~ 4 ~

 一面の緑の絨毯に覆われていた草原が灼熱の炎に包まれていた。
 日が暮れた後で尚、血を吸ったかの如く赤い炎に照らされて、疲れ果てた表情の人間達は力無い足取りで当て所なく彷徨っていた。自らの家が炎に包まれ、そして家族とも離れ離れになった者が多い。
 遂に始まったリザードマンの侵攻に、平和な草原の民は為す術も無かった。
 巨大に成長した水竜は、人間の手に負えるような存在ではなかったのだ。ましてや、その水竜を従えるリザードマン達は屈強な戦士であり、その強靭な生命力と強固な団結力は人間や人馬族の戦士団と比べても引けをとらない。それに成竜が加わった軍団は途方も無い戦力だった。
 原始的な武器しか持たないとはいえ、リザードマンは力も生命力も人間を凌駕する。また、このリザードマンを率いるリーダーは比類なき力を持った戦士であった。基本的に一般のリザードマンはゴブリンと同等程度の戦士の技量しか持たない。だが、このリーダーは恐るべき事に熟練の技量を持つ騎士隊長をも一対一で打ち倒していたのだ。また、他のリザードマンたちの中にも、騎士並みの技量を持つ熟練の戦士達がいた。
 そして、水竜の恐るべき魔法で平原が水に飲み込まれ、足場がぬかるんでしまったのだ。これでは人間の戦士達は為す術も無かった。
 リザードマンとの戦いで、ぬかるみに脚を取られては人間はまずリザードマンには敵わない。機動力を誇る騎兵やケンタウロスの戦士も、その得意の戦法を封じられ、為す術も無く粉砕されていったのだ。
 そして、ミラルゴは領土の東側をリザードマンに征服されてしまったのである。
 後の時代に、この新王国暦525年前後を境として、人間の王国が大きく衰退する時代となったことが歴史書に記されている。だが、この時代の人間はそのような遠い未来のことなどよりも、住む家を失い、耕すべき大地を失った痛手に未だ立ち向かうことさえ出来ずにいた。
「なあ・・・、これからどうすりゃいいんだ・・・」
 力なく項垂れながら、壮年の男が誰に言うでもなく言葉を漏らす。
 長い続いたアレクラスト大陸の平和が突如崩れ、人々は混乱の中に投げ出されていた。草原の王国ミラルゴの首都では、長らく起こらなかった戦争に対して、どのように対処するか、という最初の時点で宮廷会議は紛糾していた。
 様々な部族の長が集い、国王や大臣の任命権さえ持つ首長会議は、延々と同じような話が繰りかえされ、終わる気配さえなかった。
 一人の初老の男が困惑気味に発言する。
「まさか、あのリザードマン達が本当に竜を操って侵攻してくるとは・・・」
「しかるに、我が騎士団はどのように対応するのだ?」
 別の男が相槌を打つように質問を口にした。その質問に対して、まだ若い戦士のようないでたちの男が威勢良く意見を言った。
「それよりも、それぞれの部族の戦士団を束ねて立ち向かうべきでは・・・」
 その言葉に深く考え込みながら別の男が懸念を口にした。
「しかし、誰が長になるかが問題だ・・・」
 リザードマンの侵攻に対処するのと同時に、別の部族がこの戦争をきっかけにして勢力を伸ばしてしまう事を避けなければならなかった。それが第三者から見れば以下に馬鹿馬鹿しい話であったとしても、当事者の間では深刻な問題になってしまうのだ。
 領土に攻め込まれた部族の長が、必死になって他の部族の長達を説得しようと訴えかけていた。
「このままではわしらの土地があの汚らしいトカゲ共に奪われてしまうのですぞ!」
 しかし、その訴えをうっとおしげに感じながら、他の部族の者達は今後の対策を、如何に自分達の部族が多く利益を得るかを胸の奥に隠しながら淡々と話していた。
 とりあえず、全ての部族が集まって戦士団を形成し、リザードマンに対抗することが決まったのだが、その長はアッジ族の戦士長が任命された。そして、他の有力な部族の戦士達が補佐となることが決まり、政治的なバランスも考慮された決定となっていたのだ。
 だが、このような組織が一団となって外敵に対処することが可能なのか、一部の賢者からは懸念の声が上がったのだが、大きな意見となることもなくミラルゴ軍の編成が決まった。
 その情報を受けた眞達の反応はあきれ返って物が言えない、という表情だった。
 当然の事ではあったが、ミラルゴ軍は大敗し、アリダー河の流域はリザードマンと蛮族に征服され、責任を取って国王クーナは退位したのである。
 この結果、東部地域の混乱は益々拡大していく事になった。
 
 ロマールの同名の王都、ロマールでは遂にアスナーⅡ世が崩御した。
 これによりロマールの混乱は頂点に達することとなったのである。当然の事ながら、第一王子派と第二王子派の二派に分裂した国内勢力の対立は遂に内戦にまで発展したのだ。そして、アスナーⅡ世により征服された旧レイド領の貴族や騎士達が旧領回復を叫んで蜂起した事も混乱に拍車をかけていた。
 だが、その政治的な混乱がファンドリアに大きな援護になる事は間違いない事実だったのである。
 そしてファンドリア軍はロマール軍との激突を待ちかねていたかのように、オーファンの旧モラーナ王国派の騎士達もファンドリアに再度の侵攻を仕掛けていた。
 無論、これはリジャール王の承認があったわけではなく、むしろ、勝っても負けても処罰を受ける、という背水の陣での出撃だった。当然の事ながら、リジャール王は激怒し、迅速な撤収を命じたのだが、出撃の理由の一つにファンドリアの魔人兵の存在とその討伐を掲げている以上、強い理由で撤退を命じることも出来かねていた。
 これは巧みに情報が市民の間に流され、そしてその情報が市民の不安を掻き立てていたこともある。その為、リジャール達オーファン首脳部も強く撤退する事を伝え切れなかったのだ。
 良くも悪くもオーファンは英雄王の治める武の国であり、それが邪悪な魔人兵を擁する闇の国を相手に引く事が対外的にも出来なかったこともあった。
 結果としてオーファンはホムンクルス兵を擁するロマール軍と魔人兵を率いるファンドリア軍との戦いに否応無く引きずり込まれることとなったのである。ラムリアースへの同盟の発動も出来ずに、リジャール達オーファン王国首脳部は泥沼の戦線を維持していた。
 
「どうにも成らんのか!」
 何時もならば鬼神の如き響きを伴う英雄王リジャールの声が、オーファンの王城シーダーの謁見の広間に何処か虚ろに響く。
 ファンドリア軍との戦線は完全に膠着状態に陥っていた。
 予想を遥かに超える精強さを見せ、ファンドリア軍はロマールとオーファンの二カ国を相手にして些かの揺るぎも見せていない。
 信じがたいことであった。
「かの邪悪な国が振るう魔人兵との噂のある兵士達は、恐るべき強さで我が軍と伍しております」
 微かに震える声で一人の副将軍が答えた。
 声に苦いものが混じっている。
 あの魔人兵の強さは想像を凌駕していた。驚くべき素早さで剣をふるい、盾を操る。そして、信じがたい生命力を持って、並の人間なら軽く二度は死んでいてもおかしくないほどの傷を負いながらも平然と戦い続けていた。
 恐るべき力で繰り出される一撃は、完全装備の騎士さえ簡単に倒しうるほどの威力があった。
「あの兵士の力、剣を交えた私には判ります・・・。奴等は人間ではありません。あのような恐るべき攻撃は人間には不可能です」
 誇り高き鉄の槍騎士団の勇名を称えられた騎士隊長が血を絞り出すような声で言葉を発した。
 この場には、その言葉を臆病者と嘲るようなものは、今や一人としていない。そのような愚か者はこの戦いが始まって暫くも立たないうちに物言わぬ躯となっていたから。
 ファールヴァルト軍から極秘裏に提供された魔法の武器と鎧が無ければ、オーファン軍は為す術も無く蹴散らされていただろう。数千という数で搬入された魔法の武器と鎧は、辛うじてオーファンの騎士団に恐るべき魔人兵とも戦う術を与えていた。
 その代価として莫大な金銀を支払う事になったが、その価値はあった。
 だが、ファールヴァルト軍は迫り来るロドーリルの脅威と、国内に蠢く不穏な影に力を向けており、共に剣を取る、という状況にはなっていない。
 しかし、それでも良かったのかもしれない。
 もし、ファールヴァルト軍がその牙を剥いてロマールとファンドリアの軍勢と激突したならば・・・中原が灰燼に帰すという可能性さえあった。
 その恐るべき力を振るう軍勢の影に、ラヴェルナは激しい嫌悪を感じていた。そして、深い悲しみも・・・
(何故、人は傷つけあうのでしょう・・・)
 幾人もの騎士達が不帰の客となっていた。
 その中には最愛の夫ローンダミスの部下や同僚も含まれているし、何人かは夫に誘われて自宅で食事を共にした事もある。
 何時までも続くと信じていた日常は、もはや手が届かない遥かな彼方にある幻となってしまった。
 
「そうか・・・」
 眞はアレクラスト大陸各地から齎される情報を一つ一つ丹念に調べ、そして、もはやこの戦争がアレクラスト大陸全土を巻き込む大戦争になることが不可避である事を認めていた。
 だが、その中で自分に出来る事は限られているとはいえ、その責務を放棄する気も無かった。
 修行の為に城を離れている亮と英二のことが気になったが、この程度でくたばる様ならば、そもそも、この世界に残って剣を振るうことなど選ばなかっただろう。
 亮は眞と共に発見した古代の緋色の武具を使いこなすために、死に物狂いで修練を積み重ねているはずだ。そして、英二もまた、鞍馬真陰流の技を極めるために命を賭しての修行を繰り広げている。
「ですが、何故この時期に突然、各地に不穏な動きが出てきたのでしょう?」
 一人の騎士見習いの少年が眞に尋ねていた。
 久しぶりに自宅である離宮に帰っていた眞を、葉子や悦子達が不安げに取り囲んでいた。
 そういえば、ずいぶんと涼しくなってきたな、と不意に眞は季節の移り変わりを感じて驚いてしまった。つい、この間までは初夏の陽気だったのだが、様々な用事に追われているうちにあっという間に夏が過ぎてしまった。
「まあ、原因は色々とあるな。特に、ロマールの大貴族派の動きは決定的だったな」
 眞は少し考えて答えた。
 ファンドリアの魔人兵、ロマールのホムンクルス兵。人外の力を持つ存在が主戦力となる戦争の前では、普通の人間が出る幕は無い。
 ロマールのホムンクルス兵とその装備する武具を相手に、オーファンの騎士が互角に戦えるようにするため、眞は大量の魔法の武器と鎧を輸出していた。これはルキアル達ロマール新貴族派の兵士達にも提供していた。
 それでも正直なところ、収穫の時期に差し掛かるこれからの季節に戦争は避けたかった。
「ねえ、眞・・・。この戦争、何とか止められないの?」
 悦子は悲しげに俯いて眞に尋ねる。どこか、無理とはわかっていて、それでも口にしてしまったような響きだった。
「俺一人の力で何とか出来ることなんか、高が知れてるよ・・・」
 それに、と眞は心の中で付け加えた。
(俺は、そんな力なんか持っていない・・・)
 確かに、剣の技には自信がある。そして、極限まで精神を集中させれば、何とか古代語魔法の奥義さえ使えるほどには古代語魔法も取得した。最強の老竜であるヴァンディールさえも従え、おそらく、個人として持つことが出来る最強の武力をも持っているだろう。それこそ、一人で一国を相手に戦えるほどの力だ。
 しかし、そんな巨大な力を持ちながらも、一人で出来ることには限界がある。
 おそらく、ファールヴァルトがアーマ・フレームなどを配備して戦力を整えたのも、周辺の国に脅威を感じさせる一端となった事は間違いなかった。
 ロマールの魔術師達の怨念ともいえる感情も、眞には理解できた。理解されないことの苦しみ、そして自分を受け入れてくれるはずの場所で傷つけられ、そして力を持つことで認めさせた自分という存在。
 何処かで自分と似ている、と感じていた。
 ロドーリルの軍も、正直なところファールヴァルト軍の実力を以ってすれば脅威ではない。
 逆に言えば、それを実現するために眞は最強の軍事力を構築してきたのだと言ってよいだろう。如何に強大な軍事力とはいえ、歩兵を主体とした前近代的な兵力では魔法騎士団や魔法使いを十分に使いこなすことが出来るファールヴァルト軍の敵にさえならない。
 その上で眞は魔法を戦闘で使いこなすことに天賦の才能を持っている。
 類稀な程の人殺しの才能―。
 最強の暗殺者としての能力を秘めた十七歳の少年は、否応無く世界の命運を背負うものの一人として立たなければならない事を自覚していた。
 じっと彼の深い紫と蒼の瞳は魔法の鏡の表面に映る戦場芸術を見つめる。
 眞の持つ魔法の鏡は、ロードスの太守の持っていた秘宝と同じように、時空を超えて術者の望む場所の光景を映し出すのだ。
 真紅の鎧と軍装に身を固めたファンドリア軍と、純白に輝く装備に実を包むロマール軍が、まさに激突する寸前の状況で対峙していた。
 その整然と並ぶ両軍の姿は余りにも美しく、人ならざるものである事を一瞬忘れるほどだった。いや、人外の者であるが故に、その完璧なまでの隊列を整えたまま対峙することが可能だったのかもしれない。
 そして、その光景を見ていた者は眞達だけではなかった。
 
 闇の中に映し出された光景は、淡い輝きと共に闇の主達をも照らしていた。
 冷たい石で閉ざされた沈黙の間に、血のように輝く瞳を持つ者たちが、じっと佇んでいる。
 混沌の王国を支配する魔人。
 かつては彼らも暖かい血の通った人間だった。しかし、余りにも悪辣な盗賊ギルドや暗殺者ギルド、暗黒神殿などの仕業が、さらに強大な闇を生み出してしまった。
 傀儡として飼われていた人間が、自らの主権を取り戻す機会を逃すはずなど無い。それが絶望から生み出された凶器と復讐心からであったとしても・・・
 それはある意味では運命の悪戯とも呼べる出来事だったのかもしれない。
 王権を取り戻そうとし、そして暗殺の憂き目にあった先代と先々代のファンドリア国王達は、禁断の魔術を以って王家に実権を取り戻そうとしたのだ。それは数十年という時間の中で慎重に進められ、そして、闇に魂を売り渡す事を承知した一人の魔術師の出現により遂に実現してしまった。
 魔人の肉体と魔力を人間に融合し、転生を果たすことで魔人と呼ばれる存在に生まれ変わる、という邪悪な秘術であった。これにより限りなく不死身に近い肉体と強大な力を手に入れた魔人達は、瞬く間にファンドリアの実権を奪取したのである。
 ファンドリアの国政は、すでに宮殿ではなく、この沈黙の間の闇の中で執り行われるようになっていた。
 その魔人達は静かな怒りをその目に湛えていた。
「しかし、やはりロマールの貴族共は信用が置けませんでしたな・・・」
 深い響きを持つ声が響いた。
 騎士の鎧に身を固めた背の高い男だ。ファンドリア白鳥騎士団の騎士団長の地位にある。
 この男もまた、魔人として転生を果たしていた。
 同盟を結んでいたはずのロマールから宣戦布告を受け、怒りを押さえ込んだまま、魔法で映し出された光景を見つめる。突然の同盟の破棄と宣戦布告にも堂々と対応し、そしてその尖兵を撃破したところ、驚いた事にロマール軍は人間ではない魔法生物を兵士として差し向けてきていたのだ。
「それにしても、我ら以外に魔法生物を用いて兵力にするだけの技術と知識を持っているとは、予想よりも優秀な魔術師達が居るようで・・・」
 魔術師のローブに身を包んだ男が感心したように呟いた。
 ロマールの魔術師達は“最高導師”が予想していた以上に優秀だった。魔獣創造の秘術は遥かな昔、五百年以上も前のカストゥール王国の時代が終わると同時に失われたとされている。だが、ホムンクルスを基にして人造人間の兵士を量産することを実現したというのは、魔法技術だけでなく政治的、資金的にも相当な力を持っている事を意味していた。
「いずれ、奴等は滅ぼさなければならないだろう・・・」
 暗黒神の紋章を身につけた司祭がぼそり、と呟く。
 この魔人は凄まじいまでの暗黒神の奇跡を引き起こすことが出来る。人の限界を超えた奇跡さえ起こすことが出来るのだ。他にも最高導師は、すでにファンドリア魔術師ギルドに属するいかなる魔術師よりも偉大な魔術を操る。“騎士団長”もまた、戦士として最高の技を極めていた。彼を凌駕する事は、かの英雄王リジャールでさえも出来ないだろう。
 彼らのような人間の力を凌駕する最高幹部達が、それぞれの腹心の部下達を纏めて組織化したファンドリアの軍部と政権運営組織は、すでにあらゆる意味でファンドリアの隅々までを支配しているのだ。
 だからこそ、この戦争がもはや不可避であり、そして、ロマールを打ち破ることが他の近隣諸国の警戒と不信を招いて、自国に対する侵略の口実に用いられることも知っていた。そのことを警戒するからこそ、オーファンの愚かな騎士達が侵略してきたときも、全力を以って叩き潰すことなく、逃げ帰れるように適当にあしらっていたのだ。
 しかし、愚かなオーファンの騎士達は引く事を良しとせず、膨大な犠牲を払いながらもファンドリア軍に対して攻撃を続けていた。
「このままではロマールのホムンクルス兵を相手にして被害を増やすだけになりましょう」
 密偵組織を束ねる女が静かに発言する。
 負ける事は考えていない。
 しかし、払う犠牲の数が過大になれば国の支配力にも影響が出てしまう。それは、今は恐怖で押さえ込んだ盗賊ギルドや暗殺者ギルドなどに反逆の機会を与えかねない。
 だからこそ、もう一度、彼らには恐怖を実感させることが必要だった。
「あのうっとおしいオーファンの騎士団を滅ぼし、そしてロマールに対する戦力を増強させなければなりませんな・・・」
 少しだけ苛立ったような声で騎士団長が呟いた。
 その声に、最高導師がなだめるような口調で語りかけた。
「ならば、あの愚か者達には相応の代償を払っていただきましょう。その上で、私が騎士団長殿にロマールを打ち破る戦力をお預けしましょう。何も、我らが勇敢なる戦士達を人形などの討伐に損なう必要もありますまい」
 最高導師の言葉に、騎士団長も微笑みで返した。
「最高導師殿の言葉、ありがたく受けましょう」
 そして、今まで一言も発さずに黙って幹部達の言葉を聞いていたテイラーII世は、一言だけ、承認の言葉を発した。
「よかろう。お前達に任せる・・・」
 その言葉が、オーファン鉄の槍騎士団の運命を決定付けたと言ってよかっただろう。
 自らの運命を決する言葉が、自分達の与り知らぬ所で決められた事さえ、オーファンの騎士団には想像することさえ出来ずにいた。
 その能力の差が、未来の行方を決定的にしたのである。
 
 白銀に輝く鎧を身に纏った若い騎士が緊張した面持ちでじっと不動の姿勢をとっていた。
 夜の闇にまぎれて、ファンドリアの魔人とやらが襲い掛かってこないか、彼の率いる一隊だけでなく、何人もの騎士が各々の部下を率いて歩哨に立っている。
 流石に最前線の戦場で、気を抜くような真似は出来ない。ましてや、この戦争は旧ファン領の領土回復と、魔人による支配を受けている民の解放という崇高な使命があるのだ。
 その名誉ある戦いの中で、無様な真似をすれば、一族の恥になる。
 彼の緊張は、率いている部下達にも確実に伝わっていた。
 歩哨の任務は決していい加減にして良いものではない。ましてや、この戦争は彼の初陣の場でもある。いかに名門の家柄とはいえ、鉄の槍騎士団の中では決して主流派ではない旧モラーナ派の貴族である彼の一族の期待を背負った青年は、この戦争に勝てば得られる大きな名誉を切実に欲していた。
『旧ファン領を回復すれば、大いなる名誉だけではなく、お父上の悲願も果たすことが出来ましょう』
 彼ら、旧モラーナ派を束ねる男の使者が語ったその言葉に、青年の心は激しく揺れ動いた。
 騎士の父は昨年の対ファンドリア戦の蜂起の際に、堂々と戦い、そして帰らぬ人となった。その蜂起には大義名分もあり、そして決して敗北した訳ではないにも拘らず、彼の父の死は不名誉のように扱われ、彼の一族は激しい屈辱を覚えていたのである。
 何故、旧ファン領を邪悪な闇の国に支配されたまま、現状維持を良しとする臆病者に、勇敢に戦い、果てた父の名誉を侮辱されたままで居なければならないのだ。
 知らずに彼の手は、懇親の力で握り締められていた。
 その様子に、彼の従騎士である初老の男が恭しく手を取り、優しく拳を開かせる。
「若様、お父上の事をお考えでしょうか・・・。あの冒険者上がりの成り上がり者共めが何を言おうとも、父上殿の勇気と名誉は真の勇者には御分かりになります」
 その言葉に、ふと口元が緩んだ。
 確かに、今の騎士の大半は、かつては冒険者や傭兵だった者たちが成り上がった者であり、生粋の貴族は少ない。
 いかに現国王リジャールは元冒険者とはいえ、竜殺しの名誉を持って、この剣の王国を建国した真の英雄であり、戦の神マイリーさえもその勇気と栄光は否定できないだろう。それほどの勇者であるならば、剣を捧げることに不足は無い。
 だが、今の騎士団を牛耳るのは、英雄性の欠片さえ感じられない成り上がり者共だ。
 元は犯罪者や傭兵、遺跡荒らしをしていたような者たちが、多少、剣を振り回すのが上手いというだけで、名誉ある騎士を名乗ること事態、許されざる事ではないのか。ましてや、そのような者達によって非主流派に追いやられ、宮廷での発言権も押し込められているという屈辱は、彼のような生粋の貴族の家系に生まれたものには耐え難いものがあった。
 それに加えて、今の国政を動かす魔女は、如何に魔術師ギルドで最高の天才と言われているとはいえ、所詮は商家の生まれであり、国の名誉など想像さえも出来ない女である。だからこそ、オーファンが自ら軍事的な動きを取れなくなるような消極的な国にして平気でいるのだ。
 武力は国力の一つであり、それをなくしては臣民の安全など保障が出来ようか。
 そのような感情が激しく青年の心を揺さぶっていた。
 だが、その熱い感情は夜の闇の中では余りにも危険だった。
 ドサッ!
 不意に微かな物音が響く。
「どうした!」
 反射的に振り返った青年の目に、つい今しがた自分に声をかけてくれた初老の従者が無残な姿になって倒れているのが映った。
 もはや息をしていないのは明らかだ。
 首がほぼ真後ろを向くまで捻じ曲げられて、生きている人間などいない。
「な・・・」
 騎士が一瞬、言葉を失った瞬間、目の前に真っ黒な影が音も無く舞い降りてきた。
 青年にはそれが何だったのか判らなかっただろう。
 その異形の魔物は、人の形をしていた。
 だが、その姿は人のそれとは余りにもかけ離れていた。
 濡れたように光る黒い肌。そして、真紅に輝く眼。そして、大きく裂けた口からは鋭い牙が覗き、額からは長い角が伸びている。背中には蝙蝠のような大きな翼があった。
 次の瞬間、青年の首は訳が判らない、といったような表情のまま、ぼとり、と地面に落ちた。黒い肌の魔物が、厳しい訓練を受けている騎士の目にさえ留まらないほどの速さで、その手に握られた剣を振るったのだ。
 そして、後の時代に「ターシャスの森の悲劇」と呼ばれる事になる大虐殺が引き起こされた。
 
 眞はまどろみの中で何か、不快な強い気配を感じていた。
(何だ・・・?)
 夢、なのだろうか?
 だが、余りにも強い気配だった。いや、気配、などというものではない。
 酷く眞の神経を逆撫でする強いエネルギーと感情がはっきりと感じられるのだ。眞は無意識のうちに上位古代語を唱えていた。精神の糸を紡ぎ上げ、それをその気配のするほうに向けて放った。視界が急速に開け、眞は確かにその場を“視て”いた。
 空中からその場を見下ろして、眞は苛立ちを覚える。
 強力な結界だった。
 それが眞の探知の糸の進入を拒んでいた。
 魔法の眼にははっきりと巨大な魔方陣が描かれているのが見える。強い魔力が繊細で正確な魔術の刻印を構成し、信じがたい大きさの魔術の魔法円を創り出していた。編み上げられた魔力が輝くように見え、それが上位古代語の呪文を描き出している。そして、複雑な構成と紋章を構成した魔法陣が重なるように積み上げられていた。
 巨大な多重積層型魔方陣だった。
(・・・こんな巨大な魔方陣を構成できるような魔術師?)
 膨大な魔力がその場に満ちている気配がした。
 その強い力の源はそれほど遠く離れた場所には居ないはずだ。この巨大な魔方陣の構築には、それこそ一流の魔術師が数十人は必要になるだろう。もしくは、それを可能にするだけの実力を持つ恐るべき魔術師の存在である。それほどまでに魔術に熟達したものは、おそらく今のアレクラスト大陸でさえ数えるほども居ないだろう。
 人間に限っては、ではあるが。
 大陸最高峰の魔術師でさえ、これほどの魔方陣を構築するだけで全気力を消耗しきってしまうはずだ。
 この魔方陣を創り出す呪文はそれほど難しいものではない。少なくとも導師級の魔術師なら使える呪文だ。この呪文で構築された魔方陣の結界の中では呪文の効果が増したり、規模を拡大するなどの様々な補助的な機能が発揮できる。
 古代王国の時代には、この呪文を用いて魔神の軍団を召還したり、大規模な魔法を行使していたとされる。しかし、その呪文で構築できる魔方陣は精々、直径10メートルほどの小規模なものであり、よほど強力な術者か、大人数での儀式でもない限り、これほどの規模の魔方陣を発生させることなどできはしない。
 眞はこの呪文の存在を知っていたし、それが現在では失われた魔法になっていることも知っていた。しかし、自分が知っている以上、他人がそれを知っていたとしても驚きはしなかった。
 だが、その規模の大きさには驚きを覚えていた。
 ここは、おそらくターシャスの森の南部だろう。
 魔方陣の中には夥しい数の人の気配が感じられた。まだ生きているようだったが、そのことが却って眞の神経を苛立たせていく。
 何が起こっているかは想像が付いた。
 何者かが、これほどの巨大な魔方陣を構築して、大量の、文字通り数千人の人間をその結界の中に身動きの出来ない状態で封じ込めているのだ。
 考えられる事は一つ。
 おそらく、召還の儀式だろう。
 何を召還しようとしているのかは明白ではないが、可能性としては二つある。
 一つは恐ろしく強大な、召還の難しい存在を呼び出そうとしている場合。もう一つの可能性は、とにかく大量の数の召還を一度に行おうとしている場合、である。
 どちらの儀式が行われているのか、眞には判別が付かなかった。ただ、唯一判っている事実として、もはやこの生贄にされた人間達を救う術が無い、という非情な現実だけだった。
 眞がこのような強い魔力の気配を感じることが出来た理由の一つには、ファールヴァルト政府が構築、運用している巨大な情報ネットワークの力があった。
 魔法兵器や魔法儀式の運用を感知するための巨大なレーダーシステムを整備していたのだ。
 遥かな上空を浮遊するサテライト・ユニットが検出した変動をフレイアを中心としたホログリフ・システムでリアルタイムに監視し、警戒態勢を敷く、というシステムである。
 だが、眞はそのリアルタイムに検出された変動を読み取って、自らの精神の探知の糸を編み出して実際の情報を見ようとしていたのだ。
 その結界の中で凄まじい強さの魔力が一つの形として完成しようとしていた。
 膨大な魔力がギシリ、と音を立てるかのように空間を歪めていく。
 そして、縛り上げられたまま、怯えたように顔を引き攣らせていた一人の兵士が不意に、痙攣したかのように喉を仰け反らせ、声にならない悲鳴を上げ始めた。
 その周囲では、何が起こっているのかわからない、という表情をしたまま、兵士たちが何とか逃げ出そうと必死にもがく。だが、それはどうしても不可能だろう。
 眞はこの魔法陣が、地面に掘られた、深さ3メートルほどの窪みを元に構築されている事に気が付いた。こうなっていては、両手両脚を縛られたまま、這いずって動くことしか出来ない兵士たちには為す術が無い。
 痙攣してのた打ち回り始めた男が不意に動きを止め、口から、がはっ、と夥しい量の血を吐き出した。ぱくぱく、と意味の無い動きを見せた口がだらりと開かれ、そして、次の瞬間、男の肌が青銅色に染まりながら、不気味に変動を始める。
 ぱきぱき、とおぞましい音を響かせ、裂けた男の口からは鋭い牙が覗き、青銅色に変わった肌のしたの筋肉が、数倍の大きさにまで膨れ上がっていく。男の力ではびくともしなかった縄があっけなく引き千切られ、立ち上がった人影には不気味に動く長い尾が生えていた。
 もはや、その男は人間では無い存在に成り果てていた。いや、その男の肉体を拠り代として召還された存在が、男の代わりに立っていたのだ。
 周囲の男達の姿を無表情に眺めるその眼は、真紅に輝いていた。
 そして、その召還されたものは、少し離れた場所で呪文を詠唱する魔術師のローブを着た男に向かって跪く。その男は魔術師のローブを着、姿は魔術師そのものでありながら、その象徴である杖を持っておらず、彼の周囲に付き従う者達もまた、その男同様に真紅に輝く瞳をしていた。
 その召還されたもの―魔神グルネルの周囲で、恐慌をきたしてもがく男達の肉体を奪い、魔神たちが姿を現していた。
 全ての人間が消え、その場にいるのが真紅の瞳の魔術師の一団と魔神だけになったあと、魔術師はふわり、と空中に浮かび上がった。そして、その後を追うように魔神達も空に舞い上がる。翼を持たない魔神も、魔法の力で浮かび上がったり、変身したりして一体残らず空中に飛び出し、そして魔術師達を護るように球状の隊列に整列した。
 それは余りにも美しい、完璧なまでに整った編隊であった。
 その黒き鋼の如き隊列は、一糸乱れぬ完全さのまま、西に向かって飛び去っていった。
 その場に残されたのは、兵士たちが身につけていた鎧や衣服、武具などの残骸だけであった。
 
 
 

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