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「リビング・ドール!?」
 久しぶりに自らの宮殿にある書斎で古代書を読んでいた眞は密偵からの報告を聞いて、ありえないことは無いな、と考えていた。リビング・ドールというのは特殊な魔法の薬である。毒、と言ってよい。その効果は人間の肉体を変化させる、というものである。大きな特徴として、人間の女性に対しては、体を30センチ程度の人形のように縮小してしまう、という効果があり、逆に男性に対しては、怪物化させる、という異なる効果を表すのだ。
 またスキュラなどの魔獣も、このリビング・ドールなどの毒により創造されたものもある、という推測もされている。ならば、ファンドリアの魔獣部隊は量産可能な魔獣部隊、という極めて重大な問題と考えられるのだ。
 ファンドリアが投入しようとしている魔獣部隊の正体を探るべく、密偵を投入した結果は、驚くべきものだった。彼の闇の国が開発した魔獣は、このリビング・ドールとほぼ同じ効果の毒を持っているのだ。そして、この魔獣の作り出す毒によって怪物と化した人間は、この魔獣に操られてしまう。また、魔獣自身も逆に人間の青年に化ける能力があり、高い知性を持っており、戦闘時には極めて高い指揮能力を発揮することが推測された。この魔獣自体はファンドリアの魔術師たちにより完全に制御され、ファンドリア軍は安全に魔獣を戦力として運用できるようになっている。また、魔獣は異なる特徴を持つ複数のタイプが確認されており、生み出される“魔獣人ミュータント・モンスター”は、その親となる魔獣と似た特徴を持っているという。この怪物たちも、元の人間の姿になることができるため、非常に柔軟な戦略を立てることができるようになる。
「正確にはリビング・ドールそのものではありませんが、非常に似た効果を持っています。おそらく、リビング・ドールの持っている特性を応用した薬物かと思われます」
「・・・しょーもないものを作り出しやがって」
 苦々しげに眞は呟いた。
 その眞の一言は、確かに密偵自身が感じていた感想でもある。
 眞がファンドリアの魔獣の存在に気が付いたのは、ある意味では偶然だった。当然の事ではあるが、これらの兵器を導入するには訓練や試験を重ねる必要がある。それが眞の敷いたネットワークに引っかかったのだ。
 だが、現実にこの魔獣は非常な驚異になることが予測された。特に指揮系統を確立できる魔獣部隊、というのは戦闘時に非常に大きな意味を持つ。
 これらの怪物が、一般的なリビング・ドールで人間が怪物化したときと同じように、解毒の魔法が有効なこと、その毒の強さがそれほど強力でなく、ある程度の実力を持った司祭や精霊使いなら比較的簡単に解毒できることは救いであった。しかし、この解毒により怪物化が解除された人間は、そのまま死んでしまうのだ。これはこの毒があまりにも大きく人体を変化させてしまい、怪物化した後ではもはや人間に戻れなくなってしまうのだ。
 
 この説明を受けたジェニ最高司祭は怒りのあまり机を殴り壊しそうになったほどである。魔術師ギルドもこの魔獣に対する対策を講じるために全面的な協力を申し出てくれていた。もともと魔術を戦術、戦略的に活用する、というファールヴァルト王国とは水と油ほどに違う方針を持っている魔術師ギルドがこれほどに協力的になるのは、魔術に対する民衆の恐怖心を警戒する以上に、純粋に魔術に携わるものとして、この、余りに非道な魔術の応用に対しての義憤もあったのだろう。
 だが、このファンドリアの魔獣部隊は余りにも危険な戦力になりえることは容易に想像できた。もし、眞が戦場に駆けつけるのが少しでも遅れていたら、取り返しのつかない状況になっていた事さえあり得たのだ。
 このミュータント・モンスターは凶暴化し、精神も変容しているとはいえ、元の人間と同じ程度の知能を維持し、戦闘能力は完全武装の騎士にさえ匹敵するのだ。それが統一された指揮の下で部隊として行動する、というのは魔獣の恐ろしさを肌で理解しているファールヴァルトの騎士には痛いほど理解できる。だが、他国の軍隊はそうではない。オーファンの騎士も、故モラーナ王国時代の年配の者達は邪竜クリシュとの戦いを経験しているとはいえ、一体の強力な魔獣と戦うのと、ある程度の強さを持った魔獣の軍団と戦うのとでは意味が違う、ということを本当には理解はできていないだろう。
 下位魔神は恐るべき生命力と驚異的な能力を持つ存在ではあるが、手練の騎士であれば一対一でも勝てない訳ではない程度の強さだ。最下位の下位魔人の剣や肉弾能力は、その耐久力の高さや傷つくことを恐れない異様さを除けば、騎士や十分に実戦経験をつんだ傭兵なら互角に戦えるだろう。だが、その魔神が軍団を形成したとき、遥かな昔には単眼巨人の王国を滅ぼし、つい近年でもロードス島を滅亡の縁にまで追いやったほどなのだ。いかに古代の巨人や竜に匹敵する力を誇る上位魔神や魔神将、古竜さえ凌駕するほどの魔神王に率いられたとはいえ、数千の魔神の軍団が数十万を超える人口のロードス島をあわや、滅ぼしかけたのだ。ロードスの王国の中には竜を騎馬とする竜騎士達さえ居たというのに、である。
 そしてそれほどの力を御することができたなら、愚かな野望に取り付かれた馬鹿者の考えることは知れている。
 
 テイラーⅡ世。
 ファンドリア現国王。
 だが、彼は実のところ、ただの飾りに過ぎず、真にファンドリアを支配しているのは盗賊ギルドであり、暗殺者ギルドであり、そして暗黒神の神殿であることはこの国に住むもののみならず、アレクラスト大陸においてある意味では常識の一つでもあった。そしてその現状を覆す力を何一つ持たない、という事を彼自身が痛いほど理解していた。
 幼い頃から、すでに彼は回りに担がれる単なる神輿みこしであり、先代、先々代の国王達が若くして崩御したのは、その闇の支配体制を覆すために王権強化を図った為だ、と知っていた。故に彼は政治にも軍事にも関心を示さず、酒と享楽に溺れる毎日を過ごしていたのだ。その女達さえも盗賊ギルドとファラリス神殿から提供された女であり、この哀れな王にはいかなる自由さえなかった。
 テイラーⅡ世の唯一の自由は趣味である読書だった。彼は古代語魔法を操る才能も無かったが、しかし、下位古代語で書かれた文章を読む程度には下位古代語をたしなんでいたのだ。古の時代に書かれた物語は、折に閉じ込められた小鳥よりも不自由な毎日を送る孤独な王の心を僅かに慰めてくれる夢だった。しかし、その微かな夢の時間は現実を振り返ったとき、絶望的なまでに無力な己を思い知らせる結果にもなった。
 だが、神ならぬ人に全てを完全に管理する事はできない。たった一人の男の全てを完全に支配することなど、強大な力を誇る盗賊ギルドにも、暗殺者ギルドにも、そして暗黒神の僕たちにも不可能であった。いや、それはもしかしたら自由であれ、という暗黒神ファラリスが、彼の従僕である暗黒司祭達が一人の男の自由を奪っていることに対して、ささやかな啓示を下したのかもしれない。
 
「陛下?」
 不意に起き上がったテイラーに、若い女が不思議そうに声をかけた。テイラーの汗ばんだ肌は月光に照らされ、青白い光の中に浮かび上がっていた。
 その女も一糸纏わぬ姿で寝床に横たわったまま、物憂げに上半身を起こす。
 ぼんやりと空ろな視線を中空に投げ出したテイラーは、そのまま壊れた人形のように月に視線を向けた。その様子に何か常と違う雰囲気を感じ、女は微かな警戒を心に張り巡らせる。一瞬にして王の情婦の目から鍛えられた盗賊の目になっていた。
「・・・陛下?」
 再度の問いかけに、テイラーは初めて、女の存在に気が付いたかのように視線を向ける。女は再び媚びたような潤んだ眼差しになり、王の胸板にそっと寄りかかる。
「どうなさいましたか?」
 豊かなふくらみを押し当てながら、女は問いかけた。
 まだ壮年の王は、しかし疲れた老人のような空ろな笑みを浮かべて女をそっと抱き寄せる。女は真紅の唇をそっと男の肌に押し当て、舌を這わせた。
 普段なら、そのまま男と女の交わりが始まる。だが、男は何も感じないかのようにぼんやりと中を眺めていた。
「陛下?」
 女の心に再び、微かな警戒が沸き起こる。
 何かがおかしいような気がしていた。
 そして、男が再び女に目を向けたとき、はっきりと女は異常を察知していた。テイラーの目には明らかな狂気の光が輝いていたのだ。反射的に飛び起き、盗賊としての自分に切り替えようとする。だが、そのしなやかな肢体は、意思に反して何も反応をしなかった。
「な・・・」
 女の目が恐怖に見開かれていた。
 まさか、この操り人形がこのような大それた事を行おうとは・・・
 その女に語りかけるように、テイラーはゆっくりと口を開いた。
「私はずっと、考えていたのだよ・・・私は何者なのか、を・・・」
 テイラーは優しげな微笑さえ浮かべて女を見つめる。しかし、その目に宿る狂気の輝きは些かも揺るがず、何かを決意した男の瞳は美しく輝く月の光を映し、哀しいほどに澄んでいた。静かに紡がれる言葉は、女を恐怖させて余りある何かを湛えている。
 そう、手練の盗賊である女さえ・・・
「権力もない・・・何かを決めることもできない・・・そして、そのような現状を変えることさえできない・・・哀れな人形だった・・・」
 孤独な王はぼんやりと月を眺めた。
 虚ろな笑みを浮かべながら、テイラーⅡ世はグラスを片手に取り、瓶から琥珀色の液体を注ぐ。どこか蟲惑的な芳香が漂う。強い酒だ。
 盗賊ギルドや暗黒神殿は、この傀儡の王を人形にしておく為に、酒と女だけは上等のものを用意していたのだ。だが、この目の前の酒は女の記憶には無かった。
 そんなことはありえる筈が無い。
 この王を死なせないように管理するために、酒を与える量も種類も、盗賊ギルドも暗黒神殿も厳重に管理しているはずだ。それを熟知している女は、管理外の酒がこの男の手に渡っている、という事実に驚愕し、そしてそれ以上に恐怖を覚えていた。この厳重な盗賊ギルドの情報網を掻い潜って、この傀儡の王の手に何かが渡っている、それは由々しき事態であった。すぐに本部に連絡しなければならない、そう反射的に考えたが、同時にこの目の前にいる人形だと思っていた男は自分の知らない何かを秘めている、という事実は女の心の底から恐怖を掻き立てていた。
「何を怯えているのだ? 私の全てをずっと支配し続けて、この国を好きにしている真の権力者の一員であるお前が、たかが一本の見知らぬ酒を見ただけでこれほどまでに動揺するのか?」
 テイラーⅡ世が優しい声で尋ねる。
 だが、それは邪神が人を破滅に陥れるために囁く呪いの言葉のようにさえ、女の心には感じられていた。
(逃げなければ・・・)
 今の恐怖から逃げられるためなら何でもする、そう女は必死に願っていた。だが、その願いは無情にも叶えられず、体は指一本さえ動かすことは出来なかった。女にとって不幸だったのは、あまりの恐怖にも彼女の鍛えられた精神は狂うことも気絶することも出来なかった、という事だろう。
 何時しかテイラーⅡ世の瞳は真紅の輝きを帯びていた。そう、吸血鬼や魔神など、人ならざるもののみが持つ魔性の輝き。
 闇の中で安寧を得る事を選び、光に背を向けた者達が持つ闇の輝きがかつてテイラーⅡ世と呼ばれていた男の瞳に宿っていた。
 
 ファンドリアの街並みは外国の人々が想像するほど治安が悪いわけではない。
 それはそうだろう。いくら盗賊が支配し、暗黒新の神殿が公認されている唯一の国とはいえ、一般の市民生活が逼迫されるような日常であったならば、そもそも社会そのものが崩壊してしまう。
 特に、盗賊ギルドは極めて秩序だった組織を構成している。その盗賊ギルドに庇護を求めた商店などに盗みに入ろうものなら、その間抜けな盗賊は次の日には街頭に吊るされているだろう。それには暗黒神殿の神官などにも例外は無い。
 ましてや今、ファンドリア騎士団がオーファンに戦争を仕掛けている、などとは誰も実感していないだろう。実際、物価の変動もそれほど無く、治安が悪化しているわけでもない。そもそも、国民はこの国の騎士団が単なる張子の虎だということを良く知っているし、真の権力者である盗賊ギルドや暗殺者ギルドが軍事大国であるオーファンとまともに戦争をする気が無いこともわかりきっていることだ。
 だからこそ、この戦争はある意味では結果のわかった芝居であり、国民の関心を引くような大げさな出来事ではなかったのだ。
 ファールヴァルトという遥か東の国についても、新しい交易先が出来て、その国からは珍しいものが入ってくる、そして魔法騎士団という存在がアノスのファリス狂信者を討ち取った、という程度の話が伝わってきたくらいだった。もっとも、魔法を使う騎士には不安を感じるしファリスの狂信者には本能的な嫌悪感を覚えていたため、正直なところ、どっちにも勝利して欲しくは無かったのが本音だろう。いや、両方とも負けて欲しい、というのが本音だったのかもしれない。
 いずれにしても遠い異国の話であり、普通の庶民にはどうでも良いことではあった。
 だが、雑踏の喧騒の中で一人の男がそのような諦観の感情ではなく、戦慄と緊張を自覚しながら、しかし、ごく普通にどこにでもいる青年のような表情でぼんやりと周りを見ていた。彼はこの雑踏の中に、彼と同じような感情を抱いて、そして彼に与えられたのと同じような使命を帯びているものが数人は居ることを想像している。
 この国で起きていることを確かめるために、彼らは遠く離れた国から送り込まれていたのだ。
 しかし、彼等ほどの技量を誇る密偵でさえ、恐ろしく慎重に調査を進めざるを得なかった。特に、この国は盗賊が支配している国である。うかつなことをすれば彼らの情報網に引っかかる危険があった。
 しかも最近になって、盗賊ギルドの警戒が異常に厳しくなっていたのである。
 何かがある。
 密偵の本能ともいえる勘だった。
 民衆の間に囁かれる噂を丹念に拾い集め、そして一つの事実を探りあることが出来たのは、ある意味では半分以上幸運だったからだろう。
 それは王についての噂であった。
 
 -最近、テイラーⅡ世陛下は穏やかな表情で演説をなさる。
 -騎士は以前に比べて覇気に満ちて威厳を感じるようになった。
 -王に謁見をした後に人々が穏やかになったような気がする。
 
 などといった噂が流れていた。そして、奇妙なのはこれらの噂を盗賊ギルドが操作しているという様子が見られない点だった。通常、このようなある特定の事柄に関して、明確な方向性が見えて噂が流れる場合、殆どの場合は二通りの状況が考えられる。
 一つは盗賊ギルドなど、情報を操作する能力を持った組織がある意図を以って噂を操作し、情報を操る場合である。特に、諜報活動の妨げや特殊工作を行う場合にこのような情報操作が行われることが多い。だが、今回はファンドリアという国自身の内部で噂が流れていて、他国に対する影響が考えられず、しかも盗賊ギルドなどの支配階級に対して、むしろ不都合な情報が含まれている。
 これはどう見ても不自然であり、密偵たちにとっては看破出来ない情報となっていた。
 そしてもう一つは、これも非常に考えにくい事ではあったが、噂が真実を示している場合である。つまり、これはこの短期間にテイラーⅡ世が盗賊ギルドや暗黒神殿を凌駕し、実権を握ったことを示している。だが、先代、先々代の王が王権の強化を図った直後に不審な死を遂げたことを考えると、そう易々と盗賊ギルドや暗黒神殿がテイラーⅡ世の企みを許すとは思えない。テイラーⅡ世は先代、先々代の国王に比べて、決して優秀な人物とはいえないのだ。
 密偵の青年はグラスを傾けて少しだけ考えこむ。
 何がこの国で起きているのか。そして、何が起ころうとしているのか。
 
 眞はファンドリアの魔獣部隊に関する情報をオーファン政府と鉄の槍騎士団上層部、オーファン魔術師ギルドに提供した後で、ファールヴァルトに帰還していた。今の段階で、オーファン軍は表面化した内部の問題を解決する必要が出てきた上に、ファンドリア軍はあっさりと撤退したまま、新しい動きを見せなかったのである。
 だが、眞はファンドリアの魔獣部隊がある程度の数が纏まるまで、おそらく彼の王国は動きを見せないだろうと考えていた。冷静に考えてみた場合、このファンドリアの動きは最初から奇妙だった。
 オーファンに戦争を仕掛けた場合、最終的には全面戦争につながりかねない、という危険を冒す必要がある。前回のオーファンとの国境を越境しての演習は、あくまでも王位継承権問題に関連した、おそらくはルキアルの謀略であり、幾重にも張られた罠の一つとして仕掛けられたものだった。しかし、今回はそのような展望も見えないまま、ロマールに使い捨ての駒として扱われるような動きでしかなかった。あのままオーファンとファンドリアが泥沼の消耗戦に引き込まれた場合、オーファンはロマールの動きを牽制することが出来なくなっていただろう。そうなれば、ロマールは、今度は易々とベルダインを征服したと考えられるが、逆にその間にオーファンがファンドリアを滅ぼすことは十分に考えられた。結果としてロマールは国土を倍に増やしたオーファンと国境を接することとなり、不利益のほうが大きくなる。
 もっとも、オーファンがファンドリアを吸収し、平定するまでには相当な時間とエネルギーがかかったであろうが・・・
 しかし、中長期的に見てロマールに不利に働くことは容易に想像が出来た。眞たちは膨大な情報を緻密に検証し、導き出された答えは、このファンドリアの軍事行動の行われている間に、ファンドリアの中枢部で何らかの方針変更が行われたのだろう、との結論に達していた。
 だが、ファンドリアとオーファンの紛争の情報解析以上に、ファールヴァルト王国上層部は併合したムディールの民達の処遇や、各地の支配体制の確立に全力を注がねばならなかったのだ。後に、眞達はこのときにファンドリアの情報を解析するだけの人員を割けなかったことを痛恨の念とともに後悔することになる。
 
 宮殿の中庭では穏やかな日差しに照らされた緑が、鮮やかな色彩を放っていた。爽やかな風が木々の梢を揺らしながら駆け抜けていった。
 ほとんど休む暇も無く王宮で宮廷魔術兵団の副団長としての勤務をこなしていたルエラは、久しぶりの休暇を眞の宮殿で過ごしていた。もっとも、館の主自身は戦場から帰還してからというもの、ずっと王宮に詰めたきりであったが。しかし、幻像魔法騎士団の騎士団長にして宮廷魔術兵団と魔法戦士隊の創設者であり、かつ次期王位継承者という立場では殆ど自分の時間など取れないというのは、ある意味では仕方が無いことかもしれない。
 それ故に何時もの如く、女同士で集まってのんびりとお茶を楽しむ、という流れになったのは当然といえば当然だった。そして若い女が集まれば、殆どの場合は話題は決まっている。絶対に政治や経済などの話ではないことは確かな現実であり、世の中の普遍の法則なのかもしれない。
「カストゥール王国では、確かに不老不死の研究は為されていました」
 その話の大元は、ユーミーリアの化粧と美容の話題からだった。そして、カストゥール王国の化粧、風俗、そして女性の装いに関心が向かない、ということは絶対にない。
 さらに美容の話となれば、永遠の若さ、という美の至上命題が話題にならないはずは無かった。
 古代王国様式の美しい装いに身を固めた美貌の魔女は、優雅に茶杯を口元に運び、一口そっと茶を含む。素晴らしい香りと上品な味が、古の魔法王国の貴族であった魔女の口と心に柔らかに広がっていく。
 メレムアレナーは、不意に、かつて彼女が暮らしていた太守の宮殿での晩餐会を思い出していた。
 付与魔術師の一門の中でも屈指の名門と呼ばれた家に生まれ、そしてひたすら魔術の奥義を極めるべく修行を積み重ねた日々。その甲斐もあってか、彼女は僅か二十歳そこそこの年齢で付与魔術の奥義を極めることに成功していた。これほど早く、魔術の奥義を極めるということは、極めて高い魔術の素質と優れた教育制度が用意されていたカストゥール王国の貴族でさえ非常に稀なことだった。それ故にメレムアレナーは一族から、次期門主に、との期待がかけられていたのだ。
 その晩餐会で出会った一人の若い魔術師。
 
 メレムアレナーより、おそらく五つほど歳は上であろうか。整った顔立ちとすらりとした長身の青年だった。美しい装飾が施された魔術師の杖と山吹色のローブを身に纏っている姿から、その青年は創造魔術の一門に属する魔術師であることが容易に想像できる。そして、その手に握り締められた杖に関しても、メレムアレナーはどこかで文献に書かれていたのを見た記憶があった。
 そう、確かあの魔術師の杖は『大魔術師の杖』と呼ばれる偉大なる魔法の杖。数千年を生きた魔法樹マグナ・ロイの枝から作り出された魔術師の杖である。一日に1度のみではあるが、その杖の所有者の魔術を操る技能を数段引き上げて、普段は唱えることの出来ない呪文の行使さえ可能にする、という偉大な魔力が付与されていたはずだ。そして、杖自身にも人工的なものとはいえ知性が与えられており、中級程度の魔術を唱えることが出来た。確かに“百の頭脳持つ”エル・ライクなど、知能に関する魔術を研究している魔術師はいるが、魔術を使えるようにするほどの人工の知能を持つ魔法の工芸品はカストゥール王国でも数は少ない。
 それに加えて、この魔法の杖には通常の魔晶石とは比べ物にならない程、強大な魔力を蓄えて所有者に使わせる、という魔力もある。しかも使い捨ての魔晶石とは異なり、僅かずつではあるが杖自身が周囲の魔力を集め、再び魔力を蓄積していくのだ。
 この大魔術師の杖は、メレムアレナーの属するシェラザード家の一門が生み出した最高傑作の一つであり、シェラザード家の当主が兼ねる一門の門主が、証として持っている。それを、確か十数代前のシェラザード家の当主が創造魔術の一門を統べるディアハール家との盟約を結んだ際に、同じ杖を創造して献上した、とされている。
 その時、同じく当時のディアハール家の当主より創造魔術の奥義の一つとされる不老不死の魔術を著した魔術書を献上され、以来、両家の関係は緊密なものとなっていた。
 党首の座を退き、社交界の表舞台に上がることはなくなったものの、当時の付与魔術師の門主であるヴァルストイと創造魔術師の門主であったアリハーネイは未だ健在であり、両家の重鎮として無視できない影響力を行使している。
 もっともこの晩餐会には、近年、ディアハール家と並ぶ創造魔術の名門としてバルトリア家が急速に力を拡大してため、改めて両家の友好関係を再確認し、近々行われる魔法王選挙に対する意見と方針を摺り合わせる、という意味もあったに違いない。
 楽団による荘厳な協奏曲を聴きながら、シェラザード家とディアハール家の者達は長い食卓を挟んで向かい合うように席についていた。
「では、我等シェラザード家と来賓であるディアハール家の絆を確認し、我等が絆を確かなものにするため、ささやかではあるがこの宴を楽しもうではないか」
 厳かにシェラザード家の当主たるトレグバーゼムが宣言し、晩餐会が始まっていた。しかし、メレムアレナーの心には若い創造魔術師の姿が不思議な存在感となって焼きついていたのだ。
 ほんの一度、僅かな時間に語り合っただけだった。
 だが、若い娘の心に初めての異性への想いを掻き立てるには十分な時間だった。しかし、忙しい時間の間、手紙を交わすだけが二人に許された唯一の交流であり、魔法王選挙が終わるまでは如何なる自由な時間も許されなかったのである。
 そして、ある日、不意にその知らせが届いた。
 創造魔術師にしてディアハール家の次期当主である若者、アリクラデルの死を知らせる使者の姿は、メレムアレナーにとっては冥府よりの使者とさえ映っていた。
 それは不可解な事故であった。
 創造魔術の研鑽に努めるため、魔術の実験を行っていたアリクラデルと数人の魔術師達が、魔術の実験に失敗して生み出された危険な魔獣により命を落とした、というのである。だが、アリクラデルが主な研究としていたのは危険な魔獣の創造ではなく、生命の神秘の解明であったはずだ。故にメレムアレナーは疑念を抱いていた。
 しかし、それ以上に愛する人を失った喪失感は若い娘の心を絶望で満たしていたのである。
 その傷ついたメレムアレナーをさらに打ちのめす出来事が起こっていた。
 おそらくほぼ間違いない、とされていた魔法王選挙で、父トレグバーゼムが敗れた、との知らせを受けたのである。魔法王選挙にて選出された新たな魔法王は、なんとバルトリア家のストレイメゼルだった。そして、ストレイメゼルは政敵であるシェラザード家の当主であるトレグバーゼムを処刑し、シェラザード家との姻戚関係を求めてきたのである。
 だが、メレムアレナーはストレイメゼルの差し向けた追っ手から逃れるため、父の旧友の元へと向かおうとした。
 そして・・・
 
「どうしたの?」
 優しい声で話しかけられ、メレムアレナーははっと我に返った。一瞬だけ過去を思い出しただけのつもりが、思っていたよりも深く考え込んでしまったようだった。
 宝石のような瞳がメレムアレナーを見つめている。鋼の将軍、と呼ばれる恐るべき魔法戦士の心の奥底を、おそらく唯一、見通すことの出来る少女。
 エツコ・・・マドカ・・・
 不思議な響きを持つ名。
 その名を紡ぐ異世界の言葉は、どこか懐かしく、そして異質だった。
 メレムアレナーにしてみれば、このまるで知らない事で満ち溢れた世界の中で、眞や悦子たちだけが真に心を許せる存在だった。異世界からやってきた彼らは、この世界はまったく何も知らない世界だろう。それはメレムアレナーにしてみれば自分の置かれた境遇を確かに重ねられる存在だった。
 そして、眞と同じく強力な魔術を操る女魔術師。
 確かにまだ、メレムアレナーと比べては未熟とはいえる業前だが、年齢を考えればカストゥール王国の貴族でも二十歳を過ぎたばかりの若さで瞬間移動の魔法さえ使いこなすほどの術者は中々いなかった程だ。
 かつて蛮族、と呼ばれた人間達がこれほど彩り豊かな世界を築き上げているとは驚きだった。
「で、不老不死の研究ってどうなってたの?」
 里香が興味津々、といった表情で尋ねてくる。たしかに永遠の若さ、という意味では不老不死、という言葉は魅力がある。遥かな古代から現在まで、人間の科学は一面で不老不死を求め続けていたといっても過言ではない。
「カストゥール王国では確かに幾つかの方法で不老不死を実現していたと言えるでしょう」
「「ええっ!?」」
 メレムアレナーの言葉に、里香も悦子も驚きの声を上げて古代の美女を見つめかえす。葉子も思わず息を呑んだように目を見開いていた。特に、女性にとっては永遠の若さ、という言葉の持つ誘惑は絶大だった。
「特に死霊魔術は、その奥義を以って究極の不死生物である“命なき者の王”となり、永遠に存在し続けることが目的とも言えます。他にも付与魔術では自らの魂を物品に封じ、永遠に存在し続けることで不死を得ようとしたものも少なくはありません。また、精神魔術では人の精神のみを切り離し、魔法的に安定した精神体となって永遠の存在を得ようとした研究もあります」
 その言葉に里香も悦子もあからさまにがっかりした様子でお茶を飲みなおす。不気味な不死生物となって生きるのも、魂や精神だけで存在するのも嫌だった。
「なーんだ、結局はあたしらの体で健全に永遠の若さってのは不可能なわけだ」
 溜息をつくように里香は空を仰ぎ見る。
 世の中、旨くはいかないものだ。
 だが、その里香の様子を見て、メレムアレナーはくすっと微笑む。妖艶な美貌に子供のような悪戯な表情が不思議に似合っていた。
「その方法もありますよ」
「・・・え゛!?」
 一瞬、沈黙がバルコニーを支配した。
 そして一口、そっと茶で口を湿らせたメレムアレナーは、驚異の魔術について語り始める。
「古代語魔法には創造魔術、という一門がある事は知っていて?」
 この古代の魔女の語った内容は、あまりにも驚くべき内容であった。
 もともと、人間の肉体は死すべき定めにあるものだ。それを『変身シェイプ・チェンジ』の呪文などで無理やりに若返らせ、生き永らえさせる事は不可能ではない。もっとも、そのような不自然な延命を重ねることで、肉体はともかく精神自体が耐えられないのだ。変身の呪文は初歩の魔術である『魔術解除ディスペル・マジック』の呪文で無効化されてしまう。そうなったら如何に優れた魔力を持っていようとも、魔法が解除された瞬間に一瞬にして本来の年齢を取り戻し、そして瞬時にして老衰死してしまうのだ。そのような不自然かつ不安定な状態で人が正常な精神を維持できるはずがない。故にほぼ、二百年程度で魔術師達は精神に異常をきたして自ら破滅していったのである。
 ところが古代王国も末期になって、ある創造魔術師の一門がついに、不老不死の秘密を解き明かすことに成功したのだ。その創造魔術の奥義を用いれば、人は永遠に尽きぬ寿命と若さ、そして永遠の時間を生きることに耐えうる精神を持つ存在へと転生できたのである。
「もっとも、その呪文自体は極めて高度な儀式魔術である上に唱えた本人にしか効果のない呪文ではあるけれど」
 そう言って再び茶杯を口に運ぶ。
 だが、付与魔術で創造された魔法の発動体の中には本来なら唱えた本人にしか効果が及ばないはずの呪文の効果を他者に発現させる、という魔力を付与されたものも少なくはない。それらの魔術を組み合わせて、魔術師達の中で不老不死を得たものが少なからず生まれていたのだ。
 もっとも、そのようにして不老不死を得た魔術師達は如何に強力な魔力と優れた魔術を身に付けていようとも魔法王選挙に臨むことは出来ず、また魔法王として即位したものは魔術により不老不死となることは禁じられていた。それはたった一人の王が永遠に君臨し続けることを避けるための知恵であった。そもそも、魔法王の任期は30年であり、各門の門主10名により構成される選帝会議を互選によって選び出されるため、門主が永遠に交代しないのは好ましくないとされていた為である。
 だが、それはカストゥールの歴史の中で起こった悲劇がその始まりであったのだ。
 かつて“魔王”の送り名で呼ばれた一人の魔法王。
 彼こそが一度、カストゥール王国を滅ぼしかけた男である。
 
 カストゥール王国も後期になって、その偉大なる魔法文明が完成の域に達しつつあった。そして、強力な魔法が次々と実現し、そして不死王の呪文を始めとして幾通りかの方法で永遠の命を実現することも可能になり始めていた。
 その不老不死の研究の中で、一人の魔術師がおぞましい方法を考案していたのだ。
 神々が創り給もうた世界の中、暗黒の世界があった。その闇の世界に住む住人こそ、魔神と呼ばれる恐るべき異形の存在である。強大な魔力と強靭な肉体、人間を凌駕する高度な知性とおぞましい邪悪な能力を持つ闇の化身。その魔神の特徴の一つに不死身とも呼べるほどの凄まじい生命力と永遠にも等しいとされる寿命の長さがあった。
 その魔法王はあろうことか魔神と己の肉体を融合し、そして不死を得ようとしたのである。
 魔神と融合し、不死と邪悪な能力を得た魔法王は人々に“魔王”と呼ばれるようになり、多くの魔術師はこの“魔王”に対して反旗を翻したのだ。
 
 曰く、人は人ならざる者の支配は受け入れぬ。
 曰く、栄光あるカストゥールを人ならざる者が支配することは認められぬ。
 
 かくして古代王国は幾多の恐るべき力を持つ魔術師達と魔神の強大な能力を得た魔王との想像を絶する戦の場となり、滅亡の危機に立たされることとなったのだ。だが、その滅亡を半ば覚悟したカストゥールの貴族達が、最後の最後で魔王を討ち取ることに成功し、魔法王国の危機はかろうじて回避されたのである。
 それゆえ、以後のカストゥール王国では魔法王が不死を望むこと、または不死を得た魔術師が魔法王選挙に臨むことは禁忌とされたのだ。
 
「不老不死の魔法はある意味では呪いです。魔法の属性としての呪いではなく、意味もなく永遠の時間を生きることは、逆を言えば死による開放もない呪い、と言えるでしょう。人は限られた時間を生きるしかない。だからこそ、逆に限られた時間を可能な限り満たして生きようとします。ですが、永遠の命を得たものは如何なる時間を過ごそうとも、事を成すために必要な時間が尽きることはありません。それは容易に生きる意味を失わせ、意味を失った人生には何の輝きもなく、ただ無為に存在するだけの時間になります。それでは生きる意味がもはや失われているといっても過言ではないでしょう」
 メレムアレナーの言葉は悲しい響きを帯びていた。
 彼女はもはや、家族も生まれて育った国も遥かな時間の彼方へと置き去りにされてしまっているのだ。それはある意味で永遠を生きるものがいずれは知る永遠の孤独とも似ている。
 その絶望的なまでの事実を、メレムアレナーは眞と出会ったときに思い知らされていた。
 眞の手に握られていた大魔術師の杖は、かつて彼女が想いを寄せた創造魔術師の青年の手にあった杖なのだから・・・
 
 
 

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