~ 2 ~

 その神殿が建立された理由は明らかだ。
 ある比較的小さな神の教団が、彼らの信奉する神の神殿を建築したのだ。しかし、その神殿は長い時間の間に棄てられ、そして存在そのものさえ忘れ去られていた。
 そのことが逆に、古代王国の“神狩り”の運動から神殿を護ることとなったのである。
 そして、ある信仰心の厚いカストゥールの貴族がその神殿を発見したのだ。
 彼はその完全な形で残されていた古の神殿を利用し、神を蘇らせるための魔法装置とする事を計画したのである。
 それは遠大な計画であった。
 万が一にも当局に発見されてしまったなら、その神殿は完全に破壊され、そしてその試みは永遠に失われてしまうだろう。計画は慎重に慎重を重ね、ゆっくりと、しかし確実に進められていった。
 絶対に破壊されないようにするための強大な保護魔法、魔法による侵入さえ防ぐための結界など、要塞にも匹敵する魔法を施され、そして神殿は完成していったのだ。
 古代書にはその魔術師は巨人の肉体を神の魂の依代にすることでかつての神々のような全き存在として神を復活させようとしたのだとされている。
 その試みが為されたのか、それとも失敗に終わったのか、古代書には何も記されていなかった。
 そして、カストゥールの歴史書にもこの魔術師に関する記述は無かったのだ。
 シオンは激しい危惧の念を覚えていた。
 当然の事ながら、この月光の神殿の情報は光の真理の者達も知っているだろう。
 この書物はアノス魔術師ギルドの書庫に当たり前のように陳列してあったのだ。そもそも、その神殿の位置が判らなかった上に、危険な呪文が記されている訳でもないのだ。単なる物語のような扱いで陳列してあったとしても不思議ではなかった。
 だが問題は、その神殿が実際に発見された事にある。
 その神殿はあろうことかファールヴァルト領内の悪意の森の中にひっそりと佇んでいたのだ。
 もちろん、眞を始めとしてファールヴァルト首脳部はその神殿の事を知っていた。だが、具体的にそれが何を意味するのか、真の目的の解明までは至っていなかったのである。
 しかし、その強力な結界と封印が施されていることから禁断の魔術に関連するものでは無いか、と推測し、ファールヴァルト軍を展開して防衛しているに止まっていた。眞としてもその魔力と機能の解明に興味は持っていたのだが、如何せん時間と人材には限りがあるのだ。
 それでも軍を派遣して遺跡の防衛に当たらせていたのは魔法を主戦力の一つとしているファールヴァルトらしい考え方だろう。
 未知の魔法装置の恐ろしさは彼ら自身が良く知っている。
 一般に騎士や兵士達は魔法には疎い。
 ファールヴァルト以外では魔法について詳しく、その力と特徴を深く理解しているような騎士団はラムリアースの白蹄騎士団や遠く離れたロードス島にあるアラニア王国の銀蹄騎士団くらいのものだろう。そして、オーファンはその騎士団の団員達の多くが冒険者や傭兵から取り立てられた人材であるため、魔法に対する理解やその力、そして何が魔法に出来て何が出来ないのか、それを良く知っているのだ。
 それが故に、ファールヴァルト軍は、例えその真の機能や魔力が解明されていないとしても対応をする事を忘れていなかった。
 これ程までにカストゥールの遺跡の管理が徹底している国はファールヴァルト王国以外にはやはりラムリアース王国くらいのものだろう。
 そして、シオンは光の真理の一派が不穏な行動を取るのでは、と危惧を覚えてファールヴァルトの強力を得る事を考えていた。
 万が一、光の真理一派がファールヴァルトと問題を起こしたなら、それは重大な外交問題へと発展する。しかも、光の真理の教義では現在の国、という統治単位を認めない、という問題もある。地理的にはファールヴァルトという国家の領土内にある遺跡であったとしても、国家の権威を認めない彼らにしてみれば何の意味も無い。
 それが光の真理の教義と関係ない普通の国家から見れば重大な国境侵犯になり、極めて重要な外交問題になる。そして、そのような危険な団体を管理できないアノスという国家の責任問題にまで発展しかねないのだ。
 だからこそ、シオンは今回の巨人の出没と光の真理の動きに不安を感じていた。
 シオンが調べた古代書には何も具体的な儀式の手順などは記載されていなかったが、彼が知るだけの情報が全てだとは思えない。彼も丹念に書物を調べている時間があったわけでもなく、ざっと目を通しただけに過ぎなかったのである。
 そして、その書物は今は誰かに貸し出されていて図書館には無かったのだ。
 
 オーファンの近衛騎士バルビーは凄まじい一撃を受け流しきれずに吹き飛ばされるのを、驚愕と共に感じていた。
(何という一撃の威力だ!)
 目の前の少年は、まだ体格も華奢に思え、そして幼い印象さえ受ける。しかし、その一撃でバルビーは完全に体制を崩され、そして重心が完全に浮き上がってしまっていた。
 いや、一瞬、完全にバルビーの身体そのものが飛ばされてしまったのだ。
 信じがたいほどの破壊力と剣の重さだった。
(こ、これが鋼の将軍の力なのか!)
 どんな鍛錬をすれば、片手で振るう一撃が鎧を着込んだ騎士を弾き飛ばすほどの威力を生み出せるのか。バルビーの一撃をあっさりと避け、そしてカウンター気味に放たれた一撃はそれこそ、見た目には軽い一撃に思えた。しかし、その衝撃はバルビーの予測を遥かに上回り、剣を取り落とさないでいられたのが自分でも不思議なほどだったのだ。
「よく今の一撃を受けられたな!」
 嬉しそうに眞が声をかけてきた。
「まだまだです。今は何とか眞殿の剣に捉われずに済んだだけです」
 本音だった。
 実戦なら、次の一撃で殺されている。
 オーファンの英雄王リジャールの命で魔法を取り入れた戦術の研究のために、このファールヴァルトに派遣されて半年。騎士バルビーは鋼の将軍こと、緒方眞によって厳しい鍛錬を受け続けていた。もちろん、ファールヴァルト王国の国家機密たる魔法騎士技能の伝授こそ受けてはいないが、元々優秀な頭脳をしていたバルビーに魔法の秘薬を与えて、彼の肉体を徹底的に鍛えたのは眞である。
 以前は何とか賢者の杖を持つのがやっとだったバルビーは、今では最大級の片手用の広刃の直剣も振り回せるようになっている。また、体力や耐久力も魔法の秘薬を飲みながら徹底的に鍛えたため、騎士として恥ずかしくないだけの逞しさも身に付いたと思う。
 また、アレクラスト大陸でも有数の魔術師である鋼の将軍の指導を受け、かなり高度な古代語魔法も唱えられるようになってきていた。
 そもそも、眞の剣技はオーファンの近衛騎士隊長ローンダミスを始めとする大国の騎士団長とも比肩する、あるいは彼らさえ凌駕するだけのものがある。間違いなくアレクラスト大陸でも十指に数えられるだろう。その上で、彼の古代語魔法の力は確実に高位導師級、もしくはそれ以上の実力がある。噂では古代語魔法の奥義の呪文さえ唱えることが出来る、とも言われていた。
 間違いなくアレクラスト大陸で最強の魔法戦士だろう。
 そんな戦士の一撃を受けて立っていられるのは、眞が本当の意味での本気で剣を振るっていない為だと思う。戦士として、そして騎士として悔しさも感じる。だが、彼が成し遂げた数々の偉業を考えるなら、そのような英雄に剣の稽古と魔術の修行を受けていることが光栄にさえ思えるのだ。
 竜殺しの英雄であるリジャール王と、竜を跪かせた英雄である眞。
 そのような歴史に名を残す偉大な英雄に接する機会がある自分を幸運だと思い、彼らを目標として剣の修行に励んでいた。
 一朝一夕では剣も魔術も上達しない。
 だからこそ、日々の努力を怠らなかった。
「それに、さっきの一撃は中々良かった。後はこう、腰の回転と上半身の絞込みをもっとコンパクトに纏めるんだ。そうすれば、鋭さと力の集中が生きてくる」
 眞の指摘を聞き、そしてそのように剣を振るってみる。
 力強く踏み込んで、その踏み込んだ力を殺さないように膝と腰をしなやかに捻る。そしてその力を鋭く振り下ろす剣に乗せ、左の脇をぎゅっと締めた。一瞬、窮屈なように感じるが思い切って振りぬく。
・・・なるほど、自分が思っている以上に威力が剣に乗っていた。
「そう、その通りだ!」
 眞は微笑んでその理由を説明する。
「踏み込んだ威力をそのまま殺さないように下半身の回転で加速する。それを振り下ろす剣に乗せて打ち込む際に、逆の脇を締めて力が逃げてしまわないようにするんだ。もし、逆の脇が開いていると、確かに力が乗っているように感じるけど、実際には感覚がある分だけ力は発散してしまっている。脇を締めることでこの、背筋の力を使って威力を高められるんだ」
 眞の指導は非常に合理的だった。
 剣や格闘術の指導に医学の知識を基にして技術を教える、というのはバルビーの常識からかけ離れている。しかし、それだけに説得力もあるし、自分の欠点を的確に把握できるのだ。
 そもそも、ファールヴァルトの騎士達は鎧の頑丈さに任せて打撃を受け止めるような剣術は行わない。攻撃を避け、的確に受け流したりしながら絶対の破壊力の乗った一撃を振るう戦い方を得意としている。それは本来、ファールヴァルトの騎士達の戦う相手は人間ではなく強力な魔獣や妖魔達が主だったためである。
 特に魔獣の攻撃は、その一撃の重さが人間とはまるで違う。
 普通の人間なら一撃で肉体を粉砕されるほどの威力のある攻撃を無尽蔵に繰り出してくる怪物を相手にして、人間同士の戦いで使うような鎧の防御力に頼った戦い方など自殺行為なのだ。強力な魔獣の一撃は鋼の鎧さえも羊皮紙のように切り裂き、盾など使ったところで構えた腕をへし折られるだけである。
 そのような相手と戦う事を想定したファールヴァルトの騎士達の剣術はまず、防御を重視する。
 鎧で受けるのではなく、確実に攻撃を読み、そして的確に回避する。
 そして剣に絶対の破壊力を乗せて叩き込む技術を身に付けるのだ。
 その防御を確実にするために、ファールヴァルトの騎士のみならず全ての兵士達は野武士としての技術を学ぶ。
 敵は人間ではない。カモフラージュしているかもしれない魔法生物や魔法で姿を隠す妖魔が奇襲をかけてくる事をも想定している。
 それはむしろ、冒険者や蛮族の意識に近い。
 だからこそ、ファールヴァルト軍は眞の考案し、立案した大胆な戦術や魔法兵術を柔軟に取り入れることが出来たと言えるだろう。
 魔法を取り入れた戦術の最大の敵は、自分自身である。
 特に、伝統的な騎士団同士の戦いしか知らない騎士達は、全く考えの異なる魔法戦術を反射的に拒否し、思考停止状態に陥る危険性さえあるのだ。
 それを教えるために眞はオーファンから最精鋭の騎士達を留学させ、そしてリジャール王と近衛騎士隊長ローンダミス、鉄の槍騎士団長ネフェルの承認の元で徹底的に魔法剣術戦闘を叩き込んでいたのである。
 それがオーファンの騎士、バルビーが眞の一撃で弾き飛ばされた理由であった。
 厳しい稽古が終わった後で、眞はバルビーを夕食に誘っていた。
 出来る限り機会を持って、他国の騎士と繋がりを持つ事は重要な意味を持つ。それは外交力の強化になるし、無用な争いを避けることにも繋がるのだ。
 
「このトルーパーを使えばアレクラスト大陸の支配さえも不可能では無い!」
 初老の男が自信に満ちた笑顔で演説を行っていた。
 新貴族派の部隊を討ち取ったロマール大貴族のホムンクルス兵士の戦力を確信した男達は、その旺盛な征服欲を表に出していた。
 それはロマールの貴族の、おそらくは本能的なものなのだろうか。
 強力な戦力を手にした支配者の考える事は大差は無い。その支配欲を際限なく拡大させていくものなのだ。
 しかし、ロマールの征服王アスナー二世は、その強力すぎるホムンクルス兵の力に本能的な警戒心を抱いていた。自分の手の及ばない力が国内に存在する。統治者としてそれは不安を掻き立てて余りあるものだった。
 だが、如何に歴史に名を残そうかという程の王でも激しく燃え上がり始めた国民や貴族達の熱狂を抑える事は至難の技だ。
 特に、西部諸国征服戦争を屈辱的な講和で終わる事になり、そしてザイン征服の試みも結局のところ失敗に終わったことで、ロマールの民の中には次を期待する雰囲気が満ちていたである。
 その宮廷会議の様子を見ながら、ほくそ笑んでいる男がいた。
 魔術師ルヴァンである。
 彼は巧みに情報を操り、そしてその魔術の技で貴族達を取り込んでいったのだ。
 それは多くの魔術師達が抱いている感情だった。
 何故、我々がこのような迫害を受けなければならないのだ・・・
 世間の無理解と偏見、そして感情的な拒絶が魔術師達の民衆に対する不信感と蔑視を作っていた。
 魔術を身に付け、そしてそれを操る技を磨いてきた彼らは、しかし、世間に拒絶され、更には自らの同胞である魔術師達にも排斥されてしまった。
 禁断の魔術に手を染めた、との理由で。
 存在するものを否定するのは愚かである。
 真実を追究するべき魔術師が、己の知識を高める事を制限するのは自己矛盾だろう。
 そう思う反マナ・ライ派の魔術師が徐々に増えてきたことも事実だった。
 近年、オーファン領内に魔力の塔が建造される事件が起きた事も、このような事に対する反発が多かれ少なかれ関係していた。
 魔術師ギルドでは、逆にギルドの定める平和主義ではない考えを持つ事は異端視される。そして、それに適応できない魔術師はギルドを去り、そして独立していくのだが、もし、そのような魔術師がギルドの定める平和主義と相反する事を行った場合、魔術師ギルドは賞金をかけたり、場合によっては暗殺者を派遣することさえする。つまり、自分達の定める思想に準ずる魔術師以外の存在は認めない、という独善主義だった。
 その独善的な規則を嫌って各地で独立した魔術師の組織が作られ始め、それ以上に各国の軍が古代語魔法を中心として魔法を戦力化するための研究や魔法兵団を創設しつつあったのである。
 ファールヴァルトが堂々と魔法を戦力化し、軍事力として運用する事を実行し、そしてそれに刺激された各国の騎士団や軍部が魔法戦力の研究を始めた事を、マナ・ライは激しい口調で非難したという。
 魔術を役立つ技術、実用となる力として活用したい。そのルヴァンの願いは無知な民衆の偏見と拒絶、そしてギルドの教条的な絶対平和主義によって踏みにじられていた。
 それ故に彼は辛酸を舐める原因となった魔術師ギルドへの報復を画策していたのだ。
 事実、導師級の実力を持つ優秀な、そしてギルドから追放されたほど優れた魔術師が何人も彼の部下として集い、そしてそれの数倍の若い魔術師達が魔術師ギルドを離れて彼の元に参上していた。
 ロマール魔術師ギルドがその事実を把握したときには、既にルヴァンは独自の魔術師組織を創り出し、ロマール貴族や軍と密接に関係を築き上げていた。
 その為、もはや手出しをすることが出来なくなっていたのである。
 そして迫害から身を護るためには力だけではなく組織の力も必要になる。だからこそ、ルヴァン達は巧みな工作を行って世論を味方にすべく、情報操作を行っていたのだ。
「既にルキアル卿達に対する策は練ってあります。ですので、今後は兵力の拡大と体制の確立こそが最重要課題になろうかと」
 落ち着いた声でルヴァンは言葉を返した。
 正直なところ、彼にはアレクラスト大陸の制覇などに興味は無かった。
 ルヴァンは魔術師が、魔術師として当たり前のように政治にも参加し、そして社会に生きる事の出来る国の実現を夢見ていたのだ。
 魔神を召還し、その失われた魔術を蘇らせようとしたのは、魔術を更に有用にするためである。
 よく誤解されることだが、魔神などの異界の存在を召還する場合、そのような存在を召還することが目的なのではない。何らかの目的があり、そしてそれを実現するための手段として魔神を使役しようとするのである。
 ある意味では魔術師達自身もカストゥールの呪縛に陥っていると言えるだろう。
 そして、そのルヴァンの想いは激しい波紋を中原の国に呼び起こそうとしていた。
 ルヴァンの見せた『力』は、支配者にとって余りにも魅力的過ぎたのだ。
 
 深い闇の中、玉座の主は時代が激しく動き出した事を実感していた。
 その無限とも言えるほど長く続いてきた時間の中、その瞬間が訪れたのだ。
 フォーセリア、という世界は始原の巨人から生まれ、そして終末の巨人へと還っていくという。それは言うならば始原の巨人が眠っている間に見る夢のようなものなのだろうか。
 その真実を知った神々は様々な試みを行ったと言われている。
 光の至高神は終末の者が世界に入り込まないような完全な秩序を構築する事を試みたとされ、そして暗黒神は逆に世界を未完のまま留めておくことで終末が訪れないようにしようとしたとも言われている。
 そして、その神々の試みの結果が最終戦争を引き起こしたのかもしれない。
 真実はもはや手の届かない彼方にあり、そして玉座の主はそのような事に関心を抱くことも無かった。
あの人間の少年、徐々にではあるが覚醒しつつある・・・
 感慨深げに巨大な人影が呟く。
 不意にディゼンハールドは、あの少年が覚醒した時、至高神の使い達はどのような行動に出るのだろうか、と考えた。
 絶対の秩序だけを考える至高神とその使い達は、あの異世界の少年に対してどう対応するのか、魔界の王は可能性を考えてみる。
 明らかにあの異世界からの来訪者達は至高神の定める秩序の定義からすれば排除すべき存在だ。だが、現実にはあの少年の傍には至高神に仕えるフォーセリアの女がいて、しかも、その至高神により授けられた力を未だに振るうことが出来る。
 あの頑固な光の神もさすがに世界が変わった事を受け入れざるを得なかったのか、とも思う。
 永遠の秩序とはすなわち、些かの変化も認めない無動の世界でもある。それはあらゆる発展も進歩も無く、変わらない世界は何も存在しないのと同じだろう。
 万物は存在し、活動するからこそ衝突し、そして活力が生み出されていく。
 それを否定する完全なる秩序は、すなわち緩慢な死である。
まあ、あの頑固な女がどのように動くのか、楽しみにしているがな・・・
 遥かな神話の時代、あの最終戦争で刃を交えた至高神の使徒を思い出して、魔法は微笑んだ。
 魔王の金色の瞳が妖しい輝きを放った。
魔王陛下・・・またそのような御戯れを・・・
 美しい女が媚びるような表情で微笑む。
 山羊のような角を生やした女であった。
 本来、魔神には雌雄の別は無い。暗黒神の奇跡により人間界で死んだ者の魂がこの魔界に転生する、という誕生の仕方をするため、自らが繁殖をすることは無い。だからこそ、魔神には寿命も無かった。
 しかし、極稀に雌雄の別を保ったまま魔神として転生する場合がある。
 特に暗黒神に気に入られていたような者や、暗黒神自らの気まぐれなのだろうか、雌雄の違いを持ったままで魔神へと転生したものも存在する。
 ディゼンハールド自身や彼に付き従うこの女がそのような存在だ。
 この魔王にも、彼が本来魔神として生まれたのか、それとも人間から転生したのか、知る術は無い。もっとも、そのような事に関心も無かった。
気になるのか・・・だが、既に時代は動き始めたのだ・・・
 魔王は鷹揚に応え、そしてじっと目を瞑る。
 この闇の中で、魔王はじっと時が動くのを待っていたのだ。
 
 アノスの聖騎士シオンはファールヴァルトの王城クリムゾン・ホーンの客間で、会談の相手が現れるのを待っていた。
 突然の来訪ではあったが、何度かこの王城を訪れたこともある事から、比較的簡単に応接の間に通されたのだ。だが、会談を行う相手は忙しい相手だ。王宮の文官が連絡を取ってくれたものの、眞が王城に戻ってくるには多少の時間が掛かる、と言われて、この客間に通されていたのである。
 シオンはこの地に来るたびに、その魔法文明の進歩の速さに驚かされていた。
 王都には蒸気機関車という巨大な鋼で出来た車が走り、各地と王都を僅かな時間で移動できるようになっていた。
 以前なら往復で十日以上かかっていた城塞都市プリシスと王都エルスリードを一日で行き来できてしまうのだ。しかも、格段に安全だった。
 他にも魔法の工芸品や道具が当たり前のように使われているのにも驚かされる。
 もちろん、国民の殆どは魔法など使えない。だが、市場に大量に流通している魔法の道具は市民生活を根底から作り変えていた。
 小さなゴーレムが街の清掃を続けていることで常に市街地は清潔に保たれている。
 幻影魔法による華やかな広告や情報提示は非常に行き届いていた。
 そして、この都では様々な異種族が生活をしていたのだ。特にエルフやドワーフだけでなく、フェザー・フォルクや巨人なども王都に生活の拠点を築いている。
 また、人に危害を加えない幻獣の中でも高い知性を持つ種族たちは、この魔法の都に生活の場を得たものもいる。
 ファールヴァルト王立魔法学院の教師の中には、古の知識を護るとされる幻獣の人頭獅子スフィンクスなど、高度な魔術を身に付けた幻獣達さえいるのだ。
 こうした独特の文化がファールヴァルト王国にはある。むしろ、この地域の人々は自らに危害をもたらさない存在ならば何となく受けれいてしまう気質があるため、このような他民族文化を生み出し、それがまた、独特の文明として風俗や芸能にも影響を与えていた。
 特に産業の振興においてはエルフやドワーフ、フェザーフォルクやフェアリーなどの妖精たちとも密に会談を重ね、環境汚染などを徹底的に防ぐような配慮もしている。これは眞達がユーミーリア世界で起こっている深刻な環境汚染を事前に知っているため、それに対する対応策を産業視組み込むことが必須であり、発展が軌道に乗ってからそれを軌道修正する事は決して容易ではない、途轍もない困難と痛みを伴うことだと知っているためだった。
 西部諸国のタラントとは違い、深刻な民族対立が起きていないことの理由に、ファールヴァルトではその凄まじいまでの経済的な繁栄が挙げられる。
 また、眞達の産み出した強力な魔法技術は、人の寿命を大幅に伸ばすことも可能にしていた。
 既に現代科学は生物の寿命が遺伝子やゲノムと非常に密接にかかわりがある事を知っている。
 特に、この遺伝子と寿命の関係を調べる研究に関して、“C.エレガンス”という名の線虫による実験が良く知られている。
 この体長が僅か1mm足らず、約千個の細胞からなる小動物は、その寿命が約3週間であることや1998年に完了したゲノムプロジェクトで全ての遺伝子の配置が判っている事から非常に研究に適している動物である。
 判明しているだけでも、daf-2、age-1、clk-1などの遺伝子がこの生物の寿命を変化させることが知られており、長寿変異体なども作られていた。
 このうち、clk-1はミトコンドリアの生体クロック遺伝子で、これが損傷をすると生体時間がゆっくりになり、結果として成長や発育、そして寿命による死に至るまでの時間が長くなる。また、daf-2やage-1遺伝子はヒトのインスリン受容体遺伝子と似ている遺伝子であることが判明しており、栄養、内分泌シグナルが個体寿命に関与していると考えられていた。インスリンシグナルが制限される効果は、マウスやラットをカロリー制限した時に観察される寿命延長と同じ分子メカニズムによって生じると推測されているためだ。
 他にも活性酸素を分解する酵素に関与する遺伝子( cat, sod-3)がある。細胞が生命活動をするためのエネルギーを作る過程で、副産物として生じる活性酸素がDNA やタンパク質、脂質等を酸化して損傷を与えることに関連し、活性酸素を処理する酵素であるSOD やカタラーゼはこの活性酸素を分解し、ゲノムに対するエラーの発生率を押さえ込み、結果として寿命を長くする働きをもたらす、と考えられている。
 実際にカリフォルニア大学サンフランシスコ校で生化学と生物物理学を教えるシンシア・ケニョン博士は遺伝子操作により、この線虫の寿命を二倍にする事に成功しているのだ。
 これらの遺伝子はヒトやマウスなどの哺乳類にも存在することが知られており、科学的にも人の寿命を延ばす事は不可能では無い。
 また、遺伝子病の一つに人の老化を十倍ほど早めてしまうものがある。この事は逆にこの働きを解明すれば人の寿命を十倍以上に延ばすことも不可能では無い、という現実を物語っている。
 他にも眞が解明した古代語魔法の秘術には人の老化を止め、不老不死化させる儀式魔術がある。
 この魔術はオーファンの氷の魔女ラヴェルナも用いているとされ、また、オランの魔術師ギルドで禁断の間の管理を司る“禁断の守護者”シルベラもこの不老不死の秘術で年老いることの無い存在になっていると言われていた。
 そして、魔法の道具を一般的に使いこなす生活は、余りにもアレクラスト大陸の他の地域には見られない独特の文明を構築しているのだ。
 シオンはそのファールヴァルトの民の考え方には違和感を覚えている。しかし、所詮は他国のことであり、また、彼ら自身はファリスの信者でないため、ファリスの正義を訴えても意味は無い。
 人が不老不死を願うのは、ある意味で自然の流れだろう。
 誰も死にたくないのは当然の願いだからだ。そうでないなら、薬師や神殿に頼って傷や病を癒そうとしたりしない。寿命で死なない事を非難するのであれば、古代のエルフなど、自然の寿命で死なない種族の事をどう考えるかが問題になる。
 ファリス神殿とて例外ではない。
 癒しの力、というものは人を神殿に向かわせる大きな原動力になるのだ。
 しかも、眞が現代に復活させた古代語の秘術は、魔術師本人のみならず他の人間にも効果を及ぼす。
 既にファールヴァルトの国民の多くがこの秘術で不老不死を得ている、とさえ噂されていた。
 その真偽はあと数十年経たないと判らないだろう。
「お待たせしました」
 様々な事を取りとめも無く考えていたシオンに、知った声が掛けられた。
「眞殿。お久しぶりです」
 シオンは微笑みながら差し出された眞の手を握り締める。
「こちらこそ、久しぶりです。永い間、連絡も取れずに申し訳ありませんでした」
 二人の騎士はお互いの手を握り締めたまま懐かしそうな表情で挨拶を交わした。
 
 眞はシオンの齎した情報を吟味し、そして口を開く。
「なるほど・・・。あの遺跡がそのような目的の巨大魔法装置だったとは・・・」
 厳しい表情で眞は考え込んだ。
 古の神が復活するなら、それはそれでも構わないだろう。だが、その場合は全ての神々が等しく復活するべきだと思うし、特定の神だけが人によって選択され、復活を果たすのは余りにも恣意的に過ぎるのではないか、とも感じていた。
 そして一説によると、暗黒神ファラリスは世界の完成による滅びの到来を知り、終末を避けるために自らを含む神々を皆殺しにして世界を未完のままに留めようとしたのだという。
 一部の賢者の間には破壊の女神カーディスは始原の巨人から生まれた神ではなく、終末の巨人から送り込まれた“終末の者”である、との認識があった。魔精霊アトンもまた、終末の巨人から送られてきた終末の者だという。
 ならば、神々が復活する事による無制限の秩序を実現する事は終末の到来を引き起こす引き金になりかねない。
 いずれにしても世界の終末は避けられない、と賢者達は考えていた。
 だからこそ、眞はある一つの決意を固めていたのだ。
 世界を運命という名の芝居から解放する、という・・・
 しかし、未だ世界は運命に囚われていた。
 その心に秘めた決意を隠したまま、眞はシオンと話し続けていく。
 ファールヴァルトの南東に広がる妖魔の森には、実のところ凶暴な森の巨人が多く生息している。だからこそ、その神殿は神を祭るために巨人の多い森の中を選んだのかもしれない。だが、いくら光の真理が力を持っていても、凶暴な森の巨人の集落を襲うのはあまりにも無理がある。
 だが、眞はそれでも可能性を排除してはいなかった。
 十分に高い魔法を使う技能を持った人間が居れば、巨人の集落を滅ぼすことは出来なくても一人の巨人を拉致することなら不可能ではないのだ。
 そして、その眞の不安は的中する事になった。
 ファールヴァルトの王都の近くに突如、巨人が現れたのだ。
 
 
 

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