~ 3 ~

「まったく、あの男は恐るべき戦士だな」
 ファールヴァルト王国銀の剣騎士団長のファーレンが内心の興奮を抑えきれない様子で呟いた。
 つい今しがた、ファールヴァルト王城、クリムゾン・ホーンに帰還と竜の部族との同盟成立の知らせを持って参上した眞は、その同盟を成立させる為に、なんと最上位の老竜である“嵐の暴君”を捕らえて帰ってきたのである。
 何でも、聞く所によると竜の部族の若者を中心に同盟への反発があったという。それを抑え、反対する者達を納得させるためにも、竜を捕らえて来る必要があったらしい。
 それにしても・・・
「まさか、竜まで捕らえようとはな」
 もうファーレンは眞がどのような事をしても驚かないだろう、と思っていた。
 最上位の老竜は、ルエラやオルフォードの話によると、アレクラスト大陸を危機に陥れる事が出来るほどの力を持っているという。
 現に、竜を捕らえた、という話を聞いたオーファンの宮廷魔術師、“魔女”ラヴェルナはファールヴァルトの真意を確認すべく、瞬間移動の呪文で参上して眞と会談を行っていた。
 軍事的に考えれば最終兵器を手に入れたようなものだからだ。
 もちろん、眞はお互いに結んだ条約により、オーファンへの侵略は行わないという事を再確認している。ファールヴァルトにしてみればオーファンは軍事的に緊張関係にあるわけではなく、むしろ経済的には上得意の国でもある。
 わざわざ軍事衝突をして、その安定した関係を損なうよりも、自重して経済的な反映を維持するほうが、はっきり言って都合が良い。
 要するに日本と同じなのだ。
 自衛隊の装備はアジア地域でもトップクラス、世界的に見てもそれ程劣るものではない。もちろん法整備が整っていない上に憲法の問題がある為に海外への派兵は行えない。が、それ以上に日本が軍事的な侵略を行うメリットがもはや無いのだ。
 資源は日本近海の海底資源を活用できるし、それ以上に豊富な資産がある。
 特に、日本の技術が無ければ成り立たない産業や技術も多いのだ。
 良い例がDVDである。
 これのレーザ・ヘッドは日本のメーカーしか作れない。他にも、スペースシャトルや欧米の軍用装備におけるかなりの部品はメイド・イン・ジャパンである。
 それに付け加え、アメリカの国債を殆ど引き受けいているのも日本なのだ。
 もし、日本が他国に戦争をしかければ・・・
 間違い無く世界が破滅する。
 国際条約に基づいて、世界は日本の資産を凍結したり、経済制裁を課す必要がある。しかし、そうすれば世界各国は軍事、産業基盤の重要な部分を失うのだ。
 それは日本にしても同じである。
 戦争をしかければ、当然世界から信用を失い産業も商業も成り立たなくなる。そのような愚を犯すくらいなら、経済に集中して共存共栄を図るほうが良いに決まっている。
 愚かな知識人は戦前のことを良く持ち出して軍国主義の復活を警戒するが、眞に言わせればそのような考え方はもう時代遅れのうえ、カビの生えたものなのである。
 大体、一度やそこら戦争に負けたくらいで国際感覚を失うほうが危険なのだ。
 責任の無い力は危険である。
 それは軍事力も経済力も同じように・・・
 万が一、日本やファールヴァルトがその資産運用を暴発させた場合、下手をすると戦術核よりも有力な武器になる。
 兵器で国土を更地に変えなくても、国を根こそぎ消滅させられるのだ。経済的に・・・
 しかし、ファールヴァルトの貴族と日本の文化人、マスコミの根本的な違いは、その経済戦争力の意味、実存を知っている、いない、である。
 どちらがそれを知ってるか、答えは明白であろう・・・
 眞はその事をラヴェルナに告げ、ファールヴァルトとしては戦争をしかける気は無い、という事を告げたのだ。
 かの魔女はその言葉に安心して帰ったらしい。
 もっとも、眞は自分から戦争を仕掛けない、というだけで相手から仕掛けられた場合、問答無用で叩き潰す気で居る。これはファーレンやオルフォードのみならず、ウェイルズ王も確認していた。
 戦争を放棄して、ファールヴァルトが失われる事、そして、ファールヴァルトの持つ技術や知識、経済力を奪われる事を防ぐ責任もある、という考え方である。
「日本の平和ボケどもとは違うのさ」
 眞はクラスメート達にそう言ったという。
 彼の考え方は、平和とはパワーバランスの上に成り立つ平衡状態でしかない、というものだ。
 それは実際の政治を動かしてきた祖父、そして、考古学者として世界中の矛盾と現実を見てきた父から受け継いだ“目”なのだろう。
 どちらにせよ、ファールヴァルトはもうかつての無名の小国ではいられないのだ・・・
 
「眞!」
 王城の謁見の間を退出した眞に、ルエラが駆け寄ってきた。
「良く無事で・・・」
 そう言うのがやっとだったように、眞に抱き着いてくる。
「大丈夫だったよ。それにしても、良くやれたもんだって自分でも思うさ」
「もう・・・」
 ルエラが拗ねたように唇を尖らせる。
 その唇にかるくキスをして、眞はもう一度ルエラを抱きしめた。
 そして眞はルエラの耳元で囁いた。
「今日はもうこれ以上の仕事は無いからな」
「そうね」
 ウェイルズ王からの命令であった。
 娘のユーフェミアにも気を使ったことも確かだろう。眞の報告が終わった後、すぐに休暇を取るように言われたのだ。
 もっとも、眞もそれに異存は無かった。
 いい加減、疲れも溜まっている。竜の部族との交渉で二週間、竜狩りに一週間、移動の時間を含めれば一月以上も王都を離れていた事になる。
 通話の護符で話を出来るとはいえ、さすがに直接触れられないのは寂しい思いをさせてしまっていただろう。
「でも、信じていた。きっとすぐに帰ってくるって」
「ああ」
 その眞の返事を聞いて、ルエラは一度、ぎゅっと手に力を込めてから離れた。
「さあ、帰りましょう。あなたの美しい奥方達の元へ」
「おいおい」
 お前もその一人だろう、という言葉はあえて言わなかった。
 眞はルエラのぬくもりを思い返し、自分の護るべき女性達のことを改めて意識していたから。
 しかし、ふと、眞は恐怖を感じてしまった。
 思わず、一度は離れたルエラを再び抱きしめてしまう。
 突如、再び抱きしめられたルエラは驚いた表情で眞を見つめてしまった。
「え・・・?」
「ごめん・・・」
 慌てて身を離した眞に、ルエラは不思議そうな顔をして見つめる。
「どうしたの?」
 何故か不安を覚えたルエラは、その不安を押し隠すようにわざと明るい声で尋ねてみた。
 だが眞はルエラから、ふと視線を外してぼそっと答えた。
「・・・怖かったんだ」
「え?」
 驚いた表情のルエラに、眞が絞り出すような声で言葉を紡ぐ。
「何だか、突然みんながいなくなってしまうような気がして・・・」
 ルエラはその言葉を聞き終わる前に、眞を抱きしめていた。まるで幼い子供を抱きしめるかのように。
「いなくなったりしないわ。眞を一人になんかしない、絶対に!」
「・・・うん」
 フォーセリアでも最強の将軍の一人である強力な魔法戦士が、まるで子供のように縋ってきている。
 しかし、何故かルエラはその眞の姿こそが本当の眞を映し出す鏡のような気がしていた。
 ルエラは優しく眞に語り掛ける。
「さあ、帰りましょう」
「ああ」
 そして、二人は瞬間移動の為の呪文を唱えていった。
 
 一月振りの館は、眞にとってなぜか少しだけ居心地の悪さを感じさせていた。
「そうか、もう一ヶ月も経ってたんだ」
 眞は書斎の椅子に座って、ぼんやりと考え事をしていた。
 急に、眞はここ数ヶ月の間に起こった出来事を思い出してしまった。
 最初はあの古本屋で魔術書を買った事だった。
 そして魔神の召喚、麗子との出会い、クラスメートの暗殺、そしてフォーセリアへの移動・・・
 この世界に来てからも、決して楽な生活ではなかった。
 破産寸前の国を経て直す為にアレクラスト大陸を駆け巡っての行商、そしてアノスとの紛争。
 結果として眞は自分からは逃げられない状況に自分を追いやっていたのだ。
 もし、ファールヴァルトが貧しい小国でなかったら、自分は国の重鎮として仕官など出来なかっただろう。だが、仕官した国が貧しい小国だったが故に、眞は戦士として、魔術師として、そして政治家として年齢に不相応なまでの重責を担う事を余儀なくされたのだ。
 戦争で人を殺す。
 その事は、深くは考えたくない事だった。
 だが、眞は戦争で人を殺すことよりも、自分が護るべき人を、失いたくない人を護れない事を恐れていた。
 ― 敵を殺さなければ、愛する人を殺される。
 それは眞を苛み続ける呪いだった。
「どうしたの?」
 いつの間にか悦子が傍に来ていた。
 眞をじっと見つめている。その宝石のような瞳に、眞の姿が映っていた。
「ん・・・、ちょっと考え事をしてたんだ」
 嘘ではなかった。
 眞は、悦子のカンの鋭さを良く知っている。
 人の微妙な雰囲気の違いを感じとって、信じられないような鋭い質問をしてくる時があるのだ。
 だから、考え事をしていた、という答えに「心配しないで」というニュアンスを込めて答えたのである。
「そう。・・・深刻にならない様にね」
 やっぱり鋭いな、と眞は感心していた。
 だが、そうは思っても少し深刻になって考えてしまう。
 一人殺せば殺人犯、十人殺せば極悪人、千人殺せば英雄、か。
 だったら、自分は一体何なのだろう。
 自分達を、四十人にも満たない人間を生き延びさせる為の試みの結果、千人ものアノス騎士を殺した自分は・・・
 恐らく、これから千人どころではない人間を死に追いやっていくのだろう。
 それでも、自分の護るべき人間を失う事には耐えられなかった。
 悦子やルエラが、里香が、葉子が、愛する人達が屍になってしまうくらいなら、眞は敵を全滅させる方を選ぶだろう。
 もう孤独になるのは耐えられなかったから・・・
「みんなが待ってるよ。お腹すいたでしょ?」
 悦子の気遣いが嬉しかった。
 暖かい言葉が眞の少しだけささくれた心に、優しく染み入ってくる。
「うん。もうぺこぺこさ」
 そう答えて、眞は椅子から立ち上がった。
「さ、早く行こ!」
 嬉しそうに言って、悦子は眞の手を取って歩き出す。
「はいはい」
 眞は呆れた様に答えて、それでも一月振りに触れる悦子の手のぬくもりを心地よく感じていた。
 竜を追いかけて山を走り回っている間は、まともな食事が出来なかったのだ。
 とりあえず、腹いっぱいご馳走を食べても文句は言われないだろう。
 少なくとも、今だけは一六歳の少年に戻っても・・・
 食事の間のおしゃべりは、予想していた以上に弾んだ。
 全員が眞の竜狩りを知りたかったのだ。
 エリステスは竜を従える事に成功した英雄を目の前にして、子供のように目を輝かせている。
「明日、眞の捕まえた竜を見せてもらっていい?」
「ああ。大きいぞ」
「このお屋敷よりも?」
「そうね、私が見た限りではそれ程大きくは無かったけど。でもとても生きているものとは思えない程大きいわよ」
 ルエラも、生まれてはじめて見た竜に感動を覚えたらしい。
 エリステスに色々と話している。
 ユーフェミアとティエラはバルコニーでお茶を飲んでいるときに、眞の乗った竜が上空を飛んでいくのを見ていた。
 眞から事前の連絡を受けていなかったので、竜の襲撃だと思いこんで卒倒したのである。
 後で眞から竜を捕らえて、その竜だったと聞いたときはあきれて物が言えなかったのだが。
 そしてその竜は眞達現代人を大いに悩ませる原因の一つになっていた。
「で、何であんな馬鹿でかい生物が生きていて、なおかつ空まで飛ぶんだ?」
 食事を突っつきながら、英二が眞に尋ねた。
 眞の帰還祝いと竜を捕らえた記念の食事会だそうである。
 亮と智子も当然のように同席していた。
 本当はクラスメート全員を呼んで行いたかったのだが、生憎それぞれ予定があるらしい。特に、加藤達は正魔術師になる為に必死に勉強をしている。
 その為、とりあえずこの場にいるだけの面子、悦子、里香、葉子、亮、英二、智子とルエラ、ユーフェミア、エリステス、ティエラに主役の眞だけ、という多少人数の少ない宴になっていたのだ。
「あいつに聞いてもわからないんだそうだ」
 眞が多少投槍に答えた。
「大体、全長二十メートル以上の生物が地上で存在できるなんてな・・・」
「どう考えても重力を無視している、としか思えんぞ」
 亮が眞の言葉を引き継いで言う。
「恐竜はまあ、置いとくとしても、あの重量が足の関節にかかる負荷は尋常じゃないだろう。それに、あの翼で空を飛ぶなんて、力学的に不可能なはずだ」
 眞が呆れた様に呟く。
「ねえ・・・。難しくて良くわかんないだけどさ、それって大変な事なの?」
 悦子が怪訝そうに尋ねる。里香も多少混乱した様子で眞をじっと見つめた。
「どう説明すりゃいいかな・・・。二人とも、生物と物理は得意?」
 その質問に二人は自信たっぷりに首を横に振った。
「全然!」
「さっぱり。だって文系だもん」
「あ、そ・・・」
 眞は疲れた様子で、少し考え込んで説明を始めた。
「この重力がある環境で、生物が大きくなるには限界があるんだ。例えば人間だったら、相撲の子錦関の300キログラムがほぼ、自力で歩ける限界体重でね、それ以上だと自力で身動きが取れなくなるんだ。アメリカでは自力で寝返りさえ出来なくなった超肥満の人が何人も病院に担ぎ困れているからね。ちなみに、クレーンが必要になるんだ」
「それならわかる」
「体重の問題は切実だからね~」
 二人は合点がいったように頷く。
「・・・ちょっと違うような気がするけど。まあ、この説明で人間だけじゃなく他の生き物も大きくなるには限界がある事が想像できると思う」
「うん」「わかるわかる」
「それを考えると、陸上、ユーミーリアの陸上動物で、その最大のやつは象だ。これでも全長3メートル前後、体重でも7トン程度しかない。逆に重力の影響がもっとも少ない海中ではシロナガスクジラが最大サイズだ。体長が30メートル、体重は120トンという途方も無い大きさになる」
「うわ~」
 はっきり言って、この時点でフォーセリアの人間はさっぱり意味がわからなくなっている。現代科学の知識体系は、それほど途方も無い差で知識水準の差を生み出しているのだ。
 それはフォーセリアにおいて最高水準の“学問”を学んだルエラでさえ意味がわかっていない事からも容易に推測される。
 だが、悦子と里香は習っていないからわからないだけで、説明されれば簡単にその内容を理解できてしまえるのだ。
 眞は薄々それに気付いていた。
 余りにも先端の知識を与え過ぎないように気を付けなければ行けないが、それでも最低限の知識をファールヴァルトの人間に与える事は、決して愚策ではないだろう・・・
 その内心の思いを隠すように、眞は説明を続けた。
「とにかく、重力の影響が大きいこの陸上で、それほど大きな生物が存在する事は極めて困難だってことがわかると思う」
 これは生物学で考えた場合、とんでもない矛盾を孕んでいると言えるだろう。
 竜は基本的に爬虫類かそれに類する生物だ。
 だが、普通の爬虫類、特に竜に一番近いであろうプロポーションであるトカゲの場合、その最大種でも全長が5、6メートルといったところである。それ以上の大きさになった場合、逆に手足の構造から体重を支えきれなくなる。
 元々、爬虫類の手足は胴体から横に突き出す形で存在している。この構造は実は重量に弱いのである。
 人間がもし、脚が真横から出る形だった場合、股関節がその平均して約50kgという体重を支えきれないのだ。これは体操などで吊り輪をやってみると良く分かる。
 腕を真横に開いて体重を支えるなど、想像を絶する力が必要になるからだ。
 これではとても人間大の大きさで直立二本脚歩行は不可能である。
 そして、爬虫類は歩くたびに身体を捩る必要がある。もし、普通のトカゲをそのまま体長20メートルの大きさに拡大した場合、歩行が不可能になる。
 その体重を手足が支えきれないのだ。
 もし、それを可能にする為に筋肉を付けて、骨を太くした場合、益々体重が増えてさらに歩けなくなる。そして歩く為に身を捩ろうとする事も出来なくなってしまう。
 仮に、歩く為に身体を持ち上げたとしても、背骨が折れてしまうのだ。
 コモド・ドラゴンというオオトカゲの一種は、手足の構造をかなり下向きにすることで、全長6メートル近い巨体でも活動を可能にしているが、それでも胴体部分だけの大きさは大した事は無い。
 そして、恐らく爬虫類型の生物ではそれが限界である。
 唯一の例外は蛇であるが、蛇の場合、その体重を細長い身体で分散しているため、背骨一本にかかる負担はそれほど大きくは無い。
 その上、強靭な筋肉を細長い体に詰め込んでいる為、筋肉の力で内臓や骨を保護できる。そういった特徴が無い限り、巨大化は出来ない上、現存する最大種であるアナコンダでさえせいぜい体長は10メートル程度だ。
 恐竜は直立二本脚歩行や四本脚歩行をするために、脚は全て真下に向いている。
 その為、あの巨大な重量を耐えられたのだろう。
 もっとも、如何すればその脚が途方も無い体重を支えきれたのかはまだ分かっていないが・・・
 その上で竜は空を飛ぶ。
 これは航空力学的に考えればとんでもない話だ。
 例えば、ユーミーリア、フォーセリアの両世界に存在する鳥にダチョウがいる。
 このダチョウは空を飛ぶ事は出来ない。
 何故ならば、ダチョウの体重、数十キログラムを飛行させるには10メートル近い翼が必要になる計算だ。しかし、ダチョウの大きさではどう頑張っても10メートルの翼を持つ事は出来ない。
 逆に、ユーミーリアに存在する最大の飛行可能な鳥はアホウドリである。
 この翼長2メートルの鳥は、しかしその体重がせいぜい20キログラム程度なのだ。
 これ以上の大きさで空を飛ぼうとすると、相当に翼を大きくしなければいけない。
 だが、それ以上に翼を大きくすると、今度は骨が耐えられないのだ。
 実際に鳥の翼は中空構造といって骨の中に空気が詰まっている。いわばパイプのような構造になっていて、補強の為にその骨の内部空間にシャフトのような細い棒が細かく支えているだけなのである。
 その為、翼長2メートル以上の翼では羽ばたくだけで骨を骨折してしまうのだ。
 アホウドリにしても殆ど滑空を行っているだけで、向かい風が無ければ自力で離陸する事は不可能に等しい。
 だから、眞達の知る現代の生物学、航空力学、物理学を考えた場合、竜があの大きさで生きていてなおかつ空を飛ぶ、というのは理解不可能である。
 それは全ての空を飛ぶ魔獣、幻獣に言える事だが。
 ちなみにロック鳥という翼長10メートルを超す鷲の姿をした巨鳥も存在するが、眞達の知る生物学と航空力学、物理学でそんなものが空を飛ぶなどというふざけた話は説明が出来ない。
 おまけに竜は炎まで吐くのだ。
 もう眞は現代生物学をフォーセリアの魔獣や幻獣に適用するのは諦めている。
 ちなみに、合成生物である魔獣や幻獣は考えない事にして、自然発生したはずの竜が手足と同時に翼を持つ、というのもいい加減とんでもない話だ。
 両手両脚で合計四本、それに加えて背中から生えている翼が一対で『手足』に準ずる器官が三対、六本もある。
 自然発生したであろう他の生物にそのような特徴が無い以上、竜の特異性が際立っていると言えるだろう。
 普通、ユーミーリアに存在するものと同じ動植物が、その生物学の適応範囲内で存在しながら、一方では、物理学的、生物学的をあっさりと無視する存在までごろごろしているのだ。
「生物の大沢先生とか物理の村バアがこっちに来てたら発狂してるだろうな」
 その眞の言葉に、反論できない葉子であった。
(でも、村バアって・・・、それに発狂なんて、この子達はいつからこんな言葉遣いを覚えたのかしら)
 などと教師としての顔が覗き出てしまう。
 だが、眞のその言葉遣いが葉子には嬉しかった。
 かつての眞は、このような言葉遣いは決して行わなかったのだから。
「でもさ、あたしらの元の世界にいるときって、眞は全然こんな口を利かなかったじゃない。なんでなの?」
 里香が素朴な質問を口にした。
 一瞬、葉子は凍り付いてしまう。
 葉子はその理由を知っていた。しかし、それは決して知られてはならない理由・・・
 智子が一瞬だけ葉子に目配せをしてくる。
 それに、葉子もほんの一瞬だけ視線を送り、アイ・コンタクトをした。
 この場にいる全員の中で、葉子以外に智子だけがその理由を知っている。
 眞がなぜ天才的な能力を持っているのか。そして、なぜ今まで殆ど感情を見せなかったのか・・・
「おがっちゃんは、ちょっと暗ーい過去を引き摺ってるからねぇ」
 智子が惚けたような口調で、しかし少しだけシリアスな声で言った。
「智子ちゃん・・・」
 葉子は、はっ、として智子に声をかける。
 だが、眞が葉子を止めていた。
「別に構わないよ」
 眞は気にした様子も無く、平然と食事をしている。
 所詮、事実なのだ。
 過去に起こった事、それが今に続いているという現実は否定する事は出来ない。
 だから、眞は別に隠そうとはしていなかった。
 言いふらすような事ではない為、自分からは言わないだけである。
 ただ智子も葉子も、その場ではそれっきり何も言わなかった。
 
 その夜、悦子と里香は智子と葉子に食事のときに出かかった質問を繰り返していた。
 眞と亮、英二の三人は地下の研究室で何やら怪しげな研究をしているらしい。本来なら、ルエラもそれに参加するのだろうが、今日は女性だけでおしゃべりをしようと決めているようだ。
「でさ・・・、さっき言ってた、眞の暗~い過去って、一体何?」
 里香が智子に尋ねる。
 智子は、一瞬だけ考え、そして里香に向き直る。
「これから言う事は、絶対に他の人に言っちゃ駄目だよ」
 悦子と里香がこっくりと頷いた。
「何から話せば良いのかな・・・。おがっちゃんのご家族の事、何か知ってる?」
「え・・・、そう言えば、何にも知らない」
 里香が戸惑ったように答える。
「・・・何にも聞いていないよ・・・?」
 悦子も首を捻っている。
 確かに不思議な話だ。
 どうしてなのだろう、眞から家族に関する話を聞いたことが無い。
「おがっちゃんさ、家族がいないんだよ」
 智子がぼそり、と呟く。
「え・・・」
 ユーフェミアとエリステスが驚きの表情を見せた。
 それは悦子も里香も初耳だった。
「どうして・・・」
 思わず悦子は責めるような口調で聞いてしまった。
「おがっちゃんのご両親ね、離婚してたんだわ」
 そう言って、智子はその理由を説明し始めた。
 眞の両親は、眞の余りにも優れた頭脳と能力を考え、その教育に付いて悩んでいたのだ。ありがちな事だが、父母の意見は対立を始めてしまい、そして最終的に離婚という形で決着を迎えた。
 眞の母は、その息子の才能を引き出せるように、最善の環境で勉強させてあげようと考えていた。しかし、父の意見は異なっていた。眞の才能を以ってすれば、子供の頃から必死に勉強させるだけ無理をさせてしまう、そう考えたのだ。
 また、そこには今まで表面に出てこなかった家族のしがらみがあった。
 考古学者である父は、政治家である眞の母方の祖父とは折り合いが悪かったのである。
 ある意味では仕方が無かったのかもしれない。
 学者である眞の父には政治の世界は余りにも汚らわしく映っていたのだろうか。眞の父は、学会内部の政治も嫌って孤高の研究を繰り広げていた。
 結局、眞の両親は離婚し、眞は母親に引き取られる事になった。
 そして、眞の父は海外での研究にその時間の殆どを費やすようになったのだ。
 だが、その騒動が終わらないうちに、新しい騒動がまた起こってしまった。
 自由民政党の代議士だった祖父、緒方麟太郎が急死してしまったのである。日本と言う国を憂い、尽力した政治家の突然の死は、各界にも混乱を引き起こしたとされている。
 しかし、幼い眞はその死には何か胡散臭い物を感じていた。
 当時、1995年はある意味で混乱の年でもあった。
 政治は完全に歯車が狂って、景気も深刻な状態を続けていた。
 日米安全保障条約や国連協力など、対外的にも変革を迫られていた時期に、眞の両親の離婚は代議士である麟太郎に対する批判を招いていた。
 野党やマスコミは、「子供の家庭を壊す人間に政治家が勤まるか」などと罵りの声をあげた。
 麟太郎は、それでも自分のことで眞が傷つかないように最大限の配慮をしていたのである。だが、眞は既に当時、並みの大人を凌駕する知性を持っていたのだ。
 付け回すリポーターや特ダネ狙いの記者を見て、そのマスコミの本質を散々見せ付けられた眞は、すぐにマスコミに対する不信感を強めていく事になった。
 その中で、祖父の麟太郎が突然、死亡したのである。
 麟太郎は別に心臓が弱かった、とか持病を抱えていたという訳でもなく、検査の為に病院に行く、と出かけたきり帰って来なかった。
 病院の発表では、緒方燐太郎は急性心不全の為に死亡した、となっている。だが、眞はその突然の死と自分の知る限りの祖父のことを考えて、その病院発表に何かを感じてしまったのだ。
 そして半年後、その病院で火災が発生する。
 警察の捜査でも不審な点は無く、単なる火事だと思われていたが、眞はその後、ハッカーとしての能力をフル活用して、その病院に幾つかの不審な点を発見していた。
 第一に、副院長の経歴である。
 この副院長は、アメリカ留学の経験があったのだが、何故かそこで中国人留学生のグループと交流があった。
 そして、その留学生グループのメンバーの友人で同じく中国からの留学生がアメリカ・ロスアラモス研究所から最新の核兵器の情報を盗んだとして逮捕されたのである。
 他にも、この副院長は学生時代に共産党の活動をしていた形跡があった。
 また他にも、眞はマスコミの対応もおかしな点が多い事にも気が付いていた。
 このような失態があった場合には、マスコミは必ず飛びつくはずだ。
 特に、僅か半年前に自由民政党の大物が突如、亡くなった病院で火災が発生したのなら、少なくともワイドショーのネタにでもなりそうな話だ。
 だが、現実には殆ど何も報道されなかった。
 さらに、その副院長はあれほどの不祥事を起こしたにもかかわらず、一年後に別の病院の院長として仕事をしていたのである。
 これらの事が眞の疑念を確信に変えることになった。
 日本の権力は最終的に情報を握る者によって支配されている、と。
 中学校に入学した眞は、教師達から冷遇されていた。
 もともと、学校の教師は左翼思想の人間が多い。
 その目の敵である故緒方燐太郎代議士の孫は、左系の人間にしてみれば憎しみの対象という意味しかなかった。その教師達は、授業で散々、自由民政党政治の批判を繰り返し、眞の祖父を遠まわしに貶める発言を続けていたのだ。
 その結果、眞はクラスメートから執拗ないじめを受ける事になった。
 だが、眞は既に教師に対する信用も信頼も持っていなかったため、誰にも何も言わなかった。
 そして、母親までも失う事になったのだ。
 原因は良くある交通事故だった。
 これは陰謀でもなんでも無い、純粋な事故だったが、結果として眞は家族を全て失うという現実を突き付けられた。
 緒方燐太郎の妻である母方の祖母が、また眞の現状を知った父が生活の援助をしてくれなかったら、眞は路頭に迷っていただろう。
「だからなのかな、おがっちゃんが戦争をしたのは」
 智子がぼんやりと呟いて、長い話を終えた。
「そんなの・・・、酷すぎるよ・・・」
 全員が涙を流していた。
 それは眞の責任ではないのに、全てをぶち壊した左翼思想の狂信者ども・・・
「・・・ろしてやる・・・そのキチガイども、ぶっ殺してやりたいよっ!」
 里香が心の底から絞り出すような悲鳴を上げる。
 悦子も、同じ事を考えていた。
 決して許さない、そう二人は決めていた。
 自分達も同じような過ちを眞にしていたから、その自分達も許せなかった。
 しかし、あろうことか教師がそのような卑劣な事をするなど・・・
「安心しなよ。あたしが殺してやるから・・・」
 智子がぞっとするような声を出した。
「おがっちゃんはあたしの恩人でもあるからね。もし、日本に帰る機会があったら、ちゃんと殺してきてあげるよ・・・」
「その時は手伝うわ・・・」
 悦子も声を重ねた。
 その少女達の激しい怒りが葉子には悲しく思えてならない。
 だが、その怒りも痛いほど良くわかっていた。
 そして、それはルエラも同じだった。
 ルエラの生みの父親も政争に巻き込まれて一族は廃嫡されるという憂き目にあったのだ。
 もし、ジェルマー導師に出会わなかったら、どこかの娼館で客をとる生活を送っていただろう。だが、自分には父親がいた。そして、忙しかったが幸せな生活が・・・
 ユーフェミアは破綻寸前の国の王女と言う事で大変な生活だったが、逆にその為にそのような醜い争いをする余裕など、貴族の間にも無かった。
 エリステスにも政治絡みのいざこざはあったが、それでも幸せな生活を送っていた。ティエラも、そのような深刻な状況ではなく、幸せが当たり前にある生活だった。
「でも、おがっちゃん、それをあたしらがするの、喜ばないだろうね・・・」
 智子はそう思っていた。
 誰かにやらせるのでは無く、きっと自分の手を下すだろう。
 恨みからではなく、誰の手も汚させたくないから・・・
 暫く、三人の少女達は泣いて、そしてようやく落ち着きを取り戻した。
「おがっちゃんさ、二人が傷つくの、すごくいやがると思うな」
「・・・そうだね」
 悦子もぼんやりと答えた。
 怒りが収まると同時に、だんだん頭が冷えてきたのだ。
 きっと、眞は自分達の手を血で汚させたくないだろう。
「あいつ、以外に古い考え方の持ち主だからね。子供を産んで、育てる女性が人を殺して欲しくない。そう言ってた」
「う~ん。まさか、女は家にいて家事をしてろって事は言わないよね・・・?」
 里香が考え込むように言う。
「それは無いだろうけどね。でも、普通の家族に対する憧れは、大きいと思うよ」
 決して眞には手に入らない幻だから・・・
「うん。納得できるな、それ」
 悦子にもそれは理解できるものだ。
「おがっちゃんさ、多分怖いんだよ」
「え?」
 思わず全員が智子を見つめる。
「何を怖がっているの?」
 ユーフェミアが疑問を口に出した。あれほど強い魔法戦士が、何を恐れる必要があるのだろう・・・
 それは誰もが感じる疑問だった。
 その疑問に葉子が答える。
「今の幸せを失う事よ」
「あ・・・」
 そう、眞は今の幸せな生活を失う事を恐れているのだろう。
 だから、『幸せ』を破壊しようとする『敵』に対して、あれほど徹底的に強くなるのだ。
「ま、あたしにも納得できるけどね。命の価値とか、重さってさ、確かに誰だって同じだと思うよ。でもさ、きっとそれぞれの『意味』は人によっては違うと思う」
 それは誰にでも言えるだろう。
 全然関係無い他人と、自分の身近な人の命では意味が違う。
 恐らく、それは眞の心の中ではかなり極端に切り離されているのだ。
 大切な人、自分のいる国の仲間たち、無関係の国の人々、そして敵対的な存在。
 これらに対して妥協をしない区別をすることで、もっとも大切で護りたい人達の安全を最優先にするのだろう。
 だから、あの時アノスの騎士団が攻め込んで来た時に徹底的に粉砕したのかもしれない。そして、たまたまアノスの指揮官が愚かな指示を出した事で、被害を拡大してしまったのだ。
 眞は単独で突撃を始めた聖騎士達を見て、どう思ったのだろう。
 簡単に各個撃破可能な状態で突撃する聖騎士達を、どのような思いで殲滅させる指示を下したのだろうか。
 殆ど一方的な虐殺にしかならない撃破命令を、決して無責任に下した訳ではないはずだ。それが証拠に、戦闘が終わってから、眞は相当に強い精神的な動揺を感じていたらしい。
 そうでなければ捕らえた修道女達に、あのような残酷な事はしなかっただろう。
 眞自身、修道女の一人を抱いてしまっている。そして、その事をずっと後悔しているのだ。
 あれから暫くの間、厳しく慌しい賠償交渉をアノスと持ったことはある意味では幸いだっただろう。眞はその交渉の責任者の一人として、殆ど寝る間もない時間を過ごし、結果として戦争の記憶は少しだけ薄れてしまっていたのだから。
 気が狂いそうな重圧と自己嫌悪の中で、眞は一人、戦いつづけている。
 大切な人を護れなかったのは、自分が弱かったからだ・・・
 そのような想いが、眞を強い“戦士”にしている。
 幼馴染のお姉さんが、自殺したのも影響しているのだろう。
 そう智子は考えていた。
「あのさ、ずっと前に自殺した杉原絵里香って人、知ってる?」
 その智子の突然の問いかけに、悦子も里香も一瞬、その名前を思い出せなかった。
「・・・確か、例のイイ男ランキング委員会に逆らって見せしめの為にレイプされたって噂の?」
 里香がようやく思い出したように答える。
「そう」
 葉子は思わずぞっとしていた。
 まさか、そのような事が行われていたとは・・・
「先生、うちの学校って、ううん、どこの学校でもだろうけど、健全な生徒ばっかりじゃないです」
 悦子が悲しげな表情で告げる。
「援助交際してたり、麻薬を使っている子もいっぱい。男の子だって、結構悪い事してお金を稼いだりしてる・・・」
 絶句している葉子を見て、三人の女生徒たちは悲しげな、しかし皮肉気な笑みを浮かべて、語り続けた。
「だって、先生達も酷い事いっぱいしてるしね・・・」
「女の子をレイプしたり、覚せい剤使って売春させたりさ。とんでもない連中っているからね」
「女の先生も結構悪い事やっているから。身体使って教育委員長とか役人をたらし込んだりさ」
 思わず葉子は吐き気を催してしまう。
 学校でしかも教師までもがそのような事をしているなど・・・
 今の子供達は、もう既に大人が信用できない存在だと知ってしまっているのだ。
 だから、今の世の中に絶望していたのだろう。
「そうそう、話がずれちゃったね。その杉原さんってさ、おがっちゃんの幼馴染の人だったんだ。でも、そのレイプ事件がきっかけで自殺しちゃって、おがっちゃん、相当ショックだったみたいでさ」
「それは・・・キツイね・・・」
 里香も悦子も、その時の眞のショックを考えると、胸が苦しくなる。
「だろうね。幾らあんまり感情が無・・・」
 はっとした表情で、智子が口を押さえる。
 だが、その言葉は全員の耳に届いてしまった。
「・・・智子・・・今、なんて・・・言ったの・・・」
 悦子が辛うじて、言葉を紡いで尋ねる。
「眞に感情が無い・・・そう、聞こえた」
 エリステスも言葉を挟む。
 ティエラは、苦しげな表情で俯いていた。
 葉子は、今にも泣き出しそうな表情でじっとティーカップを見つめている。
 全員の呼吸が聞こえそうなほど、静まり返った居間で、ただ外から聞こえる風の音だけが存在感を持っていた。
「・・・眞には、もともと感情が無かったのよ」
 沈黙を破ったのは、葉子だった。
「え・・・」
 誰からか、驚愕の呟きがもれる。
「どう話せばいいのかしら・・・。天才、という言葉の意味がわかる?」
「天才、ですか?」
「そうよ」
 葉子と智子を除いた全員が、考え込む。だが、一体どうして眞の感情と天才が結びつくのだろうか?
「世に天才と言われている人は、結構いるわ。でもね、本当の意味でも天才、という人間は一体何人いるのかしら」
 その葉子の問いかけに、里香と悦子は答えた。
「アインシュタインとか、ホーキング博士とか・・・」
「モーツァルトは違うの? でも一体、そんな人達と眞がどう・・・?」
 葉子は二人だけでなく、全員にわかるように説明し始めた。
「結論から言うと、眞はある特殊な脳神経の障害を持っているの。サヴァン症候群、というね」
「サヴァン症候群?」
「そうよ」
 サヴァン症候群。
 この精神医学上の病気とされている症状は、余りにも特異な症状を引き起こす事で知られている。
 今までにも歴史上の天才、と言われた人間の多くがこの奇妙な神経病を患っていたとされる。
 サヴァン症候群の患者達は、普通、何らかの形で脳の機能に障害を持っている。しかし、別の面ではその脳の一機能が極限まで発達した状態も併せ持っているのだ。
 多くの場合は、その異常な能力と引き換えに知能が異常に低くなる。
 映画「レインマン」で、主人公の男性は見ているだけでカジノ場のトランプの動きを全て見ぬいてしまい、連戦連勝をする。しかし、彼は自力で歩く事さえできないのだ。
 別のケースでは、全部で僅か58個の基本用語しか知らない男性が、全米の人口五千人以上の町全ての名前と人口をそらんじて、なおかつ各州の州都間の相互距離、三千の山や河のデータを全て暗記していたというデータもある。
 他にも様々なサヴァン症候群の症状はあるが、それは、言わば「創造無き知性」と呼ぶべきものなのだ。
 だが歴史上、極めて稀にだがこの「創造無き知性」と「真の創造性」を兼ね揃え持つ人間がいる。
 かのアルバート・アインシュタインは税金を納めに行ったときに、自分の名前を思い出せずに窓口を閉められてしまった。アイザック・ニュートンは自分の飼っている猫に子供が生まれたときに、その子猫用に新しい出入り口をわざわざ新設したらしい。子猫は親猫の出入り口を使える、というのに。
 他にも音楽界の至宝の一人、モーツァルトも同様である。
 そして、眞も同じであった。
 眞の場合は、感情の大半を持っていないか極めて希薄にしか感じられないのだ。
 だが、眞の数学的演算能力は恐るべき物がある。
 最新のスーパーコンピュータさえ圧倒的に凌駕する演算能力を持っているのだ。
 そして、一度でも見たり聞いたりしたものを瞬時にして記憶、理解する情報分析能力。
 武術にしても、他のスポーツにしても、見ただけで完全に理解し、実行できてしまう、その知性と真に結びついた神の運動能力。
 反応速度も桁外れであり、通常ならは0.2秒以下でしか反応できないはずの反射でさえ、眞は0.01秒以上というとんでもない速さで反応できてしまう。
 音楽的な能力も桁違いだ。
 もっとも、感情が乏しいので、その演奏はあまりにも美しい機械的な演奏になってしまうのだが・・・
 眞が言うには、基本的な喜怒哀楽といった感情や、幾つかの感情は感じられるのだそうだ。
 だが、それもかなり希薄で、他の人ならば爆発するほどの場合でもちょっとむっとする程度らしい。それが普段の眞のあの無表情さの元凶となっている。
 それが緒方眞、という少年なのだ。
 限りなく神に近い能力ちからを持ってしまった少年。そして、その代償に『人間』として欠かす事の出来ない『感情こころ』を持たずに生まれて来てしまった少年。
 しかし、それは本人には選択する事の出来なかった事実なのだ。
 誰が好き好んで『感情』を失いたいだろうか?
 だが、眞はこの世に生まれた時にその選択肢を失っていた。
 生まれる時の、その遺伝子が組み合わさったその瞬間に、眞にはその選択肢は与えられなかったのだ。
 眞が絶望を覚えなかったのは、皮肉な事に『絶望』という想いを感じる『感情』が無い為・・・
 
 その葉子の話が終わったとき、葉子自身も含めてその場にいる全員が泣いていた。
「神は・・・なぜそのような残酷な事をなさったのでしょう・・・」
 ユーフェミアにはそうとしか言えなかった。
 ルエラもそれはおおよそ想像が出来る事だった。
 あのオーファンの天才魔女、ラヴェルナも『母親の体内に感情を置き忘れてきた』とさえ言われるほど全く表情を見せなかったと言う。
 そして、ティエラが部族の精霊使いから指摘されたという話が真実であった事も示していた。
「でもさ・・・、あたしは・・・やっぱり眞が好きだよ・・・」
 里香が涙で咽込みながら言った。
「眞にとって・・・、あたしが大切なら、あたしにとっても・・・眞は大切だよ・・・」「そう・・・だね・・・。私も・・・大好きだよ・・・」「・・・ずっと、護ってあげたいよね」・・・
 全員が同じ事を考えていた。
 眞は好き好んで感情を失ってしまったわけではない。だから、感情も、家族も、人にとって大切な全てを奪われた一人の少年を、心の底から愛したかった。
 この世界全てが眞を拒絶したとしても、自分達だけは眞を祝福してあげたい。
 そういう想いだけがあった。
 
 
 

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