~ 3 ~

 老人はベッドで安らかな寝息を立てる少年を見ながら力無い溜息をつく。
 既に起こしてしまった事だった。
 この異世界の知識を持つ少年を引き渡して、その見返りにその国から保護を受ける、という契約が既に成立している。
 彼の祖国であった貧しくも小さな、平和な国はもはや何処にも存在しない。
 だからこそ、彼は全てを捨てて、そしてあの邪悪な怪物と化したかつての祖国を元の平和な小国に戻してくれる力を欲したのだ。
 皮肉なものだといえる。
 自分が平穏を求めて、生まれた祖国を討ち破るために更なる力を求めるとは。だが、そんな矛盾にすら気付かないほど彼は疲れきっていたのだ。
 だが、少なくともこの国に居れば戦争に巻き込まれて死に逝く人々の姿に苦しめられる事は無い。
 この西の魔法王国は彼に安住の地を約束して、それを得る代償に老人は祖国に対する裏切りとも言える機密情報の持ち出しを行ったのだ。
 建国以来四百年を超える歴史の中で、この国は唯一度たりとも他国を侵略して征服した事が無い。
 だからこそ、その国の騎士の言葉を信じる事が出来た。
 しかし、それでも良かったのだろうか・・・
 いや、もはや考えるまい。たとえ考えたところで、既に起こしてしまった事実は覆らないのだから。
 その老人の姿を見て召使の少女は恭しく礼をしながらお茶を準備する。
 実に手馴れた仕草でお茶を準備しながら、少女は極自然な様子で老人と未だにベッドで眠る少年を観察していた。
(よく眠っている。そしてオルフォード卿は未だに精神的に動揺が見られる、か・・・)
 この魔法王国にも当然の事ながら盗賊ギルドが存在し、そしてその盗賊たちの中にも魔術師は少なくない。
 一般的にラムリアースは魔法王国として知られ、自らは対外戦争を仕掛けない国であるという認識からか、他国からは平和と伝統の国として見られている。だが、それはラムリアースのもつもう一つの姿を覆い隠すヴェールに過ぎない。
 ラムリアースは建国王がカストゥール王国人であったという伝説があるほどで、その魔法文明のレベルは他国とは一線を隔すレベルにある。
 当然の事ながら、ラムリアースでは一般の国民も貴族達も魔法に関しては極当たり前に身近なものであると感じている。
 かつてファン王国が暗黒司祭クラークによって乗っ取られ、そしてラムリアースを滅ぼすための戦争を仕掛けてきたとき、その動きを巧みに察知して反撃をし、逆にこのファン王国を滅ぼしてしまったのは遠い昔の事ではない。
 それを可能にしたのはラムリアースが運用している魔法を使う密偵による諜報活動によるものだった。
 魔法は火球の呪文だけではない、というのがラムリアースの騎士団が常に考慮している事であった。そうした実力を持つ存在がオルフォードの動揺を上手く利用して、自ら裏切らせるように仕向けるのは赤子の手をひねるよりも簡単なことだっただろう。
 奪取したナイトフレームの解析は徐々にではあるが進められ、ラムリアースの総力を結集して独自のナイトフレームを開発、運用するために基盤整備が急がれている。
 まだ若いフレアホーン王は良い顔をしないだろうが、この国の実権に大きく食い込んでいる貴族達にとってはこうした魔法兵力を拡大する為の作戦は彼らの権力を大きく補強する事を意味するため、非常に利益が大きいのだ。
 それに先の内乱でフレアホーン王は彼を支えてくれた貴族達に大きな借りを作っている。ラムリアース王国に被害が出ない限り、この若い王は彼の政治基盤である貴族に対して強い態度には出ることができないのだ。
 隣国のオーファンがファールヴァルトと独自に同盟関係を結んでナイトフレームを導入する事を決めた事も、彼らにとっては警戒すべき事態だった。
 長い歴史を誇るラムリアースの貴族にとって、同盟関係とは永遠に続くものではない事など当たり前の事実でしかない。それに依存して警戒を怠ったものは常に滅びの結末を迎える事を長い年月の間に幾らでも見てきているのだ。
 今回のオルフォードの離反を誘導したのがラムリアースの仕業であることが判明し、結果としてオーファンとファールヴァルトの関係が拗れれば、それはそれでラムリアースの利益になる。
 ファンドリアとの状況を考慮すればオーファンはラムリアースを切ることは出来ない。
 そうした読みがあったからこそ、このような大胆な作戦が実行できたといっても良かった。
 いずれにしてもラムリアースとしては最新の軍事展開に目を背けて時代の流れから取り残されるわけには行かないことから、こうした行動を取るのはある意味で必然的な事だったともいえる。
 そのような背景があることとは想像さえもできなかったオルフォードは、ただ単純に安らげる場所を提供してくれるとの申し出に乗って此処まで来たのだ。
 ある意味ではオルフォードは純朴な田舎者だったといえるだろう。
 それは決して悪い事ではないのだが、経済大国、軍事大国として世界に対する影響力を大きく拡大している国家の政治家として、宰相としては余りにも不釣合いな事ではあった。
 その時、オルフォードの感傷を断ち切るように豪華な扉を叩く音が響いた。

 ラムリアース王、フレアホーン・ラドクリフは険しい表情で極秘裏に報告された事態について考えを巡らせていた。
 ファールヴァルトから宰相オルフォードが出奔し、行方不明となった事は既に報告があげられていた。だが、その数日後に夜の闇に紛れるようにラムリアース領内にで空を大な影が横切っていった、それが山の奥に隠れるように消えていった、という村人達の噂話が王宮お抱えの密偵の耳に入り、報告が為されたのは既に一ヶ月近くが経過した後の事だった。
 そしてその地域を領地としている貴族の動きにも微妙な変化が感じられたのである。
 フレアホーンとしては今、アレクラスト大陸の各地で繰り広げられている軍拡競争に巻き込まれてラムリアースも今までの路線を放棄、対外拡張路線へと国の政策が進められる事を非常に警戒しているのだ。
 四百年を超える歴史の中でラムリアースは一度としても対外拡張戦争を行った事は無い。
 その伝統が大きく塗り替えられようとしているのかもしれない、と激しい危惧を感じていたのだ。
 だが、長い歴史を誇る国家であるが故に貴族達の関係や王家との力関係は怖ろしく複雑に絡み合っている。その上、先の内乱でフレアホーンは多くの貴族達に大きな借りを作ってしまっている。
 この事態で勝利を収めた戦勝派の貴族達は勢力拡大の為にあらゆる手段を講じ始めている。
 そしてそれを押さえ込むにはこの若い王の力には限界があり、そして貴族達の力は強大だった。
 正直なところ、魔法像iゴーレムjを知的に制御して防衛用に国境付近に配備する事さえフレアホーンは反対の立場だった。だが、ファンドリアの魔人部隊やロマール大貴族派のホムンクルス兵士部隊の存在が明らかになり、同盟国であるオーファンが危機的な状況に追い込まれてファールヴァルトからナイトフレームの供与を受けた事を知らされて、やむなく承諾したという経緯がある。
 そうした情勢に引き摺られて果てしない軍拡競争に巻き込まれることだけは何としても避けたかった。
 この軍拡競争には剣の国の美しき魔女も憂慮の念を抱いている様子だった。
 ファールヴァルトの立場からすればやむをえない判断だったとはいえ、それがこれほどまでに世界に対して影響を与えてしまうとは神々でさえ想像が出来なかっただろう。
 ファンドリアの魔神軍団、ロマール大貴族派のホムンクルス兵団、そして西部諸国にある盗賊都市ドレックノールで進められていたと言われている魔獣部隊、そして海賊ギルドで研究されていた魔獣研究。
 ファールヴァルト以外にもこれほどまでに危険な研究が進められていたのか、と空恐ろしくなる。
 人はこれ程までに野心を抱いてしまうのだろうか。
 フレアホーンは丹精に整った美貌に憂いを浮かべる。
 だが人の心は弱い。
 既に強大な大国であるラムリアースの人々は、隣国に自分の国の数倍、数十倍の力を有する存在がいることの恐怖を理解できていなかった。その恐怖は力を求め、そしてその得た力は同じような立場の別の国を刺激する。
 世界から軍拡競争がなくならない根本的な原因の一つであった。
 だからこそ、フレアホーンは理想を信じたかったのである。
「フレアホーン陛下、ちょっと宜しいでしょうか?」
 その時、一人の騎士がフレアホーンに声をかけた。

 深い森の匂いは懐かしさを感じさせると共に、自分がどれほど長くこの森を離れていたのかを実感させてくるものだった。
 ティエラは久しぶりに訪れる自分の生まれ育った集落に懐かしさを感じていた。
 ファールヴァルト王国と獣の民の同盟と信頼関係の証として、異世界から現れた魔法騎士の元に彼女が赴いてから三年の月日が流れている。
 最初はただのひ弱な子供だと思っていた。
 あの日、彼女が始めて眞と出会ったときのことを思い出す。
 正確に言えば彼女が眞を初めて見かけたときのことだ。
 やたらと小奇麗な革鎧を着た細い少年。確かに腰には曲刀らしい剣を佩いているのが見えるのだが、あの細腕でこの森に棲む魔獣と渡り合えるとは考えられなかった。
 集落の占い師は今日、はるか遠い国から世界を変える者が現れる、との未来を見ていた。そして彼女がその男の運命に関わり合いを持つと伝えてきたのだ。
 そして日中にそれが起こった。
 突如として起こった地震。そしてそれの原因によって起こった魔法的な事故。
 やはり少年は現れていた。だがその外見は自分が想像していた逞しい勇者ではなく、細い線の少年だった。地震の調査に向かう兄ダーレイに無理を言って連れて行ってもらった挙句に見つけたのがあんな華奢な子供だったとは。
 呆れかえって物も言えなかった。
 しかしその少年に抱いた感想はその夜のうちに変わる事となった。

 少年の頭に向かって叩き付けられるように振るわれた巨大な斧。しかし、その空気が歪むほどの威力で振るわれた斧の一撃を少年は完全に見切っていた。
 傍らでは銀色の鎧を着た騎士がゴブリンの王を相手に凄まじい戦いを繰り広げている。
 人間の戦士達は数に勝る妖魔に一方的に追い込まれて、敗北は時間の問題だと思われていた。その光景を木陰からじっと観察する彼女の兄と部族の戦士達は醒めた眼差しで見詰めていた。
「あの子供、遊んでやがる・・・」
 楽しげな、しかし呆れたような声で兄が呟いていた。
 まだ年端もいかないような少年が大人の騎士ですらまともに戦っては危険な牛頭魔人iミノタウロスjを振り回しているのだ。その凄まじいまでの斬撃を紙一重の間合いで見切り、そして流れるようにその剣を操って着実に魔獣に打撃を与えていく。まるで剣舞を踊るように流麗で、美しい殺し合いだった。
 どういう風にあの不利をひっくり返すのか見てみたい、と言っていた兄でさえ言葉を失っていたのを見て、ティエラは繊細なように見えた少年に対して抱いていた感想を少しだけ修正する事にした。
 やがて不意に攻勢に切り替えた少年が数度、凄まじい剣戟を牛頭の魔人に叩き込む。辛うじて最初の数度の攻撃を受け止めた牛頭の魔人だったが、次に真上から振り下ろされた少年の剣を受け止めたと見えた瞬間、その頭が胸元まで真っ二つに叩き斬られて力無く膝を突き、どうっ、と倒れこんだ。
「な・・・」
 兄が驚愕の声を上げたのを聞いたのはどれくらい振りだろうか。
 戦士で無い自分には判らないが、あの少年がして見せた事は部族一の戦士である兄が驚愕を覚えるほどのものなのだろう。
 最強の戦力である牛頭魔人を倒された事で一気に戦意を喪失したゴブリン達は我先にと森の奥へと逃げ帰っていった。
「強い・・・」
 思わず見惚れてしまう。
 彼女達獣の民はその名の通り、獣に変身する能力を持つ部族だ。当然ながら強い者が部族を率いる長となり、そして戦士達はその誉れと共に部族を護る存在だ。
 その獣の民の女にとって男とは強い存在でなくてはならない。そして目の前には部族一の戦士である兄をも驚愕させる強さを持つ男が居る。
 この時にティエラの心は少年に囚われてしまったのかもしれない。

「そうか・・・。ならばあの若者は未だ死んだと決まったわけではない、か」
 老人が安堵したように呟いた。
 その老人の前に畏まった様子で座っていた青年が黙って頷く。
 まったく、あの少年が居なければ様々な面での課題が即座に頭を擡げてくる。
 この獣の民とて例外ではない。
 強大な大国となりつつあるファールヴァルトの中心的なグループとして騎士団や軍にも人材を出している獣の民ではあるが、その文化的な特性からか政治の内部で力を発揮できるものは限られてる。それを不満に思う者達も少なくは無かった。
 ファールヴァルト正規軍の一つ、ナイトゴーンツの隊長の一人として選ばれているダーレイや銀の剣騎士団、ミラージュ魔法騎士団に在籍する何人かを除けば軍の幹部としての立場を得ている人材も少ないのだ。
 ダーレイがナイトゴーンツの隊長であるとはいえ、その宮廷での権力基盤は友人である近衛騎士隊長ランダーとの友好関係に依存するという細いものだ。そしてこれから人口を増やして更なる発展を目指すファールヴァルトの内部にあって、その権力闘争は凄まじいものがある。
 自然の中で自由に暮らしてきた彼ら獣の部族の者にとって、宮廷での権力闘争は今まで一度も経験したことが無い。そのため、政治の主流にはなりきれていない事で不満を抱くものも少なくは無かった。
 ダーレイにしてみれば、政治権力を持って何をしたいのかを見極めないままに権力を欲するのは本末転倒だと感じられる事だったが、それを見定めている間に政治的な中心勢力を他の民族やグループに占められてしまうのも問題があることは承知していた。
 皮肉な事に眞の元にティエラが居るからこそ、獣の部族は政治的な力を発揮できていると言っても過言ではなかった。
 そして中央での政治権力として振舞う事ほど彼ら獣の部族の本来の生活や文化からかけ離れたものは無い。
 その大きな矛盾が獣の部族に重く圧し掛かっていた。
 長い歴史をもつこの部族にとって、厳しい変革の試練を突きつけられているのだ。
 そして今回、眞が行方不明となった事で獣の部族の若者達の中にはファールヴァルトから離れて再び独立した部族として自治を行おうという動きすら出ていたのだ。
 幸い、眞が生存している事が確認されて救助活動が始まった事でそうした動きは鎮静化しているものの、いつ、それが燻り出すのか不透明な情勢だった。
 もちろん、獣の部族の長達も無策でいたわけではない。
 有望な若者や青年を魔術学院に送り込み、魔術師としての修行を積ませたり賢者として勉強をさせて国政に参加できる人材を輩出しようと努力を重ねていた。
 だが通常、魔術師を一から養成する場合、三年から五年は掛かる。一般的な魔術師-それでも一般人よりは十分に頭が良い-でも最低五年は掛かる。そしてこれ程の時間を掛けて勉強しても、最初歩の呪文を唱えることができる魔術師がやっとなのだ。それから遥かに長い年月を更に費やして高度な呪文を唱える事が出来る高位の魔術師が育っていく。しかし、それには何十年という時間が必要になるだろう。
 眞は元の世界に居たときに魔神から直接古代語魔法の知識と力を奪い取り、自らのものとした後に自身の努力で僅か数年後には高位導師級の魔術を修めている。今では精神を集中させれば何とか奥義の呪文さえも唱えられるほどだ。
 だが、世界には眞のような天才は数えるほども居ない。いや、歴史上ですら殆ど居ないだろう。
 そんな天才と比べるのは酷というものである。
 しかし、現実にそのような人物が存在しているとつい、比較してしまうのも人情である。それがファールヴァルトの若者達にとって大きな不幸でもあったのだ。
 
 ファールヴァルトにおける今の大きな民族勢力はおよそ五つに分けられる。一つは元々のファールヴァルト王国を形成していたファールヴァルト人。白い肌と淡い金色の髪、そして緑の瞳が特徴的な民族であり、この極東地方には珍しい民族だった。
 その人口は一万人強で人口の約六割を女性が占める、という人口構成をしていた。それは長い年月の間に飢餓状態に近い栄養状況が産まれる男女比を変化させて、それを固定化させてしまったのではないか、と考えられていた。
 そして約六千程の部族が竜の部族と呼ばれる少数民族である。
 彼らは竜に対する信仰を持つ珍しい部族で男の多くが戦士であり、ファールヴァルト軍に多くの義勇兵や戦士団を送っている。そのため、ほぼ完全に近い自治権を王国から保証されているのだ。
 だが、その彼らの中にも王国の中で文明化された生活を送ろうとしている者たちも居る。そしてその中からは竜戦士団が生まれ、そして老竜ヴァンディールを従える眞を宗主と崇める強固な一派が生まれているのだ。
 彼らは竜を支配する眞こそが彼らを統べるものであるとして、王国と言うよりはむしろ眞に対しての忠誠心をもつ有力な軍事勢力として大きな発言権を持っている。
 そして旧プリシスの住民も無視できない勢力を持っていた。
 長い間の対ロドーリル戦争に耐えてきたプリシスの民は漸く戦争の重圧から解放された事でファールヴァルト内で大きく活動の場を広げている。行商人達は今までの儲けを取り戻そうとするかのように活発に商いの場を広げ、そして旧琥珀の騎士団はファールヴァルトの正規騎士団である銀の剣騎士団に編入されて活躍の場を与えられている。
 敗戦により併呑されたわけではないため、彼らの処遇も不利益を蒙らないように考慮されているために全体としてファールヴァルトへの同化が尤も進んでいる勢力であった。特に国王であったセファイルはそのまま都市プリシスの太守としての地位が与えられ、そしてその娘であるエリステスも次期ファールヴァルト国王としての地位を固めている眞の第四夫人として迎え入れられているために政治的にも堅実な基盤が築かれつつあった。
 貴族社会に慣れていない獣の部族とは異なり、旧プリシスの民は比較的順調にファールヴァルトの体制に溶け込んでいる。またファールヴァルトの貴族側も婚姻関係を結ぶなどして積極的にプリシス側の人間を受け入れているため、他の勢力の予想よりも早くファールヴァルト王国に浸透してその結果、貴族社会においても有力な勢力だった。
 これに比べて旧ムディールの領民は基本的に貴族社会には取り込まれていない。というのも人口が余りにも違いすぎるため、ファールヴァルト本国の政治や実態を掌握される危険性があるため、あくまでも被支配者としての権利のみが認められている。そして領主や統治者側は逆にファールヴァルト側の人間だけが認められているため、立場が異なる事を明白にする施政が行われていた。
 人口が一番少ない勢力の一つとはいえ、ファールヴァルトの元々の民は上級貴族や高級官僚などの要職を完全に支配しているため、事実上の支配階級にある。
 国家の財政が改善されてから急速に人口が増え始め、あと数十年もすれば今までの数十倍の人口にまで成長するであろう事が予測されていた。そのため、急速に膨れ上がる人口を支えるための政策が最優先で執られている。
 こうした中で独自の民族性故に存在感を発揮できないのが獣の民だったのだ。
 そのため、眞の第三夫人として嫁いだティエラの存在が極めて重要な意味をもっている。もし、彼女が居なければ獣の部族は民族として主流派から外れて冷遇される危険性もある。そのため、彼女がどれだけ眞の寵愛を受けるかが部族の大きな関心だった。
 とはいえ自分の立場に政治が絡む事をティエラは決して良い感情で受け入れているわけではなかった。
 自分が眞と一緒に居るのは政治的な理由だけではなく、彼女自身の気持ちがそれを望んでいるからであり、眞がそれを受け入れてくれているからこそ、一緒に居られるのだと思いたかった。
 実際に、眞は獣の部族を頼らずとも自力で政治的な基盤を確立できるだろう。彼が掌握している勢力だけでも政府の財務部門、そして経済流通の各ギルド、魔術学院と魔法騎士団、文官の若手改革派など、非常に大きな影響力を確保しているのだ。
 だからこそティエラは自分の存在に眞が政治的な意味を重ねているとは考えていないし、逆にそれだからこそ部族の大人たちの考えに違和感を感じていたのである。
 事実、眞はこうした権力基盤の構築を誰にも頼らずに自らの努力で成し遂げてきたのだ。
 その上でダーレイを夜魔騎士団iナイトゴーンツjの隊長として取り立てて、何人もの戦士を銀の剣騎士団に推挙したり、自らの騎士に取り立てるなどの便宜を図ってくれているのだ。
 実際にダーレイは子爵位を与えられている堂々たる貴族であり、他にも数名の男爵位を与えられた騎士も輩出している。そして魔法兵団や文官にも人材を受け入れられ始めていることから、今の努力を続ければ眞は必ずそれに応えてくれるだろう。
 しかし、部族の何人かの有力者はそれを遅々とした歩みだと苛立ちを隠せなかったのだ。
 具体的な政治の事は判らないものの、ティエラには眞や魔術師ルエラとの会話、ファールヴァルト王女であるユーフェミアとの親交などで能力の育っていないものがそうした立場に付くことの危険性を薄々感じていたために、時間を掛けてゆっくりとそうした人材を育てていく事を納得していたのである。
 だが、それを納得できない部族の男達は早くティエラに眞との子を為して一刻も早い実権の確立を、と願っていたのだ。
 特に今回、眞が行方不明になった事で部族の者達がこれほどまでに動揺するとは想像さえできなかった。
 眞が救助されて施政に戻っていると言う話を聞かされて、次にそうなったときの事を考えての意見なのだろう。
 正直言ってうっとおしい話だと思う。
 少なくともそうした政治的な理由で子を為す、というのは部族本来の伝統である自然な恵み、という考え方とは大きく異なる話のはずなのだが、そうした事を考えられないほど彼らは追い詰められているのだろう。
 少女の翳った表情から何かを察したのか、部族の長老である老人が優しく声をかける。
「ティエラ、他のものがどう言おうが気にする事は無い。眞は我らの部族の守護と盟約を交わしてくれたのだ。その事だけを心に留めておくがよい」
 それは眞が獣の民をファールヴァルトの国民として迎え入れるとして同盟を図ろうとしたときの事だった。それに反発をした部族の有力者が、眞にそれを為すだけの資格があることを証明しろ、と迫ったのだ。
 眞はそれに応じていた。
 だがその『資格』を示す、という行為が何なのか、ティエラは聞かされていなかったのである。
 そしてその“証”の儀式を聞かされて血の気が引いていた。
 それは古代から伝わる儀式だった。
 彼ら獣の部族の守護者たる“獣王”の許へと赴き、そしてその承認を得てくる、というものだった。
 だが、この儀式に成功したものはここ数百年の間に一人も居ない、という試練だったのである。
 その凄まじい試練に眞は打ち勝ち、そしてその事実に部族の人間は誰一人として反対をする事ができなくなってしまったのだ。
 その時に最も強硬に反対していた若者は今では最も眞を信奉している部族の戦士の一人で幻像魔術騎士団の一人として眞と共に最も厳しい戦場に立っている。
 既にアノス戦役、続くムディール戦役でも武勲を挙げて騎士団の中でも高い評価を得ている彼の存在が無ければ、あの時、眞が消滅したと思われて大混乱をきたしたときに獣の部族はファールヴァルトから離反していたかもしれないほどだった。
 その眞の政治的な立場を複雑な想いで考えているのは彼女だけではない。悦子や里香、葉子たちも慣れない政治の駆け引きに相当疲れている。
 彼女達“異世界の姫”達は政治的にも非常に繊細な立場だった。
 眞や亮、英二達と個人的な知り合いであるというだけでなく、同じ異世界からやってきた、というだけで取り立てて特別な技能や知識を持つわけではない。そうした彼女達は眞の個人的な寵愛を受けているからこそ今の立場を維持できている。
 そのような立場に獣の民の中から不満の声が上がるのは当然といえば当然だった。
 とはいえ、そもそも眞がファールヴァルトを豊かにしたのは自分の安全保障のみならず彼女達の為でもある。逆を言えば彼女達の存在こそが眞にファールヴァルトを強大で豊かな国にするという道を選ばせたのだ。であるならば悦子たちを否定することは今の現状を否定することになる。
 少なくとも眞の政治的、軍事的基盤は獣の民に依存していない。それに対して獣の民は眞と、眞に娶らせたティエラの動向に大きく影響を受けてしまうのだ。
 そうした状況だったがために、ティエラは久しぶりの帰郷のはずが政治的な話をたっぷりと聞かされる羽目になったのだ。
 いいかげんにしてよ!、と叫び出したいところをぐっと堪えて、彼女は只管その面白くも無い話につき合わされていたのであった。
 
 
 

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