~ 1 ~

 ティエラはひんやりと冷たい洞窟の中を進んでいく。
 いや、正確には洞窟ではない。この穴の壁はごつごつとした樹の幹のそれだった。
 そう、この祠は巨大な樹の骸にあるのだ。
 集落が一つ、飲み込まれてしまいそうなほどに巨大な樹の幹が高台のように残されている。その樹の幹の中は怖ろしく深い迷宮のようになっているのだ。
 その中には古の神話の時代や古代王国の魔法の時代の名残が未だに息づいている。
 驚くべきことに、この巨大な樹の骸は未だに朽ち果てる事無くその姿を保っているのだ。
 女王の試練はその祠の一つへと入り、その中で示される試練に打ち勝つこととされていた。彼ら獣の民が生まれるとき、一組の男女が獣人の呪いを部族の祝福へと浄化するために、獣王と神に祈りを捧げて啓示された試練を果たしたとの伝説があるのだ。
 ある者は発狂し、そしてある者は命を落とした。
 彼女の部族で試練を果たしたものは、占い師の老婆一人である。
 ティエラも火球の術が使える程度には魔術を修めてはいるが、そんな力があったところでこの試練には対して役に立つとは思えなかった。
 獣の力を発動して、闇を見通しながら進んでいく。
 草を編んで革を張ったサンダルは滑ることも無く足場をきっちりと保持してくれていた。
 祠の奥に進むにつれて、つん、と不思議な匂いが強くなってくる。
 意外なほど乾いた空気が祠の中にゆったりと循環しているようだった。
 所々で天に向かって巨大な亀裂が広がり、遥か上に青空が覗いているのが見えるのだ。その奥底ではこれまた凄まじい大きさの根が絡まりあって、巨大な迷宮のような姿を見せている。
 再びティエラは迷宮のような空間に進んでいった。
 もうどれくらい歩いただろうか。
 最期に日の光を見てから何時間も経っている気がする。
 不意に開いた空間に脚を踏み入れ、そして驚きの声を上げそうになってしまった。
 闇を見通す彼女の目に、無数の黒い球状のものが漂っているのが見えたのだ。闇の精霊だった。
 慎重に歩みを進めながらも、心を鎮めるために深く呼吸する。
 精神の精霊は感情の揺らぎに敏感だ。もし、ここで恐慌を起こしたら一斉に闇の精霊に襲い掛かられるだろう。そんなことになったら、人間の精神など耐えられるものではない。
 じりじりと沸き起こりそうになる恐怖をじっと抑えながら、ティエラはその巨大な空間の奥にある祭壇に向かった。
 その時、彼女の頭の中に声が響く。
『獣の部族の女・・・何用だ・・・』
 ティエラは思わず驚きの悲鳴をあげそうになりながらも、必死に声を押さえ込んで動揺を鎮める。
 一瞬、彼女の周りに浮かんでいる闇の精霊が動いたような気がしたが、何も起こらなかった様に静まり返る。ティエラはほっとして辺りを見回していた。
 そして其処に巨大な銀狼がじっと彼女を見詰めていることに気が付く。
(そんな・・・何時の間に・・・)
 伝説にしか聞いた事の無い、部族が崇める守護神。
 獣王、と彼女達が呼ぶ存在が其処にあった。
『娘よ・・・何用ぞ・・・』
 圧倒的な意志の強さがティエラの意識を揺さぶっていた。
『私は、女王の証を授かりに来ました』
 その本流のような意志の強さに押し流されないように、全力で答えを返す。
 まっすぐに見詰め返してくる人間の娘の視線に、銀狼は驚いたような視線を向けた。
『女王の証、とな・・・』
 考え込むように銀狼は少女を見詰める。
『我らが証を得た男の為・・・か・・・』
 その言葉に胸が高まりを覚える。
 眞の事を知っているのだろうか。
『“真実の子”の伴侶となる道・・・我らが与える試練よりも辛い道となるぞ・・・』
 何の事だろうか。
 それに、“真実の子”とは・・・
『それがどのような辛い道なのか、私には判りません。将来、後悔する事になるかどうかも判りません。でも、一つだけはっきりしているのは、今、私が自分の思いを諦めれば、今からずっと後悔することだけです・・・』
 そのティエラの意思に銀狼はじっと視線を返してくる。
 やがて、銀狼は溜息をつくように視線を下ろし、意思を伝えてくる。
『・・・ならば、汝に試練を与えよう・・・己の偽りの無い心を見せてみよ・・・』
 そう言って、銀狼はティエラの目を見詰める。
 一瞬、巨大な金色の目が輝いたかと想った瞬間、ティエラの意識は圧倒的な力の中に飲み込まれていった。

 暗い闇の中だった。
 ふと、自分は何者なのだろう、と考えてしまう。
 思い出せない。
 自分は『誰か』のはずなのに・・・
 何も見えない暗い闇の中で、彼女は不安に駆られていた。
「どうして・・・」
 必死になって何かを見つけ出そうとした。
 自分がいる事がわかっているのに、見ることも聴くことも出来ない。
 何とか闇の中で自分を見つけようともがいていた。その瞬間、不意に脳裏に声が響く。
『己が何者なのかを思い出すが良い・・・』
 自分は・・・
 その瞬間、様々なことが思い出されてくる。
 父のこと、そして母のこと。
 兄に連れられて良く出かけた渓谷。
 友人と遊んだときのこと。
 魔術を学んで呪術師になるための修行を始めたこと。そしてあの日、初めてみた異世界の魔法騎士・・・
 黄金の髪、そして蒼と紫の瞳。
 部族一の戦士である兄ですら苦戦は免れないであろう牛頭の魔神を相手に、鮮やかな戦いを見せて、そして信じられない剣技を以って一撃の元にそれを倒した少年・・・
『眞!』
 少年の名前を思い出す。そして同時に自分が誰なのかをも思い出していた。
 その瞬間、自分の姿が見えるようになる。
 だが、それを確認するまもなく見たことの無い光景が目の前に広がっていった。
 厳しい騎士としての修行。
 そして白銀に輝く鎧を身に纏った騎士団との戦い。
 遥かな上空から目も眩むような急降下をして、呪文の力を爆発させる。獅子奮迅の戦いをしながら、少年は数少ない味方の軍勢を巧みに操って襲い掛かる敵を打ち砕いていった。
 やがて誰の目にも勝敗が明らかになったとき、愚かな敵将は玉砕を命じて自暴自棄になった敵の騎士達は一斉に散開して目に付いた眞の軍に襲い掛かっていく。
 その愚行を罵りながら、眞はその愚かな敵の無謀な攻撃を粉砕していったのだ。
 もはや、ただの殺し合いだった。いや、一方的な虐殺に等しい戦いだった。
 ティエラは涙を流しながらその哀しい光景を見詰める。
 眞が自国の民衆に、一千の敵の騎士を打ち破った無敵の将軍、と呼ばれていた背後には、これ程の血が流れていたのだ。
 そして捕らえた修道女達。
 何とか国に帰してやりたい、と走り回った結果はアノスからの破門と国外追放処分の通知だった。
 結局、庇護の対象から外れることになった女たちを男達の暴力の中に晒さなければならなくなった眞は、珍しいことに酒を飲んで苛立ちを爆発させるほどに追い詰められていた。いや、自分で自分を追い詰めていた。
 一人の修道女を犯す姿を見つめながら、ティエラも涙を流してしまう。
 自分に対する憎しみと怒りを募らせながら、しかし、交渉の場では自ら千の騎士の首を上げた将軍としての態度を貫き通して堂々たる講和を勝ち取っていた。
 その栄光の度に、眞はその心を傷つけていったのだ。
 まだ十五歳の少年が背負うには余りにも重過ぎる責任と義務を、誰を非難することも無く淡々とこなしていくその姿は、哀しい孤独に包まれていた。
 将来の呪術の司になるために厳しい修行を積んでいたとはいえ、彼女はこんな辛い決断を下さなければならなかったことなど無い。
 気が付くと目の前に一人の少年がいた。
 眞と似ている。というよりもそっくりの少年。
 まだ、五、六歳ほどだろうか。
 一人ぼっちで泣いていた。
 何とか抱きしめてあげようとする。しかし、少年が何処に立っているのかを知って、血の気が引いていた。
 目の前にいた、と思っていた少年は小高い山の頂上に立って泣いていたのだ。その山は夥しい死体に包まれていた。
 いや、山自体が人々の骸で築かれ、そして流れる川は真っ赤な鮮血だった。
 燃え上がる炎の中で、人々の骸が地平線の彼方まで埋め尽くしている。
 そんな世界で、たった一人で少年は泣いていた。
「あたしがいる!」
 違う。一人なんかじゃない!
 ティエラは全力で叫んでいた。
 お願い、私に気付いて!
 屍の山も、血の流れも関係が無かった。
 眞が生きなければならない世界がこの修羅の世界なら、私も一緒に生きる!
 ティエラは自分の行く手を阻むように起き出して立ちはだかる亡者の群れを睨みつけ、そして獣の姿に変わった。美しい毛並みの虎となって、ティエラは全力で亡者の群れを突き崩す。
 牙を突きたて、爪で薙ぎ倒し、屍の山を全力で駆け上っていった。
 全身を血に塗れさせて辿り着いた頂で、少年はまだ泣いていた。
 少女は獣の姿から元の少女の姿に戻り、少年の前に跪く。両手を肩にかけて揺さぶった。
「ねぇ、聞こえる? あたしよ、ティエラよ・・・」
 だが少年は俯いたまま泣き止まなかった。
 何度も何度も声をかける。
 やがて少年はゆっくりと顔を上げた。
 その姿を見てティエラは息を呑む。
 固く閉ざされた両目からは、血の涙が溢れ出していたのだ。その血は滝のように頂から流れ出し、あの血の川を生み出していた。
「眞・・・辛いのね・・・判る、なんて言わない。言えない。・・・でもね、見てるのが辛いの」
 優しく語り掛ける。
「眞はこんなに辛いのに、皆を護りたくて、一生懸命に頑張ってきたんだよね・・・」
 だから、こんなに傷ついてしまったのだ。
 でも・・・
「一緒に居たいよ・・・この修羅の世界でも、あたしは一緒に居たい」
「僕は・・・もう止めたいんだ・・・でも、止められないんだ・・・」
 初めて少年が口を開いた。
 ティエラは自分に伝えられる全ての想いを込めて言葉を紡ぐ。
「止めたくても、止められない・・・だったら、止められるような世界にしようよ・・・。眞が、こんな世界を戦わなくてもいいように、そんな世界を作るために・・・。一人で戦わないで・・・。あたしも、皆も、一緒に戦うよ。一人だけで、修羅の世界を生きないで・・・。あたし達を信じて・・・」
 抱きしめるティエラの背中にそっと小さな手が回されてくる。
 驚いてその少年を見詰めると、幼い瞳が少女の目を映し出していた。その目にはもう血の涙は無く、整った顔には可愛い笑顔が浮かんでいた。
 周りを見回すと、其処はもう亡者と血の流れる修羅の世界ではなく、美しい高原が広がっていた。
「眞、これって・・・」
 振り返ると、もう其処には少年の姿は無かった。
 寂しさを覚えながらも、ティエラはそれを予想していた。
 自分は、あの孤独な少年の心に触れてあげなければならなかったのだ。
『・・・良くぞ試練を果たすことが出来た・・・』
 頭の中に先ほどの銀狼の声が響く。
 ティエラはそっと微笑んだ。
 試練を果たして、嫁ぎ相手としての資格を得たことよりも、孤独な少年の心に触れてあげることが出来たことが遥かに嬉しかった。

「どうしたの?」
 ルエラが訝しげに尋ねる。
 獣の民との同盟に関係して、膨大な書類を精査して一言一句の内容がお互いに不利益を齎さないかどうかを吟味していた最中、眞が不意に微笑を浮かべたのだ。
 あの獣の部族の中も、長い部族や国と同じように権力闘争が酷いようだ。
 今頃、眞への嫁ぎ相手を選ぶのに一悶着をしているだろう。
「心配ないさ。彼女は試練を果たしたから」
「試練?」
 眞の自信に満ちた言葉を聞きながら、ルエラは良く判らない、というような表情を浮かべる。
 誰も知らないことだったが、その優しい微笑みはティエラが試練を果たしたときに見た少年の笑顔と同じだった。

 眞の捜索の難航にファールヴァルトの技術陣の疲労と苛立ちは募るばかりだった。
 それは葉子自身も嫌というほど実感している現実だった。
 この異世界に飛ばされてきて、結局のところ眞一人の力で今までの道のりを歩んできたようなものだった。
 眞がいなければ、あの夜の妖魔の襲撃を乗り切れなかった。そしてこの国に騎士として取り立てられて自分達の生活基盤や安全を手に入れてくれたのもあの少年の力だ。
 ファールヴァルトという小さな国を豊かにし、その豊かになった国を護るために圧倒的な軍事力を整備したのも緒方眞というたった一人の天才がいなければ為しえない事実だった。
 その眞が精霊の王という途轍もない力を持つ、この世界の自然の一理を司る神の如き存在と激突した挙句の果てに異世界に消失するという事態になったのも、全ては誰もが彼に頼っていたという事の裏返しだった。
 情けないと思う。
 彼よりも遥かに長く生きているはずの自分がただ無力に泣き伏せているだけなのに、智子はその眞に匹敵するハッカーとしての能力を用いて眞の救出のために休み無く働き続けている。そして英二と亮は眞がいなくなった穴を埋める為に騎士として厳しい軍務に就いていた。
 それなのに、自分は何もする事ができない。
 コンピュータを使う事ができるのは精々、表計算ソフトで簡単な計算をしてワープロで授業の資料を作って、あとはネットサーフィンとEメール。
 今の世界では役に立たない英語教師の自分の無力さが益々気持ちを落ち込ませてくるのだ。

 コンコン・・・

 そんな物思いに耽っていたとき、ドアが軽くノックされた。
 誰だろう。
「開いてるわよ・・・」
 恐らく様子を見に来た侍女だろう、と思って入室を促す。そういえば、この世界にきて当たり前になっていたが、メイドに世話をしてもらうなどという不相応な贅沢を許してもらっているのも、眞の伴侶という立場ゆえの事だ。
 そっと扉が開かれて現れた人影に葉子は凍りついた。
 眞の姿が其処にはあった。
 だが、申し訳なさそうにしたその人物は、決して眞本人ではない。
「すみません。私が来る事で気分を害されると思いましたが・・・」
 ぺこり、と頭を下げて謝罪の言葉を述べる少年の姿を見ても、葉子は生気の無い声で「構わないわ・・・」と言葉を返すだけだった。
 その血の気を失った葉子の表情に、少年は悲しげな視線を向ける。
 それにしても凄いものだ、と葉子は不意に思った。
 目の前にいる少年は、生きている人間でさえない。ただの魔法で仮初の命を与えられた<<<魔法彫像{フレッシュ・ゴーレム}>>>なのだが、まるで本当の眞のように振舞っている。
 魔法で仮初の命を与えられたゴーレムに、眞の意識をコピーして魔法の知性を付与し、眞の影武者として動けるように作られた魔法人形。
 だが、それは葉子たちにとっては辛いものでしかない。
 幾ら眞そっくりに振る舞い、同じ声で、同じ口調で話すとはいえ、所詮は本物でない『影武者』だ。だからこそ、却って「眞が此処にはいない」という事実だけを大きく浮き彫りにしてくる。
 D.E.L.が動作しないため、魔法の指輪に付与された眞の分身を呼び出す事もできない。これ程迄に眞が傍にいないことが辛く、寂しい事だと考えた事さえなかった。
 もう、一緒にいるのが当たり前の事実になっていた。
 何時からだったのだろう。年齢の差を考えずに、生き残る事だけをただ只管考えてがむしゃらに突っ走ってきた少年の姿に、気が付いたときには思慕の情念を感じるようになっていた。
 傷つき、疲れ果てて戻ってくるその姿をどれ程切なく想い、支えになりたいと願っただろう。そして、それは何時の間にか激しく深いい愛情へと変化してしまっていた。
 幾度と無く自分の感情を止めようとした。
 元の世界に戻れば自分と眞は再び、教師と生徒の関係になる。年齢の差も考えなくてはならない。
 しかし、そう思って自分を止めようとすればするほど想いは高まる一方だったのだ。
 そしてあの神聖王国の暴走した騎士団との紛争に打ち勝った眞は軍の最高権力者の一人となり、その異世界の知識と行政手腕を評価されてこの国の王女と結ばれる事になったのだ。
 それを聞かされたときのあの胸が張り裂けそうになる感情を今でも思い出す事ができる。
 ある意味ではそれは打算の産物だったといえる。
 この国の王や貴族は眞の持つ異世界の知識や能力が他国に渡る事を恐れたのと同時に、眞は王家との結びつきを得られる事からこの国での基盤をより強固なものにできる。
 そして王女自身も満更ではなかったから非常に恵まれた縁談ではあった。
 秘めた想いを抱いていた葉子や、急速に近づき始めていた悦子と里香を除いて。
 そしてある意味では唆されたと言っても良かったのだが、ルエラの齎した情報に彼女達は飛びついていた。そう、このファールヴァルトでは家族システムは一夫多妻制なのだった。
 本来ファールヴァルトは厳しい生存環境にある国なのだ。そのため、男は基本的に兵役について国家や地域を護ると同時に、農作業や狩猟等でも他の国より危険な地域で作業しなければならなかった。
 そのため男の死亡率が高く、必然的に女の数が余るため一夫多妻制の制度が定着している。
 古代王国からの定住民であるこの地域の人々は長い間の栄養不足によるものか男女の出生比率自体が既に異なり、男子よりも女子のほうが産まれる数が多いのだ。
 それにより、思い切って葉子は眞に自分の気持ちを伝えていた。今考えればとんでもない事をしたと思う。しかし後悔はしていない。
 驚きの表情を浮かべたものの、静かに自分の言葉を聴いてくれる少年を必死に説得して、そして受け入れてもらえたときの喜びは自分の人生で感じた事が無いほどのものだった。
 逆を言えば今のこの世界だったから、眞と結ばれる事が出来たのだと言ってもいいのだから。
 でも、その眞は今、救助できるかできないかさえも判らない状況にいる。
 もし救助できなかったとしたら・・・
 血の気が引くような自分の想像に恐怖がこみ上げてくる。
 青褪めた葉子の姿に、眞の姿をした少年がそっと語りかける。
「私は信じています。私を影武者として創造された我が主の帰還を信じています。そして、皆さんの力と信念がそれを可能にすると。人の想いは私が持ち得ないものですが、その想いこそが不可能を可能にすると、そのことを信じていますから・・・」
 葉子は驚いてその横顔を見つめる。
 信じる、という人の想いこそが不可能を可能にする・・・
 それは眞が常に心に秘めている想いではないか!
 眞がその言葉をこの影武者に伝えていた訳ではないだろう。それが証拠に、目の前の影武者は「信じている」と言ったではないか。心の無い人形が「信じる」筈は無い。逆にその「信じる」心こそがその想いを紡いでいくのだ。
 気が付いたとき、葉子はその眞の影武者を見ながら涙を溢れさせていた。
 自分が信じなくてどうするのだ。
 無力さを呪い、悲嘆に暮れているだけでは帰還を果たした眞に会わせる顔が無い。
 自分にできる事、それは眞の思いを、そして技術と知識を伝えられた智子と彼の仲間、ファールヴァルトの人々を信じて、何よりも眞を信じる事なのだ。
 嘆き悲しみ、そして臥せっていては何もできない。そんな自分を見れば眞は呆れかえってしまうだろう。
 まずは立ち上がる事。そして人の想いを信じる事。
 其処から奇跡は始まるのだ。
「・・・ありがとう。信じる心を見失っていた、私を思い出させてくれて」
 そっと微笑を返すその笑顔は、影武者であるゴーレムのそれではなく、遥か彼方から送られてきた少年の笑顔のそれだと思えた。

 その部屋で眼鏡の少女は膨大なデータと解析資料を眺めながら泣きたくなるのを歯を食いしばって耐えていた。
 何処をどう処理すれば意味のある分析になるのだろう。
 量子のノイズの中から拾い出せるシグナルは余りにも微弱で、しかもランダムに断続的なデータの断片でしかないためどれをどう繋ぎ合わせればいいのかさっぱり手掛かりがつかめない。
 しかも膨大な受信データの中からSSIVVAの放つデータだけを正確に篩い分けて解析しなければならないのだが、それを正しく行っているのかどうかも検証する必要がある。
 気が遠くなるような作業だった。
 実のところ、ファールヴァルトの技術陣は大きな壁に直面していたのだ。
 当初は送られてくるSSIVVAの情報を繋ぎ合わせて補完すればビーコンを取得する事ができ、すぐにでも救助隊を送れると思っていた。だが、その送られてくる情報は<<時系列がランダムに{・・・・・・・・・}>>送られてくるのだ。
 これは余りにも遠く離れた世界であるがために送られてくるSSIVVAの情報が次元のトラップに引っかかったりして時系列が掻き乱されて、ある情報のパケットが送られた時間よりも早くなって到着したり、逆に遅延して送られてくるのだ。その余りの途方も無い現象に智子たちだけでなく東京のプロメテウスのメンバー達も顔色を失っていた。
 それをどうやって必要な情報に纏め上げる事ができるのか、その手掛かりすら見当も付かない。
「少し休憩したら?」
 不意に掛けられた声に智子は思わず立ち上がっていた。
「せ、先生!」
 ショックの余り臥せっていたはずの葉子がクッキーとお茶を用意して現れたのだ。悦子と里香、それにユーフェミアとルエラもいる。
 とはいえ、暢気に休憩はマズイだろう・・・
 そう言いかけた智子の言葉を遮るように、ユーフェミアが優しく微笑む。
「お父様からも、少し肩の力を抜け、と伝言を受けています。余り気を張り詰めすぎると却って問題がこじれてしまいますよ」
 それはユーフェミア自身が父に言われた事だった。
 眞がフォーセリアから消滅し、異世界に飛ばされたと聞かされて卒倒してしまったユーフェミアだったが、何時までも気力を取り戻せない娘に語った言葉だった。
『儂は心配はしとらん。なぜならば心配する事ではないからじゃ』
 その言葉を聴いたとき、ユーフェミアは激昂の余りベッドから飛び上がらんばかりに父を見つめていた。
 しかし、その次の父の言葉に激しく胸を突かれた気がしていた。
『誤解をするな。儂が眞の事を気にしておらん訳ではない。だが、儂にできる事は碌に知りもしない知識を頼りにああでもない、こうでもないと思い悩む事ではないのじゃ。儂にできるのは、信頼する我が国の技術者と智子殿、そして誰よりも眞を信じて待つ事なのだ。そして眞が還ってきた時に滞りなくこの国が在る、その事を護らねばならんからの』
 自分にできる事を全力で行い、そして信じて待つ。
 それは何よりも勇気のいる事だろう。自分の娘婿として、そして軍の中核、政治の中心である眞を異世界に飛ばされて、その要石の失われたこの国を自分達だけで動かさなければならないのだ。
 軍はランダーとファーレン、そして亮と英二を中心に何とか動けている。そして政治は眞と共にこの国の基盤を構築してきた若い政治家や情熱豊かな官僚達が死に物狂いの努力で遂行されていた。
 そして自分にできない事を、それをできる人達を信じて任せる。
 それは為政者として長年、その権威を背負ってきたものが生涯を掛けて学んだ事なのだろう。
 父親が去った後、ユーフェミアは自分に何ができるのかを考えていた。
 眞を、そして自分の国の技術者達を信じて待つ事。それ以外のことは・・・
 と考えていたときに不意にドアがノックされた。
 誰だろう、と思ってドアを開けたところ、悦子が立っていたのだ。
 そして何時もの宝石のような輝きをした瞳でまっすぐユーフェミアを見つめて微笑む。
「ね、智子や技術者の人たちにおいしいお茶を入れてあげようよ!」
 えへへ、と恥ずかしそうに悦子が笑った。
「勉強だって同じだよ。あんまり根詰めていると頭がこんがらがってくるからさ、ちょっと休憩すると以外に進んだりするんだよね」
「ほ~、一時間の勉強時間中に三回も休憩するアンタが言う事は違うね~」
 里香がからかう様に突っ込む。
 あうあう、と慌てる悦子を見て、智子は久しぶりにほっとするのを感じていた。
 
 ファールヴァルト特産品の高級茶は流石に疲れた心に染み入ってくる。智子はそんな事を考えながら、(ババ臭くなったな、あたしも・・・)と自分で突っ込みを入れていた。
 しかし、肩の力が抜けたのも事実だった。
 それにしても、今にして思えば山にワンサカ生えていた毒草を、上手く加工してお茶にするという発想がこの国を危機から空前の繁栄に引き上げる最初の商いだったと思うと眞の発想の柔軟性に驚かされる。
 眞は中南米の歴史や政治に詳しかったため、そうした貧困層が何を頼りにするのかを良く知っていた。
 そうした国々ではゲリラが麻薬の原料になるコカを貧しい農民達に栽培させ、それを売りさばく事で莫大な金を得て反政府活動に利用している。それを知っているからこそ、逆に、コカの代わりに毒草を収穫し、それを薬やお茶に加工して売りさばくというアイデアが出てきたのだろう。
 そもそも、コカコーラもそのコカの葉を加工したエキスから作られていたし、現代でも麻酔の原料や末期癌の治療にもコカや大麻は利用されるケースもある。
 健康に良いとされている薬も度を過ぎれば危険な毒としても使える事を考えれば、薬と毒は基本的に同じものなのだ。
 毒草をそのまま輸出すれば大問題になるが、それを加工して薬にすれば問題は無い。
 ましてや、他の国では生産のできない魔法の薬にすればその価値は天文学的なものに跳ね上がるだろう。同じ発想で、香草茶というものを生み出して、眞はそれこそ想像を絶する莫大な金品を手にして行商から帰ってきたのだ。
「あれからもう三年。長かったのやら短かったのやら・・・」
 日本は、というよりも元の世界はまるっきり変わってしまったらしい。
 それも眞が日本にいたときに作り出していた『プロメテウス』という組織がその中心となって動いていたのだという。
 良くも悪くも、眞は二つの世界の変化の中心にいたことになる。
 そう思いながらも、その激動の時代の中でその中核にいられる自分は幸せ者なんだろうな、と思う。
 エンジニアとして、ハッカーとして、技術のパラダイムシフトの中で自らの生み出すものが世界を変えていくというチャンスを与えられている自分がどれ程幸運なのか、恐らく先生達には実感ができないんだろうな、と考えていた。
 しかし何とかリラックスを、と考えていても頭の中にはぐるぐると解析途中のデータと今の壁が回っている。
 不意に里香ののんびりとした声が耳に入った。
「それにしても、このお菓子、美味しいよね~。昔からファールヴァルトに伝わっているんですか?」
 ユーフェミアが笑って答えた。
「ええ。このお菓子の製法は一度失われたんだそうです。それを近年になって菓子職人の方々が復興したと言っていました」
「へぇ~、でも一度なくなっちゃったお菓子の味を取り戻すのって難しくないの?」
 それは最もな疑問だろう。
 お菓子で一番大事なのは何よりも味と食感だ。
 それが失われたものを取り戻す、といっても実際にどうやって検証していいのか判らない。
「ええ。幸いにもある村の相談役を勤めておられた一人のお婆さんがそのお菓子を食べた事があると言われて、菓子職人の方がそれを頼りに復刻したのだそうです」
 まず食感と見かけを聞いて、それを味を度外視して外見と噛んだ時の感触を頼りに原材料と製法を推測し、そして同時に味の分析を進めるのだ。そして匂いや食べたときの風景などをも聞いて最終的に間違いない、という物を作り上げたのだという。
「風景まで!?」
「そうです。何でも、風景がそのお菓子に限らず調理方法を推測する大きなヒントになったらしく、一番の難関だった窯の温度と焼き上げる時間を導き出せたそうです」
 何かが引っかかった。
 風景・・・つまり、実際にはお菓子自体とは直接の関係を持たないもの。それがお菓子を焼く際に必要な窯の温度と調理時間を決定する重要なキーとなった。風景からは焼く時間帯や季節、それによって絞り込める原材料、外気温度、などが推測されて、それに関連する副次情報もまた意味を持つ事になる・・・
 そして眞のSSIVVAから得られる情報にも背景を示す情報はある。
 思わず智子は飛び上がっていた。
 ぎょっとして全員が智子を見つめる。
 しかし、呆然とした表情で智子は宙を見詰めていた。
「風景が・・・窯の温度と焼き上げる時間を導き出すヒントだった・・・つまり、情報は私達が解析しようとしている抽出されただけのデータではなく、背景も同時に分析しないといけなかったんだ!」
 その智子の言葉にじっと押し黙ったまま黙々とお菓子を頬張っていた技術者達も顔を見合わせて、そしてお菓子をじっと見つめる。
「その通りです・・・その風景とは量子輻射であり、ビーコンのベースガイド信号をキーにして背景をマスクすれば!」
「行けそうだね・・・!」
 智子はがばっと振り返ってお茶を準備してくれた女達に礼を言った。
「ありがと! お菓子の話が無かったら私達、気が付かなかった!」「ありがとうございます!」
 技術士官達も口々に礼をいい、そして大慌てて解析を再開し始める。
 残された葉子達は一瞬、呆然としたものの何かが大きく前進した事だけは理解していた。
 
 
 

~ 2 ~

 
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