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暑い日差しが
夏休みに入る期間は、時には日中の外出が禁止されるほどに強い日差しが照りつけてくる時がある。こうした危険な日差しを防ぐためにもガーディアン・システムは必要不可欠なものだった。 この保護システムは人類の文明が生み出した最高の守護システムであり、宇宙圏での放射線からさえ人間を護ってくれるのだ。 そんな日差しの中で、アミはガーディアン・システムの温度制御機能の数字を確かめる。外の気温は、ガーディアン・システムが無ければ熱中症に陥るような数字を示していた。 アミは友人達と共にアイスクリームを食べながら雑談を楽しんでいた。あの少年はとりあえず、アミの部屋の隣に住むこととなったのだ。母親と二人暮しの部屋には、物置代わりに使っていた部屋が一つあったので、それを片付けてソファベッドを置いたのである。 「まあ、野宿せずにすむだけ有難いよ」 冗談めかして言う少年の言葉にアミもほっとしていた。 とはいえ身元不明のままでずっといる訳にもいかない。何とかしてセキュリティ・クリアランスを確保しないとあの少年はマンションを出て買い物をすることさえ出来ないのだ。 まるっきりこの世界に関する知識を持っていない少年を一人で出歩かせるのは不安が多すぎる。 移民局で可能な滞在申請には必ず該当する国の国籍証明が必要になる。 完全に行き詰ってしまっていた。 「どうしよう・・・」 流石に途方に暮れてしまう。 軽く落ち込んでしまったアミの頭をがばっ、と抱きかかえて、友人の早紀が囁く。 「ま、どうしようもないんじゃない? 警察に行けば悪いようにはならないって」 「でも・・・」 そうは言っても、アミには不安が付きまとってくるのだ。 あの不思議な光りと共に突然現れて、そしてガーディアン・システムでも検出できないエネルギーフィールドで護られた少年。 その事実に気付いたならば、政府はあの少年の身柄を拘束するだろう。 だからこそアミは今も少年を匿っているのだ。 「ただいま」 アミがマンションに帰ったとき、少年は熱心にライブラリを読んでいた。もうターミナル・コンソールの使い方は完全にマスターしたらしい。 「あ、お帰り」 その少年の言葉が何処かくすぐったく、心地よい響きとなってアミの心に届いていた。 (こんなのって、初めてよね・・・) 今まで忙しい母親がアミが帰ってくる時間に自宅にいた事が無く、いつも一人で誰もいない部屋に帰ることが当たり前になっていた少女にとって、誰かが待っている部屋に帰る事がこんなに違うものなのか、と新鮮な驚きを感じさせるものだった。 「で、何か判ったの?」 アミは少年に尋ねる。 もしかしたら情報ライブラリに彼に関する情報や資料が無いか、とターミナルで調べていたのだ。 その問いに少年は首を横に振った。 「いや、まだ判らないね」 少なくとも彼にはこの社会のことや簡単な歴史、そしてアミが感じた少年の明らかにアミたちと異なる点などを教えてあるため、そう簡単には目的の情報を見つけられないのは覚悟している。 少年は軽く伸びをして立ち上がった。 「何か飲んでもいい?」 「ん、何でも良いわよ。コーヒーでも飲む?」 アミはそう答えて、キチンに向かった。 珍しく、アミの家には本物のコーヒーがあるのだ。今の時代、豆から煎れる本物のコーヒーは貴重で、めったに飲むことは出来ない。街で買えるコーヒーは、せいぜいコーヒーに似せた合成品だ。 余り沢山飲んでしまうのは拙いが、一週間に数度くらいなら母も文句を言わない。 豊穣なコーヒーの香りとコクのある味わいを堪能しながら、二人は取り留めの無い話を続けていた。 スクリーンに様々な情報コンテンツや娯楽コンテンツを映しながら、少年はアミにいろいろな事を尋ねてくる。それに答えるのに、アミはちょっとした苦労を強いられていた。 何しろ、自分が当たり前のことだと思っていたことにも質問を投げかけられ、アミは答えに詰まることが多々あったのだ。その度にターミナルで調べてみると、自分でも知らなかったことを改めて知って、アミは自分でも驚いていた。 そして、そのやり取りや情報ライブラリの資料等を見ながら気が付いたのが少年の理解力の強さと飛び抜けた学習能力だった。 とにかくこの少年の理解力と飲み込みの速さは凄まじいまでのものがある。 それだけではない。その記憶力も信じがたいものがあった。 何しろ、アミが今までかかって勉強してきた内容をほぼ完全に理解して自分の知識にしてしまい、それを手掛かりに初級の大学レベルのテキストにまで取り組み始めたのだ。 元々の彼の知っていた科学的、数学的知識は正直言ってアミたちから見て相当に隔たりがあった。 だが少年は初歩の数学や物理、化学などのテキストをあっという間に理解してしまっただけでなく、それを元にアミの学習レベルを超えた内容にまで踏み出すのに一週間と掛からなかったのである。 とんでもない話だった。 しかし、知識だけを肥やしても今の状況を変える事は出来ない。だからこそ、生活に必要なものを取り揃えることが今の緊急の課題だった。 「はい、コーヒーよ」 アミが差し出したカップを受け取り、少年はにこっと微笑んだ。思わずアミの頬が赤らむ。 人間離れした美貌の少年が優しく微笑んでくるとまるっきり印象が異なってくる。 不意にアミは切ない気持ちに襲われてしまった。 (ねえ、あなたは一体何処から来たの・・・?) もう一つの問いかけは、心の中に思い浮かべようとするだけでも胸が苦しくなってくる。 何処に帰っていくの・・・? ファールヴァルト王国の王城では静かな、しかし予断の許さない事態の連続に軍部だけでなく官僚や行政官達も殺気立っていた。 「遂にミラルゴも 疲れきった声で外交部の役人が呟いた。 あろう事か、ウォータードラゴンを支配したリザードマンの軍勢は遂にミラルゴの王城を制圧したのだ。国家の中枢部を撃破された草原の王国はもはや国家としての纏まりを失い、各部族やケンタウロスの部族などがばらばらに抵抗を繰り返すだけの状況に追いやられていたのである。 もはやこうなっては挽回することは絶望的だった。 その上でウォータードラゴンは自らの周辺を それぞれの部族は屈強な男性の相当数を失い、ついには広大な平原を離れざるを得ない部族まで現れ始めていた。 これ以上の被害を出せば部族として存在できなくなる。 そんな危機感から住み慣れた平原を棄てるという苦渋に満ちた選択を下さざるを得なかったのだ。 難民として他の国に行こうにも、世界的に戦乱の兆しが見え始めた今では各国は国境を閉ざしているのだ。それはファールヴァルトも同様であった。 そして遠見の水晶球や各国に入り込んでいる密偵達からの情報の中にも明るい展望を予測させるものは無かったのだ。 オーファンとファンドリアの戦争は、ファールヴァルトの提供したナイトフレームの投入で膠着状態となっている。そしてロマールの内戦は止まることを知らずに被害が増え続けていたのである。 更には一度はファールヴァルトのナイトフレーム部隊に撃破されたムディール再興を掲げる“ムディール解放の虎”も再び力を取り戻し始めて、各地でファールヴァルト軍との小競り合いを続けていた。 西部諸国もこの戦乱とは無関係でいられるはずも無く、タラントはゴブリン連合と呼ばれる妖魔の軍団に敗北する、という衝撃的な事実が西武諸国を揺さぶっていた。 “空に近い街”との異名を持つタラントはその国土の殆どが“空への梯子”クロスノー山脈に属する山岳地帯である。 そしてタラントの周辺に広がるマエリムの森には妖魔が多数棲んでいる事で知られていた。この森に棲む妖魔達は信じられないことに集団で高度に組織化された勢力であり、人間の国家であるタラントの軍とも互角以上に戦っているのだ。 その妖魔の軍団はゴブリン連合という名で知られ、そのリーダーであるゴブリンの王は古代のゴブリンの血を引く恐るべき強さを誇る戦士だった。 このゴブリンの王は産まれつき異常に頭が良く、只でさえ普通のゴブリン以上に知的であるゴブリンの上位種の中でも際立って高い知能をしていたのだ。 そのため、驚くべきことに彼は精霊の魔法まで使うことができる。 強靭な肉体と熟練の騎士以上の剣の実力に加え、精霊の魔法まで使うこのゴブリンの王が他の妖魔たちを従えて強大な軍団を作り出すのは極自然の成り行きとも言えただろう。 その彼が支配する軍団がタラントを支配することを軍団の幹部達は微塵も疑っていなかった。 この軍団は無数のゴブリンを率いるために、精霊使いや若いロード種のゴブリン達を部隊のリーダーとして複数の集団を柔軟に動かせるようにしている。おまけに単純ではあるが罠や策略も使う為、タラントの騎士団は大きな痛手を蒙っていたのだ。 精霊の魔法を使う魔法戦士はタラントの騎士団の中にもいない訳ではなかったが、まず何よりも数が違いすぎる上に夜の闇の中で自由に動き回れる妖魔を相手に戦うのは力不足だった。 その上で、あろう事かダークエルフの暗殺者までもがゴブリン連合と協調して戦いを挑んできたため、タラント軍は敗れるべくして敗れたといっても過言ではなかった。 その日、タラント軍の部隊は激しい戦闘が繰り広げられるようになってきた西の森に展開していた。 タラントは山脈地帯にある国であるため、タラント軍はその兵士達の多くがレンジャーとしての技能を鍛えられている。 他にも迅速に安全な砦を築く必要があるため、建築の技術を持つものも少なくない。 その時も日が暮れる前に安全な陣地を確保するために急いで櫓を建造し、そして丸太を組んで防壁を築いていた。 妖魔相手の野戦が主な戦闘であるタラント軍の本能ともいえる習性である。とにかく、戦場から迅速に対比できる場所に安全を確保するために砦を築くのはタラント軍に入ってまず一番最初に習うことの一つなのだ。 手馴れた兵士達の手で見る見るうちに頑丈な砦が築かれていった。 見た目はまともに枝も落とされていない無骨極まりないものであるが、その堅牢さは見た目からでは想像も出来ないほどの完成度を誇るのだ。 そうした陣地を確保しながら戦線を探っていくのがタラント軍の戦い方である。 だが今回は特に厳重な作りで砦と防壁、櫓を建築していた。 その理由は、最近急激に妖魔の攻撃が強まり、苦戦することが増えてきたためである。特にあのゴブリンの王は恐るべき相手だった。 大国の騎士団長にさえ匹敵する剣技と同時に高度な精霊魔法をも使いこなすという信じがたい力の持ち主なのだ。そのゴブリンの王はあろう事かタラント軍の騎士で編成された一個隊を打ち破っていたのである。 タラントの騎士隊が妖魔に敗れる。その話はタラント王国首脳に大きな衝撃を与えていた。 それまでは何となく、人間が妖魔に敗れるはずが無い、という漠然とした優越感と安心感に寄りかかっていたのだが、それが根底から覆されてしまったのだ。 それが人間至上主義者たちの感情を刺激して、タラント国内にも不穏な空気が流れ始めていたのである。 今の国王が穏健派であり、王妃がエルフであることから人間至上主義派は危機感を感じていたところに、騎士団が妖魔に敗れたという事実が彼らを過激な行動に追い込んでいたとも言えるだろう。 そしてそうした人間至上主義派の者達に官僚や商人など、権力や地位を持っている者たちが名を連ねていたのが不幸だった。元々、そのような地位や権力、財力などを持っているもの達が長寿の妖精族に対して警戒心を抱いたことが人間至上主義派を生み出す元凶だった為であり、その影響力は国王さえ無視できないものがあるのだ。 ある意味でそうした馬鹿馬鹿しい理由がタラントを滅ぼした原因だった。 理由はどうであれ、現実としてエルフの血を引く優秀な精霊使いを投入できなくなったタラント騎士団は、数少ない人間の精霊使いをやりくりして妖魔と戦わざるを得なかったのだ。 その精霊使いの数の差がゴブリン連合との戦いの勝敗を分けていた。 当然のことではあるが、妖魔は夜間に活発に行動して襲い掛かってくる。 タラント軍の兵士達にとって、それは太陽が東から昇って西に沈んでいくのと同じくらい当たり前のことだった。だからこそ、厳重に築いた陣地を中心に見回りの兵士を立てて厳しい警戒を敷いていたのだ。 しかし、やはりそこでも夜での環境が当たり前の妖魔と人間の違いが大きく明暗を分けていた。 元々、哺乳類は夜行性の性質をしている。 人間などの霊長類の一部を除いて哺乳類の目が色を識別できないのがその証拠である。遥かな古代、恐竜が誕生したのとほぼ同時期に哺乳類の祖先も誕生したといわれている。だが、恐竜の繁栄の陰でその過酷な生存競争を強いられた哺乳類は夜の森の中にその生活の場を求めざるを得なかったと考えられているのだ。 その為、未だに夜行性の哺乳類が存在しているのが、哺乳類がどれほど長い期間、夜行性の生活を余儀なくされていたのかを物語っている。その結果として哺乳類は聴覚を発達させ、少ない情報量で高度な判断を下すための脳を進化させたことから一概に悪いことばかりだったとは言えないものの、極限の環境で生活を送ってきた名残は未だに哺乳類の生活や肉体に無視できない形で残されている。 そんな中で比較的早く夜の闇の習性から解放されたのが一部の霊長類だ。 その中の人間はもう既に夜の生活からは完全に離れた生活を送り、肉体的にも日中の生活に適応している。フォーセリアの人間がユーミーリアの人間とはその成り立ちからして異なるとはいえ、遺伝子的にも交配可能なレベルでほぼ同じ種として考えられるほどに近いフォーセリアの人間はユーミーリアの人間同様に夜間の生活には完全に向いていない。 それに対して妖魔は夜の生活でも何ら不自由は無い。 夜目が利くというだけでも圧倒的に有利に立てるのだ。 人間側は松明などを用いて明かりを確保しなければまともに走ることさえ出来ない、というほど運動能力を制限される。その為、妖魔に夜襲を受けた段階で厳しい戦いを余儀なくされていた。 緊張感を伴って二人の兵士が巡回していく。 既に戦場に近い場所であることから、何時妖魔の襲撃を受けるかもしれないという緊張感は若い兵士の神経をじりじりと焼き付かせていくようだった。 「やつら、来るかな?」 一人の男が押し殺すように呟く。 緘口令を敷いているとはいえ、もう既にタラント軍の全員が先日の戦闘の結果を知っていた。あろう事か騎士隊が妖魔との戦いに敗れたという事実は軍だけでなくタラントの住民に激しい動揺を齎していたのだ。 「来るだろうな。何時とは判らんが、奴らは必ず来る」 問いかけを発した男よりも少しだけ年長の男が答えた。 しかし一般の兵士を遥かに凌駕し、妖魔との戦いにも十分な経験を持つタラントの騎士を打ち破ることが出来る妖魔など、どのようにして戦えばよいのだ・・・ そんな不安が不快な感覚となって喉元にこみ上げてくるようだった。 「いずれにしても、俺達は・・・」 その男の言葉は不自然に途切れた。 はっとして振り向いた若い男の目に映った光景に、その目を疑っていた。男の眉間には短剣が深々と突き刺さっていて、既に男が絶命していることは明らかだった。 「・・・!」 敵襲だ、と叫ぼうとした男の口を背後から何者かが塞いで声を封じる。身を捩ろうとした瞬間、焼け付くような感覚が喉に感じられて生臭く暖かい液体が口の中に溢れ出す。錆びたような不快な味がした。 自分の喉を掻き切られた事を本能的に悟った男は死に物狂いで暴れようとしたが、既に手足から力が失われようとしていた。 崩れ落ちる男の視界に黒い肌の華奢な人影が映っていた。 早期の哨戒を潰されたタラント軍は不意を突かれて大混乱に陥っていた。 元々タラント軍は野戦にも強い上に夜間の戦いにも慣れている。そのタラント軍を一方的に攻めることが出来たのは、やはり魔法の力が大きかった。 今までタラント軍がゴブリン連合に対しても劣勢にならずに戦えたのは精霊使いの数で勝っていたためである。 如何にゴブリン連合が夜に強い妖魔の軍団とはいえ、タラント軍は一部隊に付き数名程度の精霊魔法の使い手を揃えて、魔法の援護を充実させていたからだった。 しかし、今はその優位を保っていた魔法使いの数さえも凌駕されている。 その結果、タラント軍は窮地に立たされていたのだ。 「怯むな! 押し返せ!!」 騎士たちが死に物狂いで剣を振り回しながら何とかして妖魔の軍勢の勢いを挫こうと全力で戦っていた。 だが素人目から見ても現状を覆すことは絶望的であった。 不意を付いて襲い掛かってきた妖魔は、ゴブリンだけでなかった。 あろう事か、ダークエルフの暗殺者達やオーガー、トロールなどもタラント軍に襲撃を掛けてきた軍勢に混じっていたのだ。 オーガーやトロールは熟練の騎士にさえ匹敵する強さを誇り、その生命力は巨人の末裔だけあって驚異的なものだった。そしてダークエルフの精霊魔法はいずれもタラント軍の精霊使いを凌駕しており、魔法的な戦闘能力でもタラント軍を圧倒していた。 そしてタラント軍は知る由も無かったのだが、妖魔の軍勢がこれ程の混戦でも的確に砦攻めを行えたのはインプの存在がある。 ゴブリンの王だけでなく、ゴブリンの精霊使いの中でも数体の熟練の暗黒魔法の使い手やダークエルフの暗黒神官たちはインプを使い魔にして空から状況を把握していたのだ。 そうしたタラント軍の持たない情報収集能力を駆使して、妖魔の軍団は着実にタラント軍の息の根を止めようと猛攻撃を仕掛けてくる。 「何故、奴らは我々の動きを読んでいるように攻撃を仕掛けてくるんだ!?」 身体のあちこちから血を流しながら、一人の騎士が疑問を口にしていた。 何かがおかしい。 そう直感していた。 熟練の騎士たちが比較的余力を残している兵士達を指揮して窮地に立たされている味方の援軍に向かうと、果敢に攻め立てていた妖魔の部隊はあっという間に消えてしまう。そして手薄になった場所を激しく攻めて来るのだ。 その動きはまるでタラント軍の動き全体をチェスの盤を眺めるように見ているようにさえ思える。 そう考えた瞬間、その騎士は頭を殴られたかのような衝撃を覚えていた。 (奴らには見えているんだ! し、しかしどうやって・・・) 慌てて上空に視線を向けた騎士の様子に驚いて、兵士達は動きを止める。それに気付いた騎士は視線を宙に走らせたまま叫んだ。 「お前達、私の周囲を護ってくれ! どうやら奴らは空から我々の動きを見ているようだ!」 その騎士の言葉の意味は理解できなかったが、兵士達はその騎士を護らなければならないことだけは理解できた。 円陣を組んで騎士を護るように体勢を取る。 暗い夜、空中を見るのは難しかったが、騎士は指に嵌めていた指輪に意識を集中させて下位古代語で合言葉を唱えた。その瞬間、右手に持っていた短剣から明るい光が放たれる。 共通語魔法と呼ばれる魔法だった。 この魔法を付与された指輪を手にしながら定められた合言葉を唱えることで、魔術師としての訓練を受けていない者でも幾つかの古代語魔法の呪文を仕えるようにしたのが共通語魔法と呼ばれるものだった。 それを使って短剣に魔法の明かりを点したのだ。 騎士は明かりの魔法に包まれた短剣を少し離れた場所にあった大木に投げつけた。 その短剣を中心にして周囲が明かりに照らし出される。 夜の闇全てを照らし出すには小さな光だったが、騎士が捜し求めるものを照らし出すには十分だった。 「ギィーッ!!」 突然、眩い光に照らし出されたそれは耳障りな悲鳴を上げて飛び去った。 暗褐色の肌に蝙蝠のような羽を生やした小さな妖魔。 「インプ!」 騎士は驚いて声を上げる。 まさか、インプを使って上空から動きを見張っていたのか、とそのあまりの知略に総毛だってきた。 確かに夜目の利くインプなら暗闇から見張るのに問題は無い。 そして夜間の戦闘で暗視の能力を持つ妖魔が上空からの情報を得ながら臨機応変に襲撃をしてきたのではタラント軍に勝ち目は無いだろう。 騎士が慌てて振り返ると、あたりが急激に照らし出されていた。 何人かの弓兵たちが騎士の指示で明かりの呪文を点した矢を次々に周囲に放っていたのである。明かりを点した短剣を投げつけたことで周囲を照らせると判った同僚の騎士たちが自分の部下に命じて周囲を照らし出しているのだろう。 何人かが飛び去るインプの姿を見て驚きの声を上げていた。 だが、これで漸く戦況を変えることが出来る、と士気が高まった騎士たちの血が凍りついた。小さな炎がちらちらと動き始めて、それが急速に獣の姿をとり始めたのだ。 火の下位精霊である 精霊を支配下に置いて操れるほどの精霊使いがいる! 騎士たちは恐怖が全身を冷たく凍らせるのを感じていた。身近に精霊使いがいて共に戦っているタラントの騎士だからこそ、精霊魔法についての知識は驚くほど豊かなのだ。 そして精霊を支配下に置いて使役することが出来るほどの高度な精霊魔法は、恐らくエルフの集落の族長やダークエルフのリーダーなど、上位精霊さえ操ることが出来る実力者のみが行使できる魔法だと知っていた。 「まずい! すぐにここから退却するんだ! 全員、全力で退却っ!!」 その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、火の精霊たちは一斉に炎の息吹を吹き始めていた。 何人かの兵士がその矢のように浴びせかけられる炎に撃たれてのた打ち回る。 兵士達はその傷つき倒れた仲間を何とか連れ帰ろうと手を伸ばしながら退却をしていった。だが、歩けないほどの怪我をした兵士を支えて逃げるのは不可能だった。 「構わんから、お前だけ逃げろ!」 死力を振り絞って怪我の浅い同僚を突き飛ばし、倒れこむ兵士は苦痛と恐怖を必死に抑えながら叫んだ。 このままでは全滅する。 その兵士の意思を受けて、兵士は弾かれたように駆け出していった。 たとえ一人でも良い。生きてタラント軍の本部に妖魔の戦術を伝えなければ取り返しの付かない事になるだろう。 血が足りなくなってきたのか、急速に視界が暗くなっていく。 その薄くなっていく視界の中で、全身が炎で作られた巨人が巨大な炎の嵐を巻き起こしているのが幻のように見えていた。 「少しは頭の回る人間もいるようだな」 暗い闇の中で嘲るような声音で何者かが呟く。 漆黒の夜の闇の中に溶け込みそうな黒い肌。 人間に恐れられている妖魔の中でも最も警戒すべき黒い肌をした闇の妖精、ダークエルフだった。 体力こそ人間やその他の妖魔に劣るものの、その高い頭脳とずば抜けた寿命の長さから高度な精霊魔法を操るものが多く、俊敏な動きを生かした暗殺者としての技能も高い恐るべき存在である。特に、彼らは愚鈍な多くの妖魔と異なり人間をも凌駕する知能を誇るため、人間の最大の武器である頭脳を生かした戦略が裏目に出てしまう場合が多々あるのだ。 そうした闇の妖精がその高度な精霊魔法を駆使しながら体力に秀でたオーガーやトロール、数を生かすことが出来るゴブリンなどを操った場合、恐るべき戦力になるのは容易に想像できるだろう。 今までそのような大規模な戦争が起きなかったのは、ただ単に彼らはその長寿と引き換えに個体数が少なく、大きな勢力を作ることが難しかっただけに過ぎない。 だがそれももう過去のことだ。 彼らの王が復活を果たした以上、もう待っている必要はない。 自然を破壊し続ける人間どもを征服し、闇の森の安寧によりこの大陸を包む時代が来たのだ・・・ 「さあ、我らが王の下に帰ろう・・・」 別の声が響いた。 そして数人の影は夜の森の中に溶け込むように消えていった。 |