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 真紅の絨毯が敷き詰められた荘厳なファールヴァルト王城にある謁見の間は、まさに見る者を嘆息させる光景だった。
 かつての着古した洋服のような装いから、経済と国力の発展に見合う王城に改修すべく、今も急ピッチで工事が進められていた。その改修工事の一番最初に着手されて完成したのが軍統合司令部、魔術兵団の本部と並んで、この王城の公式に公開されている箇所だったのである。
 それも当然で、諸外国から訪れる来賓が一番最初に国王に拝謁する場所が貧相な部屋では対外的にも問題があるのだ。
 眞の個人的な趣味で様々な調度品はカストゥール様式のものを中心に、アレクラスト大陸中から選りすぐりの代物で纏めてある。また、カストゥールの時代と終焉と共に失われたとされていた様々な美術品も取り揃えて、世界一高価な謁見の間となっている噂されているほどだ。
 特にカストゥール王国第114代ステラトード朝時代に完成したといわれているカストゥール王国時代最高の工芸品であるランブルドン様式の幻想派絵画は、あのラムリアース王立美術館やベルダイン王立美術館の責任者達が卒倒するほどのコレクションを揃えている。現存するものはおそらく大陸全体で数十点しかない、と言われているこのカストゥール文化の至宝とも言うべき絵画のうち、実に二十八点もの絵がファールヴァルトにあり、そのうちの選りすぐりの七点がこの王城謁見の間に展示されているのだ。ちなみにラムリアースには王立美術館に五点、そして王家には三点、個人所蔵のものが一点あり、ベルダインの王立美術館にある四点を加えてもファールヴァルトのコレクションには適わない。
 おそらく、あと数点は大陸の資産家が秘蔵していると考えられているが、ランブルドン様式の幻想派絵画はそれほどまでに貴重なものだった。
 一枚で国が一つ買える、という噂まで流れるほどの絵画を堪能できるのは、アレクラスト大陸広しといえども此処ぐらいのものだろう。
 当然のことながら、その絵に勝るとも劣らぬ家具や調度品、室内の装飾などを取り揃えているため、口の悪い者達は「また貧乏になったときの為に高く売れるものを集めて宝物庫代わりにしているに違いない」と囁いていた。
 その謁見の間の玉座に悠然と腰掛けている初老の男こそ、このファールヴァルト王国の国王、ウェイルズ・ガーランドⅣ世だった。
 この急激に成長した国を纏める男は、つい数年前まで死の病に臥せっていたのが信じられないほどだ。眞たちがこの世界に降り立って、そして緩やかに滅びつつあったファールヴァルトという田舎の小国の運命を一人の少年に託すことを決断した男は、その結果として強大な大国として急激に発展し始めた自分の国を御する、という過酷な責務を背負うこととなったのだ。
 どこの国にも相手されない貧乏な小国を治めるのとは異なり、今の彼の判断はまかり間違えばこのアレクラスト大陸の運命をも揺さぶりかねないのである。
 もっとも、ウェイルズ国王はそれを十分にこなしている。
 当初は急激に膨張していくファールヴァルトという国家を持て余すのではないか、そしてそれを実現している異世界の魔法騎士に振り回されてしまうのではないか、という懸念を周囲に与えていたのだが、今では彼の統治能力を疑うものは誰一人として存在しなかった。
 眞が望んでウェイルズに忠誠を誓い、そして忠実な騎士として、そして娘婿としての働きを見せていることから、眞たちによる叛乱の憂慮が無くなったことも、国を安定させるには十分な条件でもあった。
 むしろ、それを懸念していたからこそウェイルズは娘のユーフェミアを眞に嫁がせることを考えたのだ。
 これほどまでに発展して巨大化した国家を今までの役人や官僚達だけで運営できるはずなど無い。
 そして眞たち現代ユーミーリアの人間が他国に移ってしまうことは、その恐るべき知識が他に知れ渡ることとなる。それを考慮した場合、眞たちの待遇を貴族のそれと同じにして優遇をすることは当然の事だといえただろう。
 しかし、それを考慮出来ないのが今のフォーセリア各地にある既存の大国の貴族達だった。
 もし、眞たちが現れたのが、たとえばオランやアノスだった場合、彼らは軟禁されて何れは反逆の憂き目を見たかもしれない。
 ファールヴァルトが貧しい小国だったからこそ、彼らの能力と知識をフル活用させる場を提供し、それに見合う厚遇を与えることが出来たのだ。その決断こそがウェイルズをファールヴァルトにおける偉大なる国王としての名声を確立する基盤となっているのはある意味で歴史の皮肉とも言えよう。
 その王の右手に立って来賓を見つめている人物こそが、今日のファールヴァルトの繁栄を築き上げた人物だった。
 緒方眞-異世界から降り立った魔法騎士。
 まだ少年の年齢でしかない若者は、しかし、既に幾度もの戦いにおいて全て勝利を収めてきた英雄将軍である。またその知識と強大な魔力を以て貧しい小国を僅か数年で周辺の大国にすら匹敵するまでに国力を発展させた素晴らしい為政者でもあった。
 遠く離れたオランからやってきた使節団は、この偉大なる魔法騎士が健在なのを確認して複雑な心境を押し隠していた。
 このファールヴァルトに対して旧ムディールの復興を掲げる反乱軍との戦いで、強大な力を持つ炎の精霊王を召還したムディール解放軍との戦いで、眞は一度は消滅したと思われていたのだ。しかし、この恐るべき魔法王国の魔術師達は次元の狭間に落ちたこの鋼の将軍の救出に成功したのである。
 使節団はオラン国王カイタルアードⅦ世とオラン魔術師ギルドの最高導師マナ・ライの手配によってファールヴァルトに赴いて、鋼の将軍の生還に対して祝いを伝えに派遣されてきたのだ。しかし、その本当の目的は次元の狭間に落ちたとされている緒方眞将軍が本当に生きているのか、無事に帰還したのかを確認するための来訪であった。
 そして鋼の将軍が何事も無かったかのように振舞っているのを確認して、使節団たちの間には複雑な感情が漂っていたのである。
 強大な軍事力と技術力、経済力を誇るファールヴァルトも、その基盤はまだ磐石ではない。多くの部分でこの少年に頼らざるを得ないという現実があった。
 その為、特に周辺国では眞が失われたことでファールヴァルトの勢いに陰りが生まれ、あわよくば崩壊したファールヴァルトから知識や技術、富を得られないか、という期待が生まれていたのだ。しかし、眞は無事に生還を果たして執務に復帰していることから、その期待は見事に裏切られていた。
 いずれにしても、ファールヴァルトと周辺国の間には微妙な空気が流れていたのである。
 それを快く思わない勢力もまた、ファールヴァルト内に存在していた。

 閉ざされた部屋の主は静かにグラスに注いだ琥珀色の液体を喉に流し込む。
 豊穣な味が広がり、熟成された極上のブランデーの上品な香りが心地よく感じられた。
 おそらく、この一瓶だけで小さな館なら建つであろう、途轍もない代物だ。
 中原北部に栄えるもう一つの魔法王国ラムリアースで極僅かに蒸留される至高のブランデー、伝説のユニコーンの乙女ラフィニアの名を持つ逸品であった。
 そのブランデーを醸造した男は、最高のブランデーを生み出す為に最高の水を求めて、あろうことか禁じられたユニコーンの森の中にまで足を踏み入れて、この酒を醸造したのだといわれている。その想いに打たれた時のラムリアース王は禁忌を犯した職人に赦しを与え、生み出されたブランデーにラムリアース建国の伝説に詠われるユニコーンの乙女の名を与えたのだ。
 一年に僅か十樽ほどしか醸造されないこのブランデーは、盗みに入った盗賊が隠れ家に帰るのを待ちきれずに飲んでしまい、酔いつぶれたところを捕縛された、などの数々の逸話を生み出したほどのものだ。
 当然ながら、醸造される全てはラムリアース王家に謙譲され、ラムリアース王から譲られねば決して手に入ることの無い、まさに至高の酒であった。
「これほどまでの酒を飲めるのは、この国が偉大で豊かになったからだ・・・」
 老人は自分がこれほどの逸品を楽しめるようになろうとは、夢にも想像していなかった。しかし・・・
「だが、これを飲めるほどに豊かになった代償とは、一体何なのだ・・・」
 疲れたような声で老人は呟いた。
 もはやこの国は彼や彼が若い頃から知っている者達だけで支えられないほど強大な国に変貌してしまった。
 幾度もの戦いに打ち勝ち、アレクラスト中の富を集め始めたかといわれるほどの繁栄を遂げたこの国は、もう彼の知っている小さく貧しくも、素朴だった面影はどこにも残されていない。
 僅か百人足らずの騎士達がのんびりと詰めていた王城は、今は数千人にも達した強大な騎士団によって幾重にも護られ、魔道技術で生み出された巨人騎士や空飛ぶ船、魔法を自由に操る騎士達に護られた極東の軍事力のバランスの要所となっている。
 あの異世界から現れた魔法騎士が齎した知識と技術は、これほどまでにこの小さな国を変えてしまったのだ。
 アレクラストでも最強の騎士団の一つとの誉れの高いアノスの騎士団をも打ち破り、そして遂にはムディールという国さえも滅ぼして飲み込んでしまった自分の生まれた国が、何か怖ろしい魔物に変貌してしまったかのような恐怖が老人の心を捉えて離さなかった。
 
 あの頃に戻ることは出来ないのか・・・
 
 どうしようもない想いに涙が溢れ出してくる。
 異世界の少年は素晴らしく利発で、聡明さと強さを兼ね揃えた申し分の無い逸材だと感じていた。そして、自分が忠誠を誓った王がその少年を召抱え、更には勝利と富、栄光を齎したその少年に一人娘のユーフェミア姫を嫁がせた事も心から喜ぶことが出来た。
 だが、老人の幸せはそれが絶頂だったと今にして思えば納得が出来た。
 獣の民や竜の部族を併合したファールヴァルトは、急速に勢力を増して、最終的には隣国を滅ぼしてその国土と領民をも自らの勢力に飲み込んだのである。
 これほどまでの大国に変貌した王国はもはや、老人の手には負えないほどの大きさになってしまったのだ。
 今でもまだ王に対する忠誠心と孫娘のような王女に対する愛情に変わりは無い。
 黄金の髪と青と紫の瞳を持つ異世界の少年が、まるで自分の事を祖父のように親しみを込めて、そして信頼の眼差しで接してくれることを何よりも嬉しく誇りにも思う。
 しかし、もう老人は疲れきってしまっていた。
 このファールヴァルトという国が世界を飲み込む魔物に変貌してしまう前に、老人は全てを止めようと考えていた。
 最後にあと一度でいいから、あの小さなテーブルで王と姫、気の良い騎士団長と聡明な近衛騎士隊長と共に食事を楽しみたかった、と叶わぬ願いを抱きながら・・・

 久しぶりに爆発した里香の苛立ちに、普段なら優しくなだめる悦子やとぼけた台詞で場を和ませていたはずの智子までもが感情を剥き出しにして噛み付いたことで、眞の館は張り詰めたような緊張感に包まれていた。
 葉子ももう言葉を出す気も無いらしく、部屋で寝込んでいる。
 ユーフェミアもまた泣き伏せた疲れで侍女の看病を受けている有様だった。そんな中で少女達が苛立ちと怒りを爆発させているのだから、護衛の騎士達も大いにとばっちりを受けていた。
「大体、信号をキャッチしてるのに何ですぐに助けられないのよっ!」
「そんな事言ったって、信号も微かにしかわからないし、何処にいるのかを特定できないんじゃ、助けたくたって出来ないに決まってるじゃんっ!」
「いい加減にしてよっ! それに、何であんたが眞の姿でそんな所にいるのよっ!!」
 悦子は髪を逆立てんばかりに怒りに満ちた目でソファに座る少年を睨みつける。
 そこには黄金の髪をした、青と紫の瞳を持つ少年が微笑みながら座っていた。
「だって、私は眞様の影武者ですから」
 しれっとして答える少年をぎろり、と睨みつける視線を平然と受け流して、眞にそっくりな少年はコーヒーを一口飲み込んだ。
 この少年が現れたときには、本当に眞が帰ってきたのだと思って喜んだ少女達は、彼が眞そっくりに作られたフレッシュゴーレムだと知らされた瞬間、完全に固まってしまっていた。
 眞の影武者は怖ろしく精巧に作られたゴーレムで、本物の眞には劣るものの、大国の騎士団長に匹敵する剣技と高位導師級の古代語魔法を使うことが出来る。しかも、眞の記憶や人格をコピーされているため、本物そっくりに振舞うことが出来るほどだ。
 その上で巧妙に魔法のオーラを隠されて、生命の精霊力などを偽装されているため、精霊使いが見ても見破ることはほぼ不可能だという。
 影武者自身が語った話では、いずれ眞たちは元居た世界に帰ることを願っているため、この世界に関わることが難しくなる。そのときの為に、双方の世界を行ったり来たりする事になるであろう時に、政治や軍事の空白を作ってしまわないようにするために密かに生み出されていたのだ。
 今はその準備が思いがけない形で役に立ってしまっていた。
 あの日、眞が魔術兵器<MURAMASA>を発動した反動で次元の裂け目に飲み込まれてしまった後で不意に眞が現れたのである。実はそれはこの影武者だったのだが、ファールヴァルト軍魔法兵団の行った魔術と魔法科学技術によって無事に救出されたと公に発表されていた。
 それによって王城エルスリードに詰める騎士団や官僚、政治家達の動揺が一気に解消されたこともまた事実である。そして真相を知る極一部を除いて、眞は無事に帰還したと信じられていた。
 だが逆に、眞の救出の為に大幅なリソースを割けなくなってしまったファールヴァルト軍と政府上層部は限られた資材や人材を駆使しての困難な救出作業を極秘裏に進めざるを得なくなってしまったのだ。
 遅々として進まない救出作業に、里香や悦子たちの苛立ちはじりじりと昂ぶっていき、そして救出チームの疲労は極限にまで達しつつあった。
 
「して、現在の状況はどうなっておる?」
 窓も無い小さな部屋の中でウェイルズが口を開いた。
 この沈黙の間に集まっている者達は、今の現状に関わるものだけである。ウェイルズ以外には銀の剣騎士団長ファーレン、近衛騎士隊長ランダーと魔法兵団副団長ルエラ、幻像魔法騎士団副団長のエレスタス、そして眞の直属の部下であるトレントンとアレスの両名、亮と英二の他に技術責任者として智子、そして文官の長として宰相のオルフォードが出席していた。
「はい、現在の状況は全体としてはあまり進展はありません。しかし、眞将軍のSSIVVAから発信される信号の情報の蓄積、ならびにその解析が進んでおり、大まかな座標軸を推測可能なレベルになりつつあります」
「ということは、その場所を特定することが出来ればすぐに救出の手を差し伸ばすことが出来る、という理解で間違っていないな?」
 智子はウェイルズの頭脳の明瞭さに内心で驚いていた。
 この文明レベルの違いがありながら、遥かな異界に落ちた眞から発信できるシグナルの情報を蓄積すれば、フレイアの演算能力を以て位置情報を特定することが可能であるということ、そして次元座標軸を特定出来れば召還魔術の技術を利用して眞を救出できる術があることを見抜いているのだ。
「その通りでございます」
 とは言いながらも、智子自身は眞の救出作業自体がそれほど順調にいくとは考えていなかった。
 むしろ、それだけ離れた“世界”にどのようにして救助隊を送るのか、そして眞を連れ帰る際にこれほどの次元の断裂を無事に渡って帰還させることが可能なのか、不安要素は幾らでもある。
 フレイアの推測によれば、おそらく、フォーセリアとユーミーリアの次元の距離よりも数十倍近い距離があると考えられているのだ。
 実の所、フォーセリアとユーミーリアは驚くほど近い距離に存在しあっている。
 例えるならば、ユーミーリアが東京の元麻布にあるマンションだとするならば、フォーセリアは新宿のアパートのような距離である。しかし、今、眞が飛ばされてしまった世界は香港やマレーシアのような位置にあると考えられるのだ。
 今のファールヴァルトの魔法技術ではこの距離を乗り越えることは極めて困難な挑戦であった。
「だが、その距離を越えなければ眞殿を救出することは出来ん・・・」
 ファーレンが伸ばした顎鬚に手を当てながら呟く。
 剣で解決できるなら自分の命に代えてでも眞を救出したいと願っていた。
 あの少年はあの貧しかったこの国をこれほどまでに強大で豊かな大国に変貌させただけでなく、彼が絶対の忠誠を誓っていた国王の身体を蝕んでいた死病をも癒してくれたのだ。
 その上、僅か百騎足らずの小さな騎士団だったファールヴァルトの騎士団を数千騎を数える大騎士団へと成長させていた。その時、眞の功績からすればその新しい騎士団の長になることも可能だったであろうにも関わらず、眞はファールヴァルトの地上主力軍である銀の剣騎士団の新しい団長にファーレンを、そして三名の副団長の中の一人にかつての騎士隊長の一人を推薦してくれている。
 先に起きたムディール戦役において、眞はファーレンの隊に王城攻めの先陣の名誉さえ与えてくれたのだ。
 武人にとってこれ程の名誉は早々無い。
 大国同士での戦争では、この先鋒を務める任を巡っての政治的な闘争さえ珍しくない。
 それを「ファーレン卿配下の騎士以外に歴史あるムディールを討つ王城攻めの先鋒を任せるに足る部隊はおりません」という言葉で国王に推挙していたのだ。
 それは政治的な意味合いもある。
 あまり眞一人が政治的に勝ち過ぎると内部的に不満を引き起こしてしまう。
 その為、眞はムディール戦で古くからの騎士達に名誉と褒章を多く得られるように軍の展開を行っていた。結果として多くの騎士達は広い領土や莫大な報酬を得ることが出来た上に、新しく取り立てた騎士達にも十分な領地を分け与えることが出来たのだ。
 結果、急速に膨れ上がった騎士団の騎士達は十分な領地を得ることが出来たことで、生活にも余裕が持てるようになっていた。
 そうした結果を齎したのも、あの時、ランダーが眞たちを無事にエルスリードに連れ帰ることが出来た、そして眞をファールヴァルトに仕官しようと推挙した功績から、ランダーは近衛騎士隊長として任命されることとなったのだ。
 元々家柄も良く、古くから王家に使える騎士だった彼の家系は近衛騎士として推挙するに十分な条件であり、また眞やファーレンとの関係の近さも相まって直に近衛騎士隊長として抜擢されることとなったのだ。
 それ以外にもファーレンは密かに眞に対して深い感謝と恩を感じていた。
 騎士達でさえ質素な食事を余儀なくされるほどの貧しい国では、子供がまともに育つことも少ない。
 そして慢性的な栄養不足は常に高い乳幼児の死亡率を生み出していた。
 だが、今はもう飢える心配は無い。
 異世界の素晴らしい知恵でファールヴァルトの風土に合った巧みな作付けを指導して、農作物も十分に自給自足が出来るだけの生産量を生み出している上に、家畜の放牧も実に良く考えられた方法で十分な畜産量を生み出している。
 かつて幼い頃、妹を病で失い、そして何年かに一度はあった不作の時期に我が子さえ失った男は、自分の食卓に出された食事を見て涙を流したこともあった。
 失われた子を取り戻すことは出来ないが、もはやあの苦しい絶望を味わうこともなくなった。
 その事だけでも、壮年の騎士団長はあの異世界の少年に一生掛けても返せぬほどの恩を感じていたのだ。
「眞を失う訳にはいかん・・・」
 ファーレンの言葉はウェイルズやランダーの想いをそのまま表していた。
 その想いを感じて、今更ながらに智子は自分の背負った責任の重さを痛感していた。今のファールヴァルトで最高の技術力を持つのが智子だ。確かに彼女自身は魔法を使うことは出来ない。だが、ルエラやメレムアレナーといった超一流、超々一流の実力を誇る大魔術師が居る中で、魔法が使えませんでした、救出できませんでした、などと言えるはずも無い。
 眞ほどの化け物めいたハッカーではないが、智子も日本でトップクラスの腕を持ったハッカーだと自負している。眞と共にこの『フレイア』を構築した自分以外に誰が眞を探し出せるというのだ。
 智子はその気持ちだけでこの場に居る全員の希望を背負っていた。
「絶対に眞の居場所を特定して見せます」
 静かな決意を込めて、智子は全員に言葉を返した。

 アミは少年を連れて街に出かけていた。
 頭上では車が飛び交って騒々しいいつもの光景が広がっている。高さ数千メートルにも達する巨大なビルが集まって出来たネオ東京という巨大な都市であった。
 オリジナルの東京は、前世紀に地震の被害にあってから復興されたものの、逆に昔の建築や歴史的な価値が求められて、今は貴重な世界保護遺産として残されている。第三次世界大戦以前の大都市で世界的にも毀損が少ないままで残されている都市はもう数少ない。
 しかし、そうした歴史的な遺産が数多く当たり前にある日本は、そういった上では珍しいし、非常に重要な人類の歴史を今に伝えているともいえるだろう。
 それに比べて、今のネオ東京は完全に新しく生み出された新都市である。
 実際、今アミが少年を連れて歩いているショッピングモールもその巨大なビルの中ほどの階にあるのだ。問題は身分証明のためのホログラム・カードとお金であった。
 今の社会では身分証明のためのホログラム・カードの存在は必要不可欠である。実際、それがなければ交通機関も利用できないし、物を買うことさえ出来ない。プライバシーの問題で、最初は導入に非常に大きな抵抗があったらしいのだが、その後、世界各国で発生した大規模テロと世界大戦中に引き起こされた情報かく乱や、それに伴う社会的な混乱と被害を背景にして導入されたものである。
 少なくとも現在では保護区にいる部族以外の管理国連合に属する、いわゆる開発国の国民は全てこのホログラム・カードを持って携帯することが義務付けられている。
 また、お金であるが今の時代は完全信用経済となっているため、基本的にカードを通じた取引となっている。例外的にクレッドと呼ばれる支払済みクレジットを使うことが出来るものの、振り込み元口座などが追跡できるために犯罪に使用されたとしても追跡調査が出来るようになっているのだ。
 とはいえこうした管理システムにも必ず穴は存在し、ホログラム・カードや様々な口座、情報なども裏社会を通じてどうにかなってしまう。
 余り派手なことをするとばれてしまう可能性もあるし、安全局が常に捜査をしているために決して100%安全な方法でもないのだが、ないよりもマシだった。
 許可レベルは低いものの、Cクラスカードであるならば普通の生活を送るのに問題がないし、安全性は高いはずだった。
 情報ライブラリ・ネットワークにも当然の事ながら、いわゆるアングラのネットワークがある。
 アミはそうした情報が決して好きなわけではなかったが、役に立つ情報が掲載されているのも事実だった。当然の事ながら自分のIDや情報などを偽装して、可能な限り身元を明らかにしないように工夫して接続する必要があるが、それさえ気をつけていれば相当深い情報にもアクセスできる。
 実のところ、アミ自身も偽装したIDを持っているため、それを通じて少年のホログラム・カードを取得できないか考えていたのだ。
 慎重に調査を進めたところ、何箇所か信頼できるホログラム・カードのエントリー屋を見つけることが出来た。
 必要なものは支払いチェック済みのクレジットと幾つかの書類だった。
 こうした業者の中にはそれこそ一発で見破られるような玩具のような偽造カードを提供するだけのいい加減な連中から、実際に本物のエントリーを中央データベース内に登録してそのカードを提供するという超一流までいる。
 アミが見つけた業者は少なくとも本物のカードを用意できる業者のようだった。C級カードではあるが、別に少年は政府や公務員になるわけではない。一般職なら、セキュリティ・クリアランスを要求されないものであれば仕事をすることも出来るし、ミニシューター用の免許なら取ることが出来る。
 それなりの金額ではあるがアミの貯金から出せないわけではない。
 尤も、一度に大金を引き出すと金融調査局が怪しむ可能性があったため、クラスメート達から少しずつのカンパを受けて必要なクレジットを用意した。それもそのようなサイトにあったアドバイスだ。
 余り目立たないような地味な格好をして、アミは少年を連れて出てきたのだ。
 特に少年の髪と目の色は余りにも目立ちすぎるため、髪は色を染めて、目の色もカラーコンタクトで茶色にしていた。
 ホログラム用のデータはダウンロードしたソフトウェアで製作できるため、それもきちんと用意してあった。
「それじゃ、レイ、行きましょう」
 アミは少年に声を掛ける。
 名前が無いのは余りにも不便なので、アミは少年にレイ、という名前をつけたのだ。

 指定された待ち合わせ場所に行き、そして注意深く辺りを窺った。
 アミは尾行されていたり、監視されたりしている事は全くわからない。普通の一介の女子高生に過ぎない彼女に尾行や監視を見抜く目などあるはずが無い。
 そうした事を考えて、このような業者は待ち合わせ人に十分にそうした技能を持つ人間を派遣してくるのだ。
「君達か?」
 噴水の近くにある大きなベンチの席に座っていたサラリーマン風の青年がちらり、と視線を走らせて尋ねてきた。
 アミはドキリ、としながら答える。
「はい、そうです」
「わかった。それじゃ、あのブティックに行ってレジの明美を呼び出してもらうんだ」
 母のスカーフを見繕っている、と伝えろ、という男の言葉が、自分達が本当に日常生活と離れた何かに踏み込もうとしていることをアミに実感させていた。
 当のレイは、といえば面白そうな表情でジュースを飲んでいる。
(もう、私がこんなに緊張しているのに・・・)
 呆れたような気持ちで、アミは軽くレイを睨んだ。
 そのアミに、天使のような微笑を向けてレイはひょい、と立ち上がる。
「さて、ショッピングに行こう」
 そして二人は指定されたブティックに向かって歩いていった。
 軽やかな足取りで立ち去っていく二人を、男はさりげなく見ながら周囲を注意深く窺う。問題がない事を確認した男は、どこかに連絡を入れて立ち去っていった。

 カラン、とレトロ調のドアベルの音が軽く響いた店内は、それなりの人がショッピングを楽しんでいる様子だった。
(まさか、こんなお店が偽造ホログラムカードに関わっているなんて・・・)
 内心の驚きを隠しながら、アミはカウンターに近づいて、一人の店員に話しかけた。
「あの、すみません。こちらに明美さんという方はいらっしゃいますか?」
「はい、ご用件は何でしょうか?」
 若い女性の店員は微笑を浮かべてアミに尋ね返す。
「実は、母のスカーフを見繕っているのですが、明美さんという方が詳しいと聞きまして」
 その言葉を聞いた店員はにっこりと微笑む。
「少々お待ちください」
 そう言葉を残して、店員はオフィスの中へと消えていった。
 アミは待たされている間、緊張が高まっていくのを抑え切れず、思わず手が震えてしまうのを抑え切れなかった。その握り締めた手を暖かい掌がそっと包み込む。
「大丈夫だよ」
 少年の言葉にアミは何となくほっとする自分を感じていた。
 数分ほどして、先ほどの店員がやってきた。
「明美は今、倉庫におります。ちょっと手が離せないようなので、差支えが無ければ裏に来ていただければ本日入荷したスカーフの中から良いものを選ばせていただきます、との事ですが」
 アミはその店員の言葉に困惑していた。
 普通、客に対して裏の倉庫に来て欲しい、とは言わないだろう。だが、レイはあっさりと答えていた。
「そうですか、それではお邪魔でなければ見繕っていただきます」
 きょとん、としてアミは少年の横顔を見てしまう。その視線に気付いたのか、レイはにっと笑ってウィンクを返す。
 映画やドラマ以外でそんな仕草を見たことなど無かった。
 思わず頬が赤らんでしまう。
 若いカップルの微笑ましい様子に店員は笑いながら、「ではこちらへどうぞ」と二人を促した。
 別の店員がさり気無い様子で、しかし鋭い視線を一瞬だけ二人に向けたことにアミは気付いていなかった。
 オフィスへと続くドアが閉じられて、店員が口調を変えてアミとレイに問いかける。
「で、あんた達は何が必要なんだい?」
 不敵な目をした店員は、既にその本性を隠していなかった。
 強い重圧感にアミは思わず膝が震えてしまう。
「外にいた人に聞いていると思ったけどね」
 涼や気な声が響く。
 アミは驚いた表情で少年を見つめていた。
 あろうことか、この目の前の女の放つ強烈なプレッシャーの前でもレイは平然としているのだ。
「ああ。聞いてるよ。けど、きちんと確認するまでは通すことは出来ないね」
「そりゃそうだ」
 レイはあっさりと頷いた。
「カードを入手したいんだ」
 女は一層警戒を強めたように鋭さを増した視線を少年に向ける。
「何処で聞いた?」
「情報ライブラリのアングラで」
 ふう、と女は溜息をついた。
「なるほどね。あんたらは運がいい。どうも噂が広がっているみたいだったから、拠点を畳もうと思ってたんだ」
 潜入捜査の調査員だと思ってたからね、と女は続けていた。
「身元は洗ってあっても、調査局は厄介な連中だしね」
 こうした非合法活動を調査する調査局は凄まじいまでの情報収集力や捜査活動を行って様々な犯罪組織や非合法組織を潰している。
 その為に彼女達のようなアングラ組織もいくら警戒しても警戒し過ぎという事は無かった。
 特にレイのように未登録者のデータを偽造するときは、その本人が未登録であることを確認してなおかつ、潜入捜査員でないことも逆に調査しなければならない。
 幾つかの質問をした後で、女は確認を終えたのか、二人を連れて店の奥に進んでいった。
 そして倉庫の奥にあるダストシュート用のエレベーターの前でもう一度、ちらりと振り返る。
 何をするのか、と見ていたアミに女が言う。
「悪いけど、後ろを向いててくれる? あと、あたしが言うまで目を閉じていて」
「は、はいっ!」
 慌てて目を閉じて後ろを向くアミを面白げに見ながら、少年も目を瞑って後ろを向く。
「驚かないで。目隠しをするから」
 そのまますっぽりと目を覆う布に不安が胸をよぎる。
 その不安を感じ取ったのか、レイがアミの手をそっと握り締めた。
「さ、こっちに来て」
 二人の手を引いて、女は歩き出す。
 迷路のようにぐるぐる歩きながら、どれほど歩いただろうか。
 女は漸く立ち止まって二人に目隠しを取ってもよい、と告げる。
「あ・・・」
 思わずアミはぽかん、としてしまった。
 そこは先ほど彼女達が目隠しをされた場所だったのだ。
(一体、何なの・・・?)
 訳がわからなくなって混乱してしまった。
「こっちよ」
 女に連れられてドアを抜けると、そこには小さな部屋があった。
 驚くほどのコンピュータがラックに押し込まれていて、そして数人の男達が忙しなくスクリーンパネルを操作している。
「おお、来たか。ホークから連絡があって、準備は完了しているぞ」
 初老の男性が鋭い視線をレイに向けた。
「あとはお前さんの映像イメージや認証データを登録するだけじゃ」
 男性はアミから受け取った情報やスキャン済みのデータを端末にロードしながら指示を出す。
 こっちに来い、と男は顎をしゃくって部屋の片隅に設置されている電子スキャナーを示した。大きなポットのような電子スキャナーは、20世紀に発明されたMRIのようなものである。
 そうした古典的な設備と違って、この電子スキャナーは量子の干渉を利用して更に高精度な観測を一瞬にして行うことが出来るのだ。
 そうしてスキャンされたデータはホログラム・カードと中央コンピュータに登録され、認証を行った際に照合されることとなる。
 プシュッ、とスプレーを掛けて髪の染料を中和する。
 タオルでごしごしと擦って暫くすると、レイの見事な黄金に輝く髪が露になった。そしてコンタクトレンズも外す。
「この中に入ればいいのかい?」
 レイが尋ねると、男はこっくりと頷いた。
 少年が入ると、男達はスキャナーのドアを閉める。
 アミは自分がスキャナーでデータをスキャンされたときのことは覚えていない。通常は、産まれた時に健康診断と同時にスキャンされ、それがホログラム情報として登録されることになるのだ。そして、年齢の成長と共にホログラムの情報も修正が加えられて、常に情報がマッチされることとなる。
 だが、国外の人間が住居登録をした場合など、外部からエントリーされた場合はこの限りではなく、必要な情報は後からエントリーされることとなるのだ。
 スキャナーの中は何もない真っ白な円筒型の壁があるだけだった。
『よし、今からスキャンを開始するからな。息を止めておけ。3・・・2・・・1・・・、よし、完了だ!』
 本当に一瞬で終わっていた。
「OK、綺麗に撮れてるぜ」
 一人の男が嬉しそうに呟く。
 スクリーンパネルの一枚に、今スキャンしたばかりのレイの画像が映っていた。
 それを手際よく操作して、中央コンピュータ側に送り込んでいく。
「転送率、46%・・・51%・・・68%・・・76%・・・88%・・・94%・・・完了。インターセプトもなし。受信ハッシュも確認。これで向こう側の作業は完了だ」
 初老の男性は満足げに頷いて、別の作業をしている女の方を向いた。
 黒く艶やかな髪がエキゾチックなショートヘアの女性だった。
「はい、こっちもOK。登録済みのカードよ」
 にこやかに笑いながら一枚のカードを取り出す。
 アミはあっけに取られていた。
 まさか、こんなに簡単にホログラム・カードを作成できるとは・・・
「はい、あなた達も準備は出来てるわね?」
 一瞬あっけに取られたが、支払いの事だと気が付いて顔を赤らめる。
 反射的にペイ・カードを取り出そうとして此処ではそんなものを受け取らないものだと思い出す。
「えっと、これで大丈夫ですか?」
 支払チェック済みのクレジットを手渡した。
 女はそのプリペイドのカードを眺めて、さっと手元の読み取り機に通す。
「・・・OKよ。ちゃんと支払済みのクレジットね。身元をトラック出来るタグ情報も何もなし、と。チーフ!」
 呼びかけられた初老の男性はこっくりと頷く。
 そして女は出来たばかりのホログラム・カードをレイに手渡した。
 二人はそのホログラム・カードを覗き込む。
 登録情報を示す透明なスクリーンにはレイの顔が仮想立体画像として浮かび上がっていた。

 一週間後、その店のあった公園に出かけた二人は、そのブティックの扉に『店内改装中に付き、休業させていただいております。再開店予定日はXX/YYです』という表示がされているのを目にして、そのまま通り過ぎていった。
「やっぱりあのお店、すぐに閉まっちゃってたわね」
 アミは感慨深げに呟いた。
 もし、少しでも行動が遅れていたらレイはホログラム・カードを取得できる貴重な機会を失っていたかもしれなかった。
 ともあれ、今はもっと安心して普通に過ごせるようになるだろう。
 少なくとも何箇所かで試してみたところ、レイのカードは問題なく使えることが判明していたのだ。
 後は落ち着いて考えていけばよい。
 そう考えながら、二人は公園を後にしていった。
 
 
 

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