~ 1 ~

 暑い夏の日、それは、いつもの夏と変わらぬ一日のはずだった。
 あの瞬間までは退屈ながら平凡な日常が繰り返されて、そしてそれがずっと続くのだ、と全ての人達が思っていただろう。
 
「ねえねえ、聞いた?」
 いつもの駅のホームで、悦子は不意に友人に話し掛けられて驚いた。
 小沢悦子-都内でも有名な進学校である聖陵学園の2年生。それと、友人の高崎里香である。
「何のこと?」
「あのさ、智子の彼氏のこと!」
「へ?」
 突然の話に戸惑ってしまう。
「あの子に彼氏なんていたっけ?」
 悦子の問いかけに、友人の里香が間抜けな顔をした。
「でっしょーっ? あたしだって驚いたわよ。まさかあの鈍くさい子に彼氏なんて」
 聞き方によっては酷い言い方だ。この年頃は人を傷つける言動を容易にしてしまう。
 だが、二人ともそれに気付かずに話しつづけた。
「それも、聞いてよ悦子。あの子の彼、誰だと思う?」
 里香の突然の質問に、悦子は当然答えられない。その悦子の様子を確かめて、
「速水君よ!」
 と、なぜか勝ち誇ったように言う。
「ええーっ!」
 悦子も流石に驚いてしまった。
(今日は驚いてばかりだなあ・・・)
 しかし、そうは思っても意外すぎる組み合わせだ。なにしろ智子-岡崎智子はクラスの中でも目立たない地味な女の子である。そして、彼女の彼氏になったらしい速水君はサッカー部のエース・ストライカーで学校のヒーローだ。
 ちょっと想像できないカップルである。
「・・・驚いた」
 その悦子の返事に満足したかのように里香が自慢げに言う。
「でっしょおーっ!」
 何を自慢しているのやら・・・
 だが悦子は、確かに里香の情報網はすごい、と思っていた。彼女は智子の噂など聞いたことが無かったのだ。
「あーあ、うらやましい」
 里香も悦子も呟く。二人とも産まれてこの方、彼氏など持ったことが無い。二人とも美人の部類に十分入るのだが、なぜか男には縁が無かった。
「くそー、良い男はどんどん減って行くっちゅうのに!」
 里香のぼやきに、悦子も苦笑しながら同意してしまう。
「ま、良い男から売れてくからね」
 里香がちょっとシリアスな表情をして悦子に言った。
「ちょっとお、悦子。そんな風に達観してるといい年しても一人身よ! あんたね、二十歳過ぎてもバージンなんて」
 悦子がぎょっとして言い返す。
「だ、誰も男がいなくても良い、なんて言ってないわよ。それに・・・」
「それに?」
「私だって二十歳までには男を作るもん」
 にやっと里香が笑う。
「ほっほー、そんなに悠長にしてていいのかなぁ?」
 ぎくりっ、と悦子が身じろぎする。
「な、なによ?」
 里香が勝ち誇ったように答える。
「あんたも狙ってたんでしょ?」
「だ、誰を?」
 そう悦子は答えたものの、既に里香のペースである。
 里香はにまっ、と笑って悦子に告げた。
「速水君よ!」
 悦子は引きつった笑みを浮かべてしまった。
「う、嘘よっ!」
「へへーっ?」
 里香のチェシャ猫のような笑みに圧倒されてしまう悦子であった。
 確かに、悦子はサッカー部のヒーローに憧れていた。だが、アタックしようと思ったことは無い。
 サッカー部の速水君に密かに憧れている女の子はそれこそ無数にいる。その中には悦子達とも仲の良い友達も大勢いるのだ。彼女達を裏切るような真似は出来なかった。
「・・・あたしは、今は男よりも友達のほうがいいや」
 悦子の呟きに、里香も頷く。まだ彼女達は本当の恋愛をするには若すぎるのだろう。
「でもさ、智子は一体どう言うつもりなんだろう」
 里香がぼそっと漏らす。それは悦子も知りたがっていることでもあった。
 確かにそれは疑問だ。
 速水君に限らず、学校の(一部には学校外も含まれているが)『イイ男』は学校の女生徒有志で作る『聖陵学園美男子ランキング委員会』でチェックされている。この委員会に無断でアタックしたら、大変なことになってしまう。
 以前、この委員会でランキングされている人にある女生徒が委員会に無断で交際を申し込んだのだ。当然とも言えるが、二人はカップルになった。しかし、その結果は悲惨だった。委員会のメンバーはその掟破りの女生徒を制裁したのだ。
 学校では陰湿ないじめが繰り返され、家に帰っても無言電話などが執拗にかかってきた。そして、その少女は退学して何処かに引越ししていったのだ。
 その事があっても、ほぼ毎年のように掟破りは出るものだ。
 一度、さらに悲惨なことがあった。
 度重なる制裁にも関わらず、ランキングされた男の人と交際を続けていた女の子が何者かに集団でレイプされたという事件が起こったのだ。
 そして、その少女は校舎から飛び降りて自殺した。
 皆、委員会のメンバーが見せしめの為にレイプさせたのでは、という様に考えたのだが、だれも制裁を恐れてなにも言えなくなってしまった。
 もし、ランキングされている男の人に交際を申し込まれても、委員会に届け出て許可をもらわないといけない。届け出をしない場合も制裁の対象となってしまうのだ。そして許可がでることは滅多に無い。事実上、委員会のメンバーにイイ男は独占されていると言って過言ではなかった。
「智子も、ヤバイかな?」
 悦子は心配になってしまう。
 里香も表情を曇らせて答えた。
「ヤバイと思うよ。だって、無届でアタックでしょ?」
 どうしたら良いものか・・・
 二人で真剣になって悩んでいると、アナウンスが流れて電車がホームに進入してきた。
 悦子と里香は電車に乗り込む。
 と、その車両には同じ学校の男子生徒がいた。
「・・・ねえ、となりに行こう」
 里香が耳元でささやく。
「う、うん」
 悦子は反射的に答えてしまった。
 その車両にいたのは悦子達と同じクラスの緒方眞だった。
 ただ、クラスメートとはいっても別に親しいわけではない。むしろその逆だ。
 良くある事なのだろう、眞はクラスメートにいじめを受けていた。どこがどう悪い、と言うわけではない。ただ、なんとなくといった理由で誰からとも無くいじめ始めてしまったのだ。
 顔立ちは整っている。どこか欧米系ハーフのようで、瞳の色は左右で違っていた。右目がコバルト・ブルー、左目が紫色の神秘的な目だ。燃えるような金色の髪も特徴的だった。
 しかし、どこかおとなしくて繊細な印象は格好のいじめの対象になってしまった。
 客観的に見れば『委員会』のランキングの対象にもなるだろう。だが、彼はいじめという過酷な状況に置かれているのだ。
 悦子達は車両を降りて隣の車両へと移動しようとしたが、人が乗車してきてしまい、そのまま同じ車両にいる羽目になってしまった。
「あーあ、ついてない。よりにもよって緒方の近くにいる羽目になるなんて!」
 里香が吐き捨てるに言う。
 一瞬、眞の肩がびくっと震えたように見えた。
 悦子は何も言えず、眞のほうから顔を背ける。里香はなぜか眞を嫌っていて、執拗にいじめを繰り返している張本人なのだ。
 一度その理由を聞いてみたことがあった。
 その里香の答えは、「だってさ、なんだか嫌いなのよね。うじうじしている感じでさ」と言うものだった。
「あー、やだやだ。悪い気分が益々悪くなってきそう」
 執拗に里香は眞を罵る。
 里香は知っていたのだ。眞は幾ら何を言われても反論も反撃もしてこない、と。
 だから安心して罵ることが出来るのだ。
 その後、里香と悦子は今週の芸能ニュースに話題を変え、眞の存在を忘れたかのように他愛も無い話を続けた。
 そうこうしている内に、電車が悦子と里香の降りる駅に到着した。
 電車を降りようとした時に、一瞬、悦子は眞の方を見た。そして、ぎょっとしてしまった。
「どうしたの?」
 里香がのんきに言う。
「な、何でも無いよ」
 悦子は必死になって動揺を抑え、里香と一緒に電車を降りた。
 だが、途中で里香と別れて家にたどり着いても、その動揺は消えなかった。
 一瞬だけ見てしまった眞の横顔。その顔は無表情だったが、その目からははっきりとある感情を読み取れた。
 それは憎しみだった。そして怒りでもあった。
 あの気の弱い少年があれ程激しい感情を表すことがあったのだろうか。
 その表情は、悦子を不安にさせていた。
 もし、あの気の弱い少年がいつか積もりに積もった怒りを爆発させたら・・・
 思わず肩を抱いて身震いしてしまう。
 その、嫌な予感なのだろうか、なにか奇妙にリアリティのある想像は悦子の脳裏に焼きついて離れなかった。
「悦子、ご飯よ!」
 階下から呼ぶ母の声に救われたように、悦子は部屋から逃げるように出て行った。
 
 暗闇の中で、たった一つの影がひたすら剣を振るいつづけていた。
 眞だった。
 何かに執り憑かれたかのように一心に真剣を操り、型を重ねて行く。その姿は何処か鬼気迫るものがあり、しかし、どこか儚げでもあった。
 一息つき、眞は愛用の刀の一揃えを握りなおす。
 この一組は眞のお気に入りの逸品で、大刀は『紫雲しうん』、大脇差は『かえで』と言う一揃えだった。
 紫雲は、刃渡り二尺四寸(約73cm)、反り6分(約1.8cm)、樋入りの絶妙なバランスで、刃紋も鮮やかで独特の五月雨紋の映える美しい刀だった。
 その斬れ味も素晴らしく、眞の業前と合わさって『斬鉄』や『兜割り』を行っても刃毀れ一つしない名刀である。それにも増して、まるで眞に合わせて鍛えたかの如く、すっ、と手に馴染むのが気に入っていた。重過ぎもせず、かといって軽過ぎもせず美しさの中に重厚さが滲み出している素晴らしい業物である。
 楓も、紫雲と揃えの大脇差だけあって負けず劣らずの業物だった。
 刃渡り一尺八寸(約48cm)、反り5分(約1.5cm)、樋入りの刀身には程よく乱れる繊細な刃紋が映える刀で、紫雲と同じく大業物とさえ言える程のものだ。
 武術を習い始めたのも、最初は只の気晴らしだった。だが、稽古を重ねている内に眞は見る見るうちに成長していた。
 最近では、古流剣術や空手、柔術等の武術は道場で師範代さえも打ち負かす程の業前にさえなっているのだ。しかし・・・
「やれやれ、またそのように鬼気を放ちおって」
 どこか呆れたように老人の声がした。
「師範、いらっしゃったのですか?」
「今来たところじゃ」
 そう言いながら、老人は床にしゃがみ込む。
「お主の剣は、鬼の剣じゃの。何にそんなに気を立てておるのじゃ?」
「・・・別に、何でもありません」
 そう眞が答えると、老人は少し寂しげに頷いた。
「そうか・・・自分の心の鬼に惹かれるでないぞ」
 年老いた師範はそう言って立ち上がり、道場を後にした。
 眞は一人佇み、一礼をして再び剣を振るい始める。しかし、その姿に先ほどの鬼の気は感じられなかった。
 しばらく剣を振るい稽古を続けた後で、眞は家に帰った。
 眞は自分の部屋の中で例の本を開く。
 少しの間、その不可思議な本を読み進める内に、その本が極めて高度な内容の魔術書であることが判明した。
 その本は何か異世界の存在について書かれているようだった。そして、それらの存在を『召還』し、『使役』する方法も・・・
 その本を読んでいると、不思議な事に本に書かれている内容が真実であるかのように思えてきたのだ。奇妙な事だが、しかし、その本の著者は確かに学術書のような論調で異世界とその世界の住人について記していた。それも、自分がまさに研究しているかのように、目の前で見ているかのように・・・
 その内容は、この世界とは別に『魔界』と呼ばれる世界があり、その異界には『魔神』と呼ばれる住人が存在しているということ。その魔神は魔法という能力以外にも恐るべき能力を数多く持っており、極めて危険ありながらも有用な存在である、という事など・・・
 だが、それには代償が必要だった。
 それも生き物の、である。まさに中世の暗黒時代に行われていたと言う黒魔術のようなものだろう。
 そして、その事実を証明するかのように、この本は不思議な本だった。
 一見すると正体不明の文字で書かれているのだが眞が手に取ると、その文字は日本語に変化して読めるのだ。
 いつしか、眞はこの妖しい本に魅せられていた。
 確かに、この本の内容に対する警戒心や嫌悪感もあった、が、帰りの電車でたまたま乗り合わせたクラスメートの言葉が頭の中で繰り返し聞こえてくる。その声は眞の心の中に怒りを呼び覚ましていた。
 魂の奥底から噴出すような灼熱の怒りが眞の心を満たして行く。
 その怒りは眞の心の闇を照らし出してしまったのかもしれない。
 眞はふと、ある考えが頭に浮かんだことに気が付いた。そして、それは、ある意味でもっとも危険な考えかもしれなかった。
 魔神を使って復讐をする・・・
 さすがに眞はそのおぞましい考えを忘れようとした。
 しかし、そのアイデアは眞の心に焼き付いて離れないのだ。
 長い間、眞は考えつづけた。
 いつの間にか、眞は涙を流していた。
 
 強くなりたい・・・
 
 それは眞の心の底からの願いだった。
 眞は空手や剣道などの格闘技を練習しても、なぜか人と争う事が出来なかった。人と戦う事が怖かったのである。
 それは眞にとってある種の苦痛でもあった。
 だが・・・
 もし魔神を支配する事が出来れば、その自分の弱さも克服できるのではないだろうか?
 
 優しいのは弱いからだ・・・
 
 眞は自分の弱さにコンプレックスを持っていた。だから、誰からいじめられても黙っていた。
 反抗したり、反撃してはいけない、そう先生も言っていた。
 しかし、いつまで我慢すればいいのか?
 先生の言うように、いつかは受け入れてくれるのだろうか?
 眞はいつしか疑問を抱いていた。
 それは正しい考えなのか?
 この世界は、狂っているのじゃないか?
 綺麗事は単なる夢。
 そう、ここは弱肉強食の世界。力こそが真実。暴力こそが正義。
 それが本当の真実では無いのだろうか?
 眞は孤独な狂気の中で、静かに決意をしていた。
 そして眞は涙をぬぐい、再び魔術書のページを開く。
 ページをめくり、魔神を召還し支配する儀式を見つけた。
 その魔神は、グルネルという下位魔神と呼ばれる分類の魔神の一種だったが、古代語魔法という魔法を使う事も出来るらしい。
 眞は、一瞬だけ迷い、しかしその儀式を行うべく手順を調べ始めた。
 
 次の日、悦子が学校にいくとクラスが少し騒がしかった。
「何?」
 里香に尋ねる。
「何かね、変なものがあったのよ」
「え?」
 いぶかしげな顔をした悦子に里香が補足をする。
「小さな棺おけがあったのよ。そうねえ、なんかドラキュラが入ってるみたいなやつ」
「何でそんなものがあるのよ」
「知らないわよ。それにしても命知らずな奴よね、あの深田の席に棺おけいれるなんてさ」
「うわー、血を見るような事にならないと良いけど」
 悦子と里香が話していると、その当事者の深田剛が声を張り上げていた。
「誰だっ!こんなつまらねえ事をしやがった野郎はっ!」
 普段から気が短くてかっとなりやすい性格なのだが、今は怒りを通り越して顔を真っ赤にさせている。
 睨み付けるようにクラス中を見渡すが、当然だれも何も言わない。
 そして、いきなり眞を睨み付ける。
「まさかとは思うがてめえじゃねえだろうな」
 眞はぼそぼそと答える。
「ぼ、僕じゃないよ。だって昨日はいつもと同じ時間に帰ったから」
「本当だろうな?」
「嘘じゃないよ・・・」
 深田はねちねちと尋ねている。
「じゃ、誰かてめえが帰ったところを見た奴はいないのか?」
 そう言った深田に、眞が答えた。
「お、小沢さんと高崎さんが一緒の電車にいた」
 一瞬、里香が、げっ、とした顔をする。
「小沢、高崎、おめえら昨日こいつを見たか?」
 いきなり質問の矛先が向かってきて、里香はげんなりした顔をした。
 そして、里香は眞を睨み付け、勝ち誇ったような顔で何か言おうとした。
 悦子はその里香の顔を見て、嫌な予感を感じた。そして反射的に言っていた。
「見たわよ。私達の乗った電車の同じ車両にいたもの」
 一瞬、里香は驚いた顔で悦子を見て、しょうがない、といった表情で深田に言う。
「昨日はね、たまたまおんなじ車両にいたのよ」
 深田は考えていたが、いじめるグループの中心である里香が眞の発言を肯定したのだ。
「・・・そっか、おめえたちが言うんなら間違いねえな。だがな、誰でもいい。2度とこんなつまらねえ真似をするんじゃねえぞ!」
 そう吐き捨てて棺おけをごみ箱に突っ込んで、クラスを出て行った。
 はあっ、と里香がため息をついて悦子に尋ねる。
「あんたね、どうしてあんな余計なことを言ったのよ?」
「ごめんね。でも、ちょっと気になることがあったから」
「ふーん、どういうこと?」
 悦子はちらっと眞を見て答えた。
「ちょっとね、来て」
 里香を連れて女子トイレに行く。
「なによ、一体?」
 訝しがる里香に昨日、電車を降りる直前に見た眞のことを説明した。
「・・・ふーん、あの気の弱いやつがねぇ」
「そうよ。だから余計怖いじゃない。もし突然キレちゃったらさ」
「そうだね」
「怖いよ、もし銃やサリンなんか持ってたりしたら」
「やだ、そんなの洒落にならないよ!」
 ぶるっ、と身を震わせて里香が怯えたように辺りを見まわす。
「最近、物騒な事件とか多いからね。気を付けないと」
「そうだね・・・」
 二人とも少し考え込んでしまった。
 
 だが、昼休みになる頃には深田に棺おけを送りつけたのは眞だと言うことになっていた。
「なんでそうなるのよ?」
 悦子はクラスの女の子達に聞いてみた。その答えは衝撃的であった。
「だからさ、誰かが生贄になる必要があったのよね」
「はぁ」
 悦子は悪い予感を感じていた。
 急速に目の前の光景が現実感を失って行く。
 結局、眞は昼休みが終わってもクラスには帰ってこなかった。
 そのまま帰ってしまったらしい。しかし、誰も気にも止めていなかった。
 次の日も、その次の日も眞は学校を休んだ。
 
 誰もが変だと感じ始めた時、担任の高科葉子が朝のホームルームの時間でアナウンスをした。
「それと、緒方君なんだけど、今入院しています」
 一瞬、クラスが静まり返った。
「何でですか?」
「うーん、ちょっと体調を崩したらしいの。今、検査の為に入院しているそうよ」
 悦子は疑問を感じていた。
 あまりにもタイミングが良すぎないだろうか?
 深田が子分達を従えて眞を呼び出したことは明白だ。そして真相を聞くことも無く怒りをぶつけただろう。
 それがもとで入院しているのではないだろうか。
 深田の父親は市議会議員をしている人物だ。建築会社の社長でもある。少々のことならもみ消してしまうだろう。
 だが・・・
「あの野郎、体調を崩しただと?」
 深田がいぶかしげに呟く。
「ねえ、どうしたのよ?」
 悦子がそっと尋ねた。
「どうもこうもねえ、一昨日だがな、結局あいつを捕まえられなかったんだ。それで家に行って見たんだが誰もいなかったぜ」
 不思議な話だ。
「先生、緒方君は何処の病院に入院しているんですか?」
 悦子が聞いてみた。
「それは・・・」
 葉子は妙に言葉を濁している。
「私も聞いたことの無い病院なのよ」
 
 悦子は気になってその病院を調べてみることにした。
「あんたね、首を突っ込みすぎると大変だよ」
 里香のあきれたような顔を思いだす。
 だが、なぜか悦子は眞を放って置けない気がしていたのだ。しかし、眞の足取りの手掛かりさえなかった。
 まずは眞の住むマンションに行ってみることにする。
 眞の住んでいるマンションは、閑静な住宅街にあった。しかし、どこか寂しげな印象がした。
 8階の部屋からは街の様子が手に取るようにわかりそうだ。
 ピンポーン。
 チャイムを鳴らしてしばらく待つ。
 だが、だれも出てこなかった。確かに中にだれもいないような気がする。
「何処に行っちゃったんだろう?」
 不思議な話だ。
 誰か行方を知っている人がいないかと考えたところで、悦子は眞の事を余りにも知らないことに気が付いた。
 悦子の知っている緒方眞という少年は不思議な目の色をした、クラスメートだという事だけだ。
 そして、クラスの深田や彼女の親友の里香達からいじめを受けている、という事も・・・
 だが、何故彼が一人暮らしをしている、と誰が考えただろう?
 彼の両親は?
 おそらく彼の両親、もしくは父親か母親は健在なのだろう。そうでなければこんなマンションに一人暮らしなど出来そうに無い。しかし、それでも不思議なのは何故彼が一人暮らしをしなければならないのだろうか?
 それに悦子は眞自身のことを何も知らない。
 趣味は何なのだろうか?好きな食べ物は?テレビの番組は何が好きなのだろうか?・・・
 空虚なマンションの部屋の前で様々な事を考え、疑問に思っているうちにふと一つの疑問が頭に浮かんできた。
 本当に緒方眞という人物はいたのだろうか?
 悦子はなぜか恐怖を感じ、反射的に肩を抱いてしまう。
 しかし、その唐突に浮かんだ疑問は頭の中で益々強い印象を増して行った。
 振り返ってマンションから街を見下ろしてみる。
 まだ市街地は賑やかな喧騒に包まれていた。だが、それは目の前にある眞が暮らしているはずのマンションの部屋に感じる奇妙な静けさを際立たせるだけでしかなかった。
 彼は何を考えて毎日を過ごしていたのだろうか?
 そういう疑問に包まれているうちに時間だけが虚しく過ぎて行く。諦めて悦子は家路についた。
 
 その頃、深田はいつものように友達と遊び歩いて帰る途中だった。
 最初は眞を探し歩いていたのだが、段々退屈になって遊んでいたのだ。
 ま、いつか出会った時にでもお返しをしてやれば良い。そう考えて目の前の遊びに夢中になっていた。
 ゲームセンターでゲームをし、カラオケで馬鹿騒ぎ、街中で散々遊び回って、気が着いたら夕方の6時近くになってしまった。
 とりあえず、家に帰らないといけない。
「それじゃあな」
 口々に挨拶をして、各々が家に帰っていった。
 そして、深田自身も家に帰るため、駅に向かって行った。
 しばらく歩いたとき、ふと何者かの足音に気が付いた。試しに立ち止まってみると、その足音も止まる。早足になると、その足音も早足になって追いかけてきた。
 
 野郎、ふざけやがって!
 
 深田は益々苛立ち始めていた。もともと粗雑な性格なのだが、正体不明の追跡者が後を付けてくるのを感じ、その凶暴さに火が付いていた。
 そして深田は突如、脇道に入った。人気のいないところに誘い込んで、ぶん殴ってやろうと考えたのだ。
 脇道に入っても、依然、その怪しい足音は後を付けてきている。
 その人物は間違い無く、自分を追いかけてきているのだ。そう思った深田は振り返って怒鳴りつけた。
「てめえ、何のつもりで・・・」
 だが、その怒鳴りつけるべき相手は目の前にいなかった。慌てて辺りを見まわしてみたが、やはり誰もそこにいない。
 足音は自分の3メートル程後ろを付けてきていたはずである。しかし・・・
「な・・・」
 思わず絶句してしまった。
 なぜ、誰もいないのに足音が聞こえるのだ!
 唐突に恐怖に駆られて深田は走り出した。
 そうすると、また足音が追いかけてくる!
 声にならない悲鳴を挙げて、深田は必死で逃げた。
 めちゃくちゃに走り回り、そして人がいるほうへ向かって走った。
 そして、路地を超えた向こうにたくさんの通行人がいるのを見て、そちらのほうへ逃げ様とした。
 今にも後ろから襲撃を受けるのではないか、そういう恐怖に駆られて深田は何も考えられない状態だった。
 通行人の群れの中にたどり着こうとしたその瞬間、深田は凄まじい衝撃を全身に感じて弾き飛ばされていた。
 
 家に着いた悦子を悲しい知らせが待っていた。
「え? 死んだって、誰が?」
 電話で里香に尋ね返す。
「深田君よ・・・」
 里香が絞りだすように答えた。
 彼女の説明によると、深田は突如、車の交通が激しい道のど真ん中に飛び出したというのだ。
 当然、車は彼をよけることも、ブレーキをかけることも出来ずに彼を轢いてしまったのだ。
 救急車に運ばれて病院に付いたときには、もう深田は息をしていなかった。
 目撃者の話によると、深田は何者かに追われるかのように走ってきて、道路に飛び出したらしい。
「どうして?」
 悦子の疑問に里香もため息を付く。
「判らないわ・・・」
 悦子も言葉を失ってしまった。
 不自然な静寂の中で、電話を通じてお互いの息だけが微かなノイズに混じって行き来していた。
 普段ならば意識しない息音が、なぜか今は強く印象に残った。
「そう言えばさ、あんたのほうはどうだったの?」
 不意に里香が尋ねた。
「え?」
 一瞬、悦子は何のことを尋ねられているのか判らなかった。
「緒方の事よ」
 悦子はふと、あの静けさを思いだしていた。
「結局、手掛かり無しよ」
「そう・・・」
 それから、二人は適当におしゃべりを続けたが、いつもの様には話は弾まなかった。
   
 
 

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