~ 4 ~

 オルフォードは自分の館の庭にあるテラスに佇み、心地よい風を感じていた。
 それにしても、あの少年の手際のよさ、準備の周到さには驚きを隠せなかった。あろうことか、自分の影武者まで用意して不測の事態にまで対応できるようにしていたとは、驚きを通り越して恐怖すら覚える。
 あの瞬間、オルフォードは眞が炎の精霊王と共に消えうせた事を聞かされ、衝撃と共に心の何処かで安堵を覚えていた。
 これで漸くあの少年からこの国は解放される、と期待していたのだ。
 しかし、ファールヴァルトの騎士や文官、貴族達どころか大多数の国民達はあの魔法騎士が失われたことを嘆き悲しみ、そして再び目の前にその姿を確認したとき、何もかも忘れたかのようにその帰還を喜んでいたのである。
 オルフォードと数人の文官、そして古くから使える騎士達のうちの何人かは、その事に深い憂慮を覚えていた。
『眞様が帰還なされた! これでいかなる強敵が攻め込んできても恐れるに足りん!』
 そうした威勢の良い言葉を聴くたびに、オルフォードはこの国が既につい数年前の貧しいながらも、それ故に争いから無縁で居られた小さな国でなくなってしまったことを思い知らされていたのだ。
 それはこの場に集まっている古参のファールヴァルト王国の重鎮達も同様であった。
 急速に発展し始めたこの国の勢いにもはや彼らは圧倒されるばかりだったのだ。
 普段ならばこれ程の人数で集まれば叛乱を疑われる可能性も捨てきれないのだが、眞の捜索に人員を割いている今ならば、機会は十分にあるはずだった。
 もう既にある程度の準備は進んでいる。
 遥か西の国であれば、例えファールヴァルトの特務機関とは言えどもそう簡単には手を出せないはずだ。
 
 加藤良樹は珍しく行政部の文官に招かれていた。
 もっとも加藤も王宮に詰めて働いている身分であり、また軍の開発部に属することから、こうした食事の席に呼ばれることは珍しくなかった。
 かつては違いばかりが目立った加藤たちユーミーリアの現代人とフォーセリア人の文官たちも、今では心地よい一体感さえ覚えるほどに打ち解けている。
 それは眞一人の功績だけでなく、加藤たち自身も積極的にこの世界に溶け込もうと努力を積み重ねた結果だった。
 コンピュータやネットワークシステムの概念さえまるで持っていなかったファールヴァルトの貴族達や官僚達に新しいシステムの使い方を教え、そしてそれを常にサポートし続けてきた彼の存在は、文官たちの間ではある意味で眞以上に親しみがある。
 そんな加藤の存在はファールヴァルトの文官達と彼ら現代人を結びつける大きな役目を担っていた。
「わざわざお越し頂きまして、恐縮にございます」
 丁寧にお辞儀をして迎える若い文官に加藤も丁寧に礼を返した。
 既に加藤自身もナイトフレーム開発で重要な役割を果たした功績を評価されて、男爵位を授かっている。身分が低いとはいえ、立派な貴族の一員である以上、爵位を持たない文官より高い地位にあるのだ。
 既にフォーセリアに彼らがやってきてから三年という時間が過ぎている。
 線の細い少年でしかなかった彼らも、もう十八歳、アレクラスト各地では成人と認められる年齢となっていた。厳しい時間を過ごしてきた彼らは、もう年齢以上に大人びた表情を見せるようになっている。
 そんな若者を招き入れた文官とその家族は朗らかに会話をしながら今で寛いでいた。
 東方語での会話ももうすっかり慣れた。
 加藤自身、眞に教授してもらいながら必死で勉強した甲斐もあって、既に実力だけで正魔術師級の呪文を唱えることが出来る。その上で、付与魔術の使用を可能にする為の魔法の発動体を身に付けているため、ファールヴァルト王国の魔法科学開発機関、『ダイダロスの金床』でも中心的な人材として活躍していたのだ。
 少なくとも加藤は、今のファールヴァルトでさえ数えるほどもいない魔道操騎兵開発者ナイトフレーム・デザイナーの一人である。
 そうした自負が、かつては冴えない少年だった加藤を自信に満ちた青年へと成長させていた。
 それでも、家族から遠く離れた異世界で一人住む彼にとって、一家団欒を楽しむ目の前の家族に対しての羨望感は自分が予想していたよりも遥かに大きなものだった。
 もちろん眞だけでなく彼らも全力で元の世界に帰還すべく、調査活動を行っている。だがその反面、もし元の世界に帰る方法を見つけたとして、本当にただ喜んで帰るだけで良いのだろうか、という疑問もその心の中にあった。
 心の中にある微かな葛藤を胸の中に押しとどめて、加藤は笑顔で会話を続けていた。
(ずいぶんと酔っ払っちゃったな・・・)
 ふと我に返って、自分がかなり酔っていることに気が付く。
「あらあら、もしよろしければ少し休まれてはいかが?」
 文官の母が優しく休憩を勧める。
 しかし、酔いつぶれて人の家で寝込むなど、恥ずかしい真似は出来なかった。
「いえ、何とか帰りますので、どうぞご心配なさらないでください」
 だが、そう言いながら立ち上がった瞬間、加藤は視界がぐにゃり、と歪んで目の前が真っ黒になったのを覚えていた。膝から力が抜けてがっくりと崩れ落ちたその姿を見て、その文官の母は相変わらず優しく微笑んでいた。
「眠り込んだようね。作戦の第一段階は完了したわ」
 ぱんぱん、と手を叩いて人を呼ぶ。
 扉が開いて数人の男が部屋に入り、恭しく一礼をしてから加藤の身体を抱えて部屋から運び去っていった。

 ファールヴァルトにはアレクラスト大陸でおそらく最初であろう空港がある。
 その警戒レベルは現在、最高レベルにまで高められていた。
 つい先日、オーファンに移送している最中の航空艦隊から輸送船一隻を丸ごと奪われる、という失態を演じたばかりのファールヴァルト航空輸送隊は、これ以上のミスを生み出さないようにするため、徹底した警戒態勢を整えていたのである。
 強奪された輸送艦は眞たちの予想通り、ロマール新貴族派の手に渡り、彼らの母艦として運用され始めたことを確認している。
 もちろん厳重な抗議を行ったものの、実際にロマール新貴族派から手を引くことは大貴族派を利することになり、その結果ホムンクルス兵士を使う軍勢を利することになる、との判断から決定的な関係断絶を取る事も無く、事態は何も変わらないまま膠着状態に陥っていた。
 巨人の如き体躯をした巨大なホムンクルス兵をも操る大貴族派に対して、全滅寸前にまで追い込まれていたロマールの新貴族派は、すんでのところでナイトフレームを前線に送り込むことに成功し、その圧倒的な火力で一気に大貴族派の軍に大打撃を与えたのである。
 尤も、僅か三機のナイトフレームを深入りさせることも出来ず、また、被害の多い自軍を放ったまま進行することも不可能だったため、新貴族派も兵を引いて、今は完全にお互いの様子を見ている情勢だった。
 そのことに危機感を高めたのが西武諸国、特にロマールと国境を接するベルダインだった。
 先のロマール戦役の被害が癒されないこの時期に、その国の内部で魔法で生み出されたホムンクルス兵と魔道兵器が激突するという凄まじい内戦が繰り広げられているのだ。
 どちらの軍勢が負けたとしても、その勢力が決定的な敗北を喫する前に国境を越えて西部諸国に侵入してくる可能性がある。そうすれば、今の人間の騎士だけで編成されている西部諸国の軍はひとたまりも無いだろう。あのホムンクルス兵の軍団は間違っても今の西部諸国の軍勢が勝てる相手ではなかった。
 ましてやあの魔道操騎兵となれば言わずもがな、である。
 西部諸国の人々はその隣国の騒乱の行方を固唾を呑んで見守っていた。
 しかし、それとてもこのファールヴァルトのある極東にとっては遠い話だった。
 そうした空気が流れていた事やムディール解放を目指した反乱軍を撃破したことから、ファールヴァルト国内の緊張感が多少緩んでいたとしてもそれを責めるのは酷だろう。
 ましてや一般人や下級兵たちにとって魔道兵器を用いた戦争は、物語のような話だ。
 戦闘が終わってから臨戦態勢を解いた貴族達は、たまの休みに自分達の所有している飛行ヨットで遊びに出かけることも多くなっていた。
 そんな中で、如何に警戒していたとしても上級貴族を相手にしたチェックが甘くなるのは仕方が無いことだろう。
 見事な流線型を描いた船体が流れるように地上ドックに接舷されていく。
 付与魔術により軽量化処理を施された鋼鉄製の船体は、まるで金属製の船とは思えないほど軽やかに船首を切り返してゆっくりと地上から伸ばされた接舷用のアームに船体横のハッチを固定させる。全長三十メートルほどの船は輝かんばかりの純白に塗装され、飛行用のマストとセイルを折りたたんでいた。
 この船は上級貴族用に建造されているだけあり、下手な軍用艦と比べても遜色の無いほどの武装と装甲を誇る。
 ファールヴァルト軍の誇る防御フィールドシステムと装備すると同時に各種魔法兵器も装備され、軽量級の駆逐艦にすら匹敵する戦闘能力がある。また、四機までならナイトフレームを格納することが出来るため、緊急時にはファールヴァルト軍によって艦隊の一部に編入されることも考慮されている。
 そうした運用を考慮しても、この船は非常に高性能なエア・クルーザーだった。
「オルフォード卿、乗船の準備が整いました」
 地上管制官が接舷を確認して乗客に敬礼をする。
 そこに待機していたのはオルフォードと彼の妻、そして供をする数名の侍女や騎士達だった。
「ご苦労」
 優しく声をかけて、オルフォードはリフト・ステージに乗り込む。リフト・ステージはエレベーターのような箱状の待合室で、接舷アームに添って上昇、下降をして乗組員を運搬するのだ。
 ちらり、と下を見ると今回の旅に持っていく荷物が順次格納されていくところだった。
 透視装置やセキュリティシステムで検査されているのを見ながら、微かに緊張の表情をしていた。若い管制官は慣れないエア・クルーザーでの旅に緊張しているのだろう、と考えていた。
 まさか、空を飛ぶ船で旅をするような時代が来るなど、想像さえもしていなかったのは彼自身も同様である。
 青年は下位古代語で記された航行プランの書類を確認する。
 宰相閣下は国立記念公園への巡航の後、ホテルにて滞在。その後、郊外にある領地にて一時停泊後に再び帰還と予定されていた。
 と、そのときインカムに通信が入る。
『こちらブルーホーン、進路の安全を確認した。天候、クリアー。軍からの警戒情報もなし。出航の準備が整い次第、連絡されたし』
「了解。出航準備は順調。予定通りに作業中」
『了解』
 管制塔との打ち合わせをしながら、若い管制官はこの素晴らしい船の地上管制担当になった名誉に緊張と喜びを押し殺すのに一苦労していた。
 これも猛勉強して最難関の上級地上管制免許を取得した結果である。
 この資格を持つものは上級貴族のプライベートな船や来賓への招待船、その他の国際的なイベントでの船の管制と地上指揮を行うことが出来る。もちろん、セキュリティ・クリアランスを通過したもののみであるが。
 極普通の農家の三男坊に生まれた彼がこれ程までの職につくことが出来たのも、この国を大きく改革したあの鋼の将軍の力によるものだ。
 教育を徹底させ、そして社会保障や保険制度などを整えた政府は、その教育を生かすだけの職をも生み出していた。
 発展している魔法科学技術を用いて、こうした航空船による移動手段の確保や遊覧などを事業化したのもその一つである。
 その結果、彼のような学校を卒業した若い人材が様々な場で活躍できるようになって来たのだ。
 自分の努力次第で国家宰相の乗る船を管制できるほどの出世が出来る。
 そんな信じられないような可能性の時代が訪れたことに若者は感謝していた。
「それでは出航準備が整いましたので、ご乗船をお願いいたします」
 右手を胸の前で横にし、踵をカッ、と整えて深く一礼をする。
 その青年に「ありがとう」と一声を掛けて、オルフォードはリフト・ステージに乗り込んでいく。その姿を見ながら、青年は感激と同時に責任の重さを実感していた。
 リフト・ステージに設置されている椅子はお世辞にも自分の執務室や書斎の椅子とは比べ物にならないほど貧相な代物だ。しかし、この国にもそんな簡素なものがあることにオルフォードは何処か安心できるような気がした。
 王城の執務室は派手でこそ無いものの、最高級のマホガニーの一枚板で出来た執務机を始め、素晴らしい家具や調度品で揃えられている。成金のようないかがわしい印象ではないが、どうも自分がその場には不釣合いな気がしてならないのだ。
 とはいえ、余りにも貧相なものを使っていてはこの国の体面にも関わるため安いものを使えないという理由も理解できる。
 ただ、オルフォードとしてはインクの瓶をひっくり返してしまわないか、ペーパーナイフを落として傷つけてしまわないか、という緊張をしながら仕事をするのはどうも性に合わない。
 昔の執務室はアンティークと呼ぶことさえ憚られるような古い傷だらけの執務机だったが、気楽に仕事が出来ていた。今は机一つで館が一軒建つような高級品の牢獄の中で仕事をするだけでも気疲れしてしまう。
『別に汚れても傷がついても構いませんよ。机は所詮、机ですから』
 にこやかに笑いながら少年が言った言葉を思い出す。
 確かに彼の机もオルフォードのものに負けず劣らずの高級品でありながら、遠慮なくインクの染みや定規で線を引いた引っ掻き傷が付いている。あるいは将来にはそうした傷も、ファールヴァルトの歴史の証となっていくのだろうか。
 そして眞とは違い、高級品の机の傷一つにもおっかなびっくりでいる自分が、やはり不釣合いな立場に立っていると痛感させられていた。
 やがてリフト・ステージが船のハッチに着けられて、船内への扉が開く。
「・・・済まんの」
 添乗員はその言葉が何を意味したのかわからず、一瞬、きょとんとしたものの、にこやかに微笑んで挨拶をした。
「それでは、ごゆっくり船の旅を楽しんで来て下さいませ」
 孫娘のような少女に挨拶を返して、オルフォードは船の人となった。
 地上ではようやく全ての荷物の搬入を終えてハッチが閉じられる。
「やれやれ、凄い荷物だったな」
「流石に宰相閣下ともなれば持って行かなければならないものもさぞ多いだろうさ」
 そんな軽口を叩きながら、地上作業員達は全ての作業を終えて待機室へと戻っていく。
 やがて美しい船は滑るようにドックから離れてゆっくりと浮上していった。

「出航!」
 船長が号令を掛けたのを聞き、オルフォードのエア・クルーザー“天馬の翼”号はゆっくりと浮上を開始していった。
 地上では先ほどの管制官が光を放つスティックを振りながら、出航指揮を執っている。
『ブルーホーンから天馬の翼号、三番ゲートからD47ルートで出航せよ。高度は空港管制内においては500mを維持、それ以降はルート基準高度にて巡航せよ』
「天馬の翼、了解した」
 滑るように進みながら、天馬の翼号はゆっくりとマストを展開していく。
 オルフォードはその船の窓から街を見下ろしていた。
 自分が生まれて育った街を、こんな風に見下ろすことが出来るとはこの歳になるまで想像さえ出来なかった。だが、この船出は・・・
 苦い想いを噛み締めながらオルフォードは窓の外の光景を眺め続けていた。
 そしてその異変に気が付いたのは航空管制レーダーを担当するレーダー係官だった。
「おい、オルフォード宰相閣下の船の進路がずれている!」
 ファールヴァルト領内の三次元映像を映し出している円卓の上に記された各飛空船の位置と予想航路、そして予定航路が一目瞭然で判るように表示されている。
 その中の一隻が大きく進路を外して加速しながら西に向かっている。
 あろう事か、その船はファールヴァルト王国の宰相であるオルフォードの私船、“天馬の翼”号だった。
 理由はわからないが、緊急事態であることには間違いなかった。
ただちに軍に連絡を!」
 幾度もの呼びかけに天馬の翼号が応答しない事に事態の深刻さを理解した管制指揮官が軍への連絡を指示する。
 そして事態は急速に動きを見せていった。
 連絡を受けたファールヴァルト軍は即座に第一級非常体制に移行し、天満の翼号の確保に向けて動き始めたのだ。
「目標近くの空軍基地は何処だ!」
「ラズロー空軍基地であります!」
「しかし、ラズローには配備されているナイトフレームの数が足りない。他の基地から動かせないか?」
 今一番近いラズロー基地には、飛行可能なナイトフレームは三機しか配備されていない。
 ムディールの残党勢力やロドーリル、バイカルといった挑戦的な勢力に対抗するため、北東方面に優先的に戦力を配備しなければならなかった事情がここでは災いしていた。
 そもそも、現在のアレクラスト大陸の他国の技術力や魔法文明を考慮した場合、西側から大規模な戦力で攻め込まれる危険性は少なかった。というのも、無の砂漠に阻まれて大規模な軍を侵攻させることなど不可能だったためだ。
 そして、南側にはオランやアノスがある為、大規模な軍事力の展開の緊急性も少なかった。
 軍事同盟を結んでいる国である以上、いきなり侵略戦争を仕掛けてくる可能性も低い。とはいえ、ファールヴァルト軍は国境に沿って軍を展開し、要所要所にナイトフレームやアーマ・フレームを配備していたのだ。
「とにかく、間に合いそうな機体を直に発進させろ!」
「了解!」
 ファールヴァルト軍司令部は一気に緊張に包まれていた。
 敵対的な勢力によるファールヴァルト王国政府中枢部へのテロ活動なのだろうか。
 いずれにしても、幾ら強力な軍を編成しつつあるとはいえ、まだまだファールヴァルト軍は数的に充実しているとはお世辞にもいえない。
 そうした部隊の展開にも制限があった。
「トレントン卿とホワイト・ダガー小隊が追跡に向かいました!」
「そうか、間に合えばよいが・・・」
 おそらく痺れを切らしたトレントンが部下を引き連れて飛び立ったのだろう。
 だが、微妙な距離だった。
 クープレイの最大速度で巡航しても相手はファールヴァルトにある船の中でも最高の船足を誇るエア・クルーザーだ。予想ではクープレイが追いつくぎりぎりのタイミングでエレミア領内に飛び込むことが可能だった。
 もし、この天馬の翼号を乗っ取った犯人が手配をしていた場合、エレミア内に着陸、もしくは通過する承諾を得ている可能性がある。そうなった場合、ファールヴァルト軍が他国領内に無断で侵入する訳には行かなかった。
「エレミアからの返答はまだか!?」
 そのエレミアからの領空通過許可が下りないことに司令部は苛立ちを募らせていた。
 尤もエレミアにしてみれば他国の空軍が領空を通過する、と言われてもどう返事をして良いのか判らなかっただろう。
 今頃、大急ぎで過去の事例をひっくり返すように探したり、返答を決めるための宮廷会議を開催していると容易に予想が出来た。
「あと一時間ほどでエレミア領内に到達します」
 そのオペレーターの声が冷たく響いた。
 そして同じ頃、ダイダロスの金床でも大騒動が起こっていた。
 眞の友人でナイトフレーム開発の中心人物である加藤良樹の行方がわからなくなった、との報告が保安部に上げられてきたのだ。
 ナイトフレームの開発者はファールヴァルトの最重要軍事保安対象だ。最高機密であるナイトフレームの開発情報を握る人物を手中に収めた場合、その国や組織はナイトフレームの独自開発さえ可能になる。
 何としてでも奪還をせねばならない人物であった。
「こんな事が立て続けに起こるとはな・・・」
 軍統合司令官は忌々しげに呟く。
 そしてフレイアに加藤の居場所を問い合わせた結果、信じがたい事実に直面することとなったのである。
 あろうことか加藤の位置反応は今、急速にファールヴァルト領内から離れつつある天馬の翼号の中にあったのだ。
 今や認めざるを得なかった。
 これはオルフォード卿による明らかな反逆だった。
「オルフォード卿による・・・反逆だ・・・」
「し、しかし、一体、何故・・」
 動揺を隠せない声で、司令部の若い青年将校が誰にとも無く尋ねるように呟いた。
 金でも積まれたのだろうか。
 しかし、ファールヴァルトの宰相を買収できるほどの資金を拠出できるような国がそれほどあるとも思えない。ましてや、オルフォード卿は金に汚い人物とは正反対の位置にあるような人物だ。
 不器用ではあるが、誠実で実直な性格は宮廷の誰よりも好かれている。
 そんな人物がこれほど大それた事を行うとは信じられなかった。
 
 現状の報告を受けたウェイルズは何時にも増して厳しい表情で報告書を見つめていた。
 オルフォードの船が予定進路を離れて急速にエレミア領内に向かって飛んでいること、そして行方不明になった加藤の反応がその船から検出されたこと。その二つの事実が物語ることは、オルフォードによる反逆の可能性だった。
 まだ断定は出来ない。
 極めて低い可能性とはいえ、他国からの侵入者が加藤とオルフォードの両名を拉致して連れ去ろうとしている事も考慮しなければならなかった。
 そして、誰よりもウェイルズ自身がその限りなく低いであろう可能性が真実であることを願いながらも、その自分の願いが裏切られていることを悟っていた。
「オルフォードが、な・・・」
 まだ彼が王子として宮廷で遊んでいたことから、オルフォードは親しい友人だった。
 若干年上のオルフォードはウェイルズにとって兄のような存在であり、そして忙しい父に代わって頼ることの出来る存在だった。公式の場では王子と文官の一人という立場ではあったが、私的な場では身分を忘れた友達付き合いが出来る数少ない相手だったのだ。
 やがてウェイルズが王として即位し、そしてオルフォードが宰相として文官の長に就いたときも、二人は極当たり前のように息のあった執務が出来たのも当然といえば当然だった。
 だが、ウェイルズが病に倒れてから、オルフォードは慣れない決断を下さなければならない事が多くなり、苦労をしていたのもウェイルズには心苦しかった。そして、ウェイルズの病が奇跡的に癒されたとき、それを可能にした異世界の魔法騎士をファールヴァルトの騎士として迎え入れたときに、こうなる運命が決まっていたのかもしれない。
 優しい老人にとって、急速に肥大化して他国との戦争や紛争に打ち勝って今の国威を打ち立てた国は、もはや昔の小さく貧しい、そして静かな国ではなくなってしまったのだ。
 ユーフェミアには伝えることは出来なかった。
 今、眞が異世界に飛ばされてしまった事で臥せっている娘に、自分の祖父とも慕っていた人物が祖国を裏切って出奔したなどと言える筈が無い。
 いずれ伝えねばならない事ではあっても、今ではなかった。
「儂は司令部に向かう。後のまつりごとは任せた」
 副宰相に残りの宮廷での一般執務を任せて、ウェイルズは地下にあるファールヴァルト軍統合指令本部へと向かっていった。
 司令部に国王自らが赴くことは極めてまれな事態である。
 その突然の来訪に司令部は事態の深刻さを思い知らされていた。
「現状はどうなっておるか」
 威厳のある声に司令官は直立不動の姿勢で最敬礼し、そして報告を始める。
「は、現在の状況を説明いたします。まずはこのスクリーンをご覧ください。ここにオルフォード卿の船があります」
 指揮棒で白く描き出された天馬の翼号を指した。
「そして、この緑の線が本来の予定航路であります。そしてこのオレンジの線が予想される進路、数字がこのままで行けば到達する場所に対しての予想時間であります」
 最短のエレミア国境到達には、あと二十分ほどしか残されていなかった。
「こちらのブルーのナイトフレームがトレントン卿、背後の緑のナイトフレーム三機が卿の配下の騎士達であります」
 眞直属の騎士であるトレントンが出撃した、というのは事態の逼迫さを物語っている。
「間に合いそうか?」
 そのウェイルズの問いかけに指揮官は苦い顔で頭を振った。
「いえ、残念ながらトレントン卿のエレミア国境への到達は五分の遅れとなります」
 つまり、ぎりぎりで間に合わなかったことになる。
 そして音速に近い速度で飛ぶナイトフレームで五分の距離は約100km近い距離の差となる。
 流石のナイトフレーム・クープレイでも一時間をフルに全力で飛行することは出来ない。どうしても出力の限界や推進機関の限界があるため、ペース配分を考えなければならないのだ。そもそも人型の物体が音速近い速度で飛ぶなど、航空力学の専門家から見れば世の中を馬鹿にしているとしか考えられないだろう。
 正直なところこの距離まで詰められたのはトレントンの技量があってこそである。
 だが100km近い距離では、流石にクープレイに装備可能なフレイム・ジャベリンでも捉えることは出来ない。これほどの距離で標的を捉えるためには空中哨戒艦か早期哨戒機である“アルゴスの目アルゴス・アイズ”の支援が必要になるのだ。
 しかも巡航速度を稼ぐためにトレントン達はジャベリンを装備せずにパルサーだけを持って発進していた。どう考えても力ずくで停めることも出来そうに無かった。
 その時、トレントンからの通信が入る。
「こちらチェイサー1、通信可能圏内に入った」
「了解した。回線を開いてください」
 ちらり、と総司令に視線を向けて、管制官はトレントンに天馬の翼号との通信を開くように指示する。ウェイルズと総司令はじっと押し黙ったまま通信回線が開かれるのを待っていた。
『天馬の翼号、応答せよ。こちらはファールヴァルト幻像魔術騎士団の騎士、トレントンだ』
 暫く沈黙が流れて、ついに応答が返ってくる。
『こちらは天馬の翼号、船長のランドルフだ』
『用件は判っていよう。何故に祖国を裏切って生まれた地を捨てようとする?』
 その厳しい口調のトレントンの問いかけに答えたのは、船長のランドルフではなかった。
『それはな・・・、私が生まれて愛した祖国は、もはや存在しないからだ』
『オルフォード閣下!』
 若い騎士があげたであろう悲鳴のような声がした。
『・・・宰相閣下、聞かせてもらいましょう。閣下の愛された祖国がもはや存在しない、との理由を』
 トレントンが声音を押し殺したように淡々と尋ねる。
『その声、騎士トレントンか。良い騎士に育ったものだ・・・。流石は眞殿が鍛えた騎士だけの事はある』
 感慨深げにオルフォードが呟くのを、統合指令本部の全員がじっと聞いていた。
『理由は特別なものではない。ただ、私は怖ろしくなったのだ』
『怖ろしくなった?』
『その通り。私の知っているファールヴァルトは、確かに貧しい田舎の小国だった。だが、小さく貧しくとも、誇り高き騎士と忍耐強い領民達に支えられた、ささやかながらも平和な国だった』
 そう言って、オルフォードは溜息をつく。
『だがな、トレントン。いや、私の言葉を聴いているであろう国王陛下、ならびにファールヴァルトの忠臣たちに申し上げたい。今のファールヴァルトは、私が知っているファールヴァルトではもはやなくなってしまったのだ。確かに国力を付け、そして飢える心配の無い豊かな食料と大いなる富を手に入れたファールヴァルトは、しかし、それと引き換えに強大な軍によって護らなければ他国の介入を招く対象となってしまった』
 一瞬の沈黙が流れた。
 それは国王であるウェイルズ自身が身に染みて理解していたことだから。
『既にファールヴァルトは幾度もの戦いを経て、神聖王国アノスの騎士団をも打ち破り、そして竜の部族や獣の民を併合して、ついに隣国であるムディールを撃破して征服してしまうほどの怪物と化してしまったのではないか・・・。私は自分が生まれ育った小さな国が、膨大な人の血と命を引き換えにして膨大な富を集め、他の国を滅ぼすほどの化け物に変貌してしまった事が、何よりも怖ろしい・・・』
『では、閣下は我らが何時までも貧しいまま、民が飢えて死んでいくのをただ見ていろ、とおっしゃられるのですか?』
 トレントンの言葉は若い騎士達全員の言葉でもあった。
 痩せた土地しかなかったかつてのファールヴァルトでは、十分な農作物を生産できず、また厳しい環境から慢性的な栄養不足の状態が続いていたのだ。
 しかも、眞達が現れた年は近年稀に見るほどの不作で冬を過ごすことが出来ないものが続出すると予想されていた。だが、眞の齎した異世界の知恵と失われた古代語の知識は、逆に毒草しか生えていなかったファールヴァルトの荒野を薬草の宝庫に変えてしまったのだ。
 毒草を加工して薬や香草茶にしてアレクラスト中に売りさばいた眞は、その莫大な金銀とともに大量の食料を購入してファールヴァルトに持ち帰ってきたである。
 しかも失われた古代語の知識を存分に活用して、魔法の秘薬や魔法の工芸品さえも生み出してファールヴァルトの特産品にしてしまったのだ。
 その結果、眞たちがアレクラストにやってきた僅か数ヵ月後には全国民の栄養状況は大幅に改善され、ラムリアースから買い付けた痩せた土地でも育つ麦や豆、芋などを巧みに作付けするように耕作計画を立てて、ファールヴァルトの食糧問題を抜本的に解決する力強い光明を齎したのである。
 今では年々、食料の生産高は向上して、自給自足を行えるまでに高まっているのだ。
 しかし、そうした豊かになった代償は他国の目をファールヴァルトに向けさせることとなった。
 その為、ファールヴァルトは軍を急速に拡大してその圧力に対抗せざるを得なくなり、数に勝る周辺国への十分な戦力を整備するためにナイトフレームを開発、運用することとなったのだ。
 それは小さく他国との交わりを考えずに過ごしてきた老人達にとっては苦痛以外の何者でもなかっただろう。
 貧しいが故に周辺国からの侵略の脅威に怯えずにすんできたこの国の政治家は、今の熾烈な国際政治に翻弄されているものと、逆にそうした場で存分に力を発揮し始めたものとの間に大きな隔たりが生まれ始めていた。
 前者には古くから仕える老人達が多く、そして後者には新しく宮廷に仕え始めた若者達が多かったのは、当然といえば当然のことである。
 オルフォードのような古い時代を懐かしがる言動は、多かれ少なかれ殆どの古参の文官達に共通していた。
『そうではない』
 しかし、声に苦悩の色を滲ませながらオルフォードが答えた。
『だが、儂にはもう耐えられないのだ・・・。このままではファールヴァルトは何時の日か、このアレクラスト大陸全てを飲み込んでしまう時が来る様に思えてならんのじゃよ・・・。陛下、この老いぼれの醜い足掻き、許してはくれますまい。ですが、この老人が危惧をしているこの国の現状、世界に覇を唱えんとするこの国の意思に恐れをなしたことだけは心にお留め下され・・・』
「オルフォード。お前がこの国の今に心を痛めていることは重々承知しておった。だが、お前が今乗っておる船はこの国の民の税で築かれ、そしてお前の財もまた民の税によって賄われておるのだ。如何に宰相の立場として正当に得た報酬であれ、それを己が生きるべき場所を棄てるために用いるのは矛盾ではないのか?」
 ウェイルズは落ち着いた、しかし厳しい声で問うた。
『親愛なる陛下、この度の事、如何に詫びようとも償えぬ罪であることを重々承知しております。そして、私には大儀など無く、ただ、強大になって私自らが御することの出来ぬ大国となっていくことを、いえ、私がこのような大国を御するなどの器などないまま、宰相という立場にいることの恐ろしさに怖気づいた臆病者の愚考にございます』
「儂も己がこの強大なる国の王たる器などと思ったことなど一度もない。だが、儂はそれでも王という身分を放り出すつもりなど無いぞ。そんな無責任な真似をすればこの国は混乱し、一番苦しむのは民なのだ。儂が自ら請うて眞殿に我が国を豊かにしてくれ、とねごうた以上、儂はその責任を負い続けねばならんのだ」
 そう言いながらも、ウェイルズは、
(その儂自らが、この国を豊かにしてくれた眞殿に頼らねば政一つ出来んのは、情けない限りじゃがな・・・)
 と自分の力の無さを呪っていた。
 もし、自分にもっと力があれば、このファールヴァルトの王として相応しい器が備わっていれば、みすみす信頼できる友であり、長年の政友であった宰相をこのような不名誉とともに国を去らせるような真似などさせなかった。
 あの輝く太陽の如き少年の側で政の長を演じ、その忠誠を受け止めなければならないウェイルズはその重さに全力で耐えなければならなかったのだ。
 商人として貧しい国に溢れんばかりの財を築き上げ、為政者として厳しい環境に追いやられていた国民に平和と繁栄を齎し、騎士としてグリフィンや竜をも従えるほどの武勇を為し、そして将軍として二度の戦争に打ち勝って広大な領土を手に入れた稀代の英雄を部下に持つ事ほど王としての強烈な重圧は無い。
(正に日の昇る国の皇統直系の男子よのう・・・)
 話に聞けばユーミーリア世界で最も古い、二千六百年を超える伝統と歴史ある国の皇帝の直系血族の少年が自分に忠誠を誓う騎士として仕えているのは、余りにも不遜であるとさえ思える。
 彼の国はユーミーリア世界において世界第二位の恐るべき経済力と世界屈指の軍事力、領海面積六位、国土領土合計面積で世界九位の堂々たる大国、しかも王制国家の中で最大の大国なのだという。
 そんな少年の忠誠を受け、そしてその忠実なる騎士の期待に応えてなお、その英雄に仕えられるに相応しい国王を演じなければならないのだ。
 だが、必死でその役を演じているうちに、ウェイルズはいつの間にかこの国を立派に治められるだけの王になりつつあった。
「オルフォード卿、ならば何故せめて、一言だけでも打ち明けていただけなかったのですか?」
 その言葉を発した少年に、全員が視線を向けた。
 黄金の髪をした、紫と青の瞳を持つ少年。
 だが、それは眞本人ではなかった。しかしその言葉と込められた感情は、眞本人のそれだった。
 眞の影武者には、眞自身の記憶と人格が付与されているのだ。
 しかし、今の言葉は魂を持たぬ人形に過ぎない影武者では決して発することの出来ないはずの、魂からの問いかけだった。
 まるで異界に堕ちた眞が、自らの人形を通して語りかけたかのように・・・
『眞殿、この老いぼれにも意地というものがある。若い頃から、儂も無力ながらも何とか国を飢えることの無い国にしようと抗ろうてきたのだ・・・。それを僅か数年でこれ程までの大国に変貌させた若者に、何を打ち明けろというのじゃ・・・』
 自分達が何十年もかかって成し遂げられなかったことを、年端も行かない少年が僅か数ヶ月で実現し、そして数年で近隣の大国に勝るとも劣らぬ大国へと成長させた事がオルフォードたち文官には余りにも大きな重圧になってしまっていた。
 国民や騎士達、そして近隣諸国からの使者達が眞の業績を褒め称え、その英雄将軍を賛美するたびに、古参の文官たちは自分達の無力さを嘲笑われているような屈辱を覚えていたのである。
「オルフォード、ならば何故、その意地を己の責務を全うするために使わなかった」
 静かな、しかし厳しい声で王は去り行く老人に言葉を掛ける。
『陛下・・・。申し訳もありませぬ。この愚か者に真の意地があったなら、我らを超えた優れた為政者であり英雄将軍である眞殿に頭を下げて己の責務を果たせたでありましょう。しかし、私にはそれをする勇気も無く、また自分が非力であることを認める誠実ささえなかった・・・。私に唯一できるのは、世界を飲み込む怪物と化した祖国を食い止めるために、このような卑劣な裏切りを行うことだけです』
 淡々と疲れきった老人は言葉を紡いだ。
『偉大なる神よ、もし叶うのであればあの日、儂が誤った道に踏み込んだときからやり直せることを・・・しからずば、我が愛する故国に永遠の平穏を与えたまえ・・・。申し訳ありませぬ、陛下・・・せめて、ユーフェミア王女殿下の幸せなる御婚礼の姿を見とうございました。ですが、この老人にはあの異世界の魔法騎士が動けぬ今より他に動くことなど出来なかったのです・・・』
 音声にノイズが混じり始めていた。
 トレントンのクープレイが直接通話可能圏を離れつつあるのだ。流石に中継を行うアルゴス・アイズを経由せねば直接通話可能な秘匿通話回線の更新距離はせいぜい400kmほどだ。
『声が届きにくくなってきましたな・・・。陛下、何時までも御健康であられますよう・・・。そしてユーフェミア王女殿下の永遠の幸せを願っております。異世界の魔法騎士殿、陛下とファールヴァルトをお願いいたします・・・』
「オルフォー・・・」
 ウェイルズが声をかけようとした瞬間、ついに通話が途切れた。
 席に座ったウェイルズは深い溜息をつき、むっつりと黙り込む。気まずげに視線を逸らせた智子は、眞の影武者も黙り込んだままじっと去り行くオルフォードの船を示す映像を見つめていた。
「おがっちゃん、大丈夫?」
 まるで本物の眞が見せるような表情で黙り込んでしまった影武者に、智子は思わず声をかけてしまった。
「大丈夫だよ。もっと酷く裏切られたことがあるからね・・・」
 その小さな言葉は壊れてしまいそうなほど微かな孤独と絶望の色を帯びていた。
 
 
 

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