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“混沌の王国”ファンドリアの同盟の王都にはアレクラスト大陸で唯一、公認されている暗黒神の神殿がある。そして、暗黒神の信者が唯一、安心して公の場に立てる都市でもあった。
 もちろん、彼らとて罪を犯せば法によって裁かれるが、逆を言うならば法を犯さなければ迫害されることも無い社会であった。
 それとは対照的に、他の五大神の神殿はあまり勢力は大きくない。そもそも、絶対的な対立をする暗黒神の神殿が堂々と存在できるのだ。その他の光の神々の神殿の勢力はその暗黒神の神殿に対抗しきれない程度の力しか持たない。駆逐されきっては居ないのだが、暗黒神の勢力を打ち破るほど大きくないのも事実である。
 そしてそのような都市の市場には禁制品が大量に流れ込んでいた。
 ロマールの闇市でさえ滅多に出てこないものもこのファンドリアの市場に当たり前のように置いてあるのだ。
 だが、そのような暗黙の秩序が徐々に崩れ始めていた。
 今までは暗黒神の信者が罪を犯しても形だけの処罰で済まされていた。そのためにその報復を恐れて被害者は泣き寝入りをするしかなかったことが多々あったのだが、今ではそのような暗黒神の信者でさえ、いや、暗黒神の信者であるがゆえに厳しい処罰が為されるようになったのである。
 最初は国民達はそのような事を行ったが為に、国王テイラーII世は近い将来に暗黒神殿や彼らと結託している盗賊ギルド、暗殺者ギルドによって暗殺されるだろう、と噂していた。だが、いつ迄経っても国王は健在で、むしろその勢いを伸ばしてきたような印象を受けていたのだ。
 それに伴うように王都ファンドリアには不思議な高揚感と秩序が齎されつつあった。犯罪が減り、そして騎士団は精強さと威厳を備えつつあるのだ。
 だが、それは表面的には混沌の王国ファンドリアが光の秩序を取り戻しつつあるように見え、周辺の諸国は微かな疑いを残しつつもその変化を歓迎していたのである。
 ファンドリアの街では人々の活気が戻り始め、犯罪が減ったことによる副作用で商店が大きく繁盛し始めていた。その結果、ファンドリアの闇が大きくその勢いを減らしているようにも見えた。少なくとも表面上の犯罪は減り、そして光の秩序がファンドリアに浸透しているように見えていたのだ。
 だが、その街に溢れていた闇は王城の地下に集められていた。
 
 冷たく輝く魔法の光に照らされ、その影は異形の姿を創造者達に見せていた。
 形は基本的に人型をしている。だが、あるものは4本、もしくは6本の腕を持ち、別のものは蝙蝠のような翼を持っていた。尻尾を持つもの、全身を鱗に覆われたもの、など、おぞましい姿形の存在が、凍り付いたように立っている。
「ふむ、これらの性能はどの程度なのだ?」
 その異形の姿を前にして、声の主は平然と尋ねる。
「はい。基本的に戦闘能力は肉体的なものとして完全武装の騎士と互角程度、それに加えてそれぞれの形による特殊能力が加わります。また、生命力は戦闘形態を取ることによって数倍に増幅されます。よって、一体としての戦闘能力は騎士5人分ほどになろうかと考えられます」
「なるほど。ただの人間をこれほどまでに強力な魔獣兵にすることができるとは、見事である」
 満足気に報告を聞いた者は感想を述べた。
 漆黒の長衣を身に纏ったその男は、まだ若い魔術師だった。彼は自らの研究が生み出した成果を確かめ、そして数度、ゆっくりと頷く。
 その魔術師に、同じような長衣を身に纏った魔術師が言葉を繋げる。
「ですが、最高導師様。人間を魔獣兵にするには、幾つかの改良点が必要になります。まずは成功率の向上が第一です。報告書の中にも記述いたしましたが、今の段階では一般人に魔獣兵化の秘薬を投入しても、およそ5分の1程度の確立でしか正常に魔獣兵化できません」
 その言葉に最高導師、と呼ばれた男が微かに考え込む。
「確かに微妙な数字だ。使用できる素体の数に限りがある以上、無駄にはしたくない」
「はい。その上で更なる性能向上を図ることも必要でしょう。特に飛行能力を持つ物を中心に能力を強化する事を図る必要があろうかと考えられます」
「あの東の魔法王国の魔法騎士団に対抗するため、か・・・」
「その通りです。まさか、あれほどの魔法を使いこなし、また空を飛ぶ魔獣さえも支配するほどの騎士団をこれほど短期間に整備するとは・・・」
 最高導師、と呼ばれたまだ若い魔術師は少し考え込み、ゆっくりと答えた。
「だが、まだ敵と決まった訳ではあるまい。慎重に見極める必要がある」
「畏まりました」
 その言葉に若い魔術師達は頷き、研究の成果の報告を続ける。
 強大な力を求めるその研究は、かつて古代王国の滅亡と共に失われた魔獣を創造する技を復活させ、それをこの剣の時代に合ったものを生み出すための研究でもあった。それは、現代のユーミーリアにおいてアメリカ合衆国における核兵器の完成が、旧共産圏陣営の核開発を加速させたのと似ていた。
 それが判っているからこそ、眞はあえてファンドリアやロマールとも完全な敵対関係には立っていない。そしてその意図が正確に伝わっているからこそ、最高導師と呼ばれた魔術師もファールヴァルトとの関係を慎重に考えていた。
 全面的な潰し合いになるのはどう考えても面白くないし、当初の目的にも反する。
 そもそも、“魔王”とその配下たる魔人達の目標はあくまでもファンドリア国内における王権の復興であり、ファンドリアの平定が定まれば他国のことなど関与するつもりも無い。であるからこそ、逆にファールヴァルトの鋼の将軍は先日のオーファン軍との衝突でファンドリア軍に対して致命傷を与えずに最低限度のダメージを与えただけで撤退させたのだとも思う。その上でファンドリア軍を撃破したときにもオーファン軍が不必要にファンドリア軍に迎撃を行わないような絶妙な形で手を打っていた。見事としか言いようが無い。
 あの少年はまだ若いが決して純粋なだけの少年ではない。政治の汚さと不条理に満ちた世の中を良く知っていると思う。そもそも、ファールヴァルト国内でダーク・エルフや妖魔などに対しても生存権を保障して、きちんとした棲み分けを画策していることからもそれは良くわかる。
 だからこそ、“魔王”はファールヴァルトと相互不干渉の関係を築けないか、と考えていた。
 
 巨大な石の彫像が小さな小屋ほどもある岩を抱えて、どすん、どすん、と歩いていく。
 その光景を見ながら、職人達は苦笑を隠さなかった。
 こんな巨大な灌漑工事-最初、話を聞いたときはその馬鹿馬鹿しいほどの大きなスケールに冗談だろうと思っていた-にゴーレムをこんなに大量に、しかも巨大な岩や障害物を退かす為の労働力として運用するなど、聞いた話が無かったからだ。
 そもそも、ゴーレムは文字通り、古の魔法王国の貴重な遺産である。
 確かに鋼の将軍だけでなく、宮廷魔法兵団の魔術師の中にも数人、ゴーレムを作り出す技を持つものもいる。だが、この動く魔法の彫像を作り出すには途方も無い時間と手間が掛かる。だから、今運用されているゴーレムはほとんどが古代王国の遺跡から入手したものばかりだ。
 その金銭的な価値は途方も無いものがある。
 それを惜しげもなく土木作業に投入するなど、余りにも発想がとんでもない。
 この話を聞いたときに他国の魔術師ギルドの幹部達は暫くの間、言葉を失って、次に血相を変えて怒り狂っていた。貴重な古代王国の遺産に、なんという扱いをするのだ、と。
 もっとも、眞にしてみれば別にそのような事など、たいしたことではない。現代人である眞にしてみれば、ゴーレムは所詮、ブルドーザーや掘削機械の代用品である。
 電源やガソリンを食わないだけ経済的だ、とさえ思っていた。
 そもそも、石の従者ストーン・サーバント樫の木の子鬼オークなど、呪文さえ唱えれば幾らでも作れる上に、永続化の魔法がある以上、幾らでも補充しておける。あとはそれらを必要なだけ運用してやればよい。それで必要な工事の工期が短縮でき、不必要な人間の事故が減るなら使わない理由も無い。
 それが結果としてファールヴァルト王国に独特の魔法文化が根付き始める根源となっていた。
「しかし、奇麗な上水道が出来そうだな」
 眞がのんびりと呟く。
 最近、ようやく王宮の文官や役人達が新しい政治手法や施策に慣れてきたおかげで、以前ほどの激務ではなくなってきていた。
 そしてこれほど大きな工事を行うためには資金だけでなく、食料の確保が重要な意味を持つ。
 食糧生産に於いても、痩せた土地でも育つジャガイモを導入し、また豚を大量に飼育する事を始めていたのだ。
 牛や山羊などは食に適するまで育つには膨大な量の牧草を必要とするうえに、牛は農業の労働力として貴重である。そして山羊や羊などは毛を用いた織物を期待できるため、不要に屠殺することも出来ない。その点、豚は雑食性で何でも食べる上に生まれてから食に適するまで、半年から8ヶ月程度しか掛からない。牛は食用になるまでに5、6年という年月が必要になる。その上で一回に10頭近く子供を産むために生産性も抜群であった。
 そして囲いを作っておいた森に放し飼いにしておけば実に簡単に増える。羊や山羊と違って木の実などを食べ、木の芽や皮を食べることは無いから森を破壊することも無い。
 また、豚の排泄物で肥料を作って耕作地の地力を向上させることも出来るため、ファールヴァルトの食糧事情を改善するには非常に都合の良い動物だった。
 もっとも、それらの肉を保存して安全に食用にするために燻製や香辛料をつかった保存方法や加工方法をも同時に研究している。眞達も現代のユーミーリアの情報などを応用して効率の良い耕作を編み出していた。
 二毛作などの栽培方法もそうである。
 麦を刈り取る少し前に麦を植えた間に豆を植え、そして豆の葉が1、2枚ほど出る頃に麦を刈るのである。そうすると麦畑が豆畑となり、更なる収穫が期待できる。麦藁は加工品にしたり、燃やしてその灰を肥料として畑に戻したりもした。こうすることで徐々に生産性を向上させていったのだ。そして、麦を精麦したり、製粉したりするときにでる「ふすま」という皮殻部を豚の飼料とすることでさらに豚の飼育の効率を向上させていたのだ。
 その高度な農業技術にはマーファ神殿の司祭達さえも驚愕を隠せなかった。
 だが、そもそも、ユーミーリアでは60億人を超える人間が生きているのだ。その中で培われてきた耕作技術や農業技術は極めて洗練されている。
 昨年までは困窮していたファールヴァルト王国の食糧事情は急速に改善されていたのだ。
 それはファールヴァルト軍にとってもありがたいことであった。
「飯が無い軍なんて、悲惨だからなー」
 眞の言葉に歴戦の騎士や兵士達はしみじみと頷いた。ファールヴァルト王国の古参の騎士達はその劣悪な食糧事情の中で戦う事を余儀なくされたし、プリシスの騎士達も城塞としての都市を防衛する戦闘で食糧確保の大切さを思い知らされている。
 冒険者や傭兵上がりの戦士達にいたっては言わずもがな、である。
 補給を徹底的に確保するように体制を整えた眞が、その戦績以上に騎士や兵士達に信頼されるのはこのような事情も絡んでいた。
「矢の一本は骨の一本、水の一滴は血の一滴」という言葉がファールヴァルト軍にはある。
 それだけ補給が厳しい状況で戦わざるを得なかった時代の格言である。
 余談ではあるがファールヴァルト軍には弓の名手が多い。森林が戦場であることが多かったのと、数が少ない矢を効率よく使うために徹底的に訓練を施されているためである。特にファールヴァルト軍のいしゆみは携帯性に優れ、故障率が低く、なおかつ精度が高いという優れた物だ。それらを備える遊撃隊とナイト・ゴーンツ隊が恐るべき戦力である事は撃破されたムディール軍の被害状況を見ればよく理解できる。あれだけの夜の乱戦の中で、同士討ちが殆ど無く、そして指揮官がことごとく狙撃されていたのだ。
 オランとアノスの騎士団がそのファールヴァルト弓兵隊の実態をそれぞれの本国に報告したとき、その軍首脳部は驚愕を隠せなかった。
 先のアノス戦役やムディール攻略戦からである。膨大な食料と補給物資、予備兵装を戦場に携帯して、あまつさえ医療車まで戦場の後方に展開できるようになったのは。
 医療車は多数のヒーラーや薬師を載せ、専用の医療設備を内部に格納した大型の馬車である。また、古代語魔法で眞の発見した治療魔術を使うことのできる専門の魔法使いも数多く配置されているのだ。これは戦場における治療効果を著しく向上させていた。これがファールヴァルト軍の強大さを支える一つの要因ともなっている。
 また、ファールヴァルト軍は重装甲歩兵を大量に導入している。
 騎士並みの板金鎧と盾、そして長剣を装備し、加えて長槍を主兵装とした歩兵隊である。この戦闘能力は恐るべきものがあった。ドワーフ族の名工や人間の優秀な職人を総動員して極めて高品質の鎧や武器を大量生産して、それらを贅沢に投入していたのである。
 そして、もともと、ファールヴァルト王国の王立魔法兵団には古代語魔法の呪文の効果を永続化する魔法があり、そして失われたとされている魔法も数多く存在している。それらの呪文を用いて、その重装甲歩兵の鎧を軽量化しながら防御力を増し、また、武器を強化していたのである。
 他にもそうした重装甲歩兵の最大の敵である天候に対応するために、ファールヴァルト軍は魔法を利用している。熱による影響を防ぐための魔法を鎧に用いて、灼熱の陽光の下や寒冷地でも着用者がダメージを受けないようにしているのだ。
 また、騎士達には元々魔法の鎧を与えてあるため、こういった保護の効果は既にあった。
 このような贅沢な装備を整えた重装甲歩兵を数千人の規模で揃えることが出来たため、ファールヴァルト軍は驚くべき正面戦闘能力を保有することが可能になったのだ。
 ほかにも弓の攻撃に対応するために、眞の考案した特殊な盾がある。これは巨大な金網を数枚重ねて作った巨大な防御壁をクレーン付きの戦車で吊るし、侵攻する重装甲歩兵の前に展開する、という方法である。こうすることで弓の攻撃を殆ど無効化することが出来、ほぼ無傷のままで敵の兵に対して重装甲歩兵をぶつけることが可能になったのだ。
 他にもこれは相手の騎士の突撃を防ぐ、という効果がある。
 こうした新戦法を考案し、導入したことでファールヴァルト軍は途轍もない戦闘能力を引き出すこととなっていたのだ。
 それに加えて日常的に魔法を多用することで魔法兵団員や王立魔法学院の学生達にも実用的な魔法の使い方を学ばせている。そしてそれは一般市民にも魔法を理解させるという意味もあった。
 眞自身、莫大な財を持ちながら強大な商業ネットワークをアレクラスト大陸中に張り巡らせている。そして自身が雇っている労働者達の権利や一般市民の生活を国家として保障する制度を作り出して実行していた。それは共産主義の発生を防ぐためである。
 現在、アレクラストの各地で行われている、そしてかつてユーミーリアの歴史で行われていたような労働者が死ぬまで搾取される状況を改善することで共産主義革命のような馬鹿馬鹿しい騒動を未然に防ぐ事を考えていたのだ。
 ファールヴァルト王国の商人達は最初、その考え方に露骨に眉をひそめたが、眞がユーミーリアで何が起こったのかを説明し、それを“真実の鏡”を用いて見せたところ、震え上がって眞の意見に賛成したのである。厳しい暴力で放逐されるよりも、ある程度、労働者の権利や身分を保障することで富を永続的に得るほうが良いに決まっている。
 その上で大規模な演習を繰り返し行い、また国家としての事業を展開することで商人達に莫大な取引を持ちかけて彼らの協力を得る事にも成功していた。そもそも、今のような急激な経済成長は眞が命を掛けて切り開いた結果である。その眞の努力を知らない商人はファールヴァルトにはいないし、プリシスの商人も日干し寸前の状態から忙しくて休む暇もないほど商売を繁盛させられるようになったのは眞をはじめとするファールヴァルト王国のおかげだという事を理解している。
 安全の保障と商売の繁盛をもたらした人物の先見の明に一目置かない商人はファールヴァルトにおいて皆無だった。
 そしてその方策がオランや周辺諸国から、ファールヴァルトへの移民という形で労働者の大量流入が起こり始め、人々がそのような施策をどのように受け止めているかを見せ付けていた。
 だが、そのファールヴァルト王国の施策がオランや近隣諸国の商人達の反発を引き起こし、その動きは各国の王宮さえも突き動かそうとしていたのである。
 
 広大な森の中、眞は一人ぼんやりと鳥の囀りと濃厚な森の息吹を味わっていた。
 何時からだったのだろう。眞の父、健一と眞の祖父、麟太郎との仲がぎくしゃくしたものとなっていたのは。いや、それはそもそも、最初からだったのかもしれない。
 ふと、眞は父の事を思い出していた。
 健一は政治家として辣腕を振るう麟太郎に嫌悪感を抱いていた。純粋に考古学者として研究の人生を送ってきた若手の研究者の例に漏れず、健一は政治家に対してあまり好意的な印象を抱いている様子は無かった。
 その彼がまさか、緒方麟太郎という当時の自民党のナンバー・スリーにして日本の黒幕とも言える権力者の一人娘と一緒になる事を想像した者は誰もいなかっただろう。
 眞の母、美咲は健一と同じ大学の後輩だった。
 同じサークルの先輩でもあった健一に美咲が惹かれたのはある意味では特別なことではなかったのだろう。麟太郎自身も娘の恋人であった健一に対して不器用ながらも色々と気を使ってくれていた、と父自身からも聞かされたことがあった。
 その、ささやかな幸せに満たされていた家庭を崩壊させたのは、何だったのか。今となってはもう思い出すことも出来なかった。
 原因の一つには健一の所属していた研究グループの人事、というよりも派閥抗争があった。良くあることだが、学会は未だに前近代的な師弟関係に縛られている。そして、その研究グループで部会長となった人物がよりにもよって、隠れ共産主義のマルキシスととして噂されている人物の弟子だったのである。
 当然のことだったが、有力政治家の娘と結婚をした健一に対して、研究会は冷たく当たるようになり、そして、彼の研究に対しても批判的な、というよりも露骨に否定的に対応されることとなったのだ。そのことに健一は深く悩み、そしてその彼の苛立ちは家庭で発散されるようになってきていた。
 その頃には、眞の持つ先天的な障害、つまり、サヴァン症候群とも言える異常な数学演算能力と驚異的な記憶力や理解力、それの反動であろう感情の希薄さが明らかになっていた。もっとも、眞自身はそれ以上に天才的とも言える発想力と構想力を持っていたため、幼い頃でさえ既に高度な科学知識や理論を平然と学んで、それを独自に発展させて楽しんでいる様子があったが。
 その眞の才能を十分に伸ばしてやる事を母、美咲は考えていた。
 英才教育、という言葉があるが、普段の学校の勉強では物足りなさ気にしている眞のことを考えて、息子が十分に満たされるまで勉強をさせてあげたいと願っていたのだ。
 だが、健一はその意見に対しては反対の立場だった。確かに眞の頭脳を持ってすればどんな勉強をもこなすことが出来るだろう。いや、下手をすれば10年後にはこの地球上で眞に学問を教えられる人間などいなくなってしまうのではないか、とさえ思うほどの恐るべき頭脳を息子が持っている事を健一は見抜いていた。
 だからこそ、健一は幼い眞に社会の事を知って欲しかったのだろう。人と接する事を知り、情緒を覚えて、人間として成熟して欲しかったのだろうか。
 双方の意見は、ある意味ではどちらも正しく、そしてどちらも間違いであった。
 人は異質な存在を嫌う。
 特に、眞のように飛びぬけた頭脳をしている存在、そして権力者の息子、という特殊な生い立ちを持った少年を排除しようとしてしまうのが、特に学校という閉ざされた思想の場にはありがちなことだった。
 教育界には未だに自衛隊を人殺しの集団と考え、日本という国家そのものの体制を転覆しようとする共産主義の亡霊たちが少なくない。
 その日本の教育界に絶望した健一は、幼い眞を連れてよく諸外国に出かけるようになっていた。
 特に健一の専門は中南米のプレ・インカ時代の先史文明に関する研究だったため、眞は幼い頃から中南米諸国の歴史や文化に触れていた。
 父と母の間で進められようとしていた離婚の話も、眞にとってはあまり現実感のある話ではなかった。いや、熱帯の鬱蒼とした森林の濃い空気に包まれていると、そんな殺伐とした事を少しでも忘れることが出来たのだ。
 いくら感情が豊かでは無いといえ、まったく感情を持っていないわけではない。むしろ、眞は感情を通じて自分の気持ちを表現することが出来なかったと言えるだろう。
 最終的に眞の父と母が離婚することが決まり、マスコミが馬鹿騒ぎを始めたときも、眞はその話題から懸命に逃げていた。だが、学校のクラスメート達にも両親の離婚のことが知られることとなり、そして学校は眞にとって居心地が良い場所ではなくなってしまった。
 それを抑えることもせず、嘲笑っていた教師に対して嫌悪と不信感を抱いたのは、ちょうどこの頃だった。
 そんな頃だった。
 眞がその少女と出会ったのは。
 コスタリカ、という国に対して、日本人の多くは美しい熱帯の緑の国、という印象を抱いているだろう。そして、コスタリカの事を多少知っている人は、ケツァールという美しい鳥の事を思い出すかもしれない。
 だが、考古学的にはコスタリカをはじめとする中南米諸国の前インカ時代の文明には驚くべきものがある。アステカの太陽の神殿、マチュ・ピチュの空中都市、シカン文明の黄金都市など、驚くべき遺産がこの熱帯の奥には眠っている。
 眞の父が魅せられたのは、その生々しくも生命の躍動感溢れる文明の名残に対してではなかったのだろうか。
 しかし、同時にこれらの中南米は世界でも有数の貧富の差が激しい地域の一つであり、また、地理的な問題と絡んで共産ゲリラが反政府活動を活発に続けている危険な地域の一つでもある。
 だから、各国のツアーや考古学の研究キャラバンは現地のガイドを雇ったり、国軍の支援を受けての活動を余儀なくされる場合があった。特に、資金の豊かな裕福層の旅行客や研究キャラバンに対しては警戒が必要とされていた。
「Esperanza, ¿Por qué usted está haciendo una guía?(ねえ、エスはどうしてガイドなんかしてるの?)」
 眞は現地人の少女にたどたどしいスペイン語で話しかけてみた。
 健康的に日焼けした少女は輝くような笑顔で眞に答えを返した。
「Porque quisiera que la gente conociera este país en donde nací. Aunque, Costa Rica es un país pobre, allí no hay nada del país. Hay bosque verde hermoso, historia larga, etc. Quisiera que mucha gente supiera sobre éstos. Por lo tanto, estoy haciendo una guía.(それはね、私の生まれたこの国の事を良く知ってもらいたいから。コスタリカは貧しい国だけど、決して何も無い国ではないの。美しい緑と、大昔からの歴史があるわ。その事をいろんな人に知ってもらいたい。だから、私はガイドをしてるの)」
 エスペランサ-希望-という名の少女がいった言葉の意味は、正直、幼い眞にはまだ良くわからなかった。ただ、彼女が自分の国の事を誇りに思い、その自分の国を良く知ってもらいたいのだ、ということは理解できた。
 その事は、国を愛する、という教育を受けてこなかった眞には驚きだった。日本の教育は、国を愛することは軍国主義であり、侵略主義である、という教育をすることが多い。確かに強制的に愛国心を教え込む事は問題ではあるが、自然に自分の国を好きになる、大切に思う、という気持ちを悪だと子供達に刷り込むのも異常であろう。
 国家がどのように国民を保護し、そしてその社会を支えるために尽力しているのかを教えずに、問題点だけあげつらう日本の教育や報道の姿勢は、結果として極右主義を台頭させかねない危険を帯びている。
 そもそも、報道は失敗や問題をあげつらう事はあっても、成功した事を称えるような事は一切しない。ある意味では異常な偏向をしていると言っても良いだろう。
 成功するのは当たり前で、ちょっとでも失敗した、問題があったなら鬼の首を取ったように大騒ぎをして、自分達のような報道機関が納得するような謝罪や責任の取り方をするまでキャンペーンを張り続ける、というのは異常なことだと気が付かないのだ。
 少なくとも、マスコミには政党や他組織の人事や担当者の責任の取らせ方を強制する権利は無い。にも関わらず、「責任を取らないのはおかしい」「良識に疑問がある」などと、自分達の思うように操ろうとする。
 そんな環境で育ってきた眞にとっては、少女の屈託無い微笑と素直に自分の故郷を愛する想いが眩しく思えた。
 エスペランサは眞に様々な伝承を語ってくれた。
 コスタリカのインディオに伝わる昔話、様々な遺跡の素晴らしい光景、豊かな緑の楽園。
 他のガイドやツアー客達も、二人が寄り添っている姿を微笑みながら見守ってくれていた。
 本来、ツアーガイドは全体の客に対して気を配らなければならないのだが、年配の男女のガイドたちが他のツアー客達を引き受けてくれていたため、自然と眞はエスペランサを独り占めするようになっていた。
 もともと、ラテン民族のおおらかさもあって、あまりそのような事を咎める訳でもなく、むしろ、先輩のガイドの女性はエスペランサを眞の専属のガイドのようにあつかっていた程だ。
 その夜、ぼんやりと輝く月明かりが眞とエスペランサを優しく照らしていた。
 そっと眞はエスペランサの艶やかな髪を撫でる。
 眞の手を感じたのか、少女はそっと身を起こし、ほんの少しだけ涙を流した。
「どうしたの?」
 眞は少しだけ不安になって少女に問いかける。
 傷つけてしまったのだろうか・・・
 不安げな表情で尋ねてきた少年に、エスペランサは微笑んで答えた。
「なんでもないわ。ううん、私、嬉しいの」
 そのまましなやかな腕で眞を抱きしめ、そして優しく唇を重ねる。
 エスペランサの汗ばんだ肌と柔らかな感覚が眞の心に暖かく切ない感情を引き起こしていた。その少女の肌の温もりは、家族に対するものと違う愛おしさを与えてくれる。
 初めて人と肌を重ねる事を知った二人は、幼く、しかしそれであるが故の限りなく純粋な想いで満たされていた。
 もちろん、眞はこのツアーが終わったら日本に帰らなくてはならないことも知っていた。そして、二人は自分達が何も約束も出来ないほど、大人には程遠いということも知っていた。
 それでも、いや、だからこそ、なのだろう、確かな絆を求めたかったのかもしれない。
 いつか、日本に来て欲しい・・・
 いつか、日本に行きたい・・・
 言葉に出せないもどかしさが、幼い恋人達の心を満たしていた。
 どこか遠くから何かの動物の遠吠えが聞こえ、風が木々を揺らす音が二人を包んでいた。
「・・・そろそろ戻らないと、みんな心配しちゃうよ」
 眞がそっと少女を抱きしめながら囁く。
 ずっと、こうしていたい。その想いを押し殺すように、眞は少女に囁きかけた。無言のままエスペランサは頷き、一瞬、強く抱きしめあって、意を決したようにそっと身を起こした。
 申し訳のように二人がかぶっていた眞のジャケットがそっと滑り落ちる。だが、少女はそれを気にした様子も無く立ち上がり、髪をしなやかに整えた。
 生まれたままの姿で青白い月光に照らされたエスペランサは、どこか神秘的な雰囲気を身に纏っていた。
 いつか、きっとエスペランサは日本に来てくれる。
 そう信じていた。
 だが、それは・・・
 
 反射的に眞は飛び起きていた。
 夢・・・か。
 思いがけず思い出してしまった苦い記憶を噛み締めていた。
 眞の心にいつも影を落とす後悔の傷跡。
 あの時、俺が躊躇なんかしないで『力』を使ってたら・・・
「エスペランサって、何?」
 いつもの優しい声が少し遠慮がちに問いかけてくる。
 悦子の宝石のような瞳が心配そうに眞を見つめていた。隣で寝ている人が慌てたように飛び起きれば、いくら何でも気が付くだろう。
 ただ、どう説明していいのものか、悩むところだ。
 まさか、初めて愛した女性の事を思い出して飛び起きた、と言った日には、この館が崩壊する危険がある。
 どう説明しようか、と考え込んだ眞に対して、どこか冷たい口調で悦子が尋ねる。
「女でしょ?」
・・・やべぇな。
 眞は内心、どうやって被害を最小限に押さえ込んで、この状況を切り抜けるのか方法を考えながら、自分を冷たく睨んでいる破壊の女神に説明を始めた。
 
 
 

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