エピローグ

「まだか!?」
 若い、まだ少年のような声が闇に響いていた。
 ネオンサインの輝きがその瞳に映っている。その少年は素晴らしい速さで闇を駆け抜けていた。
 その少年に並んで走るもう一つの影があっさりと答える。
「あと21秒。油断しないで!」
 長い艶やかな髪が街灯の明かりを反射して輝く。
 疾風のように二つの影は、人間の限界を超えた速さで闇を駆け抜けていく。不安定な建物の屋上を走っているとは思えない二人は、ビルの真下に流れる車のヘッドライトの川をちら、と見た。もうすぐ、目的の建物だ。そのビルは目の前のビルから車道を挟んで10m以上は離れている上に、高さは少し上だった。
 しかし、二人は何の躊躇も無く更に走る速さを加速させる。
 そして・・・
 一気に跳んだ。
 弾丸のように大気を切り裂いて二人の人間が信じがたい距離を跳躍する姿は、誰も見ていなかった。女の目には地上の光景がスローモーションのようにゆっくりと流れていくように見えている。
 たっぷりそのまま20m以上は跳べそうな勢いと角度で一瞬の空中散歩をした二つの人影は、当たり前のように目的のビルの縁に着地し、そのまま一瞬たりとも動きを止めずにビルの屋上に出るための出入り口に向かって突進する。だが、その出入り口は鋼鉄製のドアで閉ざされていた。
 その鋼の障壁を見据え、女は一瞬、更に爆発的に加速する。
 コンクリート製の屋上の床に罅が走り、恐るべき力がその踏み込みに加わったことを想像させた。
 そのまま女の影は扉に激突するその直前、踏み込んだ右足を軸にして体をくるり、と回転させる。一瞬、女の体が駒のように回転して、次の瞬間に電光のように左足が鋼鉄製の扉を蹴り抜いていた。
 まるで戦車の砲弾をまともに食らったかのように鋼鉄製の扉が歪み、女の足型に陥没してへし曲げられた分厚い鋼鉄は、まるで玩具のように内側に吹き飛ばされていった。
 爆発物が破裂したかのような轟音が鳴り響いたが、もはや二人はそのような事を気にしていない。
 軽く口笛を吹いて、少年はにやり、と微笑む。何処か皮肉気な笑顔だった。
 そのまま二人の人影はビルの中に飛び込んでいく。
 
 あと17秒・・・
 
 素晴らしい速さで階段を駆け下り、目的の部屋に向かって走り続けた。
 かなり遠くから多数の人間が作り出す雑音が聞こえてくる。
「流石に彼らも動きが早いわね・・・」
 僅かに苛立ちを帯びた声で女が呟く。
 だが、少年は何も気にしていないかのようにとぼけた声で応じた。
「そりゃまぁ、これだけ派手に“接触”があって、何も気が付かないような間抜けの集団だったら、それこそ文字通りの税金の無駄遣いだろ」
 まだ所得税も納めていないような少年には不似合いな言葉に、女性の方が笑って返す。
「何言ってんの。私も貴方も所得税なんか納めていないじゃない」
「消費税とか何だかんだ言って、金を踏んだくってんだよ、連中はよ」
 また、少年は口元を歪めて皮肉気に笑う。
 
 あと8秒・・・
 
 目的の部屋の扉を同じように蹴り破った女は、流れるように部屋に飛び込んでいく。
 そして、少年はちらり、と後ろを振り返って自分達が飛び込んだ入り口を眺めた。すっとその目を薄め、半ば夢を見ているような視線を扉を失った入り口を見る。
 少年の足元からするする、と影が、まるで生きているかのように伸びて、そして扉の形となって入り口に張り付いた。唯一違っているのは漆黒の鮫肌で出来たように見えるだけだろう。
 
 そして、その瞬間・・・
 二人の目の前に不思議な輝きが煌き始めていた。
 青白い輝きがきらきらと不規則に輝きながら渦を描くように舞い始める。
 幻想的な光景だった。
 遠くから響く都会の喧騒と、扉の外から聞こえる喧しい音が、何処か別の世界から聞こえてくるように思える。
「うわ、なんだこれは!?」
「隊長、どうしますか?」
「かまわんから蹴り破れ!」
 うるさい怒号が響いて、ドカッ!と扉を蹴ったような音がした。しかし、部屋の入り口の扉は微かにさえ動いていない。だが、外の声は違った。
「突撃!」「「「了解!」」」
 そして、どやどやと複数の人間が駆け抜ける無粋な音がした後、廊下は再び静けさを取り戻した。
「うるさい連中だぜ。暫くは地下室で静かにしてろ」
 うっとおしげに少年が呟く。
 
 光の渦は凄まじいまでの流れとなって狂乱し、そして、ばらばらだった個々の光の脈動は光の渦全体としての鼓動のように規則的に明滅し始めていた。
 
 そして・・・
 
 光が爆発的に輝きを放った次の瞬間、唐突に輝きが消えた。そして、床の上には小さなネックレスのようなものが残されていた。
 どこか異国で作られたような、不思議な意匠デザインの首飾り。
 
 女性はそっとその首飾りを拾い上げ、何かを堪えるようにじっと唇を噛み締める。
 何度も何度も、その繊細な装飾品に触れ、繊細な指先で表面をなぞる。大切なものを、その存在を確かめるかのように、隅々まで触れていく。
 その姿を見ないように女性から背を向けて、少年はじっと窓の外を見ていた。
「二ケア・・・堪えてなくても良いんだぜ・・・」
 ぶっきらぼうに少年は背中を向けたまま言葉をかける。
 
 その少年の言葉にびくり、と肩を震わせて、女性は嗚咽を上げ始めた。
 きつく閉じられた双眸から、水晶のような涙が溢れ出す。右手で口元を覆い、必死に声を押し殺しながら、左手に握り締めた首飾りを胸元に抱きしめる。
 
「眞さん・・・会いたい・・・ねえ・・・今・・・どこに居るの・・・」
 
 
 

-完-

 
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