。 「ねぇ、本当に見つかるのかな・・・」 悦子が不安げな表情で呟くのを聞いて、亮は焦りが心の中にじりじりと鬩ぎあがってくるのを押さえ込んでいた。 すぐに見つかると楽観的に考えていたわけではない。だが、これ程までにこの東京で人探しをするのが難しいとは思ってもいなかった。 しかも眞は彼らの行く先行く先に先手を打つようにヒントだけを残して、しかし、その姿を決してつかませていない。 彼らの焦りもそれなりに募ってくる。 飯でも食うか、と智子を振り返ったとき、眞がこちらを見ている姿を見かけたのだ。 「眞っ!」 反射的に亮は叫んで全力で駆け出していた。振り向く余裕は無かったが、英二も彼に続いて走り出している気配がする。 この雑踏の中で走るのは相当気を使うことだった。 そして眞は悠然と振り返って、そして駆け出していく。 そして・・・ (は、早ええっ!・・・) 亮が驚愕するほどの瞬発力で眞はこの雑踏の中をまるですいすいとすり抜けるように駆けていく。 しかし、その眞の行く手を阻むようにほろ酔い気分のサラリーマンの一行がのんびりとこちらに向かってくる。風のような速さで自分達に向かって走ってくる金色の髪の少年を惚けたように見つめている男にぶつかる、と思った瞬間、眞の身体が跳ね上がった。 タタンッ! 軽い音が響いて、なんと、眞はビルの壁を蹴ってそのまま数歩、壁を走るように軽やかなステップで駆け抜ける。唖然とする男達が慌てて後ろを振り返ったときには、もう眞は歩道に着地して素晴らしい速度で走り去っていくところだった。 (あいつ、何て体術をしてやがる!) 亮も流石に驚愕していた。 「野郎、瞬息を使いやがった!」 英二も呆れたように叫ぶ。しかし、彼もそのまま速度を緩めずに呆然としているサラリーマンを避けて、鮮やかに壁を走り抜けて眞を追いかけていく。 (あいつもかよ!) 亮はもう開き直っていた。 間違っても飛び上がるんじゃねえぞ! そう心の中で叫ぶと、思い切って飛び蹴りを食らわすような姿勢で一気にサラリーマンの集団を飛び越える。着地をした瞬間の衝撃が全身に響いてくるが、それを気にせずに二人を追いかけて駆け出していった。 「あたしら、待ってるわ!」 智子の疲れ切ったような声が追いかけてきた。 それにしても鞍馬真陰流の使い手である二人の体術は異常だ。 そう思いながらも、眞は丁度交差点のところに差し掛かるところだった。 しめた、信号が赤に変わった! そして脇道に行くにも人が多すぎる。 そう亮がほくそ笑んだとき、再び眞が信じられない体術を見せた。 信号待ちをしている集団の前に5メートルほどの空間があった。そして眞がその空間に差し掛かった瞬間、ぼやけるように姿が歪んで電光のような瞬発力で眞がその空間を一瞬にして駆け抜ける。 次の瞬間、亮は自分の目を疑っていた。 なんと、眞は信号待ちの人々を軽々と飛び越え、そのまま車道を飛び越えていったのである。 信じがたいことに、空中で信号機の柱を蹴って方向を変えながら、向こう側で信号待ちをしている人々すら飛び越える。人の隙間に軽やかに着地すると、そのまま亮と英二を振り返った。 「眞っ!」 英二が叫んで、そして同じように電光のような動きで車道を飛び越えていく。もう亮は追いかけるのを諦めていた。 あんな化け物めいた体術を持つ二人を追いかけるのは常人である亮には不可能だ。 (あいつら・・・人間じゃねえ・・・) 通行人たちが驚愕の目で車道を軽々と飛び越える二人の少年を見ていた。 英二が眞に掴み掛かろうとした瞬間、再び眞の姿がブレる。 次の瞬間、十メートル近くも離れた場所に移動した眞を追って、英二も同じ体術で再び挑みかかった。その英二に微笑を浮かべて、眞は再び消える。 流石に英二ももう追う事は出来なかった。 力を使い果たしたように膝を付く。 「英二!」 亮がやっと駆けつけたときには、既に眞の姿は何処にも無かった。 「あの野郎、化け物めいた体力してやがる・・・」 英二が心底呆れたように呟いた。 亮が頭を振って英二を見る。 「あのなぁ、お前らのあの体術は何だ?」 お前も眞も十分に化け物だぜ、と言葉を続ける亮に英二は苦笑いを浮かべた。 「本当は人前で使うな、って言われてたんだがな」 亮と走り回っていても汗一つかいていなかった英二の全身が汗に濡れていることに気付く。 英二はにやっと笑って亮を見返した。 「こいつが、鞍馬真陰流の真の強さの秘密、さ」 何度思い出しても、あのときの眞と英二の動きは人間離れしすぎている。 それがこの時間感覚の中で普通に動けることが理由なら、確かに理解は出来た。人間にそんな真似が出来ることには到底納得は出来なかったが。 考えながら只管亮は座禅を組みながら硬気孔を練り続けていた。 とにかく、今は一瞬しか発揮できない硬気孔を長時間維持できるようにならなければならないだろう。あの動きに耐えられるように身体を硬気孔の鎧で身に包むのなら、それを相当な時間維持していなければならないはずだ。 深く静かな呼吸を繰り返し、充満していく気を身体の中で光の玉として集約させていくようにイメージをする。それを全身を8の字に流すように動かして小周天の流れを作り出していた。 それを繰り返して、前進に気が満ちていくように誘導して行く。 深い呼吸を繰り返して、全身を覆った気を強く重ねて、硬気孔を発動していた。 この山の中で修行をするようになってから相当、気を上手く操れるようになったと思う。 今までなら瞬間的に気の防御を行うことしか出来なかったが、ここで修行するようになってから相当長時間、気を練っていられるようになった。 と、その瞬間、何かを感じた。 気が揺れたように感じる。 目の前にぱらぱら、と小さな石が落ちてきた。 ヤバイ! 反射的に飛び上がる。気が充実しているおかげで身体がかなり軽く感じられた。 その瞬間、幾つもの岩が崩れ落ちてきた。 見上げた亮の視界に幾つもの岩が自分に向かって襲い掛かってくるのが見える。 マズイ、そう感じた瞬間、それは起こっていた。 いきなり時間がスローモーションのように感じられて、猛烈な勢いで落ちてくるはずの岩がゆっくりと近づいてくるように見える。 この感覚は・・・ 眞の言っていた、その時間感覚が確かにあった。だが、身体が動かなければ意味は無い。 思うように動かない身体に苛立ちを覚え、一気に気合を爆発させた。 「ハアアッ!」 腹の底の丹田から熱く爆発するような感覚が広がる。その時、亮は確かに感じていた。 筋肉の力に頼らないで、気の流れだけで純粋に身体を動かす感覚。 (これ・・・が・・・そうなのか・・・) 硬気孔のために身体に満たした気が、自分の肉体を自由自在に動かすために意識と直結していた。 筋肉に頼ったもどかしい身体の動きが嘘のように身体が思うとおりの動きになる。 何故、多くの人はバットで一流のピッチャーの球を打てないのか。 それは意識と肉体の動きにズレが必ず発生するためだ。 スポーツや武術の達人になる、という事はその意識と肉体のズレを可能な限り無くして、イメージと現実の動きを限りなく近づけることを意味する。 そして鞍馬真陰流のこの修行方法は、さらにそれを進化させて、意識の力だけで肉体の動きを支配してしまう事にあるのだ。 流れるように身体が自由自在に動き、亮は次々に襲いかかってくる岩を避けていく。 気が付くと、亮は幾つもの落石が転がっている中で立っていた。 「亮・・・お前・・・」 何時の間にか来ていた英二が辛うじて声を絞り出した。 呪文を唱えようとしていたのか、両手を構えたまま呆然としている。と、両手を下げてにまっ、と相好を崩した。 「やったな。それが『瞬息』だ」 亮も抜けるような笑顔で応える。 「漸く、あいつの言っていた意味が判ったぜ。同じ事を意識して出来るようになるには相当掛かると思うがな」 「お前な・・・、鞍馬真陰流の修行者でも、アレを身に付けられるのは数えるほどだぜ。しかも、何年も修行を積む必要がある。俺だって瞬息のコツを掴むまで一年以上掛かってるんだ」 そう言って、英二はひょい、と肩をすくめる。 「一人、一週間でコツを掴んだ化け物が居るけどな」 亮はその言葉を聞いて頭を抱え込むように首を振る。 「アレは何処まで化け物なんだ?」 「俺が知るかい・・・」 こっちが聞きてーよ、と呆れるように英二も呟いていた。 |